ゼロの龍   作:九頭龍

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グラモン中隊


第43話

 ルイズ達が帰省した翌日、ギーシュは首都トリスタニアの中ほどにあるシャン・ド・マルスの練兵場に到着していた。

 二ヶ月間の即席な訓練を終えたギーシュは教練士官に書いてもらった紹介状を元に、自分が所属する事になった王軍所属のド・ヴィヌイーユ独立大隊の元へと来ていた。聞いた事のない部隊だったが、ギーシュは初陣に張り切っていた。

 トリステインの軍隊は大きく分けて三つある。時の王を直接の最高司令長官とする「王軍」。各地の大貴族達が領地の民を徴兵して編成する「国軍」または「諸侯軍」。そして空や海に浮かぶ軍艦を指揮する「空海軍」だ。ギーシュはこの中の「王軍」に配属されたのである。

 「命を惜しむな、名を惜しめ」を家訓にしている王軍の元帥職に着いている父はその年齢から此度の戦争に参加出来ない事を心から悔やんでいた。

 ギーシュの上にいる三人の兄も、此度の戦争に参加している。一番上の兄はグラモン家の軍隊を預かり、二番目の兄は空軍の艦長だ。三番目の兄は王軍士官である。

 そして自分は王軍のド・ヴィヌイーユ独立大隊預かりの士官として参戦する事となっていた。

 シャン・ド・マルスの練兵場は様々な大隊でごった返しになっており、肝心の自分の配属先の大隊が中々見つからず彷徨い歩くギーシュ。そんな中、明らかに雰囲気、もといガラの悪い男達とやる気の無さそうな年寄りばかりが寄せ集まった大隊を見つけて小さく苦笑した。

 あんな所に配属された奴は、さぞかし運の悪い奴なんだろう。

 そんな風に思いながら中々見つからない自分の配属先に、ギーシュは仕方なく近くの兵士に場所を尋ねた。

 兵士が指差した方へと安堵と感謝を込めながら顔を向けた瞬間、ギーシュの表情は絶望に染まる。

 兵士が指差した場所……それは正しく先ほどのガラの悪い男達と年寄りしか居ない大隊であった。

 まるで悪夢を見ているようにフラつきながらその大隊に近付き、地面に座り込んでいた老傭兵に尋ねた所、正しくここがド・ヴィヌイーユ独立大隊だとの事だ。

 独立と言えば格好は良いが、要は他の隊では扱えない役立たず共が集まったカス大隊であった。

 老傭兵に今日から配属である事を伝えると、面倒臭そうに大隊長の元へと案内された。

 そこでギーシュの表情は再び絶望に染まる事となった。

 案内された先にいたのは白髪の目立つ、杖を支えに立っている老人だった。その隣には丸々と太った若い貴族が「参謀記章」を肩に着けて控えている。

 大隊長ド・ヴィヌイーユは矢や鉄砲等使わず、後ろからわっと声を掛けただけで心臓が止まってしまうのではないかと思われるほど弱々しく見えた。

 とにかくとギーシュは紹介状をド・ヴィヌイーユに渡しながら挨拶を試みるも、どうやら相当耳と目が悪いらしい。此方の言っている事には全く答えられてないし、紹介状には目が羊皮紙にくっついてしまうのでは無いかと思うほどに顔を近づけて見ている。

 大隊長の横から紹介状を見た大隊参謀が何やら小声で耳打ちをすると、大隊長は何度も頷いた。

 

「せ、せ、せいれーつ!」

 

 しゃがれた声で大隊長が叫ぶと、気怠そうな動きで男達が集まって来た。

 

「し、新任の中隊長を! しょしょ、紹介する!」

 

 ん? 中隊長?

