レディ・Sはトリューニヒトの顔を見上げた。
「巨大電子頭脳からの通信が途絶えた」
トリューニヒトは状況を理解した。
「そうか、これで……」
「ええ……」
レディ・Sはマルガレータをはじめとした人質達に向き直った。
「これまでのこと、すべて謝罪します。月の民も含め、全人類も解放する。既に月の民を洗脳するために流していた化学物質は止めたわ。しばらくは無反応だろうけど、そのうち自我を取り戻すわ」
人質となっていた者達は急な状況の変化に戸惑わざるを得なかった。
アイランズがかつての派閥の領袖に尋ねた。
「これは一体どういうことですか?」
トリューニヒトは答えた。
「彼女は地球統一政府に協力させられていたに過ぎない。そして私は地球統一政府ではなく、彼女個人に協力していた。細かい説明をしないと納得はしてもらえないと思うが、要するにそういうことだ」
「正確には私の意思が何も入っていなかった訳でもないわ。それを含めてどうしてこのような事態にならないといけなかったか、その説明は後でさせて頂くわ。全人類のための真の計画について知る権利をあなた方はついに得たのだから」
「真の計画?」
マルガレータは、レディ・Sが他人を犠牲に己の利益をあげようとするようなわかりやすいタイプの悪人ではないのではないかと考えていた。何者かの期待に答えようとして無理をしてしまう、ユリアンと似たものを感じていた。
彼女が地球統一政府に協力させられている可能性についても考えていた。
しかし、その背後に別の計画があったとはさすがに予想できていなかった。
レディ・Sからは悪女めいた雰囲気が消え去っていた。
彼女は静かにその計画の名を告げた。
「『時の女神』計画。ヤン・ウェンリーやユリアンが来たらその全貌をお話しするわ」
流星旗部隊は時空震連続発生装置を止め、状況を伺っていた。
背後から迫りつつあった敵部隊は前進を止めており、攻撃を仕掛けてくる様子もなかった。
やがてオペレーターが報告した。
「月面の防衛設備の活動が停止しています。効果があったようです」
それを聞き、艦橋で歓声が上がった。
「突入部隊は月面に降下開始。艦艇はこのまま待機。それと、一つ、通信を入れてくれ」
マルガレータは聞き返した。
「『時の女神』計画?それがあなたが地球統一政府に従って来た理由なのか?」
レディ・Sは哀しげに微笑んだ。
「ええ。長い、本当に長い時間をかけて進めて来た。進めざるを得なかった計画。銀河人類を危機に晒してまで進めないといけなかったものよ。理解してもらえるかは別として説明はさせてもらうわ」
再度問おうとしたマルガレータだったが、その前に突如レディ・Sの様子が一変した。
レディ・Sは頭を押さえて蹲り、呟き始めた。
「これは!?通信再開?巨大電子頭脳がまだ生きていた?まずい!身体の制御が……マルガレータさん!ヨブ!来ないで!」
「ダニエラ!」
トリューニヒトは警告にも関わらずレディ・Sに駆け寄った。
その時にはレディ・Sは立ち上がっており、その右手をトリューニヒトに伸ばし……彼の腹部を貫いた。
通信室に複数の悲鳴が流れた。
マルガレータは叫んだ。
「トリューニヒトさん!レディ・S、何を!?」
レディ・Sはその状態のまま首を不自然に曲げ、虚ろな目でマルガレータを捉えた。
レディ・Sは手をトリューニヒトの腹部から抜いて、マルガレータの方に進もうとしたが、立ち止まらざるを得なかった。
その腕をトリューニヒトが掴んでいた。
トリューニヒトは吐血しながらも叫んだ。
「ヘルクスハイマー大佐!彼女の身体は巨大電子頭脳の支配下に入った!早く皆を!」
マルガレータは既に動き出していた。手足は拘束されたままだったが、親指の骨を外して手錠を外し、拘束されたままの足と手を器用に使い、月の民のために低Gに調整された通信室の中を移動した。
マルガレータは、銀河帝王事件の際に海賊に拘束され、ユリアンに助けられた経験があった。
次同じような目にあったとしたら、その時には同じ轍を踏むまいと彼女は心に誓っていた。
そのために低G環境での格闘術と拘束からの脱出法を身につけていた。
彼女は一人の月の民の男に突進した。
彼女はその男が、拘束具の解錠用の端末を所持しているのを事前に確認していた。
男は化学物質の影響から抜けかけており、ぼうっとその場に佇んでいた。
マルガレータはその男に衝突し、そのまま壁に激突した。
この時、レディ・Sはトリューニヒトを力任せに振りほどき、マルガレータに向けて歩き始めていた。
衝撃から立ち直ったマルガレータの手には解錠装置があった。
マルガレータは解錠装置を作動させた。
人質となっていた者達の手足が自由になった。
