ゼロの龍   作:九頭龍

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差し伸べられた手


第30話

 今は亡き王が使っていた居室。月明かりが窓から漏れる部屋の中、巨大な天蓋付きベッドの上でアンリエッタは薄い下着のみを身に纏って横たわっていた。

 ベッドの横には父が愛用していた大きなテーブルがあり、その上にはワインの瓶と空になったグラスが置かれている。アンリエッタは横たわったままワインをグラスに注ぐと、上体を起こして一気に飲み干した。

 以前は酒など食事の際に飲んだりと嗜む程度だったが、女王になってからは量が増えた。

 今までは政治の飾りの造花同然だったアンリエッタにとって、何かを決断すると言うのは並みの心労ではなかった。殆ど決まった決議も、自分の一言で簡単に無くす事も出来る。しかし、その幼い双肩にはトリステインとその国民が背負われているのだ。ましてや今は戦時中、いい加減な決断等許されない。

 飾りだった造花は生花へと生まれ変わり、その生き生きとした美しさで周りを鼓舞し引っ張っていかねばならなくなった。最早飾りの造花だった頃とは違い、大きな責任がその小さな身体にのしかかってくる。

 その責任がアンリエッタを休む間もなく苦しめ続けていた。故に呑まずにはいられない。しかし、こんな姿をお目付のお堅い女官や侍従に見られたら面倒極まりないので、アンリエッタはこっそり隠したワインをこうして毎晩あけているのだ。

 ワインの酔いに頬を淡く赤らめながらベッドに横たわると、決まって思い出すのは楽しかった頃の記憶だ。自分がありのままの自分で入られた、短い季節。

 十四歳の頃の、夏の記憶。

 

「どうして貴方はあの時、愛を誓って下さらなかったの?」

 

 ラグドリアン湖の水の精霊は通称「契約の精霊」と呼ばれている。その精霊の前で誓った誓いは決して破られる事はないと言う。

 十四歳の夏、ウェールズとこっそりと会ったあのラグドリアン湖で、自分は水の精霊の身許で愛を誓った。しかし、ウェールズは愛を誓ってくれなかった。

 アンリエッタは両手で顔を覆うと、小さな嗚咽を漏らしながら涙を流した。自分の問いに答えてくれる人はもういない。この世に存在しない。

 勝利が彼を忘れさせてくれると思った。女王と言う立場が彼を忘れさせてくれると思った。

 しかし、忘れられない。忘れられる訳がない。

 アンリエッタは手で涙を拭うと、そんな弱々しい自分に喝を入れる様に首を振った。

 明日はゲルマニアの大使との折衝が待っている。こんな下らない戦争を早く終わらせたいトリステインとアンリエッタにとってとても大切な折衝だ。涙に濡れた顔で出席する訳にはいかない。公の場で弱い自分を晒すのは自殺行為だ。

 深呼吸をしてから本日最後の寝酒とワインの瓶を取った時、扉がノックされた。

 こんな夜更けに誰だろうか。億劫だが、出ない訳にもいかない。今は何が起きるかわからない。またアルビオンに動きがあったのかもしれない。

 アンリエッタは酔いでフラつく身体でベッドから立ち上がるとガウンを羽織り、扉へと近付いた。

 

「ラ・ポルト? それとも枢機卿? こんな夜更けに何事ですか?」

 

 アンリエッタの問いに返事はない。代わりにノックが返された。侍従長でもなければ枢機卿でもないらしい。一体誰だろうか。

 

「誰です? 名乗りなさい。こんな夜更けに女王の居室を訪ねる者が、名を名乗らなくて良いと言う法はありませんよ。さぁ、早く名乗りなさい。さもなくば人を呼びますよ」

 

「僕だ、アンリエッタ」

 

 その声に、アンリエッタは顔をから表情を失って一瞬立ち尽くした。

 

「……今日は少し、飲み過ぎてしまったようね。こんなにもハッキリと幻聴が聞こえるなんて……」

 

 アンリエッタは自分を抑えようと胸に手をあてがった。激しい動悸が皮膚を通して手に伝わってくる。

 