 ギーシュは一瞬疑問を浮かべるも、大隊参謀が大きく咳払いしてから声を張り上げた。

 

「えーっ、この度我が栄えあるド・ヴィヌイーユ独立銃歩兵大隊に配属された……えー……おい、名前!」

 

「ぎ、ギーシュ・ド・グラモンであります!」

 

 突然怒鳴られギーシュは身体をピンッと張らせながら大声で叫んだ。しかし、男達の反応からすると聞いていない様だ。

 

「そ、そのグランデル君とやらには第二ちゅ、中隊を任しぇる! 従って第二中隊は、は、「グランデル中隊」と呼称する! 中隊長にけ、けけけ、けいれーい!」

 

 時折噛みながら懸命に叫ぶ大隊長の声に、男達がやる気のない動きで敬礼する。

 ギーシュはサーッと身体から血の気が抜けていくのを感じた。名前を間違えられている上にいきなり中隊長等、有り得ない配属だ。

 

「だ、大隊長殿! 僕は学生士官ですよ! いきなり中隊長なんて、無理に決まっているじゃないですか!」

 

 中隊長ともなれば百人近くの兵隊を指揮する事もある。いきなりの配属には無理があるとギーシュは訴えた。

 大隊長はそんなギーシュの肩を、プルプル震える手で叩いた。

 

「じぇ、じぇん任の中隊長が今朝、脱走しおってな。後任をさ、探しておったのだ」

 

「だ、脱走!? いや、先任士官がいるでしょうが!」

 

 ギーシュの口答えに大隊長は疲れたのか、背を向けて歩き出すと椅子に腰掛けてボーッと空を眺めた。

 ポカンとした表情でそんな大隊長を見詰めるギーシュに、大隊参謀が肩を叩いた。

 

「この隊は脱走した者以外、大隊長殿と私、それから各中隊長しか貴族は居らんのだ。よって君が適任という訳だ。まぁ、宜しく頼むよ、グランデル君」

 

 大隊参謀はそれだけ言うと書類の提出があるからと何処かへ行ってしまった。

 その後大隊参謀の部下と名乗る初老の傭兵がギーシュに部隊の説明を始めた。

 ド・ヴィヌイーユ独立銃歩兵大隊は鉄砲隊で人数は三百五十人ほど。それが三つの中隊に別れ、内二つが鉄砲中隊、もう一つが援護や護衛の短槍中隊との事だ。ギーシュが中隊長となったのは鉄砲中隊の一つであった。使う銃は旧式の火縄銃で、新式のマスケット銃は見られない。

 そもそもギーシュは鉄砲の教育は受けていない。二ヶ月の即席訓練の為仕方がないが、それでもどんな部隊に配属となるかは事前に教えてくれても良さそうだが。傭兵も雇いながらの徴兵は酷いと思っていたが、予想以上だった。

 ギーシュは憂鬱になりながらも、中隊長になる事を受け入れた。決まってしまった物はしょうがないと必死に自分に言い聞かせた。

 そんなギーシュの憂鬱さに拍車を掛けるように、初老の傭兵が席を外した瞬間、ギーシュを取り囲む様に部隊員達が集まって来た。

 名前を間違えられて紹介をされて気が滅入りそうになったギーシュだが、溜め息を漏らしながら此方をジロジロと見て来る自分の部下となった男達に問い掛ける。

 

「挨拶はもう済んだ筈なんだけど……何の用だい?」

 

 ギーシュの質問に男達は答えず、ただ腕を組みながらギーシュを値踏みする様に眺めていた。

 暫くの沈黙の後、男の一人が口を開いた。

 

「グランデル中隊長さんよ、勘違いされちゃ困るから先に言っとくぜ。ここに居る全員、誰一人としてあんたを俺等の隊長だなんて認めちゃいねぇんだよ」

 

 一人が発した言葉に呼応する様に口笛や野次が飛び交う。

 ギーシュは頭を掻きながら面倒臭そうに首を傾げて見せた。

 

「いきなりやって来て俺等の隊長だぁ? しかも大して強そうにも見えねぇ御坊ちゃまがよぉ……。冗談じゃねぇんだよ」

 

