宇宙暦805年2月28日に始まったシリウス星域の決戦は、3月3日に終結した。
さらに1日経過した3月4日、銀河保安機構及び各国軍はいまだにシリウス星系に留まり、事後処理に努めていた。
第七惑星には恒星間航行能力は持たないとはいえ、いまだに〈蛇〉が残存していた。他星系のガス惑星でも同様の状況が発生している可能性があり、その対応については今後の課題となった。また、〈蛇〉に囚われたまま行方不明となっている民間人の救出も急務であった。
既にユリアン・フォン・ミンツの救出には成功しているため、彼が目を覚ませば、参考になる情報を知ることができると考えられた。
ユリアンは、旗艦ヒューベリオンの医療区画に搬送されていた。消化器内に侵入していた〈蛇〉によって栄養失調の状態に陥いり、一時的に気を失っていたが、容体は安定していた。
ユリアンは夢を見ていた。
そこでは、すべてのものが繋がり、感覚を共有し、感情を共有し、意識を共有していた。
人類の生み出した精神活動のすべてがそこには存在した。それだけではなく、かつてこの宇宙に存在した、あるいはこれから存在する、異星の精神の産物までもがその姿を垣間見せていた。
この宇宙に精神以上に貴重なものなどないことをユリアンはいまや理解していた。
時空すら超越し、ユリアンは全にして個、個にして全だった。
精神の無限の可能性が、本当に美しいものが、ユリアン、あるいはユリアンだったものの前に現れようとしていた。そのはずだった。
……しかし、そこに至る資格がユリアンにはなかった。
憎悪、怨恨、羨望、ありとあらゆる負の感情がユリアンの中に渦巻いていた。
それらは、ユリアンをその可能性から遠ざけ、ついには……
3月4日の夕方、ユリアンは目を覚ました。
どうやら寝ている間に泣いていたようだった。
体は拘束されていた。それは当然の処置だとユリアンも思った。
不意に横から声をかけられた。
「目を覚ましたか。急に涙が溢れ出して驚いたぞ」
ベッドの隣に座っていたのは、エルウィン・ヨーゼフだった。横にもう一人、エルウィン・ヨーゼフと同年代の少年が立っていた。彼のことをユリアンは知らなかった。
ユリアンはひとまずエルウィン・ヨーゼフに声をかけた。
「陛下……」
エルウィン・ヨーゼフはニヤリと笑った。
「婚約者達でなくて残念だったな」
スクリーン越しに顔をあわせたことはあったが、ユリアンがエルウィン・ヨーゼフと直接会うのは3年ぶりだった。
背は170cmを越え、体格もよくなり、風貌も大帝ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムに以前よりさらに似てきていた。しかしその眼差しには威厳とともに、温かさが垣間見られるようにユリアンには見えた。
ユリアンは看護師に拘束を緩めてもらいながら答えた。
「いえ、そんなことは……しかし、どうしてこちらに」
「この艦隊にいるのは卿の救出に協力していたからだ。いざという時には卿に対する人質として使ってくれと伝えてあったのだが、ヤン・ウェンリーは結局そうしなかったな」
「そうだったのですね。大変なご迷惑を」
「気にするな。で、この部屋にいるのは、余と、このアルマリック・シムスン以外は皆忙しいからだ。それに、余自身が監視される側だからだ。卿と余、分散させておくより、一箇所に固めておいた方が監視しやすいだろう?」
「それはそうかもしれませんね」
そう言ったきり、ユリアンは黙り込んでしまった。
懐かしさもあったし、募る話もあるはずなのだが、ユリアンは話をする気分にはなれなかった。
不敬とも言える態度だったが、それよりもエルウィン・ヨーゼフはユリアンの様子の方が気になった。
「どうした?ユリアン?元気がないではないか?」
「陛下、僕は……」
ユリアンは言い淀んだ。
「何だ?言ってみよ」
「いえ、言えません。陛下だからではありません。婚約者達に対しても言えません」
ユリアンの表情は暗かった。
エルウィン・ヨーゼフはその様子を見て、苦笑いを浮かべた。
「ユリアン、余はヴェガ星域での敗戦の後、卿に励まされた。せっかくその時の借りを返せるかと思ったんだがな」
「すみません」
「我々は友達だよな」
その言葉にユリアンは胸が痛んだ。
「だから余計に話せないのです」
「それでは、ヤン・ウェンリーになら言えるのか?」
意表をつかれて、ユリアンは顔をあげた。
エルウィン・ヨーゼフは一つ頷いた。
「ヤン・ウェンリーから、卿が起きたら呼び出して欲しいと頼まれていたのだ。もうすぐ来るだろう」
「そうだったのですか」
エルウィン・ヨーゼフは立ち去る前に一つ、ド・ヴィリエからの言葉を伝えた。
「すべてはこれからだ、心せよ、だと。ド・ヴィリエ大主教は理由を教えてくれなかったが、余にも、今の状況には何か引っかかるものがある。お互い注意しておこう」
エルウィン・ヨーゼフがアルマリック・シムスンと共に立ち去って数分と経たずにヤンが姿を見せた。
「ユリアン、体は大丈夫か?」
「はい……ご迷惑をおかけしました」
「迷惑をかけたのはむしろ銀河保安機構かもしれないが……しかし、元気がないじゃないか」
ユリアンは思いつめた表情をしていた。
「ヤン長官……僕は生きていてよいのでしょうか?」
ヤンは表情を硬くした。
「その言葉を聞いたら救出作戦に関わったすべての人が悲しむか怒るかすると思うけどね」
「すみません。しかし、僕は」
「何だい?」
「僕は、みんなを憎んでいます」
ヤンは平静を保っていた。少なくとも表面上は。
「みんなって?」
「人類すべてを、です。デグスビイ主教やオーベルシュタイン中将だけじゃなかった」
「それは〈蛇〉の影響のせいだろう?」
「違います。〈蛇〉によって強められていたにせよ、元になる感情は僕のものだった」
ユリアンは頭を抱えた。
「僕は憎んでいるんです。それがわかってしまった。メグのことも、カリンのことも、ザビーのことも、リザのことも、地球財団の誰もかれも。エルウィンのことも」
ユリアンは顔をあげ、ヤンを見た。
「ヤン・ウェンリー、あなたのことも」
ヤンは思わず目を泳がせた。心に刺さるものがあった。
ヤンは思った。
ユリアンがヤンの養子となった、あり得たはずの歴史においてもユリアンは心に憎しみを抱いていたのだろうか。
ヤンは薄れかけた記憶を辿った。
その歴史で、ユリアンは常に「よい子」であろうとしていたように思えた。
しかし、心には不安と激情を隠していたことはヤンも理解していた。
ユリアンはヤンに親愛の情を向けてくれていたが、その一方で、ヤンを否定する者には強い憎しみを向けることが多かった。……一度だけ、ヤンに見放されたと感じたユリアンが、ヤンに対して激情を見せたことがあったようにも思う。
あり得た別の歴史では、ユリアンの心の闇と向き合う前にヤンは死んでしまった。
おそらくはそのヤン自身の死もユリアンの憎しみの種となったことだろう。
ユリアンは果たして、自分で自分の抱える負の感情に答えを出せたのだろうか。
ユリアンの独白は続いていた。
「僕は、生きている限り常にこの憎しみを抱えることになる。その結果、人類を、大切なはずの人々を、傷つけることになる」
ヤンは、再びユリアンの目を見た。
ユリアンの目に絶望と、救いへの渇望を見た。
「こんな僕が生きていてもよいのでしょうか?」
ヤンはこの世界に神がいるとすれば、一つだけ感謝したいと思った。
別の歴史ではなかった、ユリアンの心の闇と向き合う機会を与えてくれたことに。
ヤンは口を開いた。
「いや、ユリアン、そうではないと思う。何かを憎悪することのできない人間に、何かを愛することができるはずがない。私はそう思うよ」
それは取り繕った言葉ではなかった。ヤンの人間観に関わる言葉だった。
ユリアンはその言葉に目を見開いた。ユリアンは、何故だかヤンからその言葉を聞くことをずっと待っていたように感じた。
しかしユリアンの表情はすぐにまた暗くなった。
「しかし、僕はすべてを憎んでいるんですよ」
ヤンは言った。
「すべてを憎むことなどできないよ。憎しみが大きいのは、それだけ君の情が深い証拠だ。胸に手を当てて考えてごらん。君は憎しみを心に持っているかもしれないが、それでもやっぱり婚約者達のことを愛しているんだろう?」
ユリアンは顔をうつむかせてしばらく黙っていたが、やがて、一言口にした。
「はい。愛しています」
その目からは一筋、涙が流れていた。
「それなら、生きないといけないよな」
ヤンの言葉は自分自身にも向けられていたかもしれない。
ユリアンは静かに頷いた。
ユリアンの長い長い反抗期は今、一つの出口に辿り着いた。
ユリアンはその後、医師の診察を受け、身体と精神に大きな問題がないことが再度確認された。
夜になってからオーベルシュタインが、バグダッシュを伴って来訪した。
「オーベルシュタイン中将、ご迷惑をおかけしました」
オーベルシュタインに対して謝ったユリアンの姿に、目に見えて驚いたのはバグダッシュだった。ユリアンがオーベルシュタインに激しい憎しみを抱いていたことを知っていたからである。
オーベルシュタインは静かに返した。
「卿には恨みごとを言われても仕方がないと思っていたのですがな」
実際のところ、掴みかかって来られることもオーベルシュタインは想定していた。
「ええ、恨んでいますよ。いろいろと」
言葉に反して、ユリアンの表情も態度も落ち着いていた。
「でも、自分のしでかしてしまったことには責任は取らないといけません。いまだにどう取るべきかについては迷っておりますが」
「少し、変わられたか?」
「そうですね。少しだけ変わったかもしれません」
自分の負の感情をしっかりと認識できたこと、不謹慎かもしれないがそれだけは〈蛇〉に感謝するべきかもしれないとユリアンは思った。
「ふむ……」
オーベルシュタインとバグダッシュは、行方不明者の所在、既知領域に潜む〈蛇〉の情報、未踏領域の状況についてユリアンに事情聴取を行なった。
オーベルシュタインは最後に言った。
「実は、卿を今回の件で処断することを考えていました。昨日までは、ですが」
ユリアンはオーベルシュタインの目を見た。
「今は違うのですか?」
「それどころではないかもしれぬのです。伝えておりませんでしたが、マルガレータ・フォン・ヘルクスハイマーはいまだに行方不明です」
「でも、声が聞こえましたよ?」
ユリアンはマルガレータと赤ん坊の声を確かに聞いていた。
「我々も聞きました。しかし、我々もそれがどこから発せられたものか把握できていないのです」
ユリアンは絶句した。既に救出されたものとばかり思っていたのだ。
その時、オーベルシュタインに通信が入った。
「急ぎ、艦橋に戻って来てください。長官の指示です。ユリアン・フォン・ミンツが動ける状態なら彼も一緒に、とのことです」
明日の朝にもう一話投稿予定です。