少し時間を遡る。
ユリアンが月でカーテローゼに殴られた後、しばらく起き上がれなかった。
物理的なダメージが大きかったことも理由だったが、カーテローゼの情念のこもった一撃に、精神的な衝撃を受けていたからである。
口の中を切ってしまったようで、口から血が溢れ、服を汚した。
カーテローゼが近づいて来て、ユリアンを覗き込んだ。
その顔には涙があり、遣る瀬無さと羞恥の表情があった。
「服を汚しちゃった。ごめんね」
出血量に比べて口の中の傷は深くなかった。
ユリアンは血を吐き捨てた後に答えた。
「替えがあるから大丈夫」
カーテローゼが手渡したハンカチをユリアンは仰向けのまま受け取った。
内在する衝動が彼女を動かしたらしく、真剣な口調で問いかけた。
「ね、今も私のこと好き?もしそうだったら黙ってうなずいたりしないで、はっきりおっしゃい」
ユリアンは逡巡したが、彼女に嘘はつけなかった。
「好きだよ。そんなこと言う資格なんてないと思うけど」
カーテローゼは、真剣な表情のまま、さらに言葉を重ねた。
「ユリアン、私とも結婚なさい」
カーテローゼの言葉の意味が頭に入って来るまでに些か時間を要した。
「私ともって……?」
カーテローゼは自分の発言が恥ずかしくなってきたようだ。
「マルガレータと結婚するだけじゃなくて、私とも結婚するということよ!」
「つまり、重婚?」
カーテローゼは顔を真っ赤にしていた。
「そうよ。地球自治区の法はそれを禁止していないわよね?」
「そうだったっけ?」
ユリアンも立場上、目を通したことはあるはずだが、一文一文覚えてはいなかった。シュトライトからは、民法に関しては帝国法をベースにしつつ、人民の権利に著しい制限を加えている等の問題がある部分について各国の法律を参考にして修正を加えたと聞いていた。
「……そうなのよ」
「……君はそれでいいの?」
ユリアンの発言は、少なくとも否定を意味してはいなかった。
カーテローゼは溜息をついた。
「よくはないとのだけど、今更なのよね」
ユリアンは発言の意味を理解しかねた。
「今更ってどういうこと?」
その時、物陰から音がした。
ここにはユリアンとカーテローゼしかいなかったはず。
ユリアンは跳ね起きて警戒態勢を取った。
出て来たのはサビーネとエリザベート、さらにはアンスバッハとシュトライトまでがいた。
シュトライトとアンスバッハは申し訳なさそうな表情をしていた。
サビーネが声を上げた。
「カリン!抜け駆けよ!」
エリザベートも不満そうな顔をしていた。
ユリアンは驚かざるを得なかった。
「みんな、話を聞いていたの!?」
サビーネはユリアンに歩み寄り、頰に手を近づけた。
「そうよ。ユリアン、カーテローゼに殴られて可哀想」
「話を聞いていたなら、僕が悪いのはわかるだろう?」
「それは私もマルガレータが妊娠していたという話には驚いたけれど、でもそれが何?」
「何って……」
サビーネの言い草にユリアンは困惑した。
サビーネはユリアンの様子などお構いなしに続けた。
「ユリアンは元々私達三人と結婚するって決まっているんだから、三人が四人になったって大して変わらないわ」
「えっ!?えっ!?」
ユリアンの眉が大きく上下した。
そんな約束をしたことはないはずだった。
カーテローゼは憮然と、エリザベートは陶然と、サビーネは泰然として、ユリアンを見つめていた。
アンスバッハとシュトライトはひたすら申し訳なさそうだった。
シュトライトが全員を代表してユリアンに説明を始めた。あるいはお願いと言うべきか。
「ミンツ総書記。このシュトライトとアンスバッハが、サビーネ様とエリザベート様の監督者としてお願いします。お二人と結婚して頂けませんか?」
ユリアンは愕然とした。シュトライトとアンスバッハの二人までが一枚噛んでいたことが判明したのだ。
「どういうことですか?」
「ミンツ総書記は、お二人があなた以外の人と結婚できると思いますか?諸々の条件を考えて」
「それは」
できるだろう、と答えようとして考え直さざるを得なかった。
二人とも器量はよく、それだけなら求婚者が現れてもおかしくはなかった。
しかし今や忌まわしきものの代名詞となったゴールデンバウム王朝の直系となれば、好んで近づく男などいなかったのだ。しかも、程度の差こそあれ、皇帝一族として育てられた影響で、傲慢で独善的な面を持っている。価値観の相違を恐れて大方の男は躊躇するだろう。躊躇しないような男は、むしろ頭がおかしいのかもしれない。……ユリアンは自分のことを棚に上げていた。
要するにユリアンの目から見てもなかなか厳しいと言わざるを得なかったのだ。
「そうであれば、お二人が好意を持っているミンツ総書記に引き取って頂くことが、お二人のお幸せに繋がると考えていたのです。既にフロイライン・クロイツェルにはご理解を頂いていたのですが……」
ユリアンはカーテローゼを見た。
カーテローゼは憮然とした表情のまま頷いた。
