三者の人格の融合物と化していた彼女は、最早ヒルデガルド・シュニッツラーではなかった。
彼女は、北欧神話における時の女神の一柱、未来を司るスクルドにあやかってレディ・Sと名乗ることにした。それは人格が融合した三人の共通のイニシャルでもあった。
レディ・Sは、自らの知識によって老いる前に電子頭脳に自らを移し替え、航時機を開発して再び歴史に干渉すべく動いた。
未だ正体の明らかでない上帝の脅威から人類を生き残らせるために。
彼女は多くの試みを行なった。
先の歴史で人類を支配していた一族の指導者に接触し、上帝のことを教え、光速航行に対応した軍事技術の開発を進めさせた。
その指導者は自らの「帝国」の統治に飽きており、先の歴史ではそれが一族自壊の引き金となったが、彼は上帝のことを知って統治意欲を取り戻した。
数百年後も一族による人類支配は継続した。
一族は、三大技術無効化による破局にすら対応して帝国を維持し、上帝の侵略に対する防衛を試みた。
そして……
無惨な敗北を喫した。物量が全く違ったのだ。以前はそのことにすら気づけていなかった。
レディ・Sは念のため目星をつけていた女性に記憶と人格を移植し、再度の精神旅行を行なった。その女性は一族の一人であり、義務としてそれを受け入れた。
レディ・Sはアプローチを変えることにした。
そのうちの一つは、太陽系内において人類を発展させる試みだった。
レディ・Sは自らの科学技術の知識を故意に流出させ、木星を材料とした多数の人工惑星を太陽系内に構築させた。
レディ・Sの干渉がなければこのような不自然な世界は生まれなかっただろう。
人類は、大量の居住可能世界を身近に得たことで恒星間世界への雄飛を思いとどまり、太陽系内の開発に邁進した。
人工惑星は独立し、相争うようになった。
レディ・Sの目論見は太陽系内の群雄割拠の中で、人類の軍事技術を、超光速を前提としない形で極限まで発展させることだった。
太陽系内に留まり、ただ一つの恒星を共有する限りは恒星破壊砲による人類全滅も起きないし、地球のポールシフトの被害も、別の居住世界が存在することで限定的となる。
その上で光速の枠内で発展させた軍事技術で上帝に対抗しようとしたのだった。
しかし、レディ・Sの考えは甘かった。人類の争いは多数の惑星を破壊し、太陽の活動にすら影響を与えた。
太陽フレアの軍事利用を考えた勢力が出現し、その暴走によって人類は太陽系内で滅びを迎えた。
また別の試みとして、レディ・Sは人類の改変に取り組んだ。
まず、核戦争後の地球に干渉して中世的世界を作り上げた。その上で限られた人々に科学の知識を魔道の一種として教え、結社をつくりあげた。
そして結社の力によって、人類が別の歴史で出会った二つの生命体、ストーンの精神干渉能力とスウェルの強靭な生命力を有した人造人間をつくり、中世的世界にそれを解き放った。
人造人間は一大帝国を築き上げ、その統治は千年に及んだ。人々は徐々に人造人間の因子の侵食を受けた。人々の一部は重度の侵食により、化け物というべき外見と憎悪に満ちた心を持った新たな存在に生まれ変わった。
レディ・Sは自らの過ちを悟った。人類を救うはずが、その人類自体を別物に変貌させつつあったのだから。
レディ・Sは歴史に干渉して、英雄的人物に協力して人造人間を打ち倒した。その後、やり直しのために航時機で過去に戻った。
レディ・Sは思いついたアプローチを試し続けた。
途中で失敗に気づけば航時機で過去に戻った。
上帝に対抗できる可能性を感じれば、破局の時期まで歴史を追い、適合者を見つけて精神旅行で過去に戻った。
時には失敗した歴史の人々に、自らの正体を明かして次に試すべきアプローチに関して意見を求めることもした。
繰り返しの過程でレディ・Sは、様々な記憶と人格の混成物と成り果てた。
それでも人類生存という目的だけは忘れなかった。忘れられなかった。
人格の統一と意志を保つために、記憶と人格は整理され、多くの部分が切り捨てられた。
試行回数も数万回、数十万回を超え、……正確な回数も曖昧になった頃に、それは起きた。