「幻聴なんかじゃないよ、アンリエッタ。僕だ。この扉を開けておくれ」

 

 アンリエッタは扉へ駆け寄り、その厚い茶色い木製の板に手を這わせた。

 

「本当に、本当にウェールズ様なの? 貴方は、裏切り者に殺されてしまったと……」

 

 アンリエッタは早まる気持ちを抑えて呟いた。

 

「それは間違いだよ。あのニューカッスルで討たれたのは僕の影武者さ。世を欺く為に今まで表に僕は姿を現さなかったから、僕は世間では死んだ事になっているけどね」

 

「でも、「風のルビー」だって……」

 

 アンリエッタは自分の薬指に嵌められているウェールズの形見を眺めた。

 

「敵を欺くにはまず味方から、と言うだろう? しかし、君が信じられないのも無理はない。なら、僕が僕である証拠を聞かせてあげよう」

 

 一瞬の静寂。しかし、アンリエッタにとってはその沈黙が長く感じた。

 

「風吹く夜に」

 

 アンリエッタの中で抑えられていた気持ちが、その一言で弾けた。

その言葉は、あのラグドリアン湖で会う時に使っていた合言葉。ウェールズとアンリエッタ以外は知らない言葉だ。

 アンリエッタは勢い良く扉を開いた。

 その先には、何度も夢見た笑顔を浮かべたウェールズが立っていた。

 

「ウェールズ様……ウェールズ様!」

 

 アンリエッタはウェールズに強く抱き付いてその胸に顔を埋めると、子供の様に咽び泣いた。

 そんなアンリエッタの頭を、ウェールズが優しく撫でる。

 

「相変わらず君は泣き虫だね、アンリエッタ」

 

「だって、またこうして貴方に出会えるなんて……もっと早くお会いしたかったですわ」

 

「流石に逃げ延びてからすぐに君の元へは行けなかったからね。あの後敵に見つからない様に何度も場所を変えてここまで来たけど……君が一人になる時間帯を探すのに時間がかかってしまったよ。まさか死んだ筈の人間が昼間に謁見に向かう訳にはいかないだろう?」

 

 少し悪戯っぽい表情を浮かべて見せながら話すウェールズはまごう事なき本物だった。

 

「本当に……意地悪な人だわ、貴方は」

 

 溢れ出る涙を指先で拭いながらアンリエッタも微笑みを浮かべた。

 

「アンリエッタ……頼みがあるんだ」

 

 不意に、先程までの子供っぽさを残した笑いから真剣な表情に変わったウェールズにアンリエッタの表情も真剣な物へと変わった。

 

「僕と一緒に、アルビオンへ来て欲しい」

 

「何を、何を言っているの!?」

 

 アンリエッタはウェールズの顔を見つめながら信じられないとばかりに声を上げた。

 

「せっかく助かった命を、また散らすおつもりですか!?」

 

「確かに愚かしい行為だとは僕も思う。それでも、僕は「レコン・キスタ」からアルビオンを解放しなくちゃいけないんだ。僕が今日君の元へ来たのも、その為なんだ」

 

「どういう、事ですか?」

 

「国内には、僕と志を共にしてくれている協力者がいる。しかし、僕にはもっと信用出来る人間が必要なんだ。アンリエッタ……僕と共に来てくれるね?」

 

 ウェールズの言葉はアンリエッタの胸の内を酷くざわつかせた。もちろん、ウェールズと共に行きたい。愛しい人間と再び手を取り歩く事が出来るのだ。恋する乙女にとって、これ程の幸福は数少ない。

 しかし、女王と言う立場がアンリエッタを引き留めた。今や自分の身体は自分だけの物ではない。多くの臣下が、兵士が、メイジが、民が自分の為に働いているのだ。その想いを無下にするのは躊躇われた。

 

「お気持ちは、とても嬉しく思います。しかし、今はとにかくゆっくりと休んで、この話はまた明日にでも……」

 

 そう言ったアンリエッタにウェールズは急に顔を近付けた。愛しい人の瞳が、アンリエッタを射抜く。

 ウェールズはアンリエッタの瞳を見つめたまま囁いた。

 

