ヤン・ウェンリーとその一行は急ぎ準備を整え、シリウス星系を出発した。
太陽系到着は3月6日に日付が変わってからになる。
銀河人類は、その間水分の補給も出来ずに昏睡状態に置かれたままであり、その健康状態は刻一刻と悪化していった。
人は、水分を全く補給しないで4日〜5日以上生存を続けることはできない。それはこの時代でも同じだった。
太陽系到着後には、銀河人類全滅までに1日程度しか猶予はないと言えた。
太陽系到着までには一定の時間が存在するということでもあり、銀河保安機構及びその協力者達は、その時間を準備や休息に充てることになった。
リリー・シンプソンは落ち込んでいた。ヤン・ウェンリー達に話は聞いてもらえたが、トリューニヒトが裏切っていないことは納得してもらえなかったからである。
リリー・シンプソン自身もトリューニヒトが裏切っていないという確たる証拠は持っていなかったから当然ではあった。しかし敬愛するトリューニヒトが人類と地球統一政府を両天秤にかけているなど、彼女にとって到底信じられることではなかった。
「シンプソンさん、大丈夫ですか?」
声をかけてきたのはユリアンだった。
リリーはユリアンに弱味を見せるつもりはなかったので、とりすまして答えた。
「ええ、大丈夫です」
「以前僕に、あなたは知っているのか、と訊いてきましたね。それはこういうことだったんですね」
「ええ、どうやらあなたは蚊帳の外だったようですが」
リリーは言葉に棘があることを自覚していた。
しかしそれに対するユリアンの答えは予想とは違っていた。
「一人で抱え込んで、つらくありませんでしたか」
ユリアンの顔には本当に気遣うような色があり、リリーは自らの狭量を恥じた。
「慰めなら無用ですよ。私はトリューニヒト先生の恩に報いるのにこれぐらいのことしか出来ないのですから」
「これぐらい?ずっとトリューニヒトさんを補佐して来られたではないですか」
「私はつまらない人間です」
「つまらない?」
「私がトリューニヒト先生に見出された理由をご存知ですか?」
「……たしか、傷病兵に対する募金のリーダーを務めていらっしゃったとか」
「そうです。でもそれは周りの大人が勝手にそう決めただけです。若い少女がリーダーになってメディアに露出した方が世間受けするからという理由で」
「それでもそれを務めたのは立派なことではないですか?」
「誰でも出来たことです。トリューニヒト先生に見出された他の三人は、賞を獲ったり、兵士を救ったり、それぞれ自分自身の才覚を理由にトリューニヒト先生に見出されています。あなたもそう。私だけが違った」
「……」
「私はあなたに言いましたね?レディ・Sがいなければ、あなたはトリューニヒト先生に見出されていなかったかもしれない、と」
「はい。間違ったことは仰っていないと思います」
その時もユリアンは何気ない素振りを示していたが、実のところ心に刺さっていた。
トリューニヒトとの関わりがなかったとしたら、ユリアンは自らの孤独に絶望して、死を選んでいた可能性すらあった。それだけ、トリューニヒトとの関係は幼い日のユリアンにとって重要なものだった。
トリューニヒトが自分を気にかけてくれた理由は今までもわからなかった。どのような返事が返ってくるのか正直怖くて、訊くこともできなかった。
リリーの言葉は、考えるのを避けていたことにユリアンを直面させてしまっていた。
「レディ・Sがいなくとも、あなたはきっとトリューニヒト先生に見出されていたと思います。それだけの才能があります。本当にトリューニヒト先生に見出されなかった可能性があるのは、私なのです」
「そんなことはないでしょう」
「募金のリーダーを務めていれば、私でなくてもよかったんです。あの時のあなたに対する発言は、私の劣等感の裏返しです。私はあなたが羨ましかったんです」
申し訳ありません、とリリーはユリアンに頭を下げた。
ユリアンが言葉を返せなかった。リリーの独白は続いていた。
「あなただけじゃない。ディッケル、イセカワ、ボーローグ。トリューニヒト・フォーと呼ばれる私以外の才能溢れる三人のことも、私は羨ましかったんです」
「……」
「トリューニヒト先生の同盟議長就任式典に招いて頂いたことで、見映え以外に何の取り柄もなかった私の未来は大きく拓けました。それ以来、私は必死でした。秘書になって、何とか仕事を覚え、トリューニヒト先生のためにと動いてきました。トリューニヒト先生を失望させてしまうことを恐れながら」