「そうよ。この二人ならしょうがないと思ったわ。わたしもまともじゃないかもね。これもワルター・フォン・シェーンコップのせいにしていいのかしら」
ユリアン不在のうちに月ではとんでもない陰謀が企まれていたようだ。
「あとは、ミンツ総書記にどのタイミングでお願いに伺うかだけだったのですが……」
その前にこのような事態になったということなのだろう。
難しい顔になったユリアンの前に、エリザベートが出てきた。普段後ろに下がりがちな彼女には珍しい行動である。
「お願い。あなたの一番でなくていい。少しでも好意を持っていてくれているなら、私と、私達と結婚して」
口数が少なく、サビーネの陰に隠れがちな彼女であるが、その実芯は強く、努力家であることをユリアンは知っていた。
サビーネも言った。
「もしかして、私のこと、嫌い?」
少し瞳が揺れている。
普段強気に見える彼女だが、その実それは不安の裏返しで、ユリアンに嫌われないか常に怯えていることをユリアンは知っていた。
結局のところ、ユリアンは二人とも好きだった。
自らの多情っぷりを自嘲したくなるユリアンだった。シェーンコップさんのこともポプランさんのことも何も言えないではないか。
ユリアンは三人に告げた。
「エリザベート、サビーネ、カリン、僕は君達が好きだ。ずっと一緒にいたい」
エリザベートとサビーネは嬉しさのあまり、泣き出してしまった。カーテローゼも少し口元を緩めている。
アンスバッハとシュトライトも安堵の表情だ。
ユリアンはようやく覚悟を決めた。
「それが君達の幸せにつながるなら、僕は君達と結婚する。マルガレータのことを含めて、そのための環境を整える。だから少しだけ待っていてくれないか?」
「「勿論よ!」」
元気よく返事をした二人に比べて、カーテローゼはもう少し慎重だった。
「ハードルを上げてしまったけど大丈夫?」
マルガレータへの求婚を成功させるだけではなく、三人との仲もマルガレータに認めさせなくてはならなくなったのだ。
ユリアンはもう怯んだりはしなかった。
「何とかやってみる」
「連合の法は貴族に対しても重婚を許していないけどその点も大丈夫?」
「何とかするさ」
ユリアンの言葉には具体策を説明しなかったが、カーテローゼはユリアンの態度から、大丈夫だと判断した。
「なら、信じて待ってる」
カーテローゼは再び笑った。
「ユリアン、もう一度気合いを入れてあげる。歯を食いしばって」
ユリアンはまた殴られるかと思った。しかし、カーテローゼは殴ったのとは反対側の頰に顔を近づけ、口づけした。
ユリアンから離れたカーテローゼは顔を赤くしていた。
「万一マルガレータのことが上手くいかなくても、私はあなたの味方だから」
「ありがとう……」
「私も!」
「私もよ!」
結局、サビーネとエリザベートにも同じことをされた。
ポプランに会った時、ユリアンは片頬を腫れさせて、もう片頬には複数のキスマーク、という状態だった。
ユリアンはポプランに散々揶揄われながらキッシンゲンに向かうことになった。
…………
再びヘルクスハイマー伯爵邸での一幕に戻る。
マルガレータはユリアンからまさにその重婚の話を聞かされたのだった。
「はああ!?ふざけるな、ユリアン!妾を愚弄する気か!?」
マルガレータの反応を、ユリアンも当然と思わざるを得ない。
「こんな、こんな見境なしと結婚するなどあり得ぬ!結婚の話はなかったことにしてもらう!」
「メグ、話を聞いて」
「煩い!お前など嫌いだ!出て行け!」
「メグ!」
「メグと呼ぶな!この色情狂め!道に外れた行いをお前はまさに今しようとしているのだぞ!妾に殺されたくなくば、疾く去れ!」
「メグ」
ヘルクスハイマー伯が口を挟んだ。
「父上からもこの男に出て行くように言ってください!この男はヘルクスハイマー家を愚弄しているのです!」
「メグ、お腹の子に障る。少し落ち着きなさい」
父親の言葉に、マルガレータも怒りを抑制せざるを得なかった。
「しかし、父上……」
「メグ、お前の選んだ結婚相手が妻を複数人娶るだけのこと、何を騒ぎ立てる必要がある?」
マルガレータは父親の言に唖然とした。
「父上、何を仰っているのです。人の道を外れた行いではありませんか?」
「古来、一夫多妻制の国など数多くあった。ゴールデンバウム朝もしかり。メグ、お前は側妃のいたゴールデンバウム朝の皇帝達全員を人道に外れていると見なすのかね?」
「いや、皇帝とユリアンとでは話が違うでしょう!」
「貴族でも複数人の妻を娶った者はいた。まあ殆どはそんな面倒なことはせず、愛人を囲うに留めたがな。愛人を囲うのに比べれば女性に対して余程誠実だと私は思うがね」
ヘルクスハイマー伯も愛人を持ったことはあった。それを実の娘に言う気は無いが。
マルガレータもここまで話を聞けば、父親がユリアンの肩を持っていると考えざるを得なかった。しかし、重婚など自らの父親が許すとは思えなかった。何があったのか?
