ゼロの龍   作:九頭龍

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努力


第29話

 とある虚無の曜日の昼過ぎの事。その日、モンモランシーの機嫌は悪かった。機嫌自体はここ最近ずっと悪かったが、今日は特に悪かった。

 不機嫌の原因はギーシュだ。あのルイズの使い魔と決闘をして敗れた日から暫くして、ギーシュは他の女の子に声をかけなくなった。噂では、自分と別れたのを良い事に声をかけてきた女の子に対しても丁重にお引き取り願ったそうだ。今までのギーシュならこれ幸いとばかりに食い付いた筈なのに。

 それは自分に対してもそうだった。あの日、確かケティと言ったか。あの一つ下の学年の女の子との二股がわかった日から、ギーシュは自分に近付いて来なくなった。なんだかんだギーシュとの付き合いは長く、あの時の様に誰かに手を出しては自分にバレて、別れる別れないを繰り返してきた。大概ギーシュは愛の言葉とかプレゼントを片手に必死に自分に謝ってきて、そんなギーシュの態度に満更じゃなくなっては寄りを戻して来たが今回は違う。

 少し大袈裟な言い方かもしれないが、最近のギーシュは女の子その物に興味が無くなってしまったのではないかと思うくらいに女の影がない。あるのは大抵ルイズの使い魔と何か話していたとか、他の男友達と軽く馬鹿をやったとか、そんな程度の話ばかり。

 実はモンモランシーは昨夜、ギーシュのもとを訪れたのだがその時の事を思い出して小さな溜め息を漏らした。

 

 

 二つの月が照らす夜、モンモランシーは男子寮のギーシュの部屋の前に来ていた。

 本来なら男子寮に女子が来るのは校則違反に当たるのだが、今のモンモランシーにとっては校則よりもギーシュの事の方が気掛かりだった。

 軽く扉をノックすると、開いているよとの声が聞こえて扉を開いた。すると僅かに漂う汗の臭いにモンモランシーは眉を少しひそめた。

 部屋の中では上着を脱いだギーシュが何やらトレーニングに勤しんでいた。床に横になって膝を曲げ、状態を起こしては寝るのを繰り返す、所謂腹筋をしている所だった。晒された上半身は汗に濡れて、部屋を照らす蝋燭の灯りが小さく反射している。

 

「……やぁ、モンモランシー。君が来てくれるなんて珍しいね」

 

 ゆっくり曲げていた脚を伸ばしながら荒い呼吸を漏らしてモンモランシーに顔を向けると、ギーシュはそう言いながら立ち上がりベッドの縁に置いてあったタオルを取って顔を拭った。

 モンモランシーは取り敢えず部屋の中に入って扉を閉めるとまるで勝手知ったる我が家の様に窓際の机に向かって椅子に腰掛ける。

 

「何か飲むかい? ワインと水くらいしかないけど」

 

「別に良いわ。それよりもレディが部屋に入ってきたのだから、早く服を着てちょうだい」

 

 モンモランシーの指摘にギーシュは申し訳なさそうに頬を掻きながら水の入った瓶に口つけラッパ飲みすると、身体の汗をタオルで拭いてからシャツを着込んだ。

 白そこでふと、モンモランシーは首を傾げた。

 ギーシュの着たシャツが妙に小さく見えるのだ。生地が肌に張り付いて、無理矢理着ている様にも見える。自分の知っているギーシュは女の子みたいにほっそりとしていて、どちらかと言うともう少しゆとりを感じさせる服の着方をしていた筈なのだが。

 

「ギーシュ……貴方、太った?」

 

「う~ん、どうだろうね? でも確かに最近服はキツく感じる様になったかな? 今度実家からもう少し大きめの服を送って貰おうとは思ってるんだ」

 

 少しパツンパツンになっている服の襟を指先で軽く擦りながら苦笑して見せたギーシュはモンモランシーの向かいの椅子に腰掛ける。

 窓際の机一枚の間で腰掛ける二人。付き合いたての頃、ここでよく愛の言葉を交わしたのをモンモランシーは思い出した。大袈裟で情熱的な愛の言葉に心地好さを感じていたあの頃とはもう違う。ギーシュの軟派な性格がわかってから、ただその言葉を信じると言う事は無くなった。