 吐き捨てる様にまた一人が口にした瞬間、ズイッと二人の男がギーシュに詰め寄った。

 どちらも体格が良く、少なからずとも荒事が得意な戦士を沸騰させる風格があった。年もギーシュよりも十数は上の様だ。

 

「兵隊が足りねぇからって、あんた等みたいなおのぼりさんが来られちゃあ困るんだよ。大して使えもしねぇ飾りだけの頭なんざお断りだ」

 

「分かったら、精々形だけの隊長として隅っこにでも引っ込んでろや。どうせ魔法が使えるだけで他には何にも出来ねぇんだろ? 御坊ちゃまはよ」

 

 本来街の中で貴族相手にこんな暴言を吐いたら死罪物である。しかし、ここは明日命があるかもわからない、戦場なのだ。通常のルール等役に立ちはしない。

 黙ったまま二人を見上げるギーシュに怯えていると感じたのか、周りから小馬鹿にした様な笑い声が上がった。

 ギーシュは笑い声を受けながら思った。脱走した前中隊長は、恐らくこのプレッシャーに負けたのだろう。誰も自分を味方と思っていない、戦場の中で背中を誰にも任せられない孤独に。

 ギーシュは笑い続けてる男達を見回してから、小さく溜め息を漏らして口を開いた。

 

「つまり、実力があれば僕を隊長と認める……って事でいいんだね? 君達よりも遥かに歳下である僕でも」

 

 その言葉に、周りから上がっていた笑い声は一瞬でピタリと止まり、代わりに幾つもの訝しげな視線がギーシュの身体を貫いた。

 

「自分が使えるのは魔法だけじゃねぇ……と言いたいのかい、御坊ちゃま?」

 

「どうかな? ただ僕も、笑われていて黙っていられるほど……優等生ではないんでね」

 

 静かだが、怒りが含まれたギーシュの声に男達はそれぞれ顔を見合わせてから少しだけ後退り、僅かな広さを確保した所で三人の男達が前に出て来た。

 二人は先ほどギーシュに詰め寄った男達。そしてもう一人は左眼に眼帯を掛けた、顔中が傷だらけの男だ。

 眼帯を掛けた男は拳を鳴らしながら下卑た笑みを浮かべてギーシュを見た後、他の二人と顔を合わせて頷き合ってから口を開いた。

 

「だったら俺等三人の相手をして貰おうか。心配しなくても一人ずつサシでやってやる。俺等に勝てたら、あんたを隊長として認めてやるよ。雑用だろうがパシリだろうが、好きに使ってくれや」

 

 余裕を感じさせる物言いをする眼帯の男に、ギーシュは小さく頷くと胸元に差してある杖代わりの薔薇の造花を投げ捨てた。

 ギーシュはその場で屈伸運動を数回行ってから深い深呼吸をし、小さくトントンと飛んでから両手に拳を作り、胸元に腕を上げて構えを取って見せた。

 

「……来い」

 

 そう呟いた瞬間、ギーシュの目付きが変わったのを三人は見逃さなかった。が、特別警戒する事もなく、まずはギーシュに詰め寄った二人組の一人、髭面の男が前に出て腕を回して見せた。

 

「普段偉そうにしていらっしゃる貴族様をぶっ飛ばせるたぁ、戦場で生きんのも捨てたもんじゃねぇな」

 

 口元に笑みを浮かべながら髭面の男はジリジリとギーシュに近づいていき、お互いに拳が届きそうになった所で身体を軽く揺らしてギーシュを挑発し始めた。

 

「殴られてるのは慣れてるか、御坊ちゃま? 言っとくが誰かに殴られるのは思った以上に痛えぞぉ? 俺の拳が当たったからって泣く様なみっともねぇ真似はーー」

 

「いつまで無駄口を叩いてるんだ?」

 

 まるで子供に言い聞かせる様に話す髭面の男の声を遮る様に言うギーシュに、男の顔から笑みが消えた。

 苛ついた様に眉を歪めながらギーシュは上体を揺らすと、鋭い目付きで髭面の男を睨み付けた。

 

