保安機構キッシンゲン支部に赴任したマルガレータは部隊の統率という新しい職務を精力的にこなし始めていた。
連合行政府のあるキッシンゲンにはマルガレータの父親、ヘルクスハイマー伯が住んでおり、マルガレータは再び同居を始めていた。マルガレータがそろそろ結婚を考えると切り出した時の父親の喜びようは尋常ではなかった。ヘルクスハイマー伯はマルガレータに結婚する気がないのではないかと思い始めていたところだったのだ。
彼女は父親の紹介する婚約者候補との面会を既に何度か済ませていた。
マルガレータは本心では決して乗り気でないのだが、父親の嬉しそうな顔を見ては、早く落ち着くべきだと自分に言い聞かせるのだった。
そのように忙しいながらもある種穏やかな日々が暫く続いた。
独立保安官としてユリアンやライアル・アッシュビー、ヤン達と繰り広げた激動の毎日が、まるで夢の中のことであったようにも思えて来た頃にそれは起こった。
キッシンゲン支部での部隊長会議を終えたマルガレータは、急激な異物感が体内に生じるのを感じた。
彼女は口もとをおさえながら、化粧室に飛び込んだ。
備え付けの洗面器に彼女は嘔吐した。
息を整え、嘔吐物を水で流し去り、口をゆすいだ。
肉体的には落ち着きを取り戻したが、精神的な動揺は収まらなかった。
「まさか、たった一夜のことで……でもそれ以外に考えられない」
ヤンの乗る航時機が消えてからマルガレータ達の元に再度姿を現わすまで24時間が経過していた。
その間にあったことを思い出してマルガレータは顔を赤らめた。
あれから2ヶ月近い。最初の悪阻としては早過ぎるわけではない。
マルガレータは腹部をさすった。
「しかし、ワープでよく流れなかったものだ。ゲノム改変の被験者になっていたからなのかな」
生命卿事件の後に、マルガレータはゲノム治療の被験者の一人となっていた。それが意図通りの効果を発揮していれば、母胎へのワープの影響は最小限となるはずだった。
「ユリアンもまさかこのような形で効果が確認できるとは思っていなかっただろうな」
ユリアン。
その名を思い浮かべたことで、彼女は胸の奥に鈍い痛みを感じた。
「とはいえ、そう判断するのは早計過ぎるか」
マルガレータは翌日、体調不良を理由に休みを取り、ヘルクスハイマー伯爵邸に医師を呼んだ。
「妊娠されておりますな」
医師の発言を聞き、ヘルクスハイマー伯は絶望の呻き声をあげた。
その様子にマルガレータは罪悪感を覚えたが、既にどうするかは決めていた。
「父上、妾は産みます」
「メグ。おい、メグ……」
ヘルクスハイマー伯は、娘に対して沸き起こった苛立ちを懸命に抑えて尋ねた。
「誰の子だ?」
「言えません。それにこのような場で追及されるべきことではないと心得ます」
「……」
ヘルクスハイマー伯も、その場に医師がいることを思い出して一旦は黙らざるを得なかった。
ヘルクスハイマー伯は医師に他言無用と伝え、通常より多い額の金銭を渡して帰らせた。
嫁入り前の娘が、何者かに孕まされたなど、一家の恥である。婚約の話も当然消える。
ヘルクスハイマー伯としては、連合諸侯の間で笑い物にされる前に堕胎を勧めるつもりだった。あるいは同意が得られなくとも、と考えもしたが、マルガレータが自らの腹部を愛おしそうに撫でているのを見て、そのような考えは頭から消えてしまった。
ヘルクスハイマー伯は世評通り「悪人」の部類に入る人間であったが、「悪い父親」ではなかったのだ。
ヘルクスハイマー伯は肩を落とした。マルガレータに対して抱いた苛立ちや怒りも既に失せていた。
ヘルクスハイマー伯は連合への亡命後に体を壊した。軍役の義務を果たさない家は爵位を剥奪されるのが連合の法であった。亡命者であるヘルクスハイマー家も例外ではなかった。ヘルクスハイマー家の危機を救ったのが当時10歳のマルガレータだった。彼女は幼年学校に入り、父親の代わりに軍役を果たした。
ヘルクスハイマー伯は帝国内でも悪評が多く、それは連合の諸侯も知るところだった。爵位は守れたものの孤立していたヘルクスハイマー家を救ったのもマルガレータだった。
