宇宙暦804年11月21日、銀河保安機構長官ヤン・ウェンリーの名で発表が行われた。
かつて神聖銀河帝国に属し、今は銀河各国で生活している者約十万人のうち五千人ほどを、犯罪行為に手を染めていたとして各国警察組織と協力して逮捕したというのである。その際に逃亡を図ったため数十名の死者が発生していた。
また、サイオキシンマフィアの元ボスにして、神聖銀河帝国を裏で操っていたとされたクリストフ・フォン・バーゼル及び妻ヨハンナの死亡を確認したこと、その他サイオキシン密売等の容疑で捜索が行われていた行方不明者数名の身柄を拘束し、一方で十数名の死亡を確認したと発表した。
何よりもユリアンを驚かせたのは死亡者の中に、あのデグスビイ主教の名前も存在したことだった。
この発表を聞いたユリアンはしばらく動けなくなった。補佐官のシュトライトが声をかけても反応を示さなかった。
「ユリアン!」
カーテローゼは、マシュンゴからこの発表とユリアンの様子がおかしいことを知らされ、ユリアンの執務室に駆けつけた。
カーテローゼはユリアンの体を揺すった。
ユリアンはカーテローゼをようやく認識した。
「……ああ、カリンか」
「あんた……大丈夫?」
ユリアンは笑顔を見せた。
「大丈夫だよ。デグスビイ主教が死んだって憎む相手はいるからね」
「ユリアン?何を言っているの?」
笑顔のままユリアンは話し続けた。
「大丈夫、憎む相手を間違えちゃいないさ。これはヤン長官のやり方じゃない。オーベルシュタインが黒幕さ」
「あんた……」
カーテローゼの言葉は耳を通り抜けているようだった。
「どうすれば、オーベルシュタインを排除できるかな。やっぱり暗殺かな?シュトライト少将、アンスバッハ中将を呼んでくれないかな?」
「ユリアン!薄気味悪い笑みを浮かべてそんなことを言っている時点で全然大丈夫じゃないじゃない。怒っているなら怒っている顔をしなさいよ!」
ユリアンは再びカーテローゼのことを認識した。
ユリアンは今度こそ怒りを露わにした。
「カリン、何を言っているんだ?そりゃ怒っているさ。神聖銀河帝国に属していたというだけで彼らは身辺を探られてこんな仕打ちを受ける羽目になったんだ!」
ユリアンはそれだけ叫ぶと急に沈み込んだ。
「それにきっと僕のせいなんだ。オーベルシュタインは僕を陥れるために……僕がいなければ彼らも……」
「ユリアン」
カーテローゼはユリアンに体を寄せて口づけをした。
「カリン!」
ユリアンは周囲の目を気にした。
シュトライトとマシュンゴがいたが、二人ともわざとらしく明後日の方向を見ていた。
「平手打ちと迷ったのだけど、この前思いっきり殴っちゃったし、まだ怪我も完治していないし……とりあえず来て!」
カーテローゼは恥ずかしさを誤魔化すようにそう叫んでユリアンを引っ張っていった。
ユリアンが連れて来られたのは、サビーネやエリザベート達の居住する区画にある通信室だった。
そこでは、サビーネとエリザベートがアンスバッハを伴って待っていた。
「アンスバッハ中将、ちょうど良かった」
ユリアンはオーベルシュタイン排除の方策について話そうと、アンスバッハに声をかけた。
サビーネが口を挟んだ。
「ユリアン、そうじゃなくてスクリーンを見て」
「スクリーン?」
そこには、マルガレータの姿が映っていた。
「ユリアン、久しぶり」
マルガレータは穏やかな笑顔を見せた。
「マルガレータ」
ユリアンは、その笑顔を見て泣きそうになった。マルガレータに会えなくて寂しく感じていたことをユリアンは自覚した。
「ほら、お腹も大分大きくなって来たんだ。安定期というものだな。時々お腹の中で動くのがわかるんだ」
マルガレータは優しい表情でお腹を撫でた。
通信室のスクリーンは大きく、マルガレータの腹部も映し出されていた。
「お前がキッシンゲンにいれば、触らせてやれたんだが」
「もうそんなに大きくなっていたんだ……」
マルガレータは不満顔になった。
「そうだぞ、ユリアン。たまには連絡ぐらいしてくれ。その……私だって寂しいんだから」
「そうか……ごめん。そうだね」
ユリアンはマルガレータと特別な仲になったということを今更ながらに思い出した。変な遠慮など不要でいつでも連絡を取ってよかったのだ。