心境は負の方向に振り切れたままだったが、マルガレータが少なくとも冷静さを取り戻したのを見て、ユリアンは再び説明を始めた。
「地球自治区の法は重婚を禁じていない。でも独立諸侯連合の法はそれを禁じている」
「ならば私とは結婚できないではないか。やはりこの話はなしだ。地球自治区に移れなどと言うなよ」
マルガレータの国籍は独立諸侯連合である。
「マルガレータ、オリオン連邦帝国も貴族に対しては重婚を禁止していない」
ゴールデンバウム王朝においては皇帝及び貴族にとって後継者を残すことは重要な仕事の一つだった。例えば結婚後に妻が不妊とわかった場合にどうするか。離縁して再婚するのも手だが、それはそれで妻の実家との関係にも問題が生じるし、子供と関係なく妻のことを愛している場合もある。そのような場合に、第二夫人を迎える、つまり重婚が行われることがあるのだった。
銀河帝国の後継国家であるオリオン連邦帝国は、各種改革を進めていたとはいえ、重婚に関しては法律を変更しなかった。
「メグ、我がヘルクスハイマー家は帝国に戻る。リッテンハイム大公亡き今、我々が帝国に戻るのに何の障害もない」
マルガレータは信じられない思いだった。ユリアンの重婚を許すために、帝国に戻ると言っているようなものだったからだ。
「父上、今更帝国に我らの居場所がありましょうや?」
ヘルクスハイマー伯はニヤリと笑った。その笑みは、かつて帝国にいた頃にマルガレータがよく目にしていた笑みそのものだった。野心と欲望に満ちた笑み。
「それが、あるのだ。婿殿が、帝国と交渉してくれた。我々は旧領を取り戻すことができるのだ。メグ、故郷に戻れるぞ!」
マルガレータは理解した。
父親が異常なほどユリアンの肩を持つ、その理由を。
ユリアンの企みを。
…………
ユリアンは、キッシンゲンに向かう途上で、オリオン連邦帝国に連絡を入れていた。
相手はヒルデガルド・フォン・マリーンドルフ。今やオリオン王として帝国の実権を握る人物である。
「お久しぶりね、ミンツ伯」
「お久しぶりです。フロイライン・マリーンドルフ、いえ、オリオン王陛下」
「ヒルダでいいわよ。それで、連絡をくれたのは何故かしら?帝国に来てくれる気になったとか?」
ヒルダはガニメデにおける終戦会議で、ユリアンを帝国にスカウトしようとしていたのだ。彼女はいまだにそのつもりがあるらしかった。
「そういうわけでは……いえ、多少それに近いかもしれません」
「へえ?」
ヒルダの目に興味の色が宿った。
ユリアンは、今の自分の状況と、提案を説明した。
「つまり重婚したいから、ヘルクスハイマー家を旧領の復帰を条件に帝国に戻してほしい、そういうことね?」
「はい。ヘルクスハイマー家は僕が説得します」
「オリオン帝国にメリットは?」
「それほどないかもしれませんね。しかし、ヒルダ陛下、あなたにはあるはずです」
「どうかしら?」
そう答えつつも、ヒルダの中では既に計算が行われていた。
混乱が続いた帝国から流出した人材の中には有為の者も多い。それを帝国に呼び戻す流れを今回の一件でつくれる可能性もある。
ヒルダに協力することを帰還の条件とすれば、ヒルダの支持基盤を強化することもできるだろう。
それに、ヒルダに協力してくれる有用な人材には常に興味があった。
父親のヘルクスハイマー伯はともかく、「金色の女提督」なる異名も付きつつあった俊英マルガレータ・フォン・ヘルクスハイマーには大いに。
今は新銀河連邦所属だが、いずれ帝国に移籍してもらい、軍の一翼を担ってもらうことも考えられるかもしれない。
いまだに男性社会と言うべき帝国において、ヒルダと志を共にする忠実な片腕になってくれるのではないか。