 

「それで、どうかしたのかい? 君から僕のもとに来てくれるなんて珍しいじゃないか。てっきりもう、僕の顔は見たくないのかと思っていたよ」

 

 自業自得を自覚して苦笑しながら言うギーシュ。

 そんなギーシュにモンモランシーは窓の外に顔を向けながら、視線だけをギーシュに向けて口を開いた。

 

「この間、言い寄ってきた女の子を振ったそうね?」

 

「……ああ、そんな事もあったね」

 

「私が貴方を訪ねるより珍しいじゃない? てっきりすぐにでもその子とどこか出掛けるかと思ったんだけど?」

 

 モンモランシーが皮肉を込めて言うと、ギーシュは少し虚空を眺めてから首を振った。

 

「まぁ、彼女には悪いとは思ったけど、今はそう言う事にはあんまり興味がないって言うか、ね」

 

「そう言う事? 女の子と遊ぶ事がって事?」

 

「うん。僕は今、強くなりたいから。……カズマみたくね」

 

 カズマ。あの使い魔の名前が出てきてモンモランシーは溜め息をつく。

 何時だったか、ギーシュがあまりにもあの使い魔にべったりだったせいで良からぬ噂が立った事があった。あの二人はデキているだとか、あの使い魔にギーシュが頼っているだとか。噂や人の目を敏感に感じて気にするタイプのギーシュだ。その事に気付いていない筈がないと思うのだが。

 

「あんな平民に憧れるなんて……それでも貴方、貴族なの?」

 

「確かに彼は平民だが、そこらの貴族よりもずっと尊敬出来る人間だと僕は思うけどね」

 

「貴方、周りから今なんて言われてるか知ってるの? 平民に尻尾を振った負け犬みたいに言われてるじゃない。悔しくないの?」

 

「言いたい奴には言わせておけばいいさ。もうそんな噂や陰口で振り回されて、自分に嘘をつく方が僕はずっと辛いからね」

 

 キッパリと言い切ったギーシュにモンモランシーは驚いた表情を浮かべる。

 今までのギーシュならそんな噂や陰口ですぐに振り回され、周りに格好をつける癖の様な物があった。しかし、今のギーシュは無理せずにそう言い切れる何かを持っているらしい。

 考えたくはないが、あの使い魔が少しずつギーシュを変えているのだろうか。

 

「私にはわからないわね。確かに貴方はあの使い魔に負けた。あの使い魔が普通の平民より強いのはわかるわ。けどだからって……そこまで尊敬出来るものなの? 所詮はあの使い魔だって平民じゃない。」

 

 どこか小馬鹿にした様に言いながらも、モンモランシーの心は強くざわついた。ギーシュの口からあの使い魔の名前が出ると、何故かわからないがイライラする。

 暫くの沈黙の後、ギーシュが椅子から立ち上がったのでモンモランシーがそれを視線で追う。

 ギーシュは戸棚を開いてタオルと水の入った小さな瓶を取ると、そのまま扉を開いた。

 

「外を走ってくるから、適当に帰ってくれ」

 

「何?客人を置いて出掛けるって言うの?」

 

 得体の知れない苛立ちから睨む様な視線を向けて言うモンモランシーに、ギーシュは溜め息を漏らしてからゆっくりと振り返った。

 

「君に彼をわかってくれとは言わないし、僕の事をどう言ってくれても構わない。ただ僕は、一日でも早く本当の意味で強くなりたいんだ。いつか君を、守れる様に」

 

「っ!?」

 

 自分を見つめるギーシュの瞳。それは何処までも純粋で、綺麗で、思わず言葉を詰まらせて見とれてしまった。

 再びギーシュは背を向けると、お休みと一言残して部屋から出ていった。

 一人残されたモンモランシーは、久しく感じる胸の高まりに酔いしれてから女子寮へと戻った。

 

 