「明日では遅いんだ、アンリエッタ。僕と共に来てくれ。愛している、もう二度と離さないから……」

 

 そう言ったウェールズはアンリエッタの唇に自分の唇を重ねた。

 ウェールズの言葉と口付けにアンリエッタの中の熱い何かが脈打つ中、その瞳は眠りの魔法によってゆっくりと閉じられた。

 

 

 ウィンドドラゴンに跨ったタバサとキュルケが夜の空を駆けていた。

 タバサの帰省について行ったキュルケはタバサの実家で一泊し、夜まで過ごすと学園に向かってタバサと共に帰る所だった。

 タバサの実家では、タバサの過去をキュルケは知る事になった。ガリア王家の継承者争いに巻き込まれ、実の母を廃人にされ、そんな仇とも言える現在のガリア王家に仕えている事を。

 ウィンドドラゴンの背鰭に捕まりながら、何時もの位置で本に目を落とすタバサをキュルケが見つめた。

 自分とはとても同い年に見えないこの小さな身体で、どれ程の苦しみに耐えているのだろう。どれ程の憎しみを秘めているのだろう。

 不意に、キュルケは後ろからタバサをそっと抱き締めた。

 

「タバサ……あたしは、貴女の味方だからね。どんな事があっても」

 

 タバサは何も答えない。代わりに、本を持っていた片手でキュルケの腕を優しく握った。

 ふと、トリステインの城下町を跨ごうとした瞬間に、雑木林の中を走る馬に乗った一行を見かけた。黒ずくめのローブを被っている者達に囲まれて真ん中を走っている人物には見覚えがあった。

 

「あれは、トリステインのお姫様と確か……ウェールズ皇太子じゃない。」

 

 夜の密会にでも向かっているのだろうか。なんの気に無しに眺めた二人はそのまま魔法学園に向かった。

 

 

 魔法学園の女子寮の庭で、桐生とルイズが涼むのを目的にお茶を飲んでいた。昼間の暑さよりはマシだが今日の夜も蒸し暑い。そんな遅くならない頃に雨が降るかもしれないと思った。

 お茶を口にしながら談笑を楽しんでいた二人の前に、学園に到着したタバサの風竜が優雅に舞い降りた。風竜の背からタバサとキュルケが華麗に飛び降りる。

 

「あら、こんばんは、ダーリン。夜のお茶会と言った所かしら?」

 

 色気たっぷりに赤髪をかき上げながら言うキュルケにルイズがムッと顔をしかめる。せっかくの桐生とのお茶に水を差されたのが不満らしい。

 そんなルイズに気付かない桐生は頷いて見せた。

 

「今日は少し蒸し暑いからな。夕涼みも兼ねて、こうして飲んでる訳だ」

 

「確かに、今日はちょっと蒸すわね。ま、あのお姫様は今夜もっとお熱いんだろうけど」

 

「お姫様?」

 

 キュルケの言葉にルイズが怪訝そうな顔をして見せながら問いかける。

 キュルケは首を傾げて見せてから頷いた。

 

「ええ、今さっき見かけたのよ。ええと、ほら……あのウェールズ皇太子と一緒に何処かへ向かう姿をね。あの王子様、死んだって聞いてたけど生きてたのね。ま、お姫様も顔は悪くないし?美男美女のカップルって感じなんじゃない?」

 

「ウェールズ、だと?」

 

 桐生の眉が不穏な様子で歪む。

 あの日、ニューカッスルで確かに死んだウェールズを見た桐生とルイズ。

 嫌な予感がする。二人は顔を見合わすと、ルイズがタバサに駆け寄って肩を掴んだ。

 

「お願い、タバサ! 今すぐトリステイン城に向かって飛んで!」

 

 

 桐生達一行がタバサのウィンドドラゴンに跨ってトリステイン城に向かうと、城の中は蜂の巣をつついた騒ぎになっていた。

 ウィンドドラゴンが中庭に舞い降りると、一斉に魔法衛士隊が一行を囲んだ。

 マンティコア隊の隊長がズカズカと一行に歩み寄るなり、その見覚えのある姿に眉をひそめた。

 