マルガレータと話して、身近な守るべきものを自覚することでユリアンの心から憎悪の波が引いた。
それによって多少は冷静になることができた。
「ねえ、マルガレータ。僕はどう動いたらいいと思う?」
「相談できる心境になったのはいいことだが、私よりも適任な人達がいると思うぞ。これは父上からの伝言だが、頼れる存在は頼れる時に頼っておきなさい、だとさ」
ユリアンも気づいた。そんなことに気付かないほどユリアンは視野が狭くなっていたということなのだろう。
「ありがとう、マルガレータ。今度からもう少し頻繁に連絡するよ」
「ああ、待っている」
「みんなもありがとう!」
ユリアンは足早に去って行った。
カーテローゼは息を吐いた。
「一件落着とはいかないのだろうけど、暴発だけは避けられたわね。本当に手のかかる」
マルガレータがカーテローゼに声をかけた。
「ありがとう。私を頼ってくれて」
カーテローゼは仏頂面になった。
「ユリアンのためですもの。お礼を言われる筋合いはないわ。……ちょっと悔しいけど」
マルガレータは困ったように笑った。
「悔しいのは私も同じよ」
それから表情を改めて続けた。
「カーテローゼさん、サビーネさん、エリザベートさん、ユリアンのことをお願い。私は傍に居られないから」
「勿論よ」
カーテローゼの言葉は短く素っ気なかったが、その表情には多少マルガレータを気遣うものがあった。ただ、何と言っていいものかわからないようだった。
少し迷う様子を見せていたエリザベートがマルガレータに提案した。
「さん、だなんて堅苦しい呼び方はやめにしましょう。私達、家族になるんですから」
マルガレータは目を見開いた。
彼女達とも家族になるのだと、今になってようやく認識したのだった。そう思ってもらえるのか不安な心が無意識に心にブレーキをかけていた。
「そうね。これからよろしくね。ええと、リザ?」
エリザベートは微笑んだ。
「ええ、メグ」
「カリンも、よろしく」
「よろしく、メグ。……改めて言われると照れるわね」
マルガレータは最後の一人に声をかけた。
「サビーでいいのかしら?よろしく」
サビーネは少し躊躇いを見せた。
「マルガレータ、あなたは……」
マルガレータは小首を傾げた。
「何?」
サビーネはかぶりを振った。
「いいえ、ここで話すことじゃないわね。いずれ直に会った時に。よろしくね、メグ。私もあなたと家族になりたい気持ちは本物よ」
マルガレータはサビーネの様子を不思議に思った。実のところ思い当たることもあったが、直接会った時に、と本人が言っているのだからあえて口に出すことは避けることにした。
「ありがとう、サビー」
エリザベートが最後に言った。
「言えてなかったけど妊娠おめでとう。ユリアンの幸せにつながることは私達も嬉しいわ」
カーテローゼとサビーネも続いた。
「おめでとう。私達家族の初めての子供ね」
「おめでとう。一人っ子にさせるつもりはないからね」
マルガレータは、涙が出そうになった。
気丈には振舞っていたが、様々な人に迷惑をかけたことへの申し訳なさや状況を利用してユリアンを籠絡して子をもうけたとも言え、卑怯なことをしたという引け目が彼女の心にはあった。
マルガレータの子供を、三人は祝福しないのではないかと怯えてさえいたのだ。
それが彼女達の祝福の言葉でいくらか解消された形である。
マルガレータは口に出しては一言だけ、万感の思いを込めて言った。
「ありがとう、みんな」
通信も終えようという時、サビーネが声をあげた。
「ああ!」
マルガレータも他の皆も驚いた。
「どうしたの?」
「私もエリザベートも、ユリアンに愛称で呼んでもらっていない!カリンとメグだけずるい!ユリアンにお願いしてくる!」
アンスバッハが慌ててサビーネを止めた。
「サビーネ様!ミンツ総書記は今大事な相談の最中だと思います。後にしましょう」
「あうう。早くユリアンにサビーと呼んでもらいたいのにー!」
むくれるサビーネをみんなで宥めたのだった。
ユリアンはトリューニヒトに連絡を取った。遅い時間だったため、通信はトリューニヒトの私邸に繋がった。秘書のリリー・シンプソンがユリアンとの通話に出た。