 昨夜の出来事を振り返り、思わず少しギーシュにトキメイてしまった自分と、せっかく部屋まで行ったのに自分への愛の言葉がなかった事が彼女を酷くイライラさせた。

 ふと、扉がノックされる音に気付いてベッドに腰掛ける。どうやら今日呼んだ客人が来たらしい。

 

「鍵は開いてるわ、入って」

 

 モンモランシーの声に反応する様に開かれた扉から入ってきたのは件の人物、桐生であった。

 

「邪魔するぞ」

 

「そこの椅子にでも掛けてちょうだい」

 

 入ってきた桐生に流し目で椅子に座る様促すと、モンモランシーは戸棚からポットを取り出して茶の準備を始める。

 きょろりと軽くモンモランシーの部屋を見回す桐生。家具はルイズの物よりもやや豪華な造りの物が多い。勉強用と見られる机には本と、薬の調合用なのか乳鉢やフラスコ等が並べられている。

 部屋の中で一際目を惹いたのは大きな化粧台だ。豪華な造りの鏡の前には香水なのか化粧品なのかわからないが様々な色や形の小瓶が所狭しと並べられている。まるで以前テレビで見たマンハッタンのビル街の様だ。

 

「どうぞ。粗茶だけど」

 

「すまんな」

 

 出された紅茶の入ったティーカップを見て、桐生はぺこりと会釈する。

 モンモランシーは桐生の向かいに座ると金色の巻き毛を指先で弄ってから紅茶を一口口に含んだ。

 

「それで、話ってのはなんだ? そう言えばこんな風に面と向かって顔を合わせるのは初めてだよな、も……もんも……」

 

「モンモランシー。「香水」のモンモランシーよ」

 

「そうだったな。俺は桐生一馬だ。宜しくな」

 

 優しげな笑みを浮かべて自己紹介する桐生をモンモランシーはジッと見つめた。

 顔は悪くない。同い年の男子にはない影と言うか、憂いを思わせる物を感じさせる魅力はあると思う。スタイルも、悪くないと思う。着ている服が少し奇妙だが、服越しからでも伝わってくる体格の良さは歴戦の戦士を思わせる。カップを持つ手の甲に浮かぶ無数の細かい傷がちょっとしたワイルドさを出してる風にも見える。

 しかし、それはあくまで女性からの視線で見たこの男の印象だ。どうしてギーシュがあんなにもこの男に夢中になっているのか、全くわからない。

 

「単刀直入に言うわ。私が聞きたいのはギーシュの事よ」

 

「ギーシュか……確か、以前はお前と付き合っていたんだよな? あいつがどうかしたか?」

 

 なるべく音を立てない様に気を遣いながらカップから紅茶を口に入れて尋ねる桐生に、モンモランシーは窓の外へ視線を送りながら巻き毛をいじりながら口を開いた。

 

「あんたと決闘をしたあの日から、彼がちょっとおかしいのよ。今までとは違う、まるで別人になっていくみたい。あんた……彼に何をしたの?」

 

 再び桐生に視線を向けたモンモランシーの眼は、何かを疑う様な鋭さが篭っていた。

 桐生はその眼を真っ直ぐ見つめながら軽く首を振った。

 

「特に何かをした覚えはないな。ただ、今までのあいつの事はわからないが……あいつは少し軟派過ぎる性格に見えた。別にそれが悪いとまでは言わない。年頃の男なら、誰だって心の何処かで女にモテたい願望はあるだろうしな。だが、このまま成長していけば、あいつはきっと薄っぺらい奴のまま終わっちまう。だから少し助言はさせて貰った」

 

「助言?」

 

「ああ。外見ばかりじゃなく、中身を鍛えろとな。外見がどんなに良くても、中身が薄っぺらいんじゃあ、一人の男としての魅力は出ない。あいつは少々調子に乗りやすいが、根は真っ直ぐな奴だ。軟派な性格が少しでも変われば、きっと今以上に格好いい男になれる筈だ」

 