「またお前達か! ええいっ! 忙しい時にばかり姿を現しおってからに!」

 

 忌々しそうに言う隊長を無視してルイズが風竜から飛び降りると、息を荒げながら隊長に詰め寄った。

 

「姫様! あ、いや……女王陛下はご無事ですか!?」

 

 辺りには松明を持った兵士や杖で灯りを灯している貴族達が走り回っている。ただ事ではないのは明白だった。

 

「生憎貴様等の相手をしている暇はないんださっさと去れ」

 

 ルイズは隊長の一言に顔を怒りに真っ赤にすると、ポケットの中からアンリエッタから授けられた許可証を突き出した。

 

「私は女王陛下直属の女官よ! この通り陛下直筆の許可証もあるわ! 私には陛下の権利を行使する権利がある! 直ちに事情を説明しなさい!」

 

 突き出された許可証をマジマジと眺めてから、隊長はルイズと許可証を交互に見た。

 隊長は根っからの軍人であった。例えどんなに小さかろうが、幼かろうが、自分の上官には絶対の服従を誓っていた。

 隊長は背筋を伸ばすと、敬礼する様に胸に手を当てて報告した。

 

「はっ! 今から一時間程前、女王陛下が何者かによってかどわかされたのです! 警護の者を蹴散らし、賊は馬で駆け去りました! 現在はヒポグリフ隊が陛下の後を追い、我々は城内に賊を特定出来る証拠がないか探している最中です!」

 

 ルイズが不安げな表情で桐生へ顔を向けた。

 桐生は頷くと、隊長に詰め寄った。

 

「そいつ等はどっちに向かったんだ?」

 

「はっ! 賊は南へ向かっているのでラ・ロシェールに向かっていると思われます! 間違いなくアルビオンの手の者でしょう! 出来れば竜騎士隊を派遣したかったのですが……先の戦で竜騎士隊は全滅してしまっています。ヒポグリフ隊が賊に追い付けるかどうかは……何とも言えません」

 

 風竜に次いで足の速いヒポグリフが賊を追っているらしいが、追い付けるか怪しいらしい。

 桐生とルイズは互いの目を見合わせ頷き合うと、颯爽とタバサのウィンドドラゴンに跨った。

 

「急いで! 姫様を拐った賊は、ラ・ロシェールに向かっている! 夜明けまでに追い付かないと大変な事になるわ!」

 

 魔法学園から飛んで来る際に大体の事情を聞いたキュルケとタバサが頷き、すぐさま風竜を飛び立たせた。

 

「低く飛んで! 賊は馬で走っているわ!」

 

 ルイズの叫び声に呼応する様に城下町を一気に抜けた風竜は闇夜の中、その鋭利な嗅覚と感覚で障害物を避けながら街道を低く飛んで行った。

 

 

 ラ・ロシェールに向かって伸びる街道で、四肢がバラバラになった魔法衛士隊の死体が散乱していた。賊を追っていたヒポグリフ隊の隊員達である。

 馬から降りてヒポグリフ隊を殺したウェールズはゆっくりと杖を下ろしてアンリエッタに振り向いた。

 同じく馬から降りていたアンリエッタがウェールズを信じられない物を見る瞳で見つめた。

 

「ウェールズ様……貴方、貴方、何て事を!」

 

「驚かせてしまった様だね」

 

 アンリエッタは何時も肌身離さず持ち歩いている腰から下げた水晶の付いた杖を引き抜き、ウェールズに向かって突き出した。

 

「貴方は、一体誰なの?」

 

「僕はウェールズだよ」

 

「嘘よ! 本物のウェールズ様なら、無闇に人を殺めたりなんかしない! よくも、よくも魔法衛士隊の人達を……!」

 

「彼等の仇が取りたいかい? ならば、僕を殺せばいい。君にこの胸を貫かれ死ねるなら本望だよ」

 

 そう言って、自分の胸を指差すウェールズ。

 アンリエッタは暫くウェールズを睨んでいたが、その瞳からは涙が零れ落ち、口から出たのは呪文ではなく小さな嗚咽。

 