腹心とはいえリリー・シンプソンがこの時間にトリューニヒトの私邸にいたことにユリアンは多少思うことがないでもなかったが、今はそれどころではなかった。
「閣下は取り込み中ですので、しばらくお待ちください。あなたから通信があったら必ず待っておいてもらえるよう、閣下からも言われておりますので」
ユリアンはトリューニヒトが意を留めていてくれていることを感じ、心が温かくなった。
「わかりました。それでは通信を繋いだまま待たせて頂きます」
ユリアンはそれで彼女との会話を終えるつもりだった。
話したくないというわけではないが、今のユリアンの立場を考えると、彼女の方が積極的に話したいと思わないだろうと考えていたからである。
しかし、彼女の反応は少し違った。
彼女はユリアンをじっと見つめていた。
ユリアンは耐えきれなくなって尋ねた。
「何か?」
「あなたは、知っているのですか?」
「何のことでしょう?」
リリーは目を伏せた。
「いえ、思い当たるところがないのなら。言うのが遅くなりましたが、ご婚約おめでとうございます」
「はぁ。ありがとうございます」
その後は二人ともトリューニヒトが来るまで黙ったままだった。
「ユリアン君、遅くなってすまなかったね」
トリューニヒトの姿を認めたユリアンは、それだけで不安が溶けていくのを感じた。今でもトリューニヒトはユリアンにとって特別な存在だった。
「いえ、お忙しいところ申し訳ありません。お話ししたいのは」
「わかっている。保安機構による旧神聖銀河帝国関係者の逮捕のことだろう?オーベルシュタイン君も困ったものだ」
「閣下……」
「わかっているさ。起きてしまったことは変えられないし、彼らも法律の枠内ですべてを進めているから手出しはしづらい。しかし彼らが公正な裁判を受けられるよう私も心を配ろう。それから、彼らの困窮を放置していたのは私のミスでもある。今回のことを少しでもよい方向に繋げていけるように私も動いてみよう。だから君は安心してくれていい」
「閣下。ありがとうございます」
ユリアンはトリューニヒトに感謝した。
「閣下、僕は何をすべきでしょうか?」
「何もするなと言いたいところだ」
「それは……」
「オーベルシュタイン君は君の暴発を狙っている。それによって君を排除する。今回はそのための撒き餌というところだろう。それが叶わない時も、君の影響力や人望を大きく下げることができるだろう。どちらに転んでも悪い話ではない」
それはユリアンも勘付いていた。しかし何かしらの行動に出ずには感情が、憎しみが溢れて来て収まらないのだった。
「オーベルシュタイン君も、君の性格をある程度把握していて君の感情を揺さぶりに来ている。だからここは感情の赴くままに動いてはまずい局面だ」
「わかります。しかし」
トリューニヒトはユリアンに微笑みかけた。
「私に任せておきなさい。君にとっても、捕まった彼らにとっても悪くない状態にしてみせるさ。それとも私のことが信頼できないかね?」
「信頼できないなんてそんなまさか」
同盟政界の頂点に立ち、一度権力を手放した後に今度は銀河の頂点とも言える立場に立った政治的怪物ヨブ・トリューニヒトの手腕を信頼できないなど、ユリアンには思いもよらないことだった。
「じゃあ決まりだ。君の協力を求める場面も来るからそれまで待っていてくれ」
「わかりました」
「一つだけ、ヤン君にも連絡を取ってみてはどうかな?君のことだ。ヤン君の名前で発表が出されたことで、彼に対してもわだかまりを感じてしまっているのだろう?それはそれで私には重畳というものだが、君の精神衛生上よくはないだろう。オーベルシュタイン君のいないところで、ヤン君とも話をしてみるといい」
「ありがとうございます。そうしてみます」
時刻は22時を回っていた。ユリアンは悪いと思いつつヤンに連絡を入れた。
ヤンはすぐに出てくれた。
「ユリアン、ようやく連絡をくれたか。話はわかっている」
ボサボサの髪にパジャマ姿。そのヤンの様子に、ユリアンは妙な懐かしさを覚えた。宇宙暦745年の共同生活でよく見た姿だった。
2ヶ月前にアルタイルで会ったのが遠い昔のことのようにも思えた。
「今回の件、いろいろ思うところはあるだろうが、捕まった人間が犯罪を犯していたのは事実だ。だから私も、逮捕を指示したんだ」