 そう話す桐生の顔は、まるでギーシュの父親の様に確信に満ちて、優しかった。

 モンモランシーは思わず拳を握り締めながら歯噛みした。。会ってまだ数ヶ月しか経っていない筈なのに、何故この男はギーシュの事をこんなにもわかった様に話せるのだろうか。

 だからギーシュは今までの様に自分に振り返ってくれないのか。だからあんなにも別人の様になってしまったのか。

 

「やっぱり、あんたのせいなのね」

 

 俯きながら小さな声で呟いたモンモランシーに、桐生は首を傾げながら手に持っていたカップを置く。

 見るとモンモランシーの持っているカップが小刻みに揺れている。

 カチャンッと音を立ててカップを机に置いたモンモランシーは椅子から立ち上がって桐生を睨み付けた。

 

「あんたが! あんたが余計な事を言うから! ギーシュは変わっちゃった! 私に見向きもしない! あんなの私の知ってるギーシュじゃない! 返して! 返してよ! 私の知ってるギーシュを返して!」

 

 一気に捲し立てて呼吸を荒げるモンモランシーを、桐生は静かな眼差しで見つめていた。

 徐々に呼吸を落ち着かせながら力なくモンモランシーが椅子に腰掛けて俯く。

 

「ギーシュは、いつも私を一番にしてくれた。どんなに浮気を怒っても、どんなに酷い事を言っても、必ず私のもとに戻って来てくれた。なのに、今は……」

 

 モンモランシーの瞳から、一粒の涙が零れ落ちた。

 本当は自分でもわかっている。この男に当たった所で何がどうこうなる訳でもない。なのに、何故かギーシュが自分を見ていないのを感じる度、ギーシュがこの男と共にいるのを見る度、ギーシュの口からこの男の事が出る度、モンモランシーの胸は強く締め付けられた。

 

「……怖いか?」

 

 不意に口を開いた桐生の言葉に、モンモランシーが顔を上げる。

 

「自分の好きな男が、自分を好きだと言ってくれていた男が、自分を見てくれなくなる事が」

 

 モンモランシーはただ黙ったまま、小さく頷いた。

 そう、ずっと認めたくなかった。認めるのが怖かった。でも今はもう嘘をつけない。

 自分は、ギーシュの事が心から大好きなのだ。少し調子に乗りやすい所も、他の女の子に視線を向けてしまう所も、何時でも自分に愛の言葉を囁いてくれるギーシュが。

 モンモランシーは、桐生に嫉妬していた。いつもギーシュが夢中になってくれていたのが彼へと変わり、彼ばかりにギーシュの視線が向く事に。

 

「なぁ、モンモランシー?」

 

 桐生はゆっくりと椅子に深く座り直してから言うと、涙で濡れたモンモランシーの瞳を見つめた。

 

「お前は、俺にギーシュを取られたと思っているんだろうな。なら、逆に聞くが……お前はギーシュを自分から離れさせない様に努力したか?」

 

「えっ……?」

 

 突然の質問に言葉を詰まらせ固まるモンモランシー。

 桐生はそんなモンモランシーに構わず言葉を続ける。

 

「あいつが他の女に目が向かない様に、自分のもとから離れない様にと何か努力したか? 自信を持って、あいつの為に何かをしたと言える事をしたか?」

 

「それは……。だって、ギーシュは……」

 

 その先を口にしようとした瞬間、桐生は首を振ってモンモランシーにその言葉を飲み込ませた。

 

「確かにあいつの軟派な性格が悪いのは間違いないだろう。でもな、あいつを責める以外にお前は何をしたんだ? 少しでも他の女に負けない様に美しくなろうとしたか? あいつが他の女の所へいかない様に何かしてやったか?」

 

 桐生の質問にモンモランシーは何も言えなかった。

いつも愛を囁くのはギーシュ。自分はギーシュにとって特別な人。彼の為に何かを等、考えた事もなかった。

 

