レディ・Sの持つ最も古い記憶は、とある歴史、とある時代の地球におけるものである。
レディ・Sはそこでヒルデガルド・シュニッツラーという名の亜麻色の長い髪を持った少女だった。
そして彼女の時は少女のまま凍りついた。
その歴史において、人類は絶滅の瀬戸際に立たされていた。
人類は地球に残る者と宇宙に旅立つ者に別れた。
地球は極点と地軸の移動、いわゆるポールシフトと、それに伴う大規模な気候変動に見舞われ、人口は一億人まで減少した。
その一億人も、乏しい食糧を巡って争いを始め、ついには精子破壊装置なるものを使用し、制御不能となり、全ての者が生殖能力を失うに至った。
人々はこの段階でようやく総力を結集し、地球最後の建造物を構築した。その中に五百万人分の細胞を凍結して保存し、クローンによる将来の復活に僅かな望みを繋いだ。その上で宇宙に出て行った人々に救援を求めるべく通信を送った。
ヒルデガルド・シュニッツラーは志願して電子頭脳に人格を移し、宇宙から救援が来るまでの建造物の守り手にして見張りとなった。
しかし、救援は来なかった。
宇宙に出て行った人々も互いに争い、ついには最終兵器、恒星破壊砲の使用による絶滅戦争を引き起こしていた。
地球に到達したただ一人の生き残りからそのことを聞いた彼女はそれでも完全には信じなかったが、やがて恒星が破壊されたことの証拠である破滅の光が地球まで到達するに至って、その考えを変えざるを得なかった。
いつしか心の拠り所となっていたその生き残りも死んだ。
それでも彼女は地球の気候回復に一縷の望みをかけて復活の時を待ち続けた。
長い時を待ったが、それは来なかった。
それでも彼女はピラミッドを維持管理し続けた。
科学技術資料のデータ欠損を確認していた彼女は、ある時、そこに航時技術の基礎理論を発見した。
彼女に一つの考えが生まれた。
「タイムワープによって歴史を変える。それによって人類を存続させる」
彼女は独力で、理論に過ぎなかった航時技術を実用レベルにまで持っていった。
彼女は決して天才であったわけではないが、時間がこの時は彼女に味方した。
限られた資源で一台の航時機を完成させ、アンドロイドの身体をつくり、彼女は歴史を変える時間の旅に出た。
しかし、彼女は歴史の修復力、あるいは因果というものを甘く見ていた。
彼女は、ポールシフト直後にタイムワープし、争いを止めるように人々に働きかけた。しかし、それは無駄に終わった。
何度繰り返しても、アプローチを変えても同じだった。
彼女はこの時代での人類生存を諦め、更に過去に遡ることにした。
地軸の傾きの変化とそれによる気候変動を引き起こしたポールシフトのプロセスは、それが起きた後においては人類の理解し得るところとなっていた。
彼女は四百年前に遡った。地球残留派と宇宙進出派の二者に人類が分かれる直前に。
そこで彼女はその時代の科学者と接触し、近い将来地球に極点移動が起きることを彼らに発表させた。
これによって、老齢の者や原理的な地球主義者以外は、殆どの者が宇宙へと逃げ出すことになった。
それでも結末は同じだった。
宇宙へと進出した人類は結局二派に分かれ、争い、恒星破壊砲による絶滅を迎えることになった。
地球に残った人々は科学技術を維持できず、ポールシフトに対応できないで全滅した。
彼女はさらに時を遡った。
別の時代であれば、気候変動に対応できるのではないか?
そう考えた彼女は、極点の移動時期を宇宙時代の早期に引き起こすことを試みた。
ポールシフト自体を止めるには、破滅的な核戦争レベルのエネルギーを必要としており、難しかったが、早めるだけであれば単発の核兵器クラスの衝撃を適切なタイミングで与えればよかった。
本来の彼女であれば、自ら大量殺戮を行うような所業は行えなかっただろうが、絶望が彼女を変えていた。
彼女はさらに工夫を試みた。人類が宇宙に進出した結果は恒星の破壊による人類の絶滅に繋がった。
ならば人類を地表に閉じ込めたらどうか。
彼女は、月にいたことでポールシフトを逃れた者達を唆かし、オリンポスシステムなるものを構築させることにした。
これは一定高度に到達した飛翔体を自動で撃墜するものだった。
地球で生き残った人々は空を失った。
彼女の目論見は上手くいったといえる。
少なくとも人類を地表に閉じ込めるという点では。
月の者達が伝染病で死滅した後、人類は地表につくられた七つの都市で新たな時を刻み始めた。
しかしそれは新たな抗争の始まりだった。
人類はここでも変わらなかった。
激しくなる七都市間の争いの中で人類は大量破壊兵器の使用に踏み切った。
人類は科学技術文明を失い、暗黒時代を迎えた。
彼女は諦めず、科学技術の復興を試みた。しかしそれは魔術の一種として扱われ、広まることはなかった。
千年の時が流れ、さらに千年の時が流れ……かつての文明の記憶は神話の中に忘れ去られた。
地上においては数多の英雄が生まれ、戦い、死んでいった。騎馬民族が北方を中心に一大帝国を築き上げたこともあったが、それ以上のものにはならなかった。
再度のポールシフトは起きなかったが、地球は徐々に寒冷化していった。
人々はその中でも中世的停滞から脱することができず、ただ争いのみを生き残るための手段として戦い続けた。
全球凍結。海が凍りつき、地球上から植物と動物が死滅したその時まで。
彼女はそれを見届けて、再び過去に戻った。
異なる時代に、異なる働きかけを行なった。
……失敗した。
さらに異なる時代に働きかけを行なった。
……失敗した。
働きかけた。
……失敗した。
働きかけた。
……失敗した。
……失敗した。
失敗した。
失敗した。
失敗した。
失敗した。
失敗した。
失敗した。
失敗した。
失敗した。
失敗した。
失敗した。
失敗した。
失敗した。
失敗した。
失敗した。
失敗した。
失敗した。
まるで呪いをかけられているかのごとく、人類は死に絶えた。
彼女は、磨耗した心でなおも試行を繰り返した。
電子頭脳でなければ、既に心が壊れていただろう。
無数の試行の末に、彼女が報われる時が来た。
核兵器の大量使用、すなわち大規模核戦争のエネルギーによって地球のポールシフトを止めるという、本末転倒に近い試みを彼女が行なった時、思わぬ結果が現れた。
生き残った人類は文明を再構築し、太陽系全体に進出し、やがては恒星間世界にまで進出した。
そこで人類は複数の勢力に分かれて争いを始めた。
そのまま恒星破壊砲の使用による人類滅亡への道を辿るのかと諦観に囚われていた彼女だったが、歴史は思わぬ方向に動いた。
巨大な軍事力を保有した一族が宇宙全体を支配するようになったのである。彼らの力で国家間の争いは抑制された。
その一族はやがて自壊の時を迎え、その後には大空位時代と呼ばれる混乱が到来したが、人類はそれに留まることなく再び統一の時を迎えた。
この歴史であれば、人類は滅亡しないのではないか?
そのような希望が彼女の胸にかすかに灯った。
しかし、いつかどこかの歴史におけるヤン・ウェンリーの言葉のごとく、運命は年老いた魔女のように意地の悪い顔をしていた。
破局は突然だった。