「宇宙が震え鳴り響く様を想像してください。それはもはや人間の声ではなく、惑星や太陽のそれなのです。」
……グスタフ・マーラー、「千人の交響曲」に関して
「オンギャー!アンギャー!オンギャーーー!!!!」
虚空に鳴り響く産声の中に、別の声が混ざった。
「おーい!ユリアーン!生まれたぞー!早く帰って来ーい!」
赤ん坊の泣き声は〈蛇〉を混乱させ、ユリアンを精神制御から解き放った。
そこに飛び込んできた愛する女性の声にユリアンは反応した。
「メグ!今までどこに居たんだ!?それにこの泣き声!僕の子供なの!?」
ユリアンはこの時、人としての正気を回復していた。
一も二もなく、マルガレータと赤ん坊の元に飛んで行きたくなっていた。
次の瞬間、ユリアンは自らの精神に再び入り込んで来ようとする存在を知覚した。
ユリアンは状況を思い出し、再び〈蛇〉に取り込まれる前に咄嗟に行動を選択した。
最初に、〈蛇〉に取り込まれてからも肌身離さず持っていた小さなクマのマスコットを取り出し、その尻尾を引っ張った。
それは、マルガレータがヘルクスハイマー伯爵邸でユリアンに渡したものだった。その内部には、マルガレータも「恐怖の銀河帝王事件」で使用した超光速信号発生装置が組み込まれており、尻尾がその起動スイッチだった。
発生した信号は、ユリアンの位置を銀河保安機構軍に知らせた。
ユリアンは次に、義足に仕込んだスタンロッドを起動させ、自らに作用させることで気を失った。
クマのマスコットから発せられた信号によって銀河保安機構軍はユリアンの位置を把握した。
これを受けて、惑星ロンドリーナに設置されていた人工衛星の一つが動き出した。
それはアルマリック・シムスンが乗っていた人工衛星であり、偽装を解いたその姿は小型の強襲揚陸艦だった。
強襲揚陸艦は、アクロバティックな起動で〈蛇〉の群れを避け、ユリアンが座乗する一体の〈蛇〉に向かった。
操縦者はオリビエ・ポプランだった。
同乗者は、アルマリック・シムスンとシェーンコップ、それに元連合軍薔薇の騎士戦隊所属、現銀河保安機構陸戦部隊の精鋭達である。
強襲揚陸艦は、〈蛇〉に接舷し、揚陸用のシリンダーを溶解液で接合させた。
ユリアンがいるはずの艦橋は厚い肉塊で覆われており、直接の揚陸が難しかった。
このため、艦橋までは内部を徒歩で進む必要があった。
居残りとなるポプランがシェーンコップ達に手を振った。
「いってらっしゃい!ちゃんと囚われのユリアン姫を助けてから戻って来てくださいね」
装甲服に身を包んだシェーンコップは不敵な笑みを返した。
「あの坊やにはものわかりの悪い父親になって娘の結婚を邪魔するという楽しみを実現させてもらったからな。これからも楽しませてくれそうな奴にここで死んでもらっちゃ困るんだ。お前さんだって同感なんだろう?」
「ええ、世の中退屈になるかと思ったら、あの坊主のおかげで全然退屈しませんからね。おかげで宇宙海賊に転職しなくて済みそうですよ」
「ふん。それでは、今後の楽しみのためにユリアンを救いに行くとしよう」
「はい、せいぜい俺の楽しみのために頑張ってくださいよ」
「なかなかに緊張感のない会話だね」
そのように口を挟んだアルマリック・シムスンは最も緊張感のない服装をしていたかもしれない。装甲服を着ておらず、年代物の熱線銃と荷電粒子銃、それに超硬度鋼製のナイフを携帯するのみだった。本人曰くロボットなので余計な装備は不要とのことである。
アルマリック・シムスンとシェーンコップ、陸戦隊メンバーは、ユリアンがいる〈蛇〉の内部に乗り込んだ。
シェーンコップ達の装甲服にはスレイヴを含んだ土壌が仕込まれており、〈蛇〉の精神波の影響は最小限となるはずだった。
艦の内壁にはビクビクと波打つ淡緑色の塊がそこかしこに貼り付いていた。
まるで人体の消化管の内部にでも侵入したかのようだった。
産声はいまだに鳴り響いていた。
それを聴きながら、体内めいた空間を進んで行く様は、ある種の前衛芸術の世界に紛れ込んだかのようでもあった。
ユリアンがいると思しき艦橋まで道半ばまで来たところで、異変が起きた。
壁に結合していたはずの肉塊が突如手足を伸ばしてヒトガタとなり、陸戦隊の一人に跳びかかったのである。
シェーンコップが叫んだ。
「ドルマン、後ろだ!」
薔薇の騎士出身のドルマンは流石に精鋭であり、飛びかかってきたそれを苦もなく戦斧で両断した。
計算違いは両断された塊が、二つに分かれたまま再度襲いかかってきたことだった。