その歴史は、以前にレディ・Sが試した歴史と似ていた。
全面核戦争のエネルギーによるポールシフトの停止、地球上での統一政体、地球統一政府の成立、恒星世界への進出、そこまでは同じだった。
地球統一政府は、植民地世界と対立し、内乱状態となり、やがて新たな統一政体である銀河連邦が出現した。
銀河連邦はオリオン腕の広い領域を支配するようになったが、やがて停滞を迎えた。このまま衰退していくかに見えた銀河連邦であったが、そこに一人の男が現れた。
ルドルフ・フォン・ゴールデンバウム。
彼の登場により、停滞は拭い去られるかに思われたが、その期待は裏切られた。
成立した銀河帝国は擬似的な中世的世界であり、安定と引き換えに進歩を失っていた。
レディ・Sは再度歴史に干渉した。
人類の、特に科学技術の発展を促すために、銀河帝国の対抗勢力を生み出そうとしたのだ。
アーレ・ハイネセンという一人の青年がその役に選ばれた。
レディ・Sは真の目的を隠し、アーレ・ハイネセンに接触し、彼を導いた。
彼の、アルタイル第七惑星からの脱出、シリウス星系への潜伏と船団建設、その後の長征にも彼女は付き合った。
船団建設への協力を依頼するために、彼女はシリウスでアルマリック・シムスンとも接触した。
彼はレディ・Sの訪問に驚き、警戒しつつもアーレ・ハイネセンに協力した。
アーレ・ハイネセンは長征の途中で事故で死んだ。正確には、事故から船団を守ろうとしての死だった。
レディ・Sは彼に多少の情が湧いており、航時機で過去に戻り、彼に対応を他の者に任せるように伝えた。
しかし、彼はそうしなかった。彼がやらなければ他の者が犠牲になるだけだったから。
ハイネセンはレディ・Sにこれまでの協力に対する感謝の言葉を伝えた。
レディ・Sは死を決したハイネセンに、自らの真の目的を告白した。
ハイネセンは無論驚いたが、彼女の話を彼は信じた。
そして、伝えた。
「闇が濃くなるのは、夜が明ける直前であればこそだ。我々の旅も、君の旅も。君が報われる日が来るように僕は祈るよ」
ハイネセンは死んだ。
レディ・Sは自らも意外なほどの喪失感を覚えた。そのような感情が自らにまだ起こり得るとは、この時のレディ・Sには信じられなかった。
レディ・Sは、ハイネセンの友人であったグエン・キム・ホアに協力して旅を続けた。
ついて新天地に到達した彼らは、自由惑星同盟という名の新国家をつくった。
自由惑星同盟は帝国の影に怯えつつも発展を続けた。
やがて、自由惑星同盟は銀河帝国と接触し、両者は戦争状態となった。
戦争は長く続いた。
擬似的な休戦状態が生まれることもあったが長くは続かなかった。
レディ・Sは、継続する争いの裏に地球統一政府の残党と呼ぶべき存在がいるのに気づいたが、放置することにした。
この歴史における二勢力の戦争は、狭い回廊を介した特殊なものとなっており、恒星破壊砲による全滅戦争には繋がりそうになかったからである。
レディ・Sはそれよりも、二大勢力の長期抗争の中での軍事技術の発展と軍拡に期待をかけた。
あるいはそれによって、上帝に対抗できるかもしれない、と。
地球統一政府残党が実施したゲノム改変による出産成功率の低下と、長期の戦争状態によって銀河人口は減少していったが、レディ・Sはそれすらも許容した。
多数の将星が現れては散っていった。ブルース・アッシュビーという名の特異な才能を持った英雄が彼女の目を引いたこともあったが、彼も結局は歴史を動かす前に退場することになった。
二大勢力の対立は頂点に達し、そこに歴史を画する二人の英雄が生まれた。
すなわち、ラインハルト・フォン・ローエングラムとヤン・ウェンリー。
幾多の戦いを経て、銀河はラインハルト・フォン・ローエングラムにより新銀河帝国として統一された。
平和の中で軍縮が進むことを避けるため、レディ・Sは多少の干渉を行なった。
いくつかの内乱を引き起こすために。
特に大きな干渉は、地球教団の残党の存在と、さらには地球教団を隠れ蓑にしていた地球統一政府残党の存在を、明るみにすることだった。
太陽系を中心とした大規模な乱が起き、新銀河帝国は大規模な討伐軍を組織して派遣した。
