レディ・Sは上帝の情報を得た後も歴史改変を続けた。
既に人類の運命には絶望しかけていたが、それでも動かずにはいられなかった。立ち止まるには背負い込んだ物が大き過ぎた。
明確な展望もなく、半ば惰性のように干渉を加えつつ、新銀河帝国成立までの歴史を繰り返した。
その度にいくつかの変化は起きた。
例えば、フェザーン自治領主の性別が変わったこともあった。歴史の流れは結果は同じだったが。
展望は開けなかったが、レディ・S個人には大きな出来事があった。
レディ・Sはある時、新銀河帝国に議会を設けて早期に立憲君主制に移行させる試みを促そうとトリューニヒトに接触した。
レディ・Sは対面するなり、自らに変化が生じたことを悟った。
遥か以前から、それこそ何十億年も前から彼を知っていたような感覚に陥ったのである。
トリューニヒトの方も同様だった。
理由はわからなかった。
レディ・Sを構成することになった人格に存在した何らかの因子が影響していたのかもしれない。
ともかく、二人は恋におちた。
結末は変わらなかったが、この時点からトリューニヒトの存在は彼女にとって、歴史を繰り返す上での一つの心の支えとなった。
レディ・Sによる歴史改変は、結果に繋がらないまま繰り返された。
何度目の改変なのか、数えることもできなくなった頃にそれは起きた。
ブルース・アッシュビーが第二次ティアマト会戦で死なない歴史が出現したのである。
ブルース・アッシュビーを生き延びさせる試みはレディ・Sが以前に何度も行なったことだった。しかしいずれの試みも実を結ばず、彼女は検討を諦めていた。
それが意図せずに急に出現していた。
その歴史の推移はレディ・Sにとっても非常に興味深いものだった。
ブルース・アッシュビーによる帝国領侵攻「大解放戦争」、その結果出現した第四の勢力、独立諸侯連合。
複雑になった力関係の中、歴史は紡がれていった。他の歴史では存在しない者達や道半ばで倒れた者達がその歴史を動かしていた。
しかしその歴史は安定していなかった。本来は死ぬはずだったアッシュビーが生き延びている、そのこと自体が不安定である要因だった。
時が経つごとに不安定性が増し、正しい歴史に戻ろうと時空が不安定化し始めるのである。
そのような現象はレディ・Sにとっても初めてのことだった。
そして、レディ・Sの干渉によって歴史は鋭敏に変化した。まるで歴史の収束性が存在しないかのように。この歴史が不安定であることが理由なのかもしれなかった。
干渉に対する鋭敏性、他の歴史には存在しない者達、不安定な時空……
歴史の収束性を、上帝によってもたらされる人類の滅亡という運命を、この歴史の上であれば打ち破れるのではないか?
レディ・Sは、この歴史に望みをかけた。もはや理屈ではなく願望だった。
そのために、レディ・Sは巨大電子頭脳のコントロールを外れることを決心した。
レディ・Sは最初に歴史を安定化させるべく奮闘した。
しかし、何度ブルース・アッシュビーを生き延びさせようとしてもその試みはすべて失敗した。以前試した時と同様にアッシュビーは死ぬように歴史が収束するのである。
レディ・Sは非常の策を思いついた。すなわち、未来においてブルース・アッシュビーのクローンを作り出し、アッシュビーが死ぬタイミングで成り代わらせることを。
レディ・Sは、自らの知識に基づく航時機の製造と使用を巨大電子頭脳に求めた。
巨大電子頭脳は殆どの歴史でレディ・Sに対して航時機によるタイムワープを許可していなかったが、歴史が変化しようとしている状況を知って、危機感と、もう一つの理由から今回は許可した。
巨大電子頭脳が許可したのは60年ほどの一度きりの時間遡行だったが、レディ・Sにはそれで十分だった。意図せぬ結果となったらその情報を今からタイムワープしようとする自分自身に伝えればいいからである。
タイムワープした時点でレディ・Sは巨大電子頭脳の頸木を外れた。
既にその時代には過去のレディ・Sが存在したため、巨大電子頭脳の監視は未来から来たレディ・Sに及んでいなかったのである。
レディ・Sは束の間の解放期間を利用して様々な工作を行なった。
彼女が将来において巨大電子頭脳のコントロールを外れるために。
そしてもう一つ、ユリアン・ミンツとマルガレータ・フォン・ヘルクスハイマーを結びつけるために。
「僕たちをですか?」
急に名前を出され、ユリアンとマルガレータは顔を見合わせた。
「ええ、そうよ」
ヤンは悟った。
「あの航時機のトラブルは、やはりあなたの仕業だったのか!?」