ある者は通信室から逃げ出し、ある者は怯えてその場から動けなかった。
マルガレータの前に、レディ・Sが立ち止まった。
マルガレータは退避しようとしたが、覆いかぶさっていた月の民の男の失神した体を退かすのに手間取る間に、レディ・Sが血塗れの右手でマルガレータの首を掴んだ。
レディ・Sはそのまま首の骨を折るべく力を込めようとしたが。
「あんたの相手は私よ!」
その声とともにマルガレータは解放され、床に投げ出された。
マルガレータが咳き込みながらも立ち上がってレディ・Sを見やるとその右手は切断されていた。
その断面からは血のような液体が流れ出していたが、骨にあたる部分は金属であり、彼女がアンドロイドであったことがわかった。
レディ・Sの腕を切断したのはカーテローゼ・フォン・クロイツェルだった。
彼女は拘束から解放されると共に警備役の月の民が所持していた炭素クリスタル製の戦斧を奪い取り、マルガレータに気を取られていたレディ・Sの腕に一撃を加えたのだった。
カーテローゼは、ユリアンの力になれていないことを歯がゆく思っていた。
マルガレータのように軍人として傍に立つことが出来なくとも何かできることはあるのではないか。それは無理でも、かつてのような目にあった時に自分の身を守ることぐらいは……。
そう思ったカーテローゼだが、シェーンコップに頭を下げるのは抵抗があったため、ユリアンを介して銀河保安機構月支部所属の護身術の師範を紹介してもらった。
護身術ならばと考えたユリアンだったが、父親の血によるものか、カーテローゼの実力は護身術のレベルを大きく超えるものになった。
カーテローゼは戦斧をコンパクトに持ち、高い回転率で矢継ぎ早に斬撃を放ちながら、誰に語るでもなく呟いた。
「この前ワルター・フォン・シェーンコップと手合わせした時にこう言われたわ。"第二のシェーンコップは無理でも、 第二のリューネブルクになれる可能性はある"ってね」
カーテローゼは父親の不敵な笑顔を思い出して叫んだ。
「リューネブルクって誰よ!!知ってる前提で話さないでよ!!」
その間も、カーテローゼの攻撃はレディ・Sを襲い、態勢を立て直す間を与えなかったが、やがて自らの腕から流出を続ける人造血液を目潰しに使って、ようやくカーテローゼから距離を取った。
レディ・Sはその他の人質に目を向けた。
人質の前にはアンスバッハ、シュトライトと共にサビーネ、エリザベートが炭素クリスタル繊維製の薙刀を持って立って守っていた。
彼女達も、ユリアンのために自らの身を守る程度のことはできるようになろうとカーテローゼと共に護身術を習っていた。
マルガレータの赤ん坊は、エリザベートが取り戻しており、今はアマーリエが抱いてあやしていた。
赤ん坊を視認したレディ・Sは、アマーリエ目掛けて飛びかかろうとした。
その動きは、アンスバッハによって未然に阻止された。彼は秘匿していた指輪型ブラスターの一撃をレディ・Sに加えたのだった。
膝を撃ち抜かれ、動けなくなったかに見えたが、レディ・S、自我を失った操り人形はそれで終わらなかった。
彼女は、膝が壊れているにも関わらず、これまで以上の速度で突進し、ブラスターの乱射を意に介さずアンスバッハの前に立ち、貫手を放った。
アンドロイドとしての力を抑制していたリミッターを外したのである。
アンスバッハは戦斧を盾にしてそれを防ごうとしたが、戦斧ごと吹き飛ばされる羽目になった。
逃げ惑う人々を守ろうと、シュトライトや、ユリアンの婚約者達は懸命に戦った。
しかし一人、また一人と無力化され、戦える者で立っているのはカーテローゼとマルガレータのみとなった。
通信室内には震えるアマーリエに抱かれた赤子の泣き声が鳴り響いていた。
そのカーテローゼも既に片腕を、先ほどの復讐とばかりに折られ、十全に実力を発揮できない状態となっていた。
レディ・Sは一旦二人から距離を取っていた。
カーテローゼは息を整えつつ敵を睨みながら呟いた。
「これはいよいよまずいわね」
マルガレータは戦斧を片手に持ち、覚悟を決めた。
「カリン、この機械人形は刺し違えても私が止める。だから皆と逃げてくれ」
カーテローゼは相手の言葉が信じられなかった。
「何を言っているの?子供はどうするのよ!?」
マルガレータは泣き続ける赤子の方をわずかに見て、揺れる心を無視して言った。
「頼まれてくれないか」
「そんな無責任な!」
母親がいないことの悲しみをカーテローゼはよくわかっていた。マルガレータもわかっているはずなのに。
「そうだな。子供には謝っても謝りきれないな」
「そりゃそうでしょうよ」
