「すべての人類が統一された精神体の一部となり、まったく同じように考え、同じように感じ、同じ価値観をもつようになれば、人間の種としての進化が達成できるのです」
……宇宙暦八世紀末、とある宗教家の主張
宇宙暦805年1月21日、アウロラ・クリスチアン少佐からマルガレータ失踪の報を受けたユリアンは、何を言われたのかわからず聞き返す羽目になった。再度繰り返された説明にもユリアンは明確な反応を返すことができなかった。
アウロラはそのようなユリアンの姿に動揺した。
「ミンツ総書記?ミンツ総書記!ユリアン!呆けている場合ですか!」
ユリアンは弱々しい声で返した。
「ごめん、アウロラさん、聞いているよ」
ユリアンは普段の余裕を失い、まるで幼い少年に戻ったような有様で、涙すら流していた。
ユリアンの中でマルガレータとその子供の存在はそれだけ大きなものになっていたということだろう。
「それでは、そのままでいいですから聞いてください」
アウロラにもユリアンの精神状態は想像できたが、それでも聞いてもらわねばならなかった。
「この件に関して、既にポプラン大佐、クリストフ・ディッケル中佐を含む複数人の独立保安官が動いています。それからオーベルシュタイン長官補佐はこの件には関わっていません」
ユリアンに、アウロラ・クリスチアン少佐がオーベルシュタインの関与がないと断言できたことを不審に思う余裕はなかった。そもそもまともに聞いてさえいなかったかもしれない。
ユリアンは呟いた。
「これも僕のせいかな?僕と関わらなければメグはこんなことにはならなかったのかな?」
「……わかりません。しかし、あなたのせいではないでしょう」
「今の僕の中途半端な立場がいけないのかな?僕が地球財団なんて放り出して……いや、そんなことできない。それならいっそのこと僕が銀河を支配すれば……」
「ユリアン・フォン・ミンツ!」
アウロラは慌ててユリアンを制止した。
「今の言葉は聞かなかったことにします」
ユリアンも失言を悟った。同時に、アウロラが保安機構員としての義務よりユリアンを優先したことも。
「ありがとうございます」
ユリアンはようやく涙を拭った。
アウロラはため息を吐いた後、諭すように言った。
「いいですか?ヘルクスハイマー大佐は我々が必ず助け出します。ですから、あなたは職務に専念してください」
「わかっています。こんな状態で動いても何もいいことはないですね」
アウロラはユリアンの返事に安堵した。
「念のため、何点か確認させてください」
「僕に答えられることならば」
「ヘルクスハイマー伯爵家の家令が、ヘルクスハイマー大佐は失踪直前に亜麻色の髪の若い女性、あるいは少女と接触していたことを証言しています。心当たりはありますか?」
ユリアンは一瞬、過去で出会った若き日の祖母を思い出した。祖母に不幸になる呪いをかけられているのではないか。そんな非科学的な思いをユリアンは懸命に振り払った。
「ありません」
「ヘルクスハイマー大佐の失踪に関わっていそうな組織に心当たりは?」
「……あえて挙げるならデグスビイ主教が属していた組織が疑わしいですね。目的も実態も何もつかめておりませんが」
その後も何点か質疑を繰り返した。
最後にアウロラはユリアンにお願いをした。
「もし、先ほど口走ったようなことをされるなら私に教えてください」
「……メグの代わりに止めてくれるのですか?」
ユリアンのダークブラウンの瞳は、アウロラに縋ろうとするかのように揺らいでいた。
ここで「はい」と答えれば、マルガレータ・フォン・ヘルクスハイマーの代わりになれるかもしれない。
ユリアンの心の隙間に入り込む誘惑を、アウロラは断腸の思いで振り払った。
「いいえ。それは無理です」
「そう……ですよね」
ユリアンの落胆の表情に、アウロラは意見を翻したくなる気持ちを必死で抑えなければならなかった。