シェーンコップが熱線銃の連続射撃で肉塊を二つとも消し炭に変えてしまったため、事なきを得たが、皆改めて戦う相手が人外であることを認識した。
「斧や刀は効かないらしい。銃か火炎放射器を使え。それから、走るぞ!」
産声に紛れてはいたが、何かが迫る音が聞こえてきていた。
潜んでいたヒトガタが迎撃のためについに活動を開始したものだと思われた。
シェーンコップ達は艦橋まで急いだが、あと少しのところでヒトガタの群れに囲まれてしまった。
シェーンコップがアルマリック・シムスンに告げた。
「あんた、単独行動の方が素早く動けるようだな。ここは俺たちが引き受けるから先に行ってユリアンを助けて来てくれないか」
「了解した。そのためについて来たようなものだからね」
アルマリック・シムスンは人ではあり得ぬレベルの跳躍でヒトガタ数匹の頭上を飛び越え、艦橋へと急いだ。
事情をよく知らない陸戦隊の一人が、シェーンコップに尋ねた。
「ありゃあ、何ですか?あの跳躍、人間なんですか?」
「人間なんだろうよ。機械でできているか肉でできているかの違いだけで」
アルマリック・シムスンは、途中で何匹かのヒトガタに遭遇し、その度に熱線銃で消し炭に変えた。
ようやく艦橋の入り口と思しき場所に辿り着いたが、目の前にあったのは淡緑色の壁だけだった。
「流石に封鎖ぐらいはするか」
アルマリックは荷電粒子銃を構えて壁に向けて撃った。
淡緑色の壁は吹き飛び、その先に艦橋が見えた。
艦橋に侵入し、内部を見渡したアルマリックはそれを発見した。
蠢く肉塊がユリアンをまるで護衛するかのように取り囲んでいた。
ユリアンが意識のある状態であれば、〈蛇〉からすればユリアンの精神を支配した上で、殺してしまえば事は済んだ。
しかし、意識を失っている状態で殺してもユリアンの精神を〈蛇〉のネットワークに取り込むことはできない。
〈蛇〉には現状ユリアンの意識が戻るまでは奪還を阻止する以外に選択肢がなかった。
アルマリックはゆっくりと歩いて行った。
手と足に触手状になった〈蛇〉が巻きついてきた。
常人ならば手足の骨が砕ける程の力だったが、アルマリックは構わず前進を続けた。
「サイボーグの膂力が役立つ時が来てよかったよ」
オリジナルの自分が死に、シリウス政府も崩壊してから九百年、サイボーグとして存在し続けて来たことに多少の甲斐があったのだとアルマリックは感じることができていた。
容易に止められぬと見た〈蛇〉は集合し、大きな塊となって覆いかぶさってきた。
体全体を覆われたことで、アルマリックもついに歩みを止めた。
そのまま押し潰されるかに見えたが、次の瞬間に閃光が走った。
アルマリックが体全体から高電圧を発したのである。
アルマリックのロボット体は元々高電圧に耐えられるよう設計されていた。そのことを利用してアルマリックは奥の手として、高電圧発生装置を身体中に仕込んでいた。
ユリアンの義足のスタンロッドと同じ発想だったが、自らの生命を気にしないでよい分、比較にならないほどの大威力だった。
当然〈蛇〉も無事ではなかった。猛獣が火を恐れるように、反射的にアルマリックから離れた。
同時に、電気のショックでアルマリックのロボット体に仕掛けられていたリミッターの、最後の一つが外れた。
アルマリックは〈蛇〉が怯んだ隙に急加速してユリアンの身体を回収した。
同時に艦橋の入り口で爆発が起きた。入り口が肉塊で再び閉じられようとしていたのを、艦橋に侵入する際に事前に仕掛けていたリモートコントロール式の爆破装置によって吹き飛ばしたのである。
アルマリックはユリアンを両腕に抱えたまま跳躍して艦橋を脱出した。
ナニモヨメナイ、オマエハイッタイナンナノダ。マタシテモ、ワレワレノジャマヲスル、オマエ、オマエタチハ、イッタイナンナノダ……
アルマリックには、聴こえるはずもないそんな声が聞こえたような気がした。
艦橋を出てからは、全速力を発揮して邪魔を図るヒトガタを振り切り、シェーンコップと合流した。
シェーンコップ達は、未だにヒトガタと戦っていた。倒しても倒してもヒトガタは後から湧いて出て来た。
シェーンコップがアルマリックに向かって叫んだ。
「救出に成功したんだな!もうすぐポプランの奴が来るから待っていろ!」
その言葉通り、暫くしてポプランがやって来た。
揚陸艦で外側から壁を突き破ることで。
シェーンコップ達の突入後、揚陸艦にヒトガタが侵入して来そうになったため、ポプランは艦ごと一時離脱していた。
シェーンコップは、ポプランに自らの現在位置を知らせて、脱出にかかる時間を短縮させたのである。
連続の無理な揚陸で、突入用のシリンダーは十分な気密を保つことはできていなかったが、シェーンコップ達にそんなことを気にする余裕はなかった。
数分でシェーンコップ達の脱出は完了し、揚陸艦は再度〈蛇〉から離れた。
〈蛇〉から、緑色の触手が艦に向けて伸びたが、揚陸艦にまで届くことはなかった。
シェーンコップ達を出迎えたポプランは、アルマリックを見てギョッとした。
「ご苦労様……あんた、力持ちだね。その抱え方……俺が姫と言ったから?」
シェーンコップも見かねて助言した。
「お前さんの腕力じゃ重くないのかもしれないが、そろそろ、そのお姫様抱っこはやめていいんじゃないか?」
少年の姿のアルマリック・シムスンが180cm近いユリアンを両手で抱っこしている姿はなかなか不思議な光景だった。
揚陸艦は、脱出を急いだ。
〈蛇〉はユリアンのことを諦めていなかった。
ポプランが嘯いた。
「行きはよいよい帰りは怖いってか」
突入時とは比べ物にならない激しさで〈蛇〉の集団が五月雨式に襲いかかって来た。
ポプランはそれを軽業のように躱して、ついに銀河保安機構軍の艦列まで退避することに成功した。
その時になってようやくユリアンが目を覚ました。
揚陸艦内にもスレイヴ含有の土壌が積載されており、〈蛇〉の影響は既にない筈だった。
「皆さん……」
言い淀むユリアンに、まず声をかけたのはシェーンコップだった。彼には訊いておくべきことがあった。
「気づいたか、ユリアン。早速ですまんがヤン提督からの質問だ。残存の〈蛇〉に、お前さんの他に誰か人は乗っているか?」
「いません。僕だけでした。……不要ですから」
「そうか……」
突然、ユリアンが腹部を押さえて苦しみだした。
「おい、どうした!?」
苦しむユリアンと珍しく慌てたシェーンコップを見ながら、アルマリックは昔話を思い出していた。彼が生身の体を持っていた頃に聞いた、人類の活動の舞台が太陽系だった時代の話。〈蛇〉の元になったスウェルを食べた男の話を。
「きっと、体内に〈蛇〉がいるんだ!」
それを聞きつけたポプランは、懐から黒と茶色の中間色をした液体が入った大瓶を取り出し、ユリアンの口に押し付けた。
「飲め!」
「まさか!?」
固く歯をかみ合わせ、飲むまいとするユリアンの鼻をポプランは左手でつかんだ。
呼吸できなくなったユリアンの顔が赤くふくれ、耐えられなくなって開いた口に、その濁った液体が注ぎこまれた。
数十秒後、ユリアンの顔色が変わり、今度は喉元を押さえた。
「おげえええ!!!」
ユリアンは今飲んだ液体と一緒に緑色の塊を吐き出した。
陸戦隊員が叫んだ。
「〈蛇〉だ!」
緑色の塊は茶色の液体の中でのたうち回り、見るからに苦しんでいた。
シェーンコップは銃を抜き、熱線でそれを焼いた。床に残ったのは黒い痕だけだった。
アルマリックがポプランに尋ねた。
「〈蛇〉を身体から追い出すなんて、何を飲ませたんですか?」
ポプランはウインクして見せた。
「ユリアンに飲ませて欲しいと渡されていたカリンちゃんから預かった疲労回復薬さ。クロイツェル家秘伝のもので、材料は秘密だとさ。虫下しにもなると聞いていたんで飲ませたんだが、効果覿面だね」
「あれか。あれは……不味いんだ」
シェーンコップはかつて飲んだことのあるその味を思い出し、うんざりした顔をした。
ユリアンは再び気絶してしまったが、ともかくもユリアン救出作戦「オペレーション・ローレライ」は成功した。
救出成功の報を聞き、ヤンは口笛を吹こうとして失敗した。
きまり悪げに頭をかきながら、ヤンは命令を下した。
「最終フェーズに移行してくれ」
ヤンが作戦の最終段階が開始された。
軌道上の人工衛星群が突如爆発した。
それは〈蛇〉自体には大した損害を与えなかったが、惑星ロンドリーナから〈蛇〉の目をそらす効果はあった。
惑星ロンドリーナには銀河保安機構技術局員が隠れていた。彼らは即席の地下壕から、人工衛星の爆発にタイミングを合わせてロケットを打ち上げた。
ロケットには、拡散性ゼッフル粒子発生装置が搭載されており、衛星軌道上にゼッフル粒子を迅速に拡散させた。
ヤンは停止させていた砲撃を再開させた。
「
「
各司令官の命令によって、各艦隊から〈蛇〉に向けて光条が伸び、ゼッフル粒子に点火した。
惑星ロンドリーナの周りに炎でできた巨大な殻が出現し、〈蛇〉は殲滅された。
終わってみれば、敵艦艇撃破率99%以上でありながら敵将兵の死傷率0%という前代未聞の殲滅戦がここに実現していた。
シリウスにおける決戦は、ヤン・ウェンリー、銀河保安機構、そして人類の勝利に終わった。