「来ないんだったら……こっちから行くぞぉっ!」

 

 叫んだのと同時にギーシュは大きく一歩を染み込んで髭面の男に近付くと、そのまま素早い左ジャブから右ストレートを顔面に叩き込んだ。

 突然の衝撃に髭面の男の顔が揺れたかと思った瞬間、鋭い左の回し蹴りが男の右頬を穿ち大きな身体を地面へと転がせた。

 周りからどよめきが上がると今度はギーシュに詰め寄ったもう一人の男、バンダナを頭に巻いた男が前に出てギーシュに殴り掛かる。

 ギーシュはバンダナの男の拳をステップでギリギリ躱しながら動き回る。

 ちょこまか動く細かいギーシュの動きに翻弄され、バンダナの男の表情に苛立ちの色が浮かび上がって来た。

 その顔色を良く見ながら、ギーシュは懸命に男の拳を躱し続けた。苛立ちは思考を鈍くさせ、焦りから動きが大振りになるのをこの二ヵ月の訓練で学んで来た。勝負は時として、持久戦に持ち込むのも作戦の内なのである。

 

「こんの……! ちょこまかしやがって!」

 

 バンダナの男の動きが徐々に大振りになって来た。

 ギーシュは上がる息を懸命に抑え続け、自分の顔面目掛けて打ち込んで来たバンダナの男の拳を上体を反らせて何とか避ける。

 瞬間、バンダナの男に素早く一歩近寄るのと同時に右の拳を鼻っ面に打ち込んだ。

 痛みから鼻を押さえ、鼻血を地面へと零しながら膝をつく男の頭を掴むと、勢いを付けて更に膝蹴りを鼻っ面に叩き付けるギーシュ。

 声を上げ、鼻血を噴き出しながら後ろに倒れ込む男を見送ると、額から顎に伝う汗を腕で拭いながら早まる呼吸を小さく漏らして最後の一人に視線を向ける。

 眼帯の男は倒れた二人を尻目にギーシュと同じ様な構えを取ると、素早いステップで一気に間合いを詰めて来た。

 大柄な体格からは想像出来ない動きに戸惑い、思わず動きにキレが無くなったギーシュ目掛けて拳を振るう眼帯の男。

 ギーシュは腕で拳を受け止めるも衝撃の強さから一撃で弾かれてしまい、ビリビリと痛みが走る腕に気を取られる間も無く眼帯の男の拳が深くギーシュの腹へと叩き込まれる。

 痛みと衝撃に顔を歪めたギーシュの服の胸ぐらを掴んで、眼帯の男は前屈みになっている身体を無造作に地面へ投げ付けた。

 地面を転がりながら土煙を上げるギーシュを見下した後、眼帯の男が腕を高々と上げると周りから歓声が湧き上がる。

 歓声と口笛が響く中、ギーシュは腹を押さえながら痛みを無くそうと悶え苦しんでいた。

 眼帯の男がギーシュに近付いて労いの言葉の一つでも掛けてやろうと思った瞬間に不意にその足が止まる。

 顔を歪めながらもまだ諦めていないのを示す様な瞳を向けているギーシュの身体から、淡い水色の光の様な物が迸った様に眼帯の男には見えたのだ。

 その光は一瞬だった為、何度も確認する様に目を細めながらギーシュを見る男。しかし、それらしい光は見えない。

 気のせいかと思っている内に、ギーシュが立ち上がった。

 呼吸を荒げながら腹を押さえていた手を再び胸元まで上げて構えを取る。

 

「貴族の御坊ちゃまにしちゃあ、中々根性があるじゃねぇか。気に入ったぜ。どうせなら徹底的にやろうや」

 