「いいか、モンモランシー。お前が好きなギーシュは、人間なんだぞ? 心があるんだ。確かにあいつはお前を大事にしていただろう。それなのに裏切った事もあった。お前だけを責めるつもりはない。けどな、お前は悔しくなかったのか? そんな女より自分の方が良いと思わせる事をしなかったのか? 子供のお前にはキツい言い方かもしれないけどな、何の努力も、考えもなしに、ただ愛されてるからと言う理由で側にいた所で、そいつはずっとは側には居てくれないんだぞ。もし、考えたくもない、努力もしたくない、それでも側に居て欲しいと思うのなら、人形とでも恋をしろ。季節や環境、気持ちが変わっていく中で、それでもそいつが一番だと思える人間同士でしか、本当の愛なんて芽生えはしないんだ」

 

 桐生の言葉が鋭利な刃となって、モンモランシーの胸に突き刺さる。耐えられなくなったモンモランシーが再び俯くと、机にパタパタと涙が零れ落ちた。

 桐生はカップを取って一口紅茶を飲んでから、立ち上がって窓に近付き外へ視線を向けた。

 窓の外を眺めた桐生は不意に口元に笑みを浮かべてモンモランシーに顔を向ける。

 

「少なくとも、ギーシュはお前の為に努力しているぞ?」

 

「えっ?」

 

 顔を上げたモンモランシーを軽く手招きして窓際まで連れて来ると、窓の外を見る様に顎をしゃくって見せた。

 窓の外の少し先、一本の木が生えた庭でギーシュがトレーニングをしているのが見える。汗と砂埃にまみれながら、辛そうな表情を浮かべつつも身体に鞭打って鉄アレイの様な物を腕で上下させている。

 

「あいつが何の為にあんなに身体を鍛えているかわかるか?」

 

「……私の、為?」

 

 桐生は頷いてから、モンモランシーの頭に手を乗せて優しく撫でた。

 

「最初のあいつはただ単に俺みたいになりたいと言う為だけに身体を鍛えていた。だがな、次第にあいつの中で目標が生まれたんだ。「誰かの為に強くなりたい」と。そしてその誰かはモンモランシー、お前だと言っていた。キッパリと言い切ったあいつは今までの倍以上に格好良かったぜ?」

 

「なら、何でギーシュは、私の側に居てくれないの? 強さなんていらない。私は、ギーシュが側に居てくれれば……」

 

「俺もお前の側にいてやらないのかとは言ったよ。だが、あいつは今までの自分の行いを後悔していたんだ。あいつが言っていたよ。「今の自分が行った所でモンモランシーはきっと振り向いてくれない。だから自信を持って彼女を守ると宣言出来る様になった時、僕はまた彼女のもとへと行くよ。例え彼女が、もう僕の事を見てくれなかったとしても」とな」

 

 桐生の言葉で、モンモランシーは昨日のギーシュの言葉の意味が漸くわかった気がした。

 彼はずっと、側に居てくれていたのだ。例え身体は離れていたとしても、心はずっと。

 モンモランシーは顔を手で覆いながら小さく嗚咽を漏らしながら泣いた。そんなモンモランシーの頭を、桐生は優しく撫で続けた。

 

「お前は優しい子だな、モンモランシー。誰かの為に涙を流せるのは、優しくなきゃ出来ない事だ」

 

 桐生の優しい温もりと言葉がモンモランシーの心をそっと温める。瞳から溢れ出てくる涙は先程の冷たさはなく、優しい温もりを秘めていた。

 ギーシュが自分の知らない誰かになってしまう様で怖かった。でも、実際は何も変わってない。ただ自分への想い方が変わっただけだ。

 いつの間にかギーシュだけが大人になって、自分が子供だっただけなのだとモンモランシーは気付いた。

 

「モンモランシー……あいつの想いに無理に応えようとする必要はない。だが、もしあいつの事を少しでも想えるなら、その気持ちが冷めるまで、見守っててやってくれないか? いつかあいつが、お前に想いを伝えられる様になる日まで」

 

 涙で濡れた瞳を手の甲で拭ったモンモランシーは、桐生の言葉にぎこちなく笑って頷いた。

 桐生もその笑顔に向かって頷くと、モンモランシーの部屋から出ていこうと扉に向かって歩き出した。

 

「えっと……カズマ?」

 

