巨大電子頭脳が破壊された影響は各所に現れた。
深部における爆発の影響で月面が大きく揺れた後、今までシェーンコップ達に集中して殺到していた銀月王が、指向性を失って四方八方に飛び回るようになっていた。
さらに、通信室ではレディ・Sが自我を取り戻していた。
レディ・Sは激情を吐き出した。
「最後に何という失態を!私はこんなところで!みんなの思いを無駄にするところだった!」
マルガレータが激情収まらぬレディ・Sに声をかけた。
「レディ・S!まずはこの状況を何とかできないのか?」
我に返ったレディ・Sは、状況を把握し、対応した後でマルガレータに返答した。
「今、あの虫達、銀月王に音波信号を送ったわ。彼らは重力の向きと反対、つまり上に向かっていくことを優先するようになったわ。後は月の防衛設備と艦艇からの砲撃であらかた退治できるわ。彼らには気の毒なことだけど」
銀月王が退いたことは、通信室の前から彼らが消えたことでもわかった。
マルガレータはヤンと連絡を取った。
巨大電子頭脳が破壊されたこと、それがアルマリック・シムスンによるものであること、マルガレータ達がローザと合流したこと、レディ・Sが協力的でありヤンやユリアンに伝えることがあること、虫達への対応などが急ぎ共有された。
ヤンはレディ・Sにコントロールされる旧地球統一政府の部隊と共に銀月王の対応にあたることになった。
既に小惑星要塞群も沈静化しており、ホーランド、ビッテンフェルトも月に急行していた。
ユリアンは死んだと推測されるアルマリックのことを悼みつつも、マルガレータ達が助かったことに安堵していた。
そのユリアンにヤンは声をかけた。
「月降下の第二陣に加わってくれ。月市民の救援部隊だ。君自身は通信室に向かうといい」
「いや、しかし」
「こちらはもう大丈夫だ。月地下都市内を行くにあたって道案内がいてくれた方がいいし、何より、早く会いに行きたいんだろう?」
ユリアンはヤンの心遣いに甘えることにした。
「ありがとうございます」
「ヘルクスハイマー大佐、そういうわけでユリアンが向かう。待っててくれ」
マルガレータは一瞬頰が緩みかけ、慌てて取り繕った。
「承知しました」
通信を終えたマルガレータだったが、通信室ではその間にひと騒動持ち上がっていた。
トリューニヒトの姿がいつの間にか消えていたのだ。死は免れないと思われるほどの傷を負い、レディ・Sを置いてどこに消えたのか、誰にもわからなかった。
トリューニヒトの不在に最初に気づいたのはレディ・Sだった。
「ねえ、ヨブはどこ?どうしてここにいないの?あなたわかる?」
その質問に答えることを皆躊躇った。操られていたとはいえ、レディ・S自身がその手でトリューニヒトを害したことを説明する必要があったからである。
おそらく自分が適任なのだろうとマルガレータは思った。
レディ・Sはマルガレータの説明を聞いて顔を痙攣らせたが、懸念したようなパニックは起こさなかった。
「ヨブの居場所はわかるわ。そういうことなのね」
「どういうことなんだ?」
「今は説明できないわ。少し考えさせて頂戴。とりあえず追う必要はないとだけ言っておくわ」
嘘を言っている様子はなかった。皆ひとまずトリューニヒトの捜索よりも負傷者の応急処置などを優先することにした。
だが、トリューニヒトの行方を気にする者はレディ・Sだけではなかった。
しばらくしてユリアンが通信室に到着した。
「メグ!カリン!サビー!リザ!」
ユリアンは喜びを露わにした。
ユリアンの婚約者達も同様だった。
カーテローゼは半ば照れ隠しでユリアンに文句をつけた。
「私達よりも、会わないといけない子がいるでしょう?」
その言葉を待っていたかのように通信室に泣き声が響き渡った。
ユリアンとマルガレータの子供であった。
抱いていたアマーリエが慌ててあやしたが収まらず、結局マルガレータが引き取ることになった。
マルガレータは子を抱きながらユリアンに近づいた。
ユリアンは緊張していた。恐怖を覚えていたと言ってもよかった。
父と母の愛情を感じられずに育った自分が子供を愛せるのか?愛しいと思えるのか?
思えなかったとしたら?そんな父親は不要なのではないか?
