宇宙暦200001年。
第二百一千年紀を迎える記念すべき年に、レイ・フォン・ラウエは新銀河連邦の主席に就任した。
かつて広く銀河に雄飛した人類は、突如出現した大敵〈上帝〉との戦いに敗れ、ついには一つの球状世界〈月〉に押し込まれるに至った。
人類は、月近傍まで押し寄せた上帝に対して防衛戦に臨んだ。その戦いは激しく、月も破壊されていくつかの塊に分裂させられたが、人類はそれでも耐えきった。伝説的な英雄達の指揮のもと、押し寄せる敵の軍勢を押し返し続け、上帝と遂に講和を結ぶに至った。
人類は月、正確には分裂した月の塊の一つの内部で生き延びる権利を得た。
それがレイの知るこれまでの人類の歴史だった。
レイは主席となる前は歴史学者であったが、五万年以上昔の話となれば、その知るところは一般の人々と大して変わらなかった。
五万年の時が経過した今、人類は灰色の天蓋に覆われた閉じた世界に生きていた。そのことに完全に慣れきってしまっていた。
人々の言葉から空という単語が失われて久しく、かつて人々の頭上を自由に飛び回り、歌声を響かせる存在があったことも既に忘れ去られていた。
高度に管理された社会の中、人類は五千万人の人口を常に維持し続けた。技術の革新も社会の変化もなく、定常的な時を刻み続けるのみである。
とはいえ、第二百一千年紀の始まりの年とあって、人々の中には少しだけ浮ついた雰囲気が存在した。
各地で区切りを祝うための記念行事が企画されていた。
レイ・フォン・ラウエも関わっていた宇宙暦二十万年史編纂事業。
地球アーカイブの復元。
月都市の十万年間の歴史を辿るツアー。
都市中心部の再開発計画。
この時代においても僅かに残っていた宗教組織は、これを気に信者獲得、勢力拡大に動いていた。
再生地球教団は、人々の歴史への関心の高まりをもはや影も形もなくなった地球への信仰に結びつけようとした。
アッシュビー教団は、この記念の年にアッシュビー霊廟が十万年振りに開かれ、伝説の英雄キャプテン・アッシュビーが再臨するのだと信じ、積極的に宣伝活動を行なった。
オーディン教徒は主神ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの事績、特に復活の奇蹟を人々に広めた。彼らにとってルドルフは、悪弊に染まった銀河連邦が崩壊し、新銀河連邦が誕生するまでに本来は長く続くはずであった暗黒時代をわずか五百年に短縮した英雄だった。かつてゴールデンバウム王朝に属した人々を由来とする彼らは、太古の神であるオーディンと、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムを同一視するようにもなっていた。
要するに人類社会はいつもより少しだけ活気に溢れていたのである。
そのような世間の雰囲気こそが、人々が古き家の出であるレイを代表者に選ぶ大きな要因となったのだとも言えた。
彼はお祭の準備に浮かれる世の中を尻目に、たった一人で月深部にある銀河保安機構長官室を訪れていた。
通信技術の進歩したこの時代においても、直接会うという行為には一定の意味があった。
自らの立場からすればむしろ相手に出向いてもらう方が正しいのかもしれなかったが、相手が伝説上の人物であることを思えば、自らが足を運ぶ方が適切に思えたのだった。
深部とはいえ、その場所はレイ達が普段生活する居住区画から直線距離にして百km程しか離れてはいなかった。
レイは移動のために長距離エレベータに乗ったが、所要時間は30分程度だった。
レイはその間に今も趣味として続けている歴史学研究の資料を読むことにした。
「
新銀河連邦が成立しなかったあり得ない歴史について、想像を働かせて書かれた「もしもの物語」。しかし、レイとしてはそれが書かれた理由が気になっていたのである。ましてそれがその時代一流の歴史学の権威の手が加わったものとなれば。
レイは閲覧申請を何度も行なっていたのだが、その度に行政機構によって拒絶されて来た。主席となった今となってようやく読むことができるようになるとは皮肉極まりない話である。
「星を見ておいでですか、閣下」
「ああ、星はいい」
「銀河英雄伝説」の冒頭の場面にある、ジークフリード帝とラインハルト帝のこの会話が、レイには妙に気になっていた。
大多数の市民はともかく、歴史学者であったレイは「星」というものが存在することを知っていた。
しかし、光を放つだけの点である「星」の一体何がよいのか。レイにはさっぱりわからなかった。一度実物を見ればわかるのだろうが、一般市民に〈月〉の外部を観る権限はなかった。
今のレイにはあるのだが、いまだにその時間は取れていなかった。「星」の良さについて、これから訪ねる人物達に質問してもいいのかもしれないと彼は思った。
そのようなことを考えている間にエレベータは〈月〉の深部に着いた。