「どうして……どうしてこうなってしまったの?」

 

「訳は後で話すよ。様々な事情があるんだ。君は黙って、あの日の誓いの通りにしていればいい。覚えているかい? あのラグドリアン湖で君が僕にしてくれた誓いを」

 

「忘れる訳がありませんわ。あの言葉を頼りに、今日まで生きて来たんですもの」

 

 ウェールズはその言葉に優しく微笑みかけると、アンリエッタを強く抱き締め額に口付けた。

 

「ならば君は僕と共にいてくれればいい。後は僕に任せてくれ。大丈夫……もう君に寂しい思いをさせたりはしない」

 

 アンリエッタはウェールズの胸の中で何度も頷いた。

 この者が本物のウェールズかどうかはわからない。だが、そんな事はどうでもいいのだ。この感触に、この匂いに、この温もりに抱かれるなら、他の物は何もいらなかった。

 二人が再び馬に乗ろうとした時、突然炎が巻き上がり地面を踊った。

 炎に対する本能的な恐怖から馬は前足を高く上げて声を上げ、乗っていた黒ずくめの者達を放って逃げ出した。

 ウェールズ一行の前にウィンドドラゴンが降り立ち、ルイズに桐生、そしてタバサとキュルケが舞い降りた。

 

「まさかとは思ったが……やはり、お前だったか」

 

 桐生がアンリエッタの肩を抱いて立っているウェールズを見て眉をひそめた。

 ウェールズはそんな桐生達一行の登場にさほど興味がないのか、手を上げて黒ずくめの者達を夜の闇の中へと紛れさせた。

 

「ウェールズ、姫様を返して貰うぜ」

 

「返す? 面白い事を言うね。彼女は彼女の意思で僕と共にいるんだよ」

 

 ウェールズの微笑は生前と変わらない優しい物だった。しかし、その奥には冷たい何が秘められている。

 あの日、ニューカッスルで話した勇敢なウェールズ皇太子はやはりもうこの世にいないのだ。

 

「姫様! 此方にいらして下さい! そこにいるのはウェールズ皇太子ではありません! 亡霊です! ウェールズ皇太子は……もうこの世にいないんです!」

 

 ルイズが杖を構えながら必死にアンリエッタに話しかける。しかし、アンリエッタはその場から動こうとせず、肩を震わせ唇を噛み締めていた。

 

「姫様!?」

 

「言っただろう? 彼女は彼女の意思で僕と共にいると。さぁ、取引といかないか?」

 

「取引、だと?」

 

「そうさ。君達のおかげで僕等は馬を失った。道中危険も多いだろうと言うのにね。ここで君達とやり合うのも悪くないが、なるべく魔力は温存したいんだ。だから、このまま引いてくれるなら僕達は君達に危害を加えない。どうかな?」

 

 ウェールズの言葉を無視して、タバサは即座に呪文を詠唱し数本のも氷の矢をウェールズの胸向かって打ち込んだ。

 「ウィンディ・アイシクル」。タバサの得意な攻撃魔法だ。氷の矢は容赦なくウェールズの胸を貫いた。

 しかし、ウェールズは微動だにしない。胸元に開かれた傷は見る間に再生し、破かれた服から生気のない肌が露出した。

 

「無駄だよ。君達に僕は傷付けられない」

 

 その様子を、アンリエッタは戸惑った表情で見ていた。

 

「見たでしょう、姫様!? この男はウェールズ皇太子ではありません! どんな魔法かはわかりませんが……ウェールズ皇太子の屍が操られているだけなんです!」

 

 ルイズの言葉に、アンリエッタは強く首を振った。まるで今見た光景が現実の物ではないと否定する様に。

 

「お願い、ルイズ……私達を行かせて」

 

「何を仰るの、姫様!? それはウェールズ皇太子なんかじゃない!姫様は騙されているのですよ!」

 

 ルイズの叫びに、アンリエッタは微笑んだ。冷たく、悲しい微笑みだった。

 