 眼帯の男も構えを取りながら笑みを浮かべると、再びギーシュに殴り掛かった。

 ギーシュは真剣な眼差しで男の動きを見詰めて何とか拳を避ける。もう一撃でも食らってしまえば、立てない気がしてならない為必死に避ける。

 しかし、避けてるだけでは勝てる訳がない。ギーシュはギリギリ拳をステップで躱しながら時折男の腹にボディブローを打ち付けた。

 最初はギーシュの拳等モノともしてなかった男だったが、そのボディブローも二発、三発、四発……と繰り返し受けて行く度に表情が歪み、動きが鈍くなって来た。

 次第に男の動きが鈍くなって行き、打ち出される拳に鋭さが無くなって来た所で、拳を搔い潜ったギーシュの左アッパーが男の顎を捉えた。

 顎を打ち上げられ、衝撃から脳が揺れたのか、男はよろめきながらその場に立ち尽くしてしまう。

 それを好機と見たギーシュは飛び上がり、男を見据えながら拳を強く握り締めた。

 その瞬間、周りで眺めていた男達は確かに見た。ギーシュの身体から迸る淡い水色の光を。

 

「寝てろぉっ!」

 

 可能な限りの全体重を乗せた空中からの打ち下ろしの右が男の頭に打ち込まれ、男は顔面から地面に叩きつけられた。

 ギーシュは呼吸を荒げながら膝に手をついて身体を揺らす。男達が見た淡い水色の光はもう見えない。

 決着のついたギーシュと男達を眺めてポカンとした様に呆けた顔の面々からは沈黙が漂った。

 漸く呼吸を落ち着かせられたギーシュは身体を起こして投げ捨てた薔薇の造花を拾い上げ、土煙に汚れた頬を手の甲で拭いながら周りの男達を睨み付けた。

 

「貴様等ぁっ!」

 

 ギーシュの怒鳴り声に、周りの男達の身体が一瞬ビクッと跳ねる。

 ギーシュは隅々まで男達を睨み付けてから、親指を立てて自分を指差した。

 

「見ての通り、僕はこの三人に勝った! 約束通り今から、貴様等は僕の部下だ! 僕の命令は絶対だ! それともう一つ! 大隊長殿は間違えて言ったが、僕の名はギーシュ・ド・グラモンだ! グランデルじゃない! よって僕等第二中隊は、「グラモン中隊」と呼称する! 文句がある奴は今すぐ前に出ろ! サシなら幾らでも相手になってやる!」

 

 ギーシュの怒鳴りに男達は互いに顔を見合わせてから、黙って参列に並ぶと敬礼をして見せた。ギーシュを自分達の隊長として認めたのである。

 

「も、文句なんかあるはずがねぇ……!」

 

 不意に聞こえた声にギーシュが顔を向けると、眼帯の男が鼻血を指で拭いながら身体を起こしていた。他の二人も痛みからか顔を歪めながらもなんとか立ち上がっている。

 

「あんたは、そこらの口だけの貴族とは違う。あんたを、隊長と認めますぜ。宜しくお願いします、グラモン隊長」

 

 三人が胸元に左腕を添えながら跪き首を垂れると、他の男達も同じ様に跪き首を垂れた。

 ギーシュはそんな男達を見回してから胸を張って腕を組んだ。

 

「貴様等の命、僕が預からせて貰う。早速で悪いが、僕は用を足して来る。各自いつでも動ける様に準備を整えておけ! 良いな!?」

 

「「「サーッ!」」」

 

 掛け声に応える男達の声に頷くと、ギーシュは威風堂々とした足取りでトイレへと向かった。

 練兵場のトイレの個室に入り、数回深呼吸しながら目の前の便器を眺めていたギーシュは、力無く膝をついて便座に手を添えると便器の中へと嘔吐した。

 

「うっ! ……がっ……はっ……!」

 

 食道を逆流して来る今朝の朝食と胃液を便器の中へ次々と吐き出しながら喘ぐ。

 舐められない様にと虚勢を張っていたが、恐怖と緊張が限界を迎えて身体が反応してしまったのだ。威風堂々と歩いては見せていた物の、このトイレに着くまでもかなりの労力を要するほどに気が滅入ってしまっていた。