トリューニヒトに失望されることを恐れる気持ちはユリアンにもよくわかった。ユリアンも同様だったのだ。
「いっそのことトリューニヒト先生が体を求めてくれればどれだけ楽だったことか。でも、あなたも知っての通り、そういう人ではありませんでしたから。だから、今回トリューニヒト先生と秘密を一人共有する立場になったことは、私にとってむしろ喜びだったんです」
「僕もトリューニヒトさんを失望させるのが怖かった。でも僕はフェザーンで失敗した。その後も迷惑をかけてばかりでした。その間もあなたはトリューニヒトさんを助け続けていた。あなたにしか出来ないことだった」
「私にしか?」
「僕には無理でした。助けたい人を助けられる。あなたのことが僕は羨ましかった」
ユリアンの言葉こそはリリーの欲していたものだった。彼女は涙が零れそうになるのを必死に我慢した。
ユリアンはリリーに頭を下げた。
「今動ける人間でトリューニヒトさんの無実を信じている人は、あなたと僕だけのようです。僕もトリューニヒトさんを助けるために全力を尽くします。だから、どうかその後のことは、シンプソンさん、よろしくお願いします」
「私に任せるんですか!?」
ユリアンは寂しそうに笑った。
「僕は、銀河を危機に陥れた人間です。だからトリューニヒトさんのことを僕が擁護しても逆効果です。あなたにお願いするしかないんです」
リリーは、ユリアンの言葉に真摯なものを感じた。
「言われなくとも、そのつもりですよ」
「そうですか。よかった」
リリーはユリアンに対して初めて微笑んで見せた。
「ですから、あなたは、地球統一政府の魔の手からちゃんとトリューニヒト先生を助け出してくださいね」
リリーの言葉にユリアンも笑顔を明るいものにして、手を差し出した。
「僕達仲間ですね。一緒に頑張りましょう」
リリーにとって、同年代の対等な仲間というのは初めてだったかもしれない。
リリーはユリアンの笑顔をしばらく呆けたように見つめていたが、やがておずおずと手を伸ばした。
ユリアンと手が触れる直前になって、ふと、彼女は気づいてしまった。
……私はこの男を警戒していた、それどころか悪感情を抱いていたはずなのに、この状況は何だ?
いつの間にか心境を吐露してしまっていた。いつの間にか、この男を憎めなくなってしまっていた。
いや、人好きのする笑顔に引き込まれ、好意すら……
一体この男は何だ?
リリーはユリアンの敵対者が悉くユリアンに懐柔されているように見える現状を思い出した。
ユリアンという存在に今までとは異なる恐怖を感じた。
それは、一部の人間がトリューニヒトに感じるものと同種のものだったかもしれないが、トリューニヒトに心酔するリリーにはわからなかった。
リリーは手を引っ込めた。
「あなた……やっぱり噂通り、いや、それ以上の危険人物ですね!」
リリーの豹変にユリアンは戸惑わざるを得なかった。
「急にどうしたんですか!?」
「自覚がないんですか?それとも自覚がない振りをしているだけですか?いずれにしても余計に性質が悪いです!シェーンコップ、ポプランの二人よりも!」
「どうしてその二人の名前が出てくるんです!?」
リリーは顔を真っ赤にして叫んだ。
「……自分で考えてください!」
別の場所ではアルマリック・シムスンがエルウィン・ヨーゼフに呼び止められていた。
「少しいいか?」
「何です?……エルウィン・ヨーゼフ陛下?」
「エルウィンでいい。一度卿と話して見たかったんだ」
「……見た目はあなたと同じ少年ですが、私はこの艦隊で最長老ですよ?話が合いますか?」
「つれないことを言わないでくれ。お互いこの艦隊では異分子じゃないか」
「異分子……そうかもしれませんが」
「それとも、地球の一派に協力していた者とは話もしたくないとか?」
アルマリックはエルウィンの顔を観察したが、笑顔の下の感情を読み取ることはできなかった。
「そう思われたのなら謝ります。あなたも私と同じく踊らされた側の人間ですしね」
「多少不本意だが、まあ、その通りだ。余は地球統一政府なるものの存在に気付きさえしていなかった。ずっと月にいたというのに」
エルウィン・ヨーゼフの声には憮然としたものが混じっていた。
「地球教団や神聖銀河帝国の人間は誰も気づいていなかったのですか?」
「今思えば、ド・ヴィリエ大主教は地球統一政府と繋がりがあったのだろうな。神聖銀河帝国が勝利した暁には、彼を介して地球統一政府が銀河を支配していたかもしれない。大主教自身はそれを良しとしていたわけではなかったようだが」