「わかってる。そんな事はわかっているのよ、ルイズ。私の居室で唇を重ねたその時から。でもね、それでも構わないの。確かに本物のウェールズ様ではないかもしれない。でも、それでも……もう二度と会えないと思っていた人が、今目の前にこうして立っていてくれる。私はそれだけで満足なのよ」

 

「姫様……!」

 

「ルイズ……貴女もいつか、誰かを本気で好きになった時にわかるわ。私はね、水の精霊の前で誓ったの。「ウェールズ様に変わらぬ愛を誓います」と。だから、私はその誓いを守る為に生きるわ。世の全てに嘘をつけても、自分に嘘はつけない。さぁ、私から最後の命令よ、ルイズ。道を開けてちょうだい」

 

 ルイズは杖を握り締めたまま、力無く腕を下ろした。アンリエッタの覚悟と決意は本物だ。そんな想いを、無下にする事が出来なかった。

 ルイズがトボトボと道を譲る様に横へ歩くと、タバサとキュルケ戸惑いながらもそれについて行った。

 そしてアンリエッタとウェールズが歩き出した瞬間、その前に桐生が立ちはだかった。

 

「逃げるんじゃねぇよ、アンリエッタ」

 

 怒りの篭った言葉を口にして腕を組みながら目の前に立ちはだかる桐生を、アンリエッタは戸惑った瞳で見つめた。

 

「愛していた人が目の前に現れてさぞや幸せな気分だろうな。だがな、今お前の目の前にいるのはウェールズじゃねぇ。ただの人形だ。愛の誓いを守る為に生きる? 笑わせんじゃねぇよ。そんなのは、辛い現実から逃げる為の言い訳だろうが。言い訳と決意の区別もつけられないガキが、一丁前に愛を語ってんじゃねぇ」

 

 アンリエッタは唇を噛み締めながら俯いた。両手がふるふると震えている。

 

「……カズマさん、貴方には本当に感謝しています。私の大切なルイズを守ってくれて、この国を救ってくれて。でもっ!」

 

 絞り出す様に言葉を口にしていたアンリエッタが急に顔を上げる。その瞳は怒りで染まり、桐生を力強く睨みつけた。

 

「貴方に、貴方なんかに何がわかると言うのです!? 愛する人を失った苦しみが! 痛みが! 辛さが! 悲しみが! 私はウェールズ様だけを愛して生きて来た! その人を失った時の想いもわからない人が、勝手な事を言わないでちょうだい!」

 

 悲痛な想いを乗せたアンリエッタの言葉が街道に響き渡る。

 その言葉から伝わる想いに、ルイズもキュルケも、タバサさえも胸が痛むのを感じた。

 しかし、桐生は動じない。小さな溜め息をついてから、アンリエッタを見つめた。

 

「良くわかるぜ、お前の気持ち」

 

「っ!?」

 

 桐生の言葉と瞳に、アンリエッタは息を飲んだ。

 同情でも、憐れみでもない。桐生の目に宿っていたのは、鏡に写った自分と同じ瞳だった。

 

「俺もな、お姫様。ルイズの元に来る前に、多くの大切な人を失った。馴染みの店のママ、俺を兄貴と呼んで慕ってくれた男達、何時も支えてくれた兄貴分の男、俺を育ててくれた親父、兄弟の様に共に生きて来た親友、そして……」

 

 桐生はそこで言葉を切り、瞳を閉じた。脳裏に浮かぶのは、一人の女性。いつも自分に見せてくれていた、澤村由美のあの笑顔。

 桐生はゆっくりと瞼を開いた。寂しい瞳が、そこに宿っていた。

 

「子供の頃から、愛し続けた女も」

 

 その一言に、アンリエッタだけではなくルイズ達も息を飲んだ。

 そんなアンリエッタ達に構わず、桐生は話し続けた。

 

「最愛の女と親友を同時に失った時、俺は全てがどうでも良くなった。生きていくのすら投げ出しそうになった」

 

 未だに色褪せる事の無い記憶。ミレニアムタワーの屋上で自らのケジメの為に引き金を引いた、錦山彰。自分を守る為に、凶弾に身を差し出した、澤村由美。この世で最も大切だった二人を失ったあの時の桐生は、正に今のアンリエッタと同じ心境だった。