 訓練とは違う、初めての殴り合いによる喧嘩。桐生に啖呵を切って殴り掛かった時とは訳が違う。殴られるかもしれないという不安、痛みに対する恐怖、訓練で痛みに多少は慣れたつもりでいたが、まだまだ甘かったのを思い知らされた。

 同時に中隊長としての立場にも不安が一杯だった。先ほどは格好を付けて言ったが、本当に彼等の命を預かるのだ。自分の命令、判断一つで、彼等を何人も殺してしまうかもしれないのだ。

 胃の中が空っぽになり、胃や食道が痙攣している様な感覚を覚えながら、ギーシュは便座から手を離して力無く壁に(もた)れて必死に呼吸を整えた。

 しかし、先ほどの喧嘩で確信した事もあった。

 二ヶ月の訓練中、ギーシュは訓練メニューとは別に教練士官に頼んでトレーニングを続けていた。

 体育会系の人間は後輩から(しご)きを求められると断れない性質らしい。どんなに疲れていようがダルそうだろうが、ギーシュのスパーリング等の訓練に付き合ってくれた。

 その中で、ギーシュは徐々に自分のスタイルが作り上げられているのを実感していた。桐生から教わった「ラッシュスタイル」を基本により速く、より重く、より鋭く拳や蹴りを繰り出せる様に工夫を凝らして行った。

 そして先ほどの喧嘩で、そのスタイルを完成させられたのを感じたのだ。

 自分だけのオリジナリティを含んだ「ラッシュスタイル」。言うなれば、「グラモン流ラッシュスタイル」である。変幻自在の拳と蹴りは従来のスタイルを引き継ぎながらも、書物の知識や独自の発想を織り交ぜた乱打と重い一撃を秘めたスタイルだ。

 ギーシュは拳を握り締めて立ち上がり、個室の外に出ると手洗い様に設置されてる井戸から備え付けの桶で水を組み上げ、数回口をゆすいでから何度も顔を洗った。

 冷たい水が顔を濡らす度に先ほど味わった痛みを思い出す。その痛みを忘れず、かと言って恐れずにこの戦場を生き抜こうと誓った。

 ポタポタと前髪や顎から浴びた水の雫が零れ落ちるのを感じながら大分少なくなった桶の中の水を眺めていると、不意に視界の端から白いタオルが入ってきた。

 顔を向けると、自分の父親ほどに歳の離れた中年の男がタオルを差し出していた。鉄の兜を被り、厚革に鉄の胸当てが着いた上着を羽織っているその男は自分に跪いた男達とは何処か違って見えた。背負われている銃身の切り詰められた火縄銃、腰に差されている短剣、日焼けした肌と兜から覗く顔の傷は桐生同様の歴戦の猛者をイメージさせた。

 

「お見事でした、中隊長殿」

 

 ニッと気持ちの良い笑顔を浮かべる男に、ギーシュはぎこちなく笑いながら素直にタオルを受け取って顔を拭いた。

 

「失礼だが、君は?」

 

「申し遅れました。自分は中隊付軍曹のニコラと言います。自分は副官の真似事等をやらせて貰ってました」

 

 真似事。その言葉からは謙遜の意を感じた。前任の中隊長の代わりにこの男がずっと隊を指揮していたのだろう。

 

「前任者は君の様な優秀な副官が居たのに逃げたりしたのか。情けない話だ」

 

「まぁ、仕方ありませんや。グラモン中隊長殿も見ての通り、うちの隊は問題児ばかりですからねぇ。初日に凄まれて泣きが入ってましたから」

 

 顔を拭ったタオルを首に掛けてため息混じりに言うギーシュに、ニコラは頬を掻きながら苦笑して見せた。

 

「うちの隊にいる人間はみんな街では暴れるしか能の無い、スラム街や裏路地出身が多いんですわ。だから自分達をゴミの様に扱った貴族の方々を憎んでいるんです。正直、今回中隊長に任命されたグラモン殿を見てまた逃げ出しちまうかと思いました」

 

