人類は運命から解放された。
ユリアン達からすれば、絶望的な存在に立ち向かおうとしていたタイミングであり、肩透かしもいいところであったが、当然ながら喜ぶべきことではあった。
レディ・Sを通じてもたらされた知識は上帝に対する決定的な武器であるとともに、人類にとっての厄災でもあった。
法則レベルでの宇宙改変など、使い方を誤ればそれこそ人類が滅びかねなかった。
管理方法が定まるまでは、その知識はレディ・Sの電子頭脳の中のみに留められた。
また、この術を用いて上帝に具体的にどのように対処していくかについても要検討事項となった。
銀河各国及び新銀河連邦の首脳部は、このことに頭を悩ますようになった。
新銀河連邦の新体制は、以前の歴史と変わらなかった。
2代目主席にはルパート・ケッセルリンクが就くことになり、ヤンは本人の希望に関わらず保安機構の長官職に留任となった。
ユリアンは地球財団の総書記代理に降格となった。
ひとまず表向きのところは、〈蛇〉と地球統一政府のもたらした被害からの復旧に力が注がれることになった。
月のとある空間に、トリューニヒトとレディ・Sは潜伏していた。彼らは死んだことになっており、公には姿を現せなかった。いずれは外見を変えて外に出ることになるだろうが、今はその用意もできていなかった。
トリューニヒトはレディ・Sに声をかけた。顔に浮かない表情を浮かべていたのが気になったのである。
「レディ、まだ何か心配事があるのかい?」
レディ・Sは少し迷った後に応えた。
「世界改変の術式。その知識を得た後だと、これまで抱いていたいくつかの疑念がより深まってしまったのよ」
「ほぅ?」
トリューニヒトの表情は興味深げというよりは何かを警戒しているようだった。
「あれは本来、世界を創り出す術式と対になるものよ。……わかる?我々がいるこの世界自体が造られたものである可能性があるのよ」
「我々の生きる宇宙に造物主がいたという話か?一部の宗教家の意見が正しかったというだけだろう?別に構わないじゃないか」
「上帝の生きる世界の方が真の世界、我々の世界の方が新たに現れた紛い物の世界だとしたら?そして、今はその二つの世界が混ざり合った状態で……」
「証拠は?」
「とある歴史で、上帝の領域に我々が送り込んだ探査機が妙な信号を検出したわ」
「……どのような?」
「西暦時代の地球におけるとある独裁者の演説。その歴史においては記録として失われていたはずのものよ。そんなものが、地球から遠く離れた地で検出された理由は、今の私には一つしか思いつかない」
「話してみてくれ」
「上帝の世界にも地球、太陽系が存在した。私達の世界はその複製物に過ぎない。あるいは、上帝こそが地球人類の正統な」
トリューニヒトは彼女の言葉を遮った。
「レディ。上帝は人類とは全く別物の存在だ。それに、彼らの世界こそが複製物の可能性だってあるだろう?」
「だけど……」
トリューニヒトはかぶりを振った。
「レディ。君は守りたいものを守った。人類を守ったんだ。君はそれ以上を求めるつもりか?神にでもなるつもりか?」
トリューニヒトの声には懇願めいたものが存在した。レディが再び時空を超えた旅に出てしまうことを恐れていた。
レディ・Sにとっての分岐点がここに存在した。長い長い沈黙の後、彼女はようやく返事をした。
「そうね。私が守りたかったものはここにある。私にはそれで十分過ぎるほどね。これからは人類の行く末を見守っていくわ。あなたと共に」
トリューニヒトはほっと息を吐き、顔に笑顔を浮かべた。
「そうしよう。君の気が済むまで付き合うよ」
それがトリューニヒトの望みでもあった。
レディ・Sも、人造の女神となる運命からようやく解放されることになりそうだった。
……仮に世界の謎を解明する必要が出てきたとしてもその役割を果たすのは別の者になるだろう。
ヤン、ライアル、フレデリカ、マルガレータ……皆、過酷な運命から解き放たれた。
ユリアンもその一人のはずだった。
ユリアンは降格となったことで、少なくとも以前よりは時間の余裕のある立場となった。
しかしそれは、疎かにしていたことに向き合う必要が生じたということでもあった。
平穏を取り戻したかに見える銀河にあって、ユリアンには、いまだかつて経験したことのない試練が待ち構えていた。
……結婚式である。
最終章、これで完結です。
ちょっと長めのエピローグが続きます。
すべてが解決したというわけではなく……