マルガレータは赤ん坊をユリアンに見せた。
「ほら、お前と私の子だ。可愛い女の子だぞ。ほら、お父さんですよ」
赤ん坊は片手を前に出してきた。
ユリアンはおずおずとその手に指を近づけた。
赤ん坊はそれを握った。
それは本能的な反射だったが、この時のユリアンには関係なかった。
マルガレータは驚いた。
ユリアンは涙を流していた。
「ユリアン?」
「可愛い。可愛いよ」
「それは可愛いさ。その……お前と私の子なんだから」
「うん、可愛い。可愛いね……」
ユリアンは子供を愛しく思っていた。自分がそう思えるか不安に思っていたことなど既に吹き飛んでいた。
この世界にこれほど愛しい存在がいるものかとさえ思った。
子を愛せる自分が嬉しかった。
マルガレータもいつの間にか自分が泣いていることに気づいた。
ユリアンの心の動きを理解し、感情が溢れ出していた。
ユリアンの心の空洞を、少しは埋められた気がして嬉しかった。
三人で今ここにいられることが嬉しかった。
しばらくは誰も三人に話しかけなかった。
婚約者達も、それぞれに思うところはあっても、今は静かに見守っていた。
沈黙を破ったのはレディ・Sだった。
「ユリアン。悪いけど、あなたにはもう一つ気にすべきことがあるわ」
ユリアンは急いで涙を拭き、レディ・Sに向き直った。
「何か?」
ユリアンはレディ・Sを信用しきれておらず、警戒感を露わにしていた。
「ヨブのことよ。ヨブは深手を負ったわ。このままだと一言も話せないまま死ぬわよ」
「トリューニヒトさんはどこに!?」
「10階層下のB221区画、そこに行きなさい。きっとそこにいるわ」
ユリアンはマルガレータを見た。
「嘘は言っていないと思う」
それを聞いた瞬間、ユリアンは脱兎のごとく駆け出した。
トリューニヒトが死ぬ。
それを考えただけでも心が凍るようだった。
もう一度トリューニヒトに会いたかった。
ユリアンは先程とは全く異なる涙を流しながらただただ走った。
普段ユリアン達が利用していない階層にあるその部屋は、一見医務室のようだった。
手術台のようなベッドの上にユリアンはトリューニヒトを発見した。
「トリューニヒトさん」
遅いじゃないか、ユリアン。
そんな声が聞こえるようだった。
批判者からは保身の天才と呼ばれた男が、一度失脚しながら新銀河連邦の主席というさらなる高みに昇った不死鳥のような男が、ただの死体となってそこに横たわっていた。
冷たくなったトリューニヒトの手を握りながらユリアンは泣いた。
「赦してください、赦してください。僕は役たたずでした。肝腎な時にトリューニヒトさんのお役に立てなかった……」
「私のために泣いてくれるのか、ユリアン」
ユリアンは再びトリューニヒトの声を聞いたように思った。
無論、目の前のトリューニヒトは蘇ったりなどしていない。
ユリアンは幻聴とわかりつつ、会話を続けた。そうしたかった。
「当たり前じゃないですか」
「君は私のことをどう思っていたんだい?」
「恩人です。恩師です。……いや、そうじゃない」
「うん?」
「僕にとっては父親でした。ずっと父親だと思っていました」
「そう思っていてくれたのか。嬉しいね」
「嬉しいと思って頂けるんですか?」
「勿論だ。今思えば、私にとっても、君は息子だったんだろう。お父さんと呼んでみてもらえるかい?」
幻聴でも嬉しかった。
「お父さん!」
「ありがとう。息子よ」
不意にユリアンは肩を叩かれた。
こんなところに誰が?