 ドアノブに手を掛けた所で、モンモランシーに声を掛けられた桐生はそっと振り返る。

 

「……ありがとう」

 

 照れ臭そうに頬を赤らめながら涙の痕を残した満面の笑みを浮かべるモンモランシーに、桐生も笑顔を浮かべて部屋から出ていった。

 

 

 赤い月が天高く登った深夜。

 月明かりを浴びて妖しく紅く染まったラグドリアン湖の岸辺に男の悲鳴が響いた。

 声の主が岸辺に横たわると貫かれた胸からドクドクと鮮血が地面を黒ずんだ赤色に染めていく。

 岸辺には同じ様に鮮血を溢れさせながら倒れている男達が横たわっていた。どうやら雇われの傭兵の様だ。

 仲間達が次々と殺されて腰が抜けた男は自分達を襲ってきた人物達を怯えた瞳で見上げた。

 紅い月明かりに照らされたその人物達が身に付けている仮面が鈍く妖しい光を反射させる。

 

「な、な……何でお前等が!?」

 

 男は声を震わせながら自分を見下ろしている三人の人物、「トライデント」の面々を見つめる。男の質問に三人は答えない。

 

「お、お、俺達は、このラグドリアン湖の水の精霊を退治しに来ただけだ! お前等も見りゃわかんだろ!? 今のラグドリアン湖の水位は二年前よりも明らかに多いだろう!? このせいで近隣の住民から依頼を受けただけなんだ! お前等に迷惑をかける気もないし、お前等の邪魔もしない! だからどっかへ行ってくれ!」

 

 悲痛な叫びを上げる男に暫く三人が押し黙っていると、不意にレイヴンが首を傾げて見せた。

 

「本当に僕達の邪魔をしない?」

 

 レイヴンの声が思いの外若々しい事に驚きながらも必死に首を縦に振って見せる男。

 

「それはありがたいね。なら、」

 

 どこか嬉しそうに言うとレイヴンは顎をしゃくって見せる。すると左隣に佇んでいたウロボロスが男にゆっくりと近付いた。

 

「さっさと死んでよ」

 

 レイヴンの声に一瞬間抜けな表情を浮かべた男の顔は、素早く突き出されたウロボロスの鉤爪に貫かれた。

 ビクビクと痙攣していた男だったその肉塊は引き抜かれた鉤爪の後から鮮血を迸らせながら力なく地面に横たわった。

 

「つまらんな。俺を楽しませてくれる猛者はまだ現れんのか」

 

 紅く染まり血が滴る鉤爪を眺めながら退屈そうに呟くウロボロス。

 傭兵達の屍を一瞥すると、レイヴンは湖へと歩み寄った。

 

「終わったよ」

 

 三人以外の人気のないラグドリアン湖にレイヴンの声が響く。

 すると突然湖の水面に波紋が広がり、ゴボゴボと水音を立てながら水面から水が空へ向かって伸び始めた。

 やがて水は人間の女性の形に変わると、目にあたる部分に蒼い光が灯った。

 ラグドリアン湖に住む、水の精霊である。

 

「我が願いを聞き入れた事を感謝する、悪魔の名を語る者達よ」

 

 それは凛と澄んだ、少女の様にも成人の女性の様にも聞こえる声だった。

 レイヴンは首を振ってから仮面を取って笑みを浮かべて見せた。

 

「まさか水の精霊から依頼が来るとは思わなかったけどね。僕達もかなり有名になれたって事なのかな?」

 

「我は永きに渡りこの湖と共にあり続けた。人間の風の噂も入ってくる。よもやあの悪名高き三つ柱の悪魔の名を名乗る者達が誠に居ようとはな」

 

 水の精霊は感情を感じさせない口調でそう語ると、三人をそれぞれその蒼い光の目で眺めてから続けた。

 

「此度の依頼、見事為し遂げてみせた事に褒美を渡したい。何を望む? 単なる者達よ」

 

「だったらさ、何でわざわざ水かさを増させているのかを教えて貰えないかな? ただ自分の行動範囲を広げる為って訳じゃないんでしょう?」

 