返事の理由をユリアンは勘違いしただろうが、アウロラにはその事態になった時にユリアンを止める気がないのだった。きっとユリアンの支援に動いてしまうだろう。
一方で自らの主宰する「ユリアン君を遠くから見守る会」のルール上、抜け駆けをすることもできなかった。会長自らそんなことをすれば見守る会は崩壊してしまうだろう。
ユリアンと深い仲になることなどよりも、彼を守ることの方がアウロラにとっては重要だった。
ユリアンはアウロラとの通信を終えた。
その後、事態を知ったカーテローゼ達がやって来て、口々に慰めや叱咤激励の言葉をかけた。
ユリアンは焦燥感に駆られながらも冷静であろうと努めた。
その甲斐あって、少なくとも職務に滞りを生じさせることはなかった。
しかし、やはりユリアンは平常ではなかった。自らの身を守ることへの意識がいつも以上に疎かになっていた。
ユリアンを陰ながら守って来た「見守る会」も、マルガレータ捜索に力を傾けて、ユリアンの周囲への注意が一時的に疎かになっていた。
宇宙暦1月23日、そのタイミングで面会希望者が現れた。
チャールズ・ボーローグ。
ユリアンがいまだに面識のなかったトリューニヒト・フォーの一人だった。グリルパルツァーの最後の遠征に参加して、他の探査隊員と同様に消息を絶ったはずの人物であったが、そのことをユリアンは知らなかった。
この時ユリアンが〈蛇〉についての情報を知らされていれば、もう少し注意深く行動したかもしれない。
同時に、ユリアンは別のことに気を取られてしまっていた。
チャールズ・ボーローグは「重大な情報」をユリアンに伝えに来たと面会の目的を説明した。ユリアンは、「重大な情報」がマルガレータに関するものなのではないかと期待した。
その時点で会わないという選択肢はユリアンから完全に消えた。
「ボーローグさん、初めまして」
「ええ、ミンツ総書記」
ボーローグは体格の良い日焼けをした大男だった。
「それで、重大な情報とは何でしょうか?今私にとって重大な情報は一つしかないと言ってもよいぐらいなのですが」
ボーローグはきょとんとした表情になった。
「だとすると、違うかもしれません。いや、しかし、重大な情報ではあります。惑星エオスからの音信が途絶したという情報は聞いていますか?」
ユリアンは落胆した。だが、重要な情報というからには聞いておかねばならなかった。
「その事実だけは聞いています。詳細は把握しておりませんが、それが何か?」
ユリアンは、妙に頭がぼうっとしてきていた。
「私の持って来た物の中にその原因につながるものがあるのです」
そう答えながら、ボーローグは手に持っていたアタッシュケースを目の前のテーブルに横倒しにして、開いた。
ケースの中で、淡緑色の有機的な物体が脈動していた。
見るものが見ればそれが〈蛇〉だとわかっただろう。
それを見た途端、先程から感じていた妙な感覚が強まるのをユリアンは感じた。
ボーローグは、ユリアンの様子が変わったことに気づき、満足気な表情を示した。
「そう、これが原因です」
「マシュンゴ少尉!」
マシュンゴは急いで部屋の通報装置を作動させたが、その後すぐに昏倒してしまった。
シュトライトもボーローグすらもいつの間にか気を失っていた。
通報装置の作動によって、財団の警備員が駆けつけたが、部屋に入って来た者は皆マシュンゴと同様に昏倒してしまった。
邪魔する者が消え、ユリアンは淡緑色の蠢く物体から目を離せなくなっていた。
皆を昏倒させたのが目の前の物体であることを直感しつつも、それに敵意を向けることはできなかった。
それよりも世界のあらゆるものを憎く感じた。
それは元々ユリアンの心の内にありながら、なんとか抑え隠そうとしていた感情だった。〈蛇〉はそのユリアンの感情を露わにし、増大させた。
ユリアンの心は世界に対する憎悪に染まった。
皆を不幸にする世界なら、一度壊して、僕が創りかえてしまえばいいじゃないか。
目の前の存在を僕は既に理解している。
これと一体になれば、世界を創りかえるだけの力を僕は得られるんだ。
「ユリアン!」
不意に聞きなじんだ声が聞こえた。
薄く淹れた紅茶色の髪の少女が部屋の前に立っていた。開け放たれたドアと倒れ伏した警備員の前で立ち尽くしていた。
彼女の姿を見て、声を聞き、ユリアンから憎悪が一瞬だけ退いた。
ユリアンはその一瞬で、すべきことを判断した。自分は手遅れだが、まだ救えるものはあるのだ。
「カリン!ここにあっては不味いものが存在する。僕はそれを月から遠ざける!後のことを頼む!」
ユリアンはアタッシュケースを手に持ち、戸惑うカーテローゼの横を抜けて宇宙港に急いだ。
ユリアンにはボーローグが乗って来た宇宙船がどれかわかった。
ユリアンはアタッシュケースの〈蛇〉を通じて、〈蛇〉の精神ネットワークを感じていた。大量の精神波がそこから発せられているのがユリアンには「視」えた。
ボーローグが乗って来たのは巨大な最新鋭の輸送艦だった。
輸送艦のコンテナから大量の淡緑色の流動体が這い出て今や輸送艦全体を覆っていた。
それによって輸送艦は長細い巨大な淡緑色の芋虫のような姿に変じていた。
この〈蛇〉が月都市内に解放されたら、月と地球財団は〈蛇〉に乗っ取られることになる。
ユリアンは〈蛇〉の影響を受けながらもそれだけは避けようと行動した。淡緑色の蠢く物体と化した輸送艦に乗り込み、離脱のための操作を行った。
〈蛇〉は留まるようにユリアンの感情に働きかけたが、ユリアンは必死に抗った。
月を支配するよりも、もっとよい標的があると自らを制御下に置こうとする〈蛇〉に訴えた。
ユリアンの努力は報われた。
輸送艦は、満載した〈蛇〉を降ろさないまま月を離脱し、ユリアンと共に彼方へと飛び去って行った。
アルタイルのシェーンコップから月の地球財団と保安機構支部に警戒を求める連絡が入ったのはこのタイミングだった。
ボーローグをユリアンの元に送り込んだグリルパルツァーは、ユリアンが〈蛇〉に取り込まれたことを〈蛇〉の精神ネットワークを通じて感じた。
グリルパルツァー自身は未踏領域に留まっており、そこから高みの見物を決め込むつもりだった。
ユリアン・フォン・ミンツには好きなだけ暴れてもらおう。既知領域はユリアン・フォン・ミンツにくれてやる。だが、未踏の領域は俺のものだ。人類が〈蛇〉の一部となった暁には、俺は〈蛇〉によって増強された知覚をもって、人類の未だ知り得ぬものを知る旅に向かうのだ。
その欲求が、〈蛇〉によって歪められ増強されたものであることにグリルパルツァーは気がついていなかった。
〈蛇〉に取り込まれたユリアンは、世界を破壊したいという激しい欲求に逆らえなくなっていた。それと同時に全能感がその身に湧き上がるのを感じた。
ユリアンは〈蛇〉と精神的に繋がり、〈蛇〉を通じて輸送艦とも繋がっていた。艦の内部も外部もすべてユリアンの把握するところだった。艦のセンサーはユリアンの眼であり、艦全体がユリアンの身体だった。
さらに〈蛇〉の精神ネットワークを介して遥か遠くの〈蛇〉に取り込まれた人間達の感覚や思いすら、うっすらと感じとることができた。
ユリアンには〈蛇〉に支配されているという感覚はなかった。いまやユリアン自身が〈蛇〉であり、〈蛇〉こそがユリアンだったのだから。
すべての精神が繋がり、同じ感覚を共有し、同じように考える。これこそが人類の到達すべき進化の極致であるとユリアンは今この時ようやく理解した。理解したと思った。
一刻も早くこの世界を壊し、人類すべてと〈蛇〉が一体となって真に幸福な世界をつくろう。そう誓った。
誰のために幸福な世界を目指すのか?そんな問いは今のユリアンの頭に浮かぶことすらなくなっていた。