それでも、その鎮圧には10年の時を要した。
相次ぐ内乱を、摂政たるヒルデガルドと二代目皇帝アレクサンデルの手腕と器量によって新銀河帝国は乗り越えた。
新銀河帝国は尚武の気風と大規模な軍事力を保ったまま、時を刻んでいった。
レディ・Sは早期に、偶然かつての自らと同じ名を持つ摂政ヒルデガルドと皇帝アレクサンデルに接触し、上帝の存在と対処の必要性を教えていた。
レディ・Sは侍女としてアレクサンデルに仕え、そのうちに求婚を受けた。
レディ・Sがアンドロイドであり、永い時を経て来てたことを知っていても尚である。
母親が完璧過ぎたせいか、あるいは父親の性格を譲り受けたのか、彼は一般的な貴族令嬢などには興味を抱くことができなかったのである。
レディ・Sは丁重に断った。アレクサンデルのことを嫌っていたわけではないが、恋愛などというものは自らには無縁のことだと思っていたし、ローエングラム朝の断絶は望んでいなかったためである。
アレクサンデルもそれを受け入れた。
アレクサンデルはその後、旧同盟領たるハイネセン自治区出身の、亜麻色の髪と青紫色の瞳を持つ女性を妃に迎え、男児と女児を一人ずつもうけた。
その女性が早逝した後も、アレクサンデルはしばらく次の皇后を迎えなかった。
アレクサンデル帝の治世も30年を超えた。
その間には様々なことが起きた。例えば、彼の友にして右腕と呼ぶべき人物と対立が発生し、謀反を疑うべき事態となったこともあった。レディ・Sはその解決に奔走し、最終的に両者は和解に至った。
そして、この歴史においても人類はその時を迎えようとしていた。
そのタイミングで、アレクサンデルは改めてレディ・Sに、求婚した。
この頃にはレディ・Sもアレクサンデルに対して深い情を持つようになっていた。それが恋愛感情と言えるのかどうかはともかく、レディ・Sは、難局にあたるアレクサンデルを、より近い立場で支えることを決意したのだった。
レディ・Sは、アレクサンデルと共に、新皇后としてその時を迎えた。
新銀河帝国は三大技術喪失を乗り越えた。
やがて上帝の侵略が始まった。
侵略が最初に始まる領域は、これまでのレディ・Sの試行を通じて判明していたから、新銀河帝国は光速の制限があっても大規模な迎撃艦隊を上帝に対してさし向けることができた。
アレクサンデルは、先帝の遺訓に従って陣頭で指揮を執った。
アレクサンデルは父親譲りの軍才と王者としての器量、母親譲りの知略を駆使して、上帝の軍勢と戦った。
彼の生来の友も轡を並べて戦った。
また、先帝の遺臣も老体をおしてこの戦いに参加した。
アレクサンデル率いる新銀河帝国軍は、勝利を重ね、さらに勝利を重ねた。
そしてついに……敗北した。
人類がここまで上帝と渡り合えたことは初めてだったが、上帝の物量はそれを上回るものだった。
レディ・Sは敗北と皇帝アレクサンデル戦死の知らせを、皇太后ヒルデガルドと共に聞いた。
精神波を応用した新規の超光速通信技術を新銀河帝国は開発していたのである。
レディ・Sは再び大きな喪失感を覚えた。ハイネセンに対して感じて以来だった。
アレクサンデル帝は死を元から覚悟しており、死後の人類の指導者を既に選んでいた。
その後も人類はその指導者と共に抵抗を続けた。
レディ・Sはその指導者を支えた。
しかし、滅びは避けられなかった。
光速の制限により、人類領域の縮小は緩やかであったが、それでも侵略開始から数百年が経過した頃にはそれは次第に人類共通の認識となっていった。
彼女は、この歴史でも精神旅行の適合者を見出していた。
奇しくもそれはアレクサンデル帝の子孫だった。
レディ・Sは、再び過去に跳んだ。
この歴史と数多の英雄達のことを惜しみながら。
彼女は過去に着いた。
……ここで予想外の事態が生じた。
彼女が跳んだ先は、「人間」ではなかった。
彼女は最初から電子頭脳の中に出現したのだった。初めての事態だった。
それは、「地球統一政府」が管理していたアンドロイドの一体の中だった。
人造の女神として人類を救うべき彼女は、「地球統一政府」の管理下に置かれることになった。