それに、重婚という言葉には、ヒルダに少なからず意識させるものがあった。そこまでユリアンが意図していたかはわからないが。
ヒルダは手元の端末で旧ヘルクスハイマー領の状況を調べた。
今は直轄領だが、ヘルクスハイマー伯の統治は悪くなかったこと、さらにはマルガレータの新銀河連邦での活躍もあって、復帰を望む声もあるらしいことがわかった。
「奇貨居くべし、というものね。いいでしょう。受け入れましょう」
「ありがとうございます!」
ユリアンは安堵した。ヒルダが受け入れてくれるかどうかについては多少不安だったのだ。
「ところで」
ヒルダは悪戯っぽい表情を見せた。
「何でしょう?」
「あなた自身も私に恩義は感じてくれるのでしょうね?」
「勿論大いに感じます」
ユリアンも大きな借りになることは理解していたが、必要なコストだと割り切っていた。
「それでは私もお願いしようかしら」
「何をでしょう?」
ヒルダは満面の笑みを見せた。
「あなたのところは楽しそうだから、私もそのうち仲間に入れてもらおうかしら」
「……」
ユリアンはヒルダが冗談を言ったのだと理解できるまでに時間を要した。
通信を終えた後、呼びもしないのに横で聞いていたポプランが一言余計なことを言った。
「喜んでお待ちしています、と答えたらよかったのに。勿体無い」
「四人もいれば十分です」
「無欲だねえ」
ユリアンは比較対象が間違っているという言いたかったが、理解されると思えなかったのでやめておいた。
…………
「マルガレータ、そういうわけだからこの結婚はヘルクスハイマー家のためにもなるんだ。お前も婿殿を好いているのだろう?」
マルガレータは父親がユリアンを既に婿呼ばわりしていることに動揺した。
「こんなやつ嫌いです!父上、お願いです。なかったことにしてください」
ユリアンは傷ついた顔をした。
「メグ、僕のこと嫌いなの?」
「ユリアン、だから、メグと呼ぶな!」
ヘルクスハイマー伯が口を挟んだ。
「メグ、婿殿をあまり困らせるでない」
「父上、婿ではありません!」
ユリアンが声を上げた。
「メグ、愛している!」
「ぐむ」
ヘルクスハイマー伯も畳み掛けた。悲しそうな表情で。
「メグ、父に花嫁姿を見せてはくれないのか?」
「うっ」
マルガレータは、ユリアンと父親の波状攻撃を前に、抵抗して、抵抗を続けて……
ついに観念した。
「わかりました。もういいです。二人がそれでいいなら私はもうそれでいいです」
「メグ!」
「メグ!」
マルガレータは自らの愛する二人が幸せそうな笑顔をしているのを見て、二人が喜んでいるならもうそれでいいや、と思ってしまったのだった。
…………
ユリアンにはまだ関係各所への報告や交渉ごとが残っていた。
一度、ヘルクスハイマー伯爵邸を離れることになったユリアンにマルガレータは渡すものがあった。
「ユリアン、これ」
手縫いのくまのぬいぐるみだった。
「これは?」
「私が縫ったのだ。ユリアンに似せて……お前ではなく、くまのユリアンに似せてつくったのだ。その……私はお前から、その、いろいろとプレゼントを貰ったが、私は何もプレゼントできていなかったから。お守り代わりにして欲しい」
ユリアンは胸が詰まった。
ユリアンの求婚を一度断った後も、マルガレータはユリアンのためにこんなものを用意してくれていたのだ。
ユリアンはあらためて告げた。
「メグ、愛している。君と結婚できてよかった」
マルガレータは柔らかく笑った。
「私も。愛している、ユリアン」
二人は優しく口づけを交わした。58年越し、この時代では初めての口づけを。
「いってらっしゃい、
少し恥ずかしそうにそう言って、マルガレータはユリアンを見送ったのだった。