長官室の前には、薄い紅茶色の髪を持った女性と黒い肌を持った大柄な男が護衛として立っていた。
レイはその二人に興味深げな視線を向けられたが、ボディチェックも特に受けることなく部屋に通された。
長官室では二人の人物が彼を待っていた。
銀河保安機構長官ユリアン・フォン・ミンツ、同宇宙艦隊司令長官マルガレータ・フォン・ヘルクスハイマーの二人である。
自らをアンドロイド化して上帝と戦った人類救済の英雄達。今でも「あのユリアン」と言えば、ユリアン・フォン・ミンツを指していたし、「マルガレータのような」とは美しくも勇ましい女傑を意味する表現だった。
まるで立体映画の世界から抜け出てきたかのような美男と美女の組み合わせに、レイ・フォン・ラウエは気後れを覚えた。
彼は先祖帰りと言われる黒髪を持っている以外は、ハンサムと言われることも無いわけではない程度の凡庸な容姿の持ち主だった。
相手がアンドロイドであることは彼もよく知っていた。しかし、その姿からは彼らが人造の産物であることを示すものは見出せなかった。
しかしながら、通信卓と、通信スクリーン、椅子以外は何も置かれていない殺風景な長官室の様子に、彼らが一般的な人間の感覚から大きく逸脱した存在となっているのではないかという疑念が彼の中に湧き上がって来た。
ユリアンは、レイの内心の疑念を払拭するかのように柔和な笑みを浮かべた。
「主席、わざわざご足労頂き申し訳ありません。まずはお座りください」
「ありがとうございます」
レイは、促されるままに何の装飾もない機能性だけの椅子に座った。
ユリアンとマルガレータも着席した。
「挨拶ということであれば我々から出向きましたものを」
ユリアンに対してレイは慌てて言葉を返した。
「いいえとんでもない。人類の守護者たるあなた方に出向いて頂くなど……」
ユリアンはわずかに表情を変えた。
「民主主義を標榜する新銀河連邦においてはシビリアン・コントロールが原則です。あなたは選挙で選ばれた五千万人の人民の代表。卑下なさるべきではない。まして、相手がもはや名ばかりの軍事組織の代表とあってはね」
「そう、ですね」
答えつつも、レイは自らが偉いなどとは少しも思えないのだった。
かつて銀河を広く統治していたはずの新銀河連邦。その主席の座がお飾りとなって既に久しい。
法律上の行政の長は確かに彼であったが、行政の方針はここにいるユリアン、マルガレータを含めた「長老会議」が決めており、さらにその実務は自動機械群が立案・実行するようになっていた。彼はそれを追認するだけの存在なのである。
一方のユリアン率いる銀河保安機構も、その名に反して、今は数千人規模の小さな組織に過ぎなくなっている。そのはずではあるのだが……
レイは困ったような笑みを浮かべ、無造作に頭をかいた。
その仕草を見て、ユリアンが表情を緩めた。マルガレータも同様だった。
レイは不審に思わざるを得なかった。
「何か?」
ユリアンがそれに対して回答を返した。
「失礼。あなたの遠い先祖のことを思い出したのですよ。古の名将ヤン・ウェンリーのことを」
古代の新銀河連邦設立の英雄の一人ヤン・ウェンリーの血を継いでいること、古来の名家ラウエ家の後継者であること。そしてもう一つのことが、人々をして彼を主席の座にまつり立てる原因となったのだ。
「そんなに似ていますか?」
ユリアンは何かを懐かしむような顔を見せた。レイは相手がいまだに人間としての感情を有しているのだとこの時ようやく思えた。
「そうですね。黒髪以外、容姿は似ていないが、雰囲気や仕草、喋り方はよく似ています。メグもそう思うだろう?」
ユリアン・フォン・ミンツに愛称で名前を呼ばれた女性、伝説の中で彼の妻の一人としても知られるマルガレータ・フォン・ヘルクスハイマーは即座に頷いた。
「そうだな。よく似ていらっしゃる。だが、ユリアン。お前には似ていないな。サビーにも、似てないなあ。いや、失礼しました」
レイ・フォン・ラウエにはユリアンの血も流れていた。マルガレータの血は継いでいない。恋多き男として浮き名が伝わるユリアンとサビーネの子供の子孫だった。そのことも彼が主席に推された要因である。彼にとっては迷惑な話だったが。
それで、とユリアンは表情を戻した。
「本日はどういった用件でここに?」
レイは自らの意志で来たにも関わらず既に帰りたくなっていた。
「勿論、挨拶ですよ」
「それだけ?」
ユリアンは、レイの返事を遮った。
「主席、誤魔化しは無用ですよ。主席ともあろう立場の人が護衛も連れずにここに来たということは、内密に話したいことがあるということでしょう。あなたとの会話は、ヤン・ウェンリーと話をしているようで楽しくもあるが、お互い忙しい立場でもあるのだから」
レイは誤魔化すことができないことを悟ってため息をついた。
「その通りです。質問があってここに来たのです」
ユリアンはその様子を興味深そうに見つめながら尋ねた。