彼は連合の名家ラウエ家の後継者ローザと友誼を結び、幼年学校でも知己を増やした。さらには、実力者ヤン・ウェンリーや連合盟主ウォーリックの覚えもめでたく、軍人としての実績も積み上げていった。ヘルクスハイマー伯自身の評判はともかく、ヘルクスハイマー家の評判は改善されたのだ。
結局のところマルガレータが今のヘルクスハイマー家を支えていた。そのマルガレータが自らの努力を自らの過ちで帳消しにしてしまったとしても、責めることなど父親としての彼にはできなかった。
だからヘルクスハイマー伯はマルガレータに告げた。
「縁談は全て断っておく」
マルガレータは意外に思った。産むことを強く反対されると思っていたのだ。
「父上、ありがとうございます」
ヘルクスハイマー伯は疲れた顔で笑った。
「今までよく家に尽くしてきてくれたな。だが結局はお前の人生だ。お前が決めなさい」
「ヘルクスハイマーの名を汚すことになり申し訳ありません」
「元々私のせいで評判は地に落ちていたのだ。今更気にする必要はない。家名など利用してやる、ぐらいの気持ちで構わないんだ。私がそうであったように」
「父上……」
マルガレータは父親の額に口付けをした。
マルガレータには自らの父親が無理をしていることがわかった。
それでもここは自らの意志を押し通すと決めていた。
マルガレータは休職することにした。いくらゲノム治療を受けていたとはいえ、ワープを伴う仕事を続けることは避けるべきだったから。
休職に入って1週間が経過した頃、超光速通信でユリアンから連絡があった。
誰かが休職のことを伝えたな、とマルガレータは思った。
ユリアンの顔を見たい気持ちと、そうすべきでない気持ちがぶつかった。逡巡の後、ユリアンには知る権利があるはずだと結論づけ、通信に出ることにした。
「マルガレータ……」
ユリアンはマルガレータが通信に出てくれたことにホッとしていた。
「ユリアン、久しぶりだな」
マルガレータはそのユリアンの顔を見て涙が出そうになった。
「そうだね……」
実に2ヶ月ぶりの会話だった。二人とも心の中では待ち望んでいたものだった。
しばらく無言が続いた後にユリアンは用件を切り出した。
「マルガレータ、休職したと聞いたんだけど病気にでもなったの?」
「病気?病気になんてなったら大変だ」
マルガレータはさりげなく、だが決定的な一言を、口にした。
「お腹の子供に障るからな」
誰の子だ、などという愚かなことを尋ねなかったのは、ユリアンの精神構造にまだ救いがあることを証明することであったかもしれない。
少しの沈黙の後、ユリアンは決然として伝えた。
「マルガレータ、結婚しよう」
ユリアンがそう言ってくれることをマルガレータは予想していた。だから、その場合の自らの答えも決めていた。
「断る」
それを聞いたユリアンの表情には、困惑と驚愕、それに怒りさえ混ざっていたかもしれない。
「どうして!?そんなに僕のことが憎いのか?」
「そんなわけないだろう!」
マルガレータは感情の昂りをなんとか抑えて続けた。
「理由は前にも伝えた通りだ。子供が出来たからと言って、それを変えるつもりはない」
ユリアンはハイネセンで彼女に言われたことを思い出していた。
「マルガレータ、僕はカリン達に別れを告げるつもりだ。子供の話と関係なく、僕には彼女達と一緒にいる資格はない」
マルガレータは眉根を寄せた。
「それなのに私や子供と一緒にいる資格はあると?」
ユリアンは自らの失言を悟った。
マルガレータはユリアンが言葉を失ったのを見て表情を崩した。
「資格だとか、そういうことを考える必要はない。お前は優しい男だ。カーテローゼ達はお前を理解しているから、きっと幸せになれるし、してやれるさ」
「しかし、子供が」
「私は父親が誰なのか他人に言うつもりはない。父上にも、だ。後はお前が黙っていれば済むことだ。それで皆幸せになれる」
「君はどうなんだ?それに、生まれてくる子供は?」
ユリアンはマルガレータを心配していた。それに子供のことも。ユリアンは、自分の子供が自らと同様に生まれてくるべきでなかった存在として扱われるