宇宙暦805年1月20日の午後、ヘルクスハイマー伯爵邸を訪れた者がいた。
ヘルクスハイマー伯は出払っており、居たのはマルガレータと家の者だけだった。
家令のニクラスがマルガレータに訪問者の名を告げた。
マルガレータは、貴族言葉で答えた。
実家に長くいた事でかつての言葉遣いが大分戻ってきていた。
「リタ・フォン・ジーゲルト、妾の幼年学校時代の学友じゃ。親しかったのだが、しばらく疎遠になっていた。しかし、何用かの?」
「旧交を温めたいとのことです。既に広間にお通ししておりますが、如何しましょうか?姫様は身重であらせられますからまた別の機会とさせて頂くことも……」
マルガレータのお腹は大分張り出しており、歩くのも少し億劫そうだった。
「なに、産まれるのはもう少し先の話じゃ。会おう。妾も久しぶりに話したい」
「承知しました。では応接室にご案内させて頂きます」
マルガレータが応接室に入った時、まず目についたのは相手の長い綺麗な亜麻色の髪だった。続いて端整なその顔に目がいった。
「ユリアン?」
マルガレータは相手を自らの婚約者と一瞬見間違えた。
しかしよく見れば、瞳の色も、風貌もユリアンとは異なっていた。
マルガレータは警戒を強めた。
「リタではないな。何者だ?」
亜麻色の髪の少女は、マルガレータに微笑みかけた。
「警戒は無駄よ。この部屋を監視していた者達も既に無力化したわ。……ああ、殺してはいないからそんなに怖い顔しないで」
マルガレータは厳しい顔を変えずに再度尋ねた。
「用は何だ?」
「あなたとお腹の中の子供の安全に関わることよ。それに、あなたの大事な人達を失いたくなかったら、一緒に来てもらおうかしら」
黙ったままのマルガレータにその少女は再度微笑みかけた。
「時間稼ぎされるのは嫌だから早く答えて頂戴ね」
この日、マルガレータは失踪した。
このことは、彼女に近しい者の精神に大きな打撃を与えたが、銀河全体ではこの時、別の容易ならざる事態が進行していた。
宇宙暦805年1月20日、エオスと名付けられた人類未踏領域初の開拓惑星に、クラインゲルト伯を団長とする開拓団は降り立った。
エオスはバクテリア以上の生物は存在しなかったものの、酸素も豊富な理想的な可住惑星だった。
団員達は希望に満ちていた。
そのはずだった。
翌1月21日、銀河開拓財団理事長アーベント・フォン・クラインゲルトと新銀河連邦主席ヨブ・トリューニヒトの連名でクラインゲルト伯に対して緊急の通信による撤退命令が下された。
同時に開拓船団の護衛艦隊に対しては、警戒態勢と、接近するものは、いかなるものでも長距離の砲戦で殲滅すべしとの指令があった。
撤退すべき理由の説明はなされなかったが、容易ならぬ事態であることをクラインゲルト伯は長年の経験から理解し、時をおかずに団員に撤退を指示した。
翌1月22日、命令に納得のいかない団員への説明に追われつつも、開拓団は撤退準備を進めていた。
しかし、既に遅かった。
その日の夕刻、エオスの空を異形の物体が空を埋め尽くしたのである。
長細く、淡緑色の、青虫を思わせる有機的な塊が、無数に。
人類未踏領域には既知領域には存在しない宇宙生物と、その生態系が存在することは既に知られていた。
しかし、頭上に見える存在のように、惑星降下能力がある宇宙生物は存在を知られていなかったし、そもそも淡緑色の青虫のような外見の宇宙生物などまったく知られていなかった。
「護衛艦隊は何をしているんだ!?」
そんな声が上がった。
第一次開拓船団の半数は、正規艦隊並みの装備を持った護衛艦隊から成っていた。
彼らは惑星軌道上で、開拓団の護衛に務めているはずだった。
しかし頭上の現実は彼らが突破されたことを意味していた。
開拓団員は、空から徐々に地表に近づいてくるその物体群を前に逃げ出す他なかった。
開拓団第七分団リーダー、フランツ・ヴァーリモントは、恐慌に陥った分団員に避難の指示を出しつつ、自らも既に良い仲になりつつあったテレーゼの手を引き、巡航艦ウラシルに向かった。
惑星には千隻ほどの地上降下能力を持つ艦艇が着陸しており、地域センター兼避難所の役割を果たしていた。
万一の際はそのまま、惑星を離脱することも可能なはずだった。
おそらくは今がその時なのだろうと、ヴァーリモントは理解していた。
ウラシルには千人近い避難者がいた。
避難者達は妙に浮ついていた。
「別にあんな緑色の芋虫、危険じゃないんじゃないか?」
「外に出してくれ」
「きっと異星種族の使者だ。我々を歓迎しに来たのだ」
外に出たいという主張を彼らは繰り返していた。
ヴァーリモントも何か違和感を感じつつ、その雰囲気に徐々に呑まれていった。
クラインゲルト伯も、地上に降下していた開拓船団旗艦イオン・ファゼガスIIの中から開拓団員全体に緊急避難命令を出し、全艦艇に緊急の惑星離脱を指示した。
軌道上の護衛艦隊とは既に通信が途絶しており、状況は不明だった。
クラインゲルト伯は妙な失調感を感じながらも、一刻も早く撤退を進めようとしていた。
だが、その撤退が実行に移されることはなかった。
開拓団から既知領域に向けての音信が途絶えた。
僅かに非戦闘用の肥料運搬艇数十隻のみが逃走に成功し、銀河開拓財団本部に事の次第を報告した。