「そうね。あなたには災難だったわね。何がとは言わない方がよいのでしょうけど」
「……」
あの時のことをここで詳しく語る気には流石のヤンもならなかった。
マルガレータは赤面しつつ、レディ・Sに問いかけた。
「何故あなたが私達の仲人のような真似をしたんだ?」
レディ・Sはその問いに憤然とした。
「だってあなた達、全然くっつかないんだもの。お互い好き合っているのに、一体何なの!?ユリアンは好きな女の子に意地悪をしたがる男の子みたいなことしかしないし、その癖多情だし。マルガレータはマルガレータで拒絶してばかり。私があなた達をくっつけるのに何度歴史をやり直したと思っているの!?」
レディ・Sが感情を露わにしたこと、そしてその内容に、二人は戸惑うしかなかった。
マルガレータが顔を赤くしたまま反問した。
「いや、しかし、どうして?私がユリアンと……その、子をなしたせいで、ユリアンは複雑な立場になってしまった。私自身は後悔はしていないが、ユリアンにとって今の状況は本当によかったのだろうかと未だに思うことはある。だから……決してユリアンの姉としての親心というわけではないのだろう?」
「この歴史には一つ問題があったのよ」
「問題?」
「精神旅行の適合者が存在しなかったことよ。適合者が存在しなければ、破局後の未来においてやり直しができなくなる可能性がある。だから私は破局前に適合者を確保しておくことにしているのだけど」
「どうしていなかったんだ?」
「偶然としかいいようがないわね。元々適合者が生まれる確率は極端に低い。四百億人に一人いればいい方よ。殆どの歴史では同じ親の組み合わせから、適合者が出現していたのだけど、この歴史ではその組み合わせが悉く実現していなかった。相手がそもそも存在しなかったり、早死にしたりしていて、ね。巨大電子頭脳が私に航時機の製造を認めた理由の一つでもあるわ」
「クローン技術で適合者を確保することはできなかったのか?今更倫理感を持ち出したりはしないのだろう?」
「適合者からクローンをつくったり、適合者を生むはずの親同士から受精卵を人工的につくることを試したことはあるけど駄目だったわ。原因について確証はないのだけど、歴史の収束性が効いている可能性は高いわね」
「どういうことだ?」
「父親の精子と母親の卵子、その組み合わせは無数に存在する。受精後も受精卵、そして胎児は環境変化の影響を大きく受ける。にも関わらず、殆どの歴史では大きな歴史改変を施さない限り、同一と言える人物がこの世に出現していた。これが歴史の収束性の結果でない訳がない。でもきっとクローンには歴史の収束性が働かなくて適合者が生まれないのね」
ユリアンが口を挟んだ。
「マルガレータと僕の組み合わせなら適合者が生まれる、そういうことですね」
「そうよ。あなた達の娘が適合者なのよ」
マルガレータはレディ・Sが、自分を拉致した理由、娘のことを気にかけていた理由を理解した。自らの娘に待ち受ける運命のことも。
マルガレータの思いを知ってか知らずか、レディ・Sは彼女に語りかけた。
「あなたは本来ならもう少し感激するべきよ」
「ユリアンとの仲を取り持ってくれたことを?それともまさか、適合者を娘に持ったことを?」
マルガレータの声色は、嵐の前の凪を思わせた。
レディ・Sは首を横に振った。
「あなたは多くの歴史では存在すらしていなかった。新銀河帝国が成立する歴史に絞ったとしても、よ。あなたが存在した数少ない歴史においても、殆どの場合はあなたとユリアンは出会わずじまい。会ったとしても、結ばれることは殆どなかった。だからこの歴史はあなたにとってとても貴重なのよ。存在して、かつ、好きな人と結ばれるという点でね」
マルガレータは自らに関する重大な情報を前に言葉を継げなくなった。
マルガレータの様子にレディ・Sもフォローの必要を感じたようだった。
「皆無とは言わないわ。だからこそ私はあなた達の娘が適合者になると知っていたのだし」
ユリアンはマルガレータの手をそっと握った。
「そうだとすれば、この歴史は僕にとっても貴重ですよ」
「あなたにとっては特に苦労の多い歴史だと思うのだけど」
「だとしても、メグと出会えて、さらには他に三人も素晴らしい女性達にも出会えて結婚することができるのだから、僕はこの歴史でよかったと思います」
マルガレータを含め、そこにいた多くの人が驚きを示した。
今まで自らとその人生に対して負の感情を抱いているように見えたユリアンが、それを肯定する発言をしたことに。
