ハンスが「柊館」を開業して一年の月日が流れた頃、宇宙は平和であった。
エル・ファシル自治領ではキャゼルヌが自治領選挙で当選して第三代自治領主となり、帝国では社会秩序維持局がフェザーン秩序維持局から帝都秩序維持部に組織縮小されていた。
それに伴い、統括責任者として降格されたハイドリッヒ・ラングは珍しく風邪を拗らせて自宅で療養していた。
「我ながら情けない。雨を1時間ほど浴びただけで風邪とは」
ラングは自身が若い頃を思い出す。冬に遺棄された証拠を確保する為に川の飛び込んだりしたが風邪などを引く事もなかった。
最近は若い頃を懐かしむ様になったのは年齢の為だろうかと年寄り臭い事を考えてしまう。
「いかん。風邪など引くと弱気になってしまう。早く治すに限る」
ラングはナイトテーブルに置かれたハーブティーが入ったポットに手を伸ばしたが中身は空であった。
「知らぬ間に飲み干してしまったか」
妻を呼ぼうと思ったが、昨夜も遅くまで看病してくれた妻を使いだてする事に気が引けたラングはポットを持ったままキッチンへと向かったのである。
そして、ポットを持って廊下に出た所で応接室から人の話し声が聞こえたので、思わず聞き耳を立ててしまった。
「帝都秩序維持部のお仕事も大変でしょう」
「はい。夜も昼も無い仕事ですから」
「以前はフェザーンの他にオーディンとハイネセンと経済と政治の拠点が分かれてましたが、宇宙統一でフェザーンに集中した為に犯罪も多くなりましたから」
「警察や憲兵隊の方々も懸命に励まれてますが、人手が足りない様ですわ」
どうやら、妻と出入りの商人が話をしている様である。
そして、商人の言葉は紛れもない事実であった。遷都以来、フェザーンでは組織犯罪が増えている。フェザーンの警察も増加する犯罪に手を焼いているのである。
憲兵隊は本来は軍隊内の犯罪取り締まりが任務であり民間の組織犯罪に対してノウハウが無いのが現状である。自然と帝都治安維持部の負担が大きくなるのである。
「以前に伺いましたが、犯罪捜査には表に出来ぬ金銭も必要との事、我々の市民にも苦労の程が漏れ伝わっています」
ラングは部屋の外で音がせぬ様に溜息をついた。
商人の言う通りである。組織犯罪に対して内通者や密告者の存在は欠かせぬが、彼らに相応の報酬を渡す必要がある。
そして、支払う金銭に対して領収書を要求する事も出来ずにいる。結局はラングが自腹を切る事になるのである。
「此方の品?」
ラングが溜息をついている間に会話を聞き逃した様である。
「はい。私が結婚した時に母から譲り受けたものです」
「見事な髪飾りですな。細工と良い銀の質と良い。逸品でありますな」
「はい。何でも前王朝の流血帝の頃の品と聞いています」
「なるほど、あの頃は銀細工の最盛期でしたからな。しかし、まさかと思いますが、これを処分されるのですか?」
ドアの向こうにいる妻の表情は見えないがラングには妻の表情が想像が出来たのである。
「しかし、勿体ないですなあ」
そこまで聞くとラングはポットを持って寝室へと戻るのであった。
一時間後、妻が新しいハーブティーを入れたポットを持って寝室に入って来た。
「すまん。苦労を掛ける」
ラングは妻に背を向けて呟く様に一言だけ声を掛けた。
「たかが、風邪くらいで大袈裟な」
妻も夫の台詞に苦笑を浮かべるのである。
「それより、早く風邪を治さないと部下の方々がお困りですよ」
「そんな事は無いかもしれんぞ。奴らも口煩いのが居ないと思って喜んでるかもしれんぞ」
妻も夫の軽口に安心した様に笑顔を浮かべる。
「今、司法尚書殿が新しい司法組織を作っている最中だ。それが出来れば私も楽隠居が出来る」
「そんな、隠居を考える歳では御座いませんでしょう」
「まあ、隠居は別にして、オーディンに転任するつもりだ」
「あら、オーディンに何かあるのですか?」
「ふむ。陛下にお願いして、お前の故郷の警察署長にして戴くつもりだ」
ラングの妻はオーディンの田舎町の出身である。以前から帝都の暮らしが合わないと言っていた事をきに掛けてくれたのだ。夫の不器用な気遣いに、思わず抱きついてしまった。
「これ、互いの歳を考えぬか!」
「あら、何歳になろうとも、私は貴方の妻ですもの。誰に憚る必要は無いでしょう」
ラングが妻と仲睦まじくしていた時に来客を告げるチャイムが鳴った。
「あら、こんな時間に誰かしら?」
五分後、顔を青くした補佐官のハインツが寝室に現れた。