 レイヴンが水の精霊に問い掛けると、オーガは腕を組み、ウロボロスは後ろ手に手を組んで佇む。自分達は二人の会話に干渉しない意思を表している様だ。

 

「お前達の同胞が、我が守りし秘宝を盗み出した。それを取り返す為に、我は湖の水を増やした。直ぐには無理だとしても、やがて世界が我が水に浸食された暁には、我が身体が秘宝を探り当てるであろう」

 

 どうやら水の精霊は人間に大切な秘宝を盗まれたらしい。それを取り戻す為に世界中を水浸しようとしているのだ。今のペースでの水かさの増やし方では何百年、何千年と言う時が必要となるだろうか。

 しかし、人間とは違う時の概念を持つ精霊達にとっては、人間の一年がほんの一分にしか感じられない者もいると聞く。

 

「なるほどね……それで? 盗んだ奴の目星はついてるの?」

 

「風の力を使う数個体が我の眠る中、我に触れずに秘宝だけを奪っていった。確かその個体の一人が、「クロムウェル」と呼ばれていた」

 

「あいつか……」

 

 ずっと黙っていたオーガがその名前に呟きを漏らす。

 あのニューカッスルの城で会った、神聖アルビオンの皇帝だ。

 

「我が守り続けた秘宝、「アンドバリの指輪」を取り戻す為に、我は世界の隅々まで水を浸す必要がある」

 

 「アンドバリの指輪」。その名前にレイヴンは聞き覚えがあった。

 禁忌と謳われる秘宝の一つで、「水」の秘宝の中では究極の物と謳う者もいたと言われる指輪だ。その能力は、死者に偽りの命を与えて自分の命令だけを聞く人形に変える呪いを操ると言う。

 ただし、所詮は偽りの命。一度その呪いが壊れてしまえばただの肉塊へと戻り、二度と復活する事はないと言われている。

 

「そのクロムウェルってのには一応心当たりがあるな。どうかな、水の精霊。君が良ければだけど、僕達がその指輪を取ってくるのを引き受けても良いよ?」

 

 レイヴンの突然の申し出にオーガとウロボロスが動揺した様に身体を揺らす。が、レイヴンはそれに構わず水の精霊に微笑みかけた。

水の精霊は暫しレイヴンを見つめたまま押し黙っていたが、やがて小さな頷きを見せた。

 

「ならば頼もう、悪魔の名を語る者達よ。お前達は我の願いを一度聞き入れてくれた。我はお前等を信じよう」

 

「承りました、と。何時までにと約束は出来ないけどね」

 

「構わぬ。我にとって時はささやかな流れでしかない。お前達の寿命が尽きるまでを期限としよう。持ってきた暁には喜んで褒美を授けよう。頼んだぞ」

 

 それだけ言うと水の精霊は砕け散り、湖に小さな波紋を残しながら消えた。

 静まり返った宵闇の中、沈黙を破ったのはオーガだった。

 

「どういうつもりだ、レイヴン? 何故あの様な依頼を受けた?」

 

 怒気と言うよりも戸惑いが混じった声で尋ねるオーガ。

 そんなオーガにレイヴンは欠伸を漏らしてから、コキコキと首を鳴らしながら口を開く。

 

「あのクロムウェルはいずれ殺す存在だし、そのついでと考えれば良いじゃない」

 

「俺が聞きたいのはそんな事じゃない。いつも報酬を第一と考えたお前が、何故今回は報酬を受け取らず、更には後払い等と言う一番嫌う方法を良しとした? あの精霊に何故そこまで肩入れする?」

 

 レイヴンは問い掛けてくるオーガを知らんぷりすると仮面を再び着けてからポツリと呟いた。

 

「子供の頃の借りをね、返そうと思うんだ」

 

 それだけ口にすると、レイヴンは歩き出した。

 オーガとウロボロスは互いを見合いながら首を傾げると、レイヴンに続いて闇夜へと消えて行った。

 去っていく三人をまるで見送る様に、月明かりに紅く染まったラグドリアン湖の水面に大きな波紋が広がった。


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