トリューニヒトは銀河の状況をヤン達に説明した。
宇宙暦805年3月4日午前10時にそれは起こった。
この時、いまだに〈蛇〉は既知領域各所に残存しており、そのために各国は不要不急の恒星間航行の自粛を要請していた。
これが最悪の結果につながった。
オリオン連邦帝国ヴァルハラ星域
帝都オーディンを抱えるヴァルハラ星域を一隻の商船が遊弋していた。その商船はオーディンに少しずつ近づいていた。
いま少し時が経てば不審に思った警備艦が臨検を試みたかもしれない。
しかし、そうはならなかった。
商船から突如時空震が発生した。
ワープしたわけではなかった。
商船は依然としてそこに存在し続けた。
メッゲンドルファーの開発した時空震連続発生装置、それと同様のものを商船は搭載していた。
メッゲンドルファーの装置は実のところオリジナルが地球統一政府に存在したのだった。
その震動は弱まりながらも星域の広い範囲に伝播し、オーディンの大気とぶつかって一定の周波数の音波を惑星内に発生させた。
星域を航行中の艦艇の内部に対しても同様だった。
同様のことはハイネセンでもフェザーンでも、キッシンゲンでも起きていた。
この音波が人々に与えた影響は深刻だった。
銀河人類が、生殖能力が低下するようにゲノム改変されていた事実は、ユリアンによって既に暴かれていた。
このゲノム改変の首謀者は地球統一政府、あるいはその亡霊だった。
地球統一政府は、影で働きかけを行うことで擬似科学の蔓延、生命科学者の弾圧を引き起こし、長期的に生命科学を衰退させた。
これによって、銀河帝国の時代には、銀河人類は生命科学的面での攻撃に対する分析・防御手段を失うことになった。
これによって、地球統一政府は、人々に気づかれずにゲノム改変を行うことが可能となった。
ユリアンが生命卿事件において行なっていたように、生活用水や食品にゲノム改変薬を混入させることで。
ゲノム改変の目的は出生率の低下だけではなかった。死に繋がる爆弾すら、地球統一政府は人々のゲノムに埋め込んでいたのである。
古来、音などの刺激で誘発される痙攣を伴う先天性の疾患の存在は知られていた。
地球統一政府の時代は、後世と比較しても生命科学の発展していた時代だった。
地球統一政府は、一定の周波数の規則的な音波によって、痙攣や意識喪失が引き起こされる疾患と関連する一連の遺伝子群とその変異を発見していた。
地球統一政府はゲノム改変によってそれを意図的に銀河人類に埋め込んだのだった。
時空震連続発生装置によって発生した音波は、まさに銀河人類が意識を失う周波数であった。
隠密に動く必要のある地球統一政府にとって、銀河中のすべての可住惑星に時空震連続発生装置を備えた艦艇を一隻ずつ派遣するという力技は難しかった。
このため、同装置を持った艦艇は、人口の多い主要惑星、軍港などの主要軍事施設に絞って派遣された。
それでは、他の可住惑星についてはどうだったのか?
その他の可住惑星に破滅の音波をもたらす為に、地球統一政府は別の伝播方法を用意していた。
一つが「
「驢馬の耳」は、音声を減衰させずに伝達させる性質を持っており、主に盗聴目的に使用され、地球統一政府の重要機密となっていた。
「驢馬の耳」には、内部に伝わった信号を、外部からの一定周波数の音波の刺激により再度音波に変換する性質も持っていた。
地球統一政府は「驢馬の耳」を、地球時代の巨大企業群ビッグ・シスターズの流れを汲む建築材生産企業の製品に仕込んでいた。
この製品は九百年のうちに広く銀河中の建築物に使用されていた。
時空震連続発生装置搭載艦を派遣できなかった惑星では、同じく九百年の間に設置されていた小型の音波発生装置が起動した。それは極低周波爆弾と同様の原理によるものだった。
その音波は、地下など通常は音波の届かない場所にも建築材に埋め込まれた「驢馬の耳」を介して伝播した。
各星系を警備する艦艇についてはどうだったのか?
平和な時代となっていた既知銀河は、恒常的な超光速通信ネットワークで繋がるようになっていた。
警備艦隊は互いにネットワークで結びついていた。
地球統一政府は、情報技術でこの時代の水準を上回っており、そのネットワークを乗っ取ることに成功していた。流石に、簡単にというわけではなかったが。
各星系の警備艦艇にはネットワークを通じて音波が送り込まれることになった。
結果、銀河中に銀河人類を昏睡させる音が鳴り響いた。
それは、既知銀河に終末を告げる角笛の響きのようでもあった。
大規模な軍事施設に対しても時空震連続発生装置搭載艦が派遣されており、宇宙空間を介して伝わる音波によって、各国艦隊の大部分は無力化された。
恒星間航行中の艦艇の中には被害を免れるものもいたが、銀河中の殆どの人々は〈蛇〉の被害回避のために惑星内に留まっており、その数は僅かだった。
地球統一政府は、わざとこのタイミングを狙って事を仕掛けたのだった。
一時的に音波を免れたものがいても、どこかでこの音波に晒されてしまえば終わりだった。
最終的に銀河人類の99%以上が昏睡状態に陥った。
これが銀河人類四百億人安楽死計画『無血の夢』のほぼ全貌だった。
ヤンとユリアンはタイムワープによって過去に戻った時に受けた謎の攻撃を思い出していた。あれがゲノム改変の影響によるものだと、ようやく理解した。
「この計画は二段構えで、本来はゲノム改変と戦乱による人口減少だけで事は片付く筈だったのだけど。そうすれば弱体化した銀河人類を我々が平和のうちに支配できたのに。
でも、ヤン・ウェンリーの動きの所為で銀河は平和になってしまったし、ユリアン、あなたのせいでゲノム改変のことが露見してしまったから、こんなことになったのよ」
そう語るレディ・Sは、ユリアンの方を見ていた。
ユリアンとしては忸怩たる思いだった。気づいて然るべきだったのではないか、と。
レディ・Sの視線には憐れみがこめられていた。
「下手にユリアンの動きを掣肘した所為で、中途半端なことになってしまったわね。あのまま好きにやらせておけばもしかしたら今頃銀河人類は助かったかもしれないのに」
ヤンはその発言を無視して、問うた。
「それで、我々に親切にも状況を教えてくださったのは一体どういうことです?」
トリューニヒトが答えた。
「決まっているだろう?状況が絶望的だとわからせた上で、降伏勧告を行うためさ」