ユリアンは月に戻り、財団と自治区の救助と復旧を、アイランズ、シェッツラー子爵らと共に進めていった。
本来であればユリアンは〈蛇〉による混乱の責任から、正式な処分が下るまで謹慎していないといけない立場であったはずだが、地球統一政府による混乱の解決の方が優先された。
アイランズは先日で守護天使が勤労意欲を使い果たしたのか、再び仕事を滞らせ、シュトライトをやきもきさせていた。
不幸中の幸いで、月の住人への被害は少なかった。銀月王による被害は発生していたが、そのターゲットがローザやシェーンコップら陸戦部隊に集中していたため、死者数は月全体で数百人程度であった。それでも、そのぐらいの死者は発生してしまったとも言える。
ユリアンは今のうちに、もう一人会っておくべき人物がいた。
ヤン・ウェンリーの妻、ローザ・フォン・ラウエだった。
ユリアンは彼女がマルガレータ達婚約者や、地球財団関係者を救ってくれたことにお礼を言うべきだった。
たとえ、シンシア・クリスティーンを殺した
ユリアンはマルガレータ同席のもと、ローザと会った。
二人の間に因縁があることは両者から聞いており、マルガレータは何事かが起きるのを心配しての同席である。
ユリアンは完璧な礼儀を保って感謝の言葉を述べた。
「この度はありがとうございました。ラウエ准将」
ローザは笑顔で返した。
「無理にお礼を言わなくてもいいんですよ。ミンツ伯。月に来ていたのは連合軍人としての任務ですし、通信室の方々を救出したのは主人、いえ、ヤン長官からの依頼ですから」
「ローザお姉様、そんなこと言わないで……」
ローザは口を挟もうとしたマルガレータを手で制した。
「あなたは私のこと、憎んでいるのでしょう?家族と思っていた人を殺した私を」
その言葉はユリアンの記憶を刺激した。
「あれは戦争でした。仕方のないことだと理解しています」
「本当にそう思っていますか?」
「正直憎んでいないと言えば嘘になります。しかし感謝の気持ちも本当なんです」
ローザは笑顔を崩さずに返した。
「私にもね。主人を殺そうとしたあなたを許しがたく思う気持ちはあるんですよ」
「お姉様!」
まるで自分の身代わりのように動揺するマルガレータを、ユリアンは落ち着かせて言った。
「当然だと思います」
「そんな私にあなたはお礼を言うの?」
ユリアンは心に渦巻くものを感じていた。しかし、いくらかの経験を経て、それを多少なりと制御する術を身につけていた。それはユリアンの成長でもあった。
「ラウエ准将、あなたは僕の大切な人達の恩人でもあります。受け入れてもらえないにしても、感謝だけはさせてください」
不意にローザの雰囲気が柔らかいものに、変わった。
「意地悪を言ってごめんなさい。フェザーンで会った頃はあんなに幼かったのに、立派になったのね」
「……もしかして、試したんですか?」
「ええ、ごめんなさい。メグは妹みたいなものだからあなたに任せていいのか気になったのよ。それと、あなたがどんな大人になったのか、それも気になってね」
「メグのことは幸せにします」
「ぜひそうして頂戴。シンシアさんのこと、謝るつもりはないけれど、それでも今回はあなたの家族を助ける側に立ててよかったと思っていますわ」
その言葉に、ユリアンは本心からお礼を言った。
「ありがとうございました」
それを見てローザは少しだけ寂しげに笑った。
「私のことは、いくらでも恨んでもらって構いませんからね」
その笑みを見て、ユリアンは迷っていたことを思い切って言ってみた。
「メグから聞きました。フェザーンで僕が捕虜になった後、ヤン長官と共に僕の身元引き受け人になってくれようとしていたという話を。恨みはしますが、そこまで考えて下さった人を、僕は嫌いにはなれません」
ローザはマルガレータを僅かに睨んだ。余計なことを、と言いたげだった。
「そうよ。あなたが逃亡したから実現しなかったけど、もしそうなっていたら、あなたとメグはもっと早く出会えていたかもしれないわね」
ユリアンは笑った。
「その機会を逃したのは残念です」
マルガレータはユリアンの隣で赤面していた。
その様子を見てローザは微笑んだ。
「メグ。ミンツさんと、子供と、幸せになってね。……運命が、いつかあなた達に微笑みますように」
そう言い残して去ろうとするローザをユリアンは再度引き止めた。
「ラウエ准将、いえ、ローザさん。ぜひ今度お茶会に参加して頂けませんか。〈蛇〉の一件での処分が決まってからの話ですけど」
ローザも、ユリアンも紅茶を趣味以上のものとしていた。ユリアンとしては、マルガレータと姉のように慕う人物と紅茶を通じて関係を改善していきたいと思ったのだ。単純に淹れる側の同好の士が欲しいと思う気持ちも多少あった。
お茶と聞いて、ローザの雰囲気が再度変わった。微笑みはそのままだったが、そこに鬼気迫るものを感じ、マルガレータはすくみ上った。
「それは奇遇ね。私も主人から、あなたの紅茶はおいしいと、それはそれはよく聞いているわ。一度お点前を拝見したいと思っていたのよ」
ヤンがユリアンの紅茶を褒めるのを、ローザはよく聞いていた。ヤンに悪気がないことはわかっていたが、その度ごとに比較されている気がして、ローザはプライドを刺激され続けた。この件に関しては一度白黒つけねばならぬとまで考えていたところでのユリアンの提案だった。
ユリアンはローザの変化にまったく気づいていなかった。
「それはよかった。僕もローザさんはお上手だと、ヤン長官から聞いていました。ラウエ伯爵領エルランゲンの茶葉は有名ですしね。僕もローザさんに紅茶を淹れて頂きたいです」