ド・ヴィリエが思わせぶりな言葉を発していたことも、今回のことに対する遠回しな警告だったのだと今となっては理解できた。
「ユリアン・フォン・ミンツは?」
アルマリックの中には多少の疑念があった。
「気づいていなかったな。気づいていたら、もっと異なる行動をしていたはずだ。……トリューニヒトと裏で通じているなどという心配は今回に関しては無用だ」
「信用しているんですね」
「友達だからな」
エルウィン・ヨーゼフの笑みが、この瞬間年相応の少年のものに見えた。遥か昔にアルマリックが失ったものがそこにはあった。
「この戦いが終わったら、ユリアンの奴も入れて語り合わないか?シリウス戦役からこれまでの歴史について色々と話を聞かせて欲しい。……まあ収容施設に戻されるまでの間しか時間はないが」
エルウィン・ヨーゼフは自嘲気味に付け足した。
アルマリックは静かに答えた。
「そうですね。そんな時間を持ってもいいかもしれませんね」
ヤンは、ユリアン、エルウィン・ヨーゼフ、アッテンボロー、ホーランド、ビッテンフェルト達と、太陽系到着までの間に、対地球統一政府作戦の詳細に関して詰めた。
ミュラーは、損傷艦や負傷した独立諸侯連合のプレスブルク中将達と共にシリウスに残ることになった。ミュラーの幕僚団に負傷者が多数発生していたことも理由の一つであるが、ヤンが地球統一政府に敗北した場合、ミュラーが銀河保安機構の事実上のNo.2として銀河人類最後の寄る辺を務めることになる。
オーベルシュタインも一命はとりとめたが昏睡状態でありシリウスに残った。
ユリアンは、ヤンの作戦に関して意見し、修正案を提示した。
司令官を補佐するのは、神聖銀河帝国で総参謀長を務めた時以来であり、その時ヤンは敵だった。
ヤンと戦った際の緊張や昂揚感とはまた違った充足感をユリアンは覚えていた。
心の何処かでこのような役回りを望んでいたかのような気がしていた。
別の歴史があり得たことを知る今となっては、その思いも別の歴史の自分のものなのかもしれないと、ユリアンには思えた。
一方で、リリー・シンプソンに指摘されたこと、レディ・Sがいなかったらトリューニヒトがユリアンに関わることはなかったという可能性は、ユリアンの心にまだ澱のようになって残っていた。
しかし、トリューニヒトの意図がどうあれ、ユリアンが彼に救われてきたことは事実だった。
トリューニヒトが、どんなことを考えて今回のような事態を招いたのか、何を考えて生きてきたのか。
ユリアンは、そのことを直接問い質したかった。そのためにもトリューニヒトを何としても救い出そうと思っていた。
ユリアンは、艦の廊下でシェーンコップと遭遇した。
既にシェーンコップ、ポプラン、アルマリックには救出への感謝の言葉を伝えていた。
シェーンコップが立っている場所が女性士官の部屋の前であることに気づき、ユリアンは挨拶だけしてすぐに立ち去ろうとした。
しかし、シェーンコップの方がユリアンを呼び止めた。
「よう、色男。シンプソン女史にちょっかいをかけていたようだな」
「そんなことしていませんよ!」
ユリアンは思わず大声を上げてしまったが、シェーンコップはニヤニヤと笑うだけで取り合わなかった。
「お前さんのことだ。結婚式までに、いや、結婚式で何が起こっても別に驚かんさ」
「不吉な予告をしないで下さい」
「お前さん、婚約者達のことは心配していないのか?」
「メグ……ヘルクスハイマー大佐は任せろと言っていました。心配なんてしたら怒られますよ」
「へえ」
「それに、あなたの娘、カリンだって大したものですよ。だから、僕は地球統一政府を倒すことに専念できるんです」
「……返答次第ではどうしてやったものかと思っていたが、まあ、納得しておこう。俺は月に着いたら真っ先に内部に突入するつもりだ。早くそう出来るように、状況を整えてくれよ。参謀長殿」
「勿論です!」
その時、女性士官の部屋の扉が開いた。
出てきたのはポプランだった。
ポプランは、ユリアンとシェーンコップの顔を見て、薄ら笑いを残して去って行った。
銀河三大色男のポプランとシェーンコップとユリアンが、一人の女性士官を取り合って部屋の前で言い争っていたという尾鰭のついた噂が流れたのは、程なくだった。
短い準備と休息の時間を経て、艦隊は太陽系に到着した。
残り短い時間の中で、銀河人類の運命は大きく動くことになる。