驚いて後ろを振り向くとそこには笑顔のトリューニヒトがいた。
ユリアンはベッドの上のトリューニヒトと立っているトリューニヒトを見較べた。
トリューニヒトは体力が衰え、杖が手放せなくなっていたはずである。しかし目の前のトリューニヒトは杖がなくともしっかりと立っていた。かなり若返っているようにも見えた。
ああ、とユリアンは納得した。
「今度は幻視か。それも出会った頃の。僕はもうダメだな」
立っているトリューニヒトは笑顔で訂正した。
「いやいやいや。そんな訳ないじゃないか。私は君に触れているんだぞ」
ユリアンはもう一度、二人のトリューニヒトを見較べた。
それから………叫んだ。
「えええええ!?どういうことですか!?」
トリューニヒトはしてやったりという顔で答えた。
「アルマリック・シムスン氏と同じだよ。私は死ぬ直前に自らの人格を電子頭脳に移したんだ。そのためにこの部屋まで来たというわけだよ」
「生身のトリューニヒトさんは死んだということですか?」
「そういうことになるね」
ユリアンは再び悔やんだ。トリューニヒトを孤独のまま死なせてしまったことに変わりはなかったから。
その感情の動きをトリューニヒトは察した。
「大丈夫だ。ユリアン君。私は君にこの悪戯を仕掛けるのを楽しみにして死んだんだから。君が悲しむ必要なんてないんだ。この私が言っているんだ。信じられないのかね?」
「信じます。でも、すみません。やはり悲しませてください。死んだトリューニヒトさんのために」
トリューニヒトも厳粛な顔になった。
「そうか。ありがとう」
しばらく、ユリアンは死んだトリューニヒトに対し黙祷を捧げ、それをアンドロイドとなったトリューニヒトは黙って見ていた。
異様な光景ではあったが、無論本人達は真面目だった。
しばらくしてユリアンは目を開いた。
「お待たせしました」
トリューニヒトはユリアンに告げた。
「君にここに来てもらった理由は悪戯を仕掛けるためだけではない。君はすぐに戻って皆に告げて欲しい。新銀河連邦を裏切った大罪人のトリューニヒトは死んだと」
「アンドロイドとなったあなたはどうするのですか?」
「そのあたりも含め、状況が落ち着いた後にヤン君と君と私とレディの四人で話をする機会を設けて欲しい。ヘルクスハイマー君、ライアル君、フレデリカ君も関係者だから来てもらうべきだな」
「それはわかりましたが」
「話を聞いて納得できなければ私がアンドロイドとして存在していることを公表してもらっても構わない。だからひとまず頼まれてくれるか」
「わかりました」
「では、また後ほど。私はしばらく隠れているから。連絡はレディ・Sを通じてとることができる」
「はい……」
「ああ、ユリアン君」
立ち去りかけたユリアンをトリューニヒトは呼び止めた。
「何でしょうか」
トリューニヒトは含み笑いをしていた。
「お父さんと呼んでくれるとはね。いつでもそう呼んでくれていいんだよ」
「恥ずかしいのでもう呼びません!」
通信室に戻ったユリアンは、皆にトリューニヒトが死んだことを告げ、しばらくは他言無用とお願いした。
死んだと公表するのか、まだ決まっていなかったし、そうするにしてもやり方は考えておく必要があったためである。
トリューニヒトの遺体の回収は、ヤンの判断を仰いでから行なわれることになった。
ヤンへの裏の事実も含めた事情説明のため、ユリアンは一度ヤンの元に戻ることになった。
その前にユリアンはマルガレータにだけ、トリューニヒトがアンドロイドとなって存在し続けていることを打ち明けた。
説明を聞いたマルガレータは複雑な顔になった。
「ユリアン、面倒ごとの予感がする」
「面倒ごと?」
「ああ。トリューニヒト氏がユリアンを嵌めようとしているとは思わないし、上手く説明できないのだけど」
ユリアンはマルガレータの予感がよく当たることを知っていたから笑い飛ばすことはできなかった。
マルガレータは本当に心配していた。
「ユリアン、お前は人間関係に関して不器用だし、人がいいからな。気をつけておくんだぞ。トリューニヒト氏の言葉を墨守する必要もないんだ」
「わかったよ。メグ」
この時には銀月王の掃討はほぼ終わっていた。
ユリアンはヤンと合流し、内密にトリューニヒトのことを説明した。
ヤンはため息をついた。
「死んでも死なないとは、あの男らしいというかなんというか。それでも、いちおう死んでしまったのか……」
ヤンは天井を仰いでそのように感慨を述べた後、続けた。
「ひとまずはトリューニヒトの望み通り、死んだということだけを限られた人に伝えておこう。あとは、本人の説明を聞いてからだね」
「誰に伝えますか?」
「シェーンコップ、ミュラー提督に、ビッテンフェルト提督、ホーランド提督、あとはアッシュビー保安官か……その辺りへの説明は私がやるよ。あと一人説明しないといけないが、頼まれてくれるかい?」
「誰でしょう?」
「トリューニヒトの元秘書官のリリー・シンプソン女史」
ヤンは躊躇いがちに付け加えた。
「その、なんというべきか、親しいと聞いたんだが……」
ユリアンは彼女のことを失念していた。