様々な経験を経てユリアンが変わりつつあることを、皆感じ取った。
「惚気ているわね、ユリアン。でも、そう応えてくれるなら私も苦労した甲斐があったと言えるのかもね」
その言葉には、レディ・Sとしてだけでなく、ユリアンの姉としての心情が少し込められていたかもしれない。
レディ・Sは話を戻した。
「過去でデグスビイと共にライアル・アッシュビーがブルース・アッシュビーに成り替われるように状況を整え、ユリアンとマルガレータの仲を取り持った。
あなた達がこの時代に帰還した後、フレデリカにライアル・アッシュビーを生存させる方法を教えた。また、ライアル・アッシュビーを生み出すためにエンダー・スクールが設立されるよう誘導した。
それから、しばらく潜伏して下準備を行なった後、ヨブの前に姿を現して恋人となり、「戦死」して姿を消した。
その後、「私」が航時機で過去に戻り、二重に存在しなくなったタイミングで自動的に地球統一政府の制御下に戻った。
今回の試行では、ヨブにはその時点で真相を知ってもらうわけにはいかなかったから悲しませてしまうことになったけど、二人の間で決めた暗号は、この時代で地球統一政府に知られずにヨブと情報交換するのに役に立った。後はあなた達の知っている通りよ」
ヤンが尋ねた。
「〈蛇〉もあなたの仕業なのか?」
「いいえ。あれは人類領域の拡大によって起こるべくして起きた。あの事件をその後の展開のために利用したことは否定しないけど」
「この話を我々にした目的は?我々を絶望させることが目的ではないんだろう?」
「上帝への対応策を話し合うためよ」
「我々と?」
「ええ。収束性の弱いこの歴史であれば、人類の運命を変えられるかもしれない。そしてこの場には、私が繰り返した歴史の中でも特異というべき存在が複数人同時にいる」
「特異な存在?」
「まずは、ヤン・ウェンリー、あなたよ。あなたはいずれの歴史でも軍人になりさえすれば、不敗の名将という名声を得ていた。多くの歴史では悲運の死を遂げたこともあって伝説化さえしていた。あなたの死もアッシュビーのそれと同様に歴史の収束の一部で、他の歴史では回避できなかったのだけど、この歴史では違った。貴方なら負けない方策を考えつくかもしれないと私は期待した」
「光栄と言うべきなんだろうか。ちなみに、歴史家として大成した歴史はないのかな?」
「ないわね」
にべもない返答に、項垂れるヤンを置いてレディ・Sは話を続けた。
「本当は常勝たる獅子帝ラインハルトも生き残らせることができたらよかったのだけど、そこまではこの歴史では無理だった」
消沈しているヤンの代わりにライアルが尋ねた。
「他には?」
「二人目は、ヨブ・トリューニヒト。どの歴史でも、どのような政治局面に置かれてもも生き延びるそのしぶとさはちょっとあり得ないレベルよ。とはいえ、彼も他の歴史では突発的な事態で死ぬことを回避できなかったのだけど」
トリューニヒトは苦笑した。
「恋人の言葉とはとても思えないが、誉め言葉と受け取っておくよ」
「それからユリアン・ミンツ。上帝に対する抵抗者。多くの歴史で、その前から良くも悪くも大きな足跡を残していたけど、この歴史では極め付きね。周りの環境に影響されながら成長していく貴方は今どんな存在になっているのかしらね」
レディ・Sは僅かに口元を綻ばせてから続けた。
「最後にライアル・アッシュビー。あなたはよくわからないわ」
その答えはライアルを困惑させた。
「わからない、とは何だ?」
「この歴史はあなたの存在を前提としている。それだけに、あなたが最初にどこからやって来たのかよく分からないのよ。真に特異存在と言うべきね」
「それは褒められているのか?」
レディ・Sはため息をついた。
「あなたが動くと妙なことが起こるのよ。あなたのせいで私の計画に修正が必要になったことは二度や三度ではないわ。その癖必須人物だから……フレデリカが手綱を握ってくれているから何とかなっているものの。だけどそれだけに人類の運命にも影響を与えられるかもしれない」
「期待されていると思うことにするか」
「あとは、ここにはいないけど、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムのクローンであるエルウィン・ヨーゼフを加えてもいいわね。これだけの特異存在が集結している歴史はまず存在しない。だから、本当に期待しているのよ」
レディ・Sの目には、僅かばかりの期待と、それを裏切られることへの恐れとが同居していた。