 

「けどな……そんな俺に生きろと、手を差し伸べてくれた人達がいたんだ」

 

 桐生は拳を握り締めて掲げて見せた。その瞳には、力強い光が宿っている。

 

自分に生きる事から逃げるなと叱咤してくれた、新しい親友、伊達真。自分に生きる意味を与えてくれた、澤村遥。この二人が自分にとって、どれ程大きな存在になった事だろう。

 

「人間てのはな、どんなに崖っ淵に立たされても、例え絶望のどん底に突き落とされたとしても、たった一人でも手を差し伸べてくれる人がいれば、何度だってやり直せるんだ。中にはそれに気付かず、或いは気付かない振りをして、ある者は道を誤り、ある者は自ら命を絶っちまう」

 

 桐生は言いながらルイズを見た後、再びアンリエッタへと視線を向けた。

 

「お姫様……今ルイズは、家臣としてじゃ無い、国民としてもじゃ無い、一人の親友として、あんたを救おうと必死に手を伸ばしている。その手を、あんたは振り払うって言うのか?」

 

 アンリエッタはルイズに視線を向けた。心配そうに見つめる瞳と目が合う。

 何時も自分の友達でいてくれたルイズ。幼い頃から何時も助けてくれた。

 ルイズが今自分に手を差し伸べてくれているのは、紛れもなく自分の為だろう。そんなルイズをアンリエッタは愛おしく思った。

 しかし、それでも愛しい人への想いには敵わない。

 

「……ごめんなさい、ルイズ……」

 

 顔を背け、辛そうに漏らすアンリエッタ。そんなアンリエッタを見て、ルイズも悲しそうな表情を浮かべる。

 桐生は苛立った様子で舌打ちをすると、デルフリンガーの柄に手を掛けた。

 

「仕方ねぇな……聞き分けのねぇガキだ。ならその悪夢、俺が覚まさせてやる」

 

 ゆっくりとデルフリンガーを引き抜いて、その切っ先をウェールズに向ける桐生。

 

「見損なったぜ、ウェールズ。魔法か何かは知らねぇが、自分の愛した女を泣かせる様な真似しやがって」

 

「随分な言い掛かりだね。取引は決裂と見て良いのかな?」

 

 不敵な笑みを浮かべ続けるウェールズに桐生は頷いて見せる。

 

「ああ、そこのお姫様を返して貰うぜ。そしてウェールズ……お前は、俺が救ってやる」

 

 デルフリンガーを上段に構える桐生を見て、アンリエッタが声を荒げた。

 

「どきなさい、カズマ! これは命令ですよ!」

 

「生憎俺の主人はあんたじゃねぇ。どうしてもここを通りたきゃ……俺を倒してからにしな!」

 

 凄みを利かせるアンリエッタに構わず桐生が一気に間合いを詰めてウェールズに刃を振るう。

 瞬間、地面から湧き上がった水の壁がデルフリンガーの刃を受け止め、水圧でそれ以上刃が進まなくなる。

 アンリエッタの唱えた「水」の魔法である。

 

「ウェールズ様には指一本触れさせませんわ!」

 

 アンリエッタは持っていた杖を振るい、水の壁から鋭く太い棘の様な突起が飛び出した。

 桐生はすぐさまデルフリンガーの刃の腹で受け止め、後ろへと吹き飛ばされる。

 追い討ちをかける様にアンリエッタが呪文を唱えた瞬間、目の前で小さな爆発が起きてアンリエッタが吹き飛ばされた。

 ルイズの唱えた「エクスプロージョン」だ。

 

「姫様と言えど、私の使い魔を傷付けるなら……容赦はしません!」

 

 戦う決意を表した表情で桃色の髪を揺らしながらルイズが叫ぶ。その声に事の成り行きを見守っていたキュルケとタバサも呪文を唱え始めた。

 厚い不穏な雲が空を漂い始めた宵闇の中、悲しい戦いの幕が上がった。


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