「何でしょうか?私に答えられることでしょうか?」
「ええ。あなたにしか、そしてこのような場でしかきっとあなたは答えてくださらないでしょうね」
「へえ?何だろうね」
急にユリアンの口調が変わった。
動揺を悟られまいと、レイは無表情を装ってその言葉を放った。
「人類は、もうすぐ滅びるのでしょう?」
沈黙を破ったのは、ユリアンだった。
彼は声をあげて笑ったのである。
「ユリアン」
面食らうレイのことを慮ったのか、マルガレータがユリアンを窘めた。
ユリアンは笑いを収めた。
「失礼。久々に驚かせてもらったよ。流石はヤン・ウェンリーの子孫と言ったところかな」
ユリアンは尋ねた。旧来の親友と話すかのような気安さで。
「どうして、そう思ったんだい?」
レイはユリアンの豹変に戸惑ったが、答えないわけにはいかなかった。
「自動化されている行政機構のエネルギーの使用状況を調べてみたのです。すると、あなた方、銀河保安機構がこの月で生み出されるエネルギーの95%をつかっていることがわかりました」
「それはすごい」
ユリアンは軽い調子で応じた。
レイは気にしないことに決めた。
「そして、その使用量の記録を辿ってみるとこの十年で急激に増加している。あなた方がエネルギーを使うとすれば、それは人類防衛のためです」
「……どんな敵に対して人類を防衛すると言うんだい?」
「ここからはあくまで私の憶測ですが、その敵は上帝ではないでしょうか?」
「上帝は一度撃退している」
「私は歴史を研究して来た人間です。どうにもその前後の歴史の記述に比べ、その辺りのことだけが妙に曖昧な記録しか残っていないのです」
「大変な時代だったからね。記録をとる間もなかったし、あっても破壊されてしまったのだろう。しかし、撃退したのは確かだ」
「……一度撃退しても戦力を増してまた来るのでしょう。そういう相手なのでしょう?だからこそ人類は銀河を失った」
「講和したんだよ」
「講和など長く続くものではないことは人類の歴史を学んでみれば明らかです。それが特に著しい戦力の不均衡を伴っていれば尚更です。そもそも講和できたのかどうかさえ怪しい」
「僕が嘘をついていると?」
ユリアンの声に剣呑なものが混ざった。
どちらも立体動画と地球アーカイブでしか見たことはなかったが。この頃の人々が目で見ることのできる生き物など、月鼠と銀月王ぐらいしかいなかったのだ。
レイはユリアンの不機嫌さが見かけだけのものである可能性に賭けていた。ユリアンが彼を害するつもりなら元々防ぐ手立てはないのだから、それ以外に選択肢はなかった。
「その通りです。人々に最後の日まで安息の日々を過ごさせるために」
場に再び沈黙が落ちた。
沈黙を破ったのはまたしてもユリアンだった。
「参った。降参だ。その異常な洞察力、やっぱりヤン・ウェンリーの子孫だと言いたくなるよ」
ユリアンの表情はどこかしら嬉しそうだった。
「では、認めるのですね」
「認めるよ。人類は危機の中にある。上帝と講和なんて結べたことはなかった。一度あった襲来を多大な犠牲を払って切り抜けたのは確かだ。それでも人類にできたのは我々が滅んだように見せかけて上帝から姿を隠すことだけだった」
「やはり、そうなのですか」
レイはため息をついた。当たって欲しくない想像が当たってしまったことに対して。
「銀河保安機構のエネルギー使用量を知ることができるのは主席のみ。それを実行して、異常な使用量の用途について僕のところまで訊きに来たものは、この五万年に三人しかいなかったよ」
ユリアンの視線は興味深げだった。
「その量が最近になって急激に増えたのは、一体どうしてです?」
「見つかったんだよ。もうすぐこの月は上帝の大軍に包囲される。我々は足掻くつもりだけど、それでも長くは保たないだろうね」
「いつですか?いつ上帝は月に襲来するのですか?」
「30年後だ。時間はもうない」
「私にこのことを話してくれた理由は?」
「協力してほしい」
「協力できることがあるのですか?」
ユリアンは頷いた。
「流石に上帝の軍勢が、この月の内部に侵入して来たら人々も気付くだろう。その際に人々がパニックを起こさないように取り計らってもらいたい。どうせ滅びるにしてもその最後はなるべく平穏なものであってほしい」
レイは再び困ったような顔を見せた。彼は自らが主席となり、ここに来るに至った今までの経緯を思い出していた。
「最初からそのつもりだったんですね。長老会議を通じて私を主席に推した上で、今回のことに気付くように仕向けた」
「さて。どうだろうね?」
彼個人のことはそれで済む話であるのかもしれない。しかし、人類全体のことはその程度では全く済まなかった。
よりにもよって人類滅亡の瀬戸際で大役を務める羽目になった自らの運命を彼は呪った。
にも関わらず、既に今後の算段を考え始めていた。それこそが彼がヤンの血を受け継いでいることの証左なのかもしれなかった。