「わかったわ。ええ、とてもとても楽しみにしているわ」
ローザは微笑みと共に去って行ったが、マルガレータにはそれが猛獣の威嚇のようにさえ見えた。
しばらくしてマルガレータはその場にへたり込んだ。
「メグ?」
「怖かった。ローザお姉様、いつもはもっと優しいのに」
ユリアンはマルガレータが感じた恐怖を少し勘違いした。
「きっと僕が相手だったからだよね。でも、厳しい雰囲気だったのは最初だけで、お茶会も快諾してくれてよかったよ」
「それだけ?」
「え?うん。素敵な人だったね。ヤン長官にはもったいな……ごほん、お似合いの人だね」
マルガレータは、ユリアンの呑気さが羨ましくなった。
とはいえ、かつてのユリアンであればローザの挑発じみた言動に、暴発していた可能性すらあった。そうならなかったことをマルガレータとしてはまず安堵すべきだったし、ユリアンの変化が嬉しくもあった。
「……そんな風に思えたなら、これからも大丈夫かもしれないな」
「うん?うん、そうだね」
「ところで……」
「何かな?メグ?」
マルガレータはユリアンを睨んだ。
「私はお前のお茶会に呼ばれたことがないのだけど。私を差し置いて、ローザお姉様を誘うなんて一体どういう了見なんだ?」
「……あっ!ごめん、メグ」
ユリアンは、そのことを失念していた。
「冗談だよ。でも、私はお前がヤン長官とローザお姉様の元に来なくてよかったと思っているよ」
「どうして?」
「だってそうなっていたら、恨みがあったとしてもお前はローザお姉様のことを好きになっていただろうから」
「何を言うんだ!?」
「お前、実は年上で包容力のある美人が好きだろう?」
「えっ!?いや、違……わないのかな?」
何人かの女性がユリアンの脳裏をよぎってしまった。
マルガレータはため息をついた。
「自覚がなかったのか。お前が先にローザお姉様と出会ってしまっていたら、きっと私のことなんて好きになってもらえなかったと思うから……」
ユリアンは答えた。自信を持って。
「そんなことはない。僕は君のことを好きになっていたよ」
マルガレータは疑わしげだった。
「本当に?」
「本当だよ。どんな形であれ、たとえ別の歴史でも、出会いさえすれば……」
「そうだとしたら嬉しいな」
「メグ、君は?」
「私もきっと同じだろうな。出会いさえすればきっとまたお前を好きになる」
「そうか。僕も嬉しいよ」
二人は抱き合い、笑いあった。
「ふふっ。そうだ、ベアテはどうだろう?」
ユリアンはマルガレータの発言をすぐには理解できなかった。
「ベアテ?」
「私達の娘の名前だ。決めてなかっただろう?いつまでも赤ん坊と呼んでいたら可哀想だ」
ユリアンにはその名前が何故だか、娘にとても相応しく思えた。
「どういう意味なの?」
「祝福された者。駄目かな?」
「……駄目じゃない。是非そうしたい」
「……何だ?ユリアン、また泣いているのか?最近涙脆くなってないか?」
「君の前だけだよ」
ユリアンは、お前など生まれて来なければよかった、と祖母から言われて育った。
母親は早くに死に、父親も紅茶以外ではユリアンと関わりを持とうとしなかった。
祝福されざる子供、それがユリアンの自分に対する認識だった。
しかし、自分の子供はそうではなかった。親から祝福された存在としてこの世に現れたのだ。
エメラルド色の母親似の瞳と、自らと同じ亜麻色の髪を持つ自らの娘のことを愛おしく思った。
ユリアンは、自分が幸せの中にあると認識できた。
「こんなに幸せでいいのかな」
ユリアンは急に不安になった。
「いいんじゃないか。ここまで来るのがどれだけ大変だったことか」
「そうか。そうだね」
「それじゃあ、私達の娘、ベアトのところに戻ろうか。カリン達が世話をしてくれているからな。あ……」
急に何かを思い出したように、マルガレータが呟いた。
「どうしたの?」
「カリンがな、とある筋から噂を聞いたんだ。お前がリリー・シンプソン秘書官とただならぬ関係になっている、と」
ユリアンは愕然とした。思えば、ヤン長官も誤解しているようだった。何か妙な噂が広まっていることを本格的に認識せざるを得なかった。
「誤解だよ!」
マルガレータは頷いた。
「私はそんな噂、信じていないぞ。カリンも信じているわけではないが、サビーと、リザがなあ……。不安がっていて大変なんだ」
「ちゃんと説明するよ」
とはいえ、リリー・シンプソンのことを考えると、説明の内容はよくよく考えないといけないとユリアンは思った。
マルガレータは僅かに目を細めた。
「それは、説明が必要な何かがあったと考えていいのか?」
「……」
「そこで黙るのか……。ユリアン、全部、正直に白状することだな。
「いや、誤解だよ」
「わかった。後はカリン達の前で聞こう」
「うう」
ユリアンはうな垂れた。
「ははは。大丈夫だ、ユリアン。正直に話してくれさえすればな」
カリン達の元へと歩き去って行く二人を、カメラ越しに見ていた者がいた。
レディ・Sである。
本人は手足を失った状態で通信室に監視付きで放置されていたが、その知覚はネットワークを介して未だに月全域に及んでいた。
「一転して、何だか家族の危機みたいな状況になっちゃったけど……まあこれも幸せの内なのかもね」
この時のレディ・Sの表情は慈愛に満ちているとさえ表現できたかもしれない。
「ユリアン、今のうちに噛み締めておきなさい。幸せが存在するのは夜が来るまでの束の間なのだから」
レディ・Sとの話し合いの日が近づいていた。
最終章が始まります。