ラングは目線だけで妻に席を外させながら、ハインツを観察した。
(私の部下の中でも比較的に古株だが、この様な表情を初めてだな)
「このハインツ、部長の部下となり最初で最後の公私混同させて下さい!」
ラングは官僚として公私の区別に厳しい人間なのだが、敢えて古株のハインツが申し出るには、それ相応の理由がある事を理解しているラングにも緊張が走る。
「兎に角、何が起きたのか説明しないと分からんではないか?」
ラングは出来るだけ古株の部下が緊張しない様に、陽気に声を掛ける。
「実は今朝、嫁いだ妹から連絡がありまして、妹の子供が誘拐されました!」
「ふむ。詳しく聞こうか」
ハインツの妹はリスナー公爵家に嫁いでおり、夫リスナー公爵は貴族というよりは学者肌の人でフェザーン大学の農学部で教鞭も取っている。
二人の間には五歳になる息子もおり、子宝にも恵まれていたが、その息子が誘拐されたのである。
「しかし、誘拐なら我々ではなく警察の領分であろう」
「それが、警察には届けられぬ事情があります」
「事情とは?」
リスナー家は前王朝のカスパー帝の時代に奸臣エックハルトを誅殺した功で子爵から公爵まで階位を進めた家系である。
前例の無い大出世であるが異論は出なかった。それだけエックハルトが宮廷内では憎まれていたのである。
そして、階位だけではなく未然にエックハルトの暴挙を察知した功に報いるのに皇帝から純銀製の名器のフルートを下賜されたのである。
リスナー家は下賜されたフルートを家宝として、毎年、新年のパーティーで披露されるのである。
フルート奏者の間では有名な話であり、フルート奏者なら、リスナー家のフルートの奏者として選ばれるのは大変な栄誉とされている。
「その、家宝のフルートも屋敷の宝物庫から盗まれてました」
ラングはハインツが青くなり警察ではなく、自分を頼った事を理解した。
前王朝とは言え、皇帝から下賜された家宝を盗まれるのは帝国貴族としては不名誉の極みである。
リスナー家の不沈に関わる一大事である。
「しかし、何故、家宝が盗まれた事に気づいたのか?」
「その事なんですが、妹も混乱しておりまして、話の要領が掴めないのです」
「無理もない。子が誘拐されて取り乱さぬ母親は居るまい」
「リスナー家のフルートは有名ですので換金する事は出来ませぬ。金銭目的ならフルートで事足りる筈なのですが」
「先ずは、御子息が誘拐された時の状況を詳細に調べよ。それと、私がリスナー邸に赴く事は憚られるので、卿が連絡役を務めよ」
「了解しました」
「それと、耳を貸せ」
本来は二人だけの部屋で耳打ちする必要も無いが、ラングが秘密を守る事の意思表示と極秘の話である事をハインツに理解させる為の行動である。
「分かりました。妹は知らないと思いますので公自身に私が直接に話を聞きます」
「それが、良かろう」
部下の明敏さに満足の笑みを浮かべたラングであった。
ハインツがラングから指示を得て、リスナー公爵自身から、誘拐の経過を詳細に聞く為にリスナー邸を訪れた。
実兄が嫁いだ妹の家に訪問しても不思議ではない。更にハインツも司法省の役人である事は秘密ではないが、ラングの部下で秘密警察の人間である事は、ごく一部の人間しか知らない事である。
「公、妹とは?」
応接室に通されたハインツの前には義弟のリスナー公爵しか居ないのである。
「昨日からの心労で今は臥せっておる。義兄殿には申し訳ない」
謝罪する公爵も顔色は冴えないが、口調に乱れはなく背筋も伸ばしている。流石は公爵家の当主である。
「いえ、仕方がない事です。母親は妊娠期間を含めると父親より子供と過ごす時間は長いですから、それに公には妹を大事にしていただいています。それより、事を知っているのは何人いますか?」
「私と妻と、使用人では家令と教育係兼身辺警護の者が一人だけで、他の家人は知らぬ」
「では、実際の現場の詳細を知る教育係兼身辺警護の者は?」
「うむ。肩を撃たれて自室に養生を兼ねて謹慎させている。その者が脅迫状を渡されたのだ」
「では、その者に詳細を聞く前に公にだけ、尋ねたい事があります。もし、私に言いにくい事や妹に知られたくない事があれば遠慮なく言って下さい。信頼が出来る者に代わります」
「義兄殿に言えぬ事など無い」
ハインツの前置きに公爵も信頼で返しながらも、僅かに緊張しながら口を開いた。
ハインツは公爵の人格に信頼を寄せていたが、それと別次元で門閥貴族の社会に妹を嫁がせた事を後悔した。