 率直な意見を述べるニコラにギーシュは何故か好感を感じて同じ様な苦笑を浮かべた。

 そこで少し間を置いたニコラは真顔になってギーシュを見詰めると、再び口を開いた。

 

「ですがグラモン殿はあの三人に勝った。あいつ等はこの隊の中でも一際喧嘩っ早いタイプでしてね。相手が気に入らなきゃ誰彼構わず喧嘩を売っちまう。魔法を使わずに戦って、その歳であれだけの拳法を扱えるのは大したもんですよ。見た所、まだ書生さんくらいとお見受けしますが……実家で拳法家でもお雇いで?」

 

 興味半分といった様子で問い掛けてくるニコラに、ギーシュは首を振ってから顔を背けて遠くを見る様に目を細めた。

 

「僕の、師匠とも言える友人が教えてくれた拳法を真似しただけだよ。まだまだあの人には遠く及ばないけどね。戦い方も、人としても……」

 

 二ヶ月前、訓練に参加する事となって遠征したギーシュはずっと桐生に会っていない。しかし、ギーシュの中で浮かぶ桐生の像は何時までも変わらない。強さと優しさを秘めたあの瞳に、自分は少しでも近付けて居るのだろうか。

 そんなギーシュを眺めていたニコラが不意に小さく笑い出した。

 突然笑われた事で訝しげな表情で自分を見るギーシュに、ニコラは小さく首を振った。

 

「失礼しました。いや、貴族の方でもそんな目をするんだなと思いまして」

 

「そんな目?」

 

「誰かを心から尊敬し、想う目。自分もかつて、自分を育ててくれた隊の人達を想った時は、今のグラモン殿と同じ目をしていたもんですよ。とても温かい、良い目だ。貴族の方が誰かをそこまで尊敬するんなんて、中々聞いた事が有りませんので」

 

 ニコラの言葉に、今度はギーシュが小さく笑った。

 桐生と接し、自分と同じ貴族の人間よりも遥かに尊敬し、憧れた彼は平民だ。平民と貴族。その違いなど細やかな物でしかないのを、ギーシュは最近感じていた。

 平民だろうと貴族だろうと、悲しければ泣き、嬉しければ笑い、腹が立てば怒る。誰だってする事であるし、それが人間と言うものだ。

 

「買い被り過ぎだよ。貴族だって誰かを尊敬したり、憧れたりするものさ。それに、僕だって君達とは変わらない。ただ貴族という恵まれた環境の元に生まれた、甘ったれのクソ餓鬼さ」

 

 初めて桐生に会った時に言われた一言をギーシュは思い出していた。

 生意気な平民だとしか桐生を見なかったあの頃の自分を思えば、桐生の言葉は的を射ていた。弱い者にしか威張れない、文字通りの甘ったれだ。

 ギーシュの言葉にニコラは少し驚いた表情を浮かべたが、すぐさま気持ちの良い笑顔に変わるとギーシュの背中を軽く叩いた。

 

「だったら、自分達がそんなクソ餓鬼を守りますよ。どっしりと構えていてください。あんたはもう、ただのクソ餓鬼ではいられないんですから。よろしくお願いしますよ、グラモン中隊長殿」

 

 ニコラの言葉にギーシュが強く頷いたその時、遠くでラッパが鳴った。

 今から始まるアルビオン遠征軍総司令官、オリビエ・ド・ポワチエ将軍の訓示の知らせである。将軍の閲兵を受けた後にこの練兵場に集まった軍はラ・ロシェールに向けて出発し、そこで船に乗り込んで空路でアルビオン大陸を目指すのだ。

 

「さぁ、行きましょうか、中隊長殿。我等「グラモン中隊」の初陣です」

 

 ギーシュは力強く頷くと、トイレから出て自分の中隊の待つ場所へと歩いた。

 ニコラはギーシュの後ろを歩きながら目の前の背中を見詰めた。

 百数人の命を背負う事になった、少年から男へと成長し始めたその背中は、心なしか大きく見えた。


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