ヤンはユリアンに今回の一件の正当性を説明しようとしていたが、申し訳なさそうな表情がそれを裏切っていた。組織の長としてはあるまじき表情。ヤン・ウェンリーらしいとユリアンは思った。
ユリアンも今回の件をヤンが主導したわけではないと理解していた。
「わかります。だから私がお願いしたいのは一つだけです。彼らに公正な待遇と裁判をお願いします」
「それは約束するよ。勿論だ」
「ありがとうございます」
「ユリアン」
「何でしょう?」
「私は君の敵になったのかな?」
ヤンの目に、否定して欲しいという思いが浮かんでいることにユリアンも気づいた。
ユリアンは束の間言い淀んだ。ヤンがオーベルシュタインを支持する限り味方とは言い難い。しかし。
「そうは思いたくないですね。だから連絡を入れたんです」
その返事はヤンを安心させたようだった。
「私もだよ。だからどうか軽挙は慎んでくれ」
「僕の信頼する人はみんな僕にそう言うんですよ。だから僕も努力してみます」
「頼むよ。君の紅茶を飲ませてほしい」
色々なことが起こり過ぎて、ヤンはユリアンの紅茶を半年間飲んでいなかった。
「はい。何があっても、それは約束したいです。紅茶に関しては考えていることもあるんですよ。だから、いろいろと落ち着いた頃に、また」
ユリアンはヤンにそう約束して、通信を終えた。
ヤンとの通信が終わると再び憎悪が胸の奥から湧いてくるのをユリアンは感じた。
それに呑まれてはいけないことを理解しながらも抑えることは難しかった。
結局責任を押し付ける形となってしまったバーゼル夫妻。ユリアンのせいで逮捕された人達。死んでいった人達。呆気なく死んだデグスビイ。すべてを主導したオーベルシュタイン……
ユリアンは傍のシュトライト少将に尋ねた。
「動いてはいけないことは僕もわかっているんだ。でもオーベルシュタインのことが憎くてしょうがない。こんなことカリン達には言えないけど、今すぐにでも殺してやりたいぐらいなんだ。どうしたらいいんだろうか?」
シュトライトは自らの主とも言うべき青年のことを常に心配していた。
並外れた才能と、それに対して危う過ぎる精神のあり様。
しかしその彼に、シュトライト自身も含めて様々なものの命運がかかっていた。そのことをユリアンも自覚するからこそ、彼は重圧の中で懸命にあがき、精神的な不均衡を増大させてしまっていた。
重責を負わせ続けていることに罪悪感を覚えつつも、指導者であり続けてもらうためにシュトライトはユリアンに自制を求めなければならなかった。
「オーベルシュタイン中将には養子がいらっしゃいますね」
「いるね。それが?」
「あなたと同じように、その子を再び父親のいない子にするつもりですか?」
シュトライト少将の一言はユリアンを愕然とさせた。
「それは、したくない。したくないな……」
ユリアンの本心だった。
「それならやめておきましょうか」
ユリアンは力なくうな垂れた。
深夜1時を回った頃、ユリアンの個室を尋ねて来た者がいた。
カーテローゼだった。
カーテローゼはユリアンが手に持っている本のタイトルを確認した。
『無実で殺された人々』
カーテローゼは溜息をついた。
「眠れないんじゃないかと思って来てみたら。そんな本を読んでも余計に怒りや悲しみが増すだけよ」
「それはそうだけど……」
ユリアンは言い淀んだ。
「カリン、こんな時間に女の子が男の部屋なんかに来て……」
「あんたの婚約者よ?」
ユリアンはカーテローゼが来た意図を想像した。
「……あの、僕はまだ激しい運動はできないんだけど」
カーテローゼは真っ赤になった。
「わかっているから、言わなくていいわよ!でも……添い寝ぐらいはさせてくれてもいいでしょう?」
「それは……うん」
「じゃあそういうことで。私のことは藁だとでも思ってくれていいから」
ユリアンも観念した。
ユリアンと一緒のベッドで手を繋いで横たわりながらカーテローゼは呟いた。
「ねえ、ユリアン」
「何だい?カリン」
「明日はサビーネ……サビーの番だから」
「……」
ユリアンに対する当番制の添い寝は、憎悪に支配されそうになるユリアンの精神を沈静化させる効果もあるにはあったが、一方でユリアンの自制心の方が悲鳴を上げてしまい、数日で中止となった。