「それでも誰かが止めなくては。私はユリアンとみんなを守ると約束したんだ」
「……それで私が退くと思う?」
マルガレータは不意にカーテローゼに笑いかけた。
「私はユリアンに十分に愛してもらった。子供も授かった。次はカリンの番だ」
「こんな時に、な、何を言っているのよ!?」
カーテローゼの顔が赤かったのは戦闘による高揚のせいばかりではなかっただろう。
「カリン、あとは頼む!」
マルガレータはレディ・Sに向かって走り出した。
レディ・Sは、無表情のままマルガレータを迎え撃とうとした。
「死ぬ覚悟なんて、残された人が悲しむだけですわ」
不意にレディ・Sの後ろから声が聞こえた。
飛び退りつつ、振り向いたレディ・Sは、そこに金髪の女性を見出した。
「隙だらけだから不意打ちしようか迷ったのですけどね。これでも銀河武士道を嗜む身の上なので」
「ローザお姉様!あ、いや、ローザさん!」
マルガレータは、10歳の頃から姉のように接してくれた女性の姿をそこに見た。
ヤン・ウェンリーの妻にして連合名門ラウエ家当主、ローサ・フォン・ラウエがそこにいた。
ローザはマルガレータに向けて、戦場には場違いなほど柔らかな笑みを見せた。
「遅れてごめんなさいね。かわいいメグ」
子供であるテオ・フォン・ラウエ・ヤンがある程度大きくなったことでローザ・フォン・ラウエは軍務に復帰し、准将にして独立諸侯連合軍情報局長補佐となっていた。
オーベルシュタインが去った後も、連合の情報機関はアントン・フェルナーの手腕で問題なく機能していた。ローザは連合軍情報局の実力部隊を率いていた。
ヤン・ウェンリーは行方不明となったマルガレータの捜索を、連合軍情報局にも依頼していた。マルガレータはこの時まだ連合所属であったのだから当然でもあった。
連合軍情報局は時間がかかったものの、マルガレータが月に連れて来られた可能性に辿り着き、ローザ率いる特殊部隊を秘密裏に月に派遣していた。未だ可能性レベルで、確証はなかったが。
ローザが月に派遣されたという情報自体はヤンにも伝えられていた。
このため、ヤンはローザが動ける状態にある可能性を考え通信を入れたのだった。
ローザ率いる特殊部隊は、月面で立往生していた。
地球統一政府が月を制圧するために放った時空震の影響で一時的に失神させられている間に月の施設は地球統一政府の意のままに動く状態となった月の民に占拠されてしまった。
月面の窪地に潜んでいた特殊部隊とその専用艦艇は地球統一政府に気づかれないまま放置されていたが、動こうにも月内部の状況がわからない状態では下手な行動は自殺行為に近かった。
そこにヤンから通信が入ったことで、ローザ達はようやく月都市内に突入を果たすことができた。
ローザ達は敵の居場所が通信室であるだろうという推測をヤンから聞き、その場所に急行したのだった。
マルガレータは急いでローザに伝えた。
「ローザさん!その女性、レディ・Sは今外部から操られている!重要な情報を我々に伝えようとしているから殺さないでくれ!」
ローザは苦笑した。
敵の血に塗れた亜麻色の髪を見て、かつてのユリアンとの闘いを思い出していた。
「私もあなたも亜麻色の髪にはよくよく縁があるようね。しかも今回は最初から殺すなとの注文まで付いて」
ローザは攻撃のタイミングを図っている様子のレディ・Sを見やり、伝家の宝刀たる黒塗りの炭素クリスタル製ブレードを抜き放ち名乗った。
「当代〈守りの剣〉、ローザ・フォン・ラウエ、参る!」
対するレディ・Sは無言だったが、ローザを攻撃ターゲットとして認識しているのは明らかだった。
動き出したのは同時だった。
レディ・Sは稲妻のごとく、ローザは春の野を歩むがごとく。
一瞬の交錯の後、地に伏したのはレディ・Sだった。
残っていた左手と両足を切断されていた。
カーテローゼの動体視力はその瞬間の出来事を捉えていた。
ローザは手と足、一瞬の間に身体の離れた位置にある二箇所に連撃を加えていたのである。
黒塗りのブレードの軌跡はまるで空間に煌めくようだった。
「黒曜石」とも称されるラウエ家伝来の必殺剣である。
修練を積んだカーテローゼにはローザの技量がどれだけの高みにあるものなのかがよくわかった。同時に己の未熟さも。
ローザは残心を保ち、レディ・Sが戦力を喪失したことを確認した後、ようやくブレードを鞘に収めた。
「アンドロイドならこれぐらいでは死なないわよね」
通信室の中に平和が取り戻された。
しかし、その外では別の事態が生じていた。
今はなき銀英伝タクティクスでローザに「戦場に煌めく黒曜石」という二つ名(?)が付けられていました。金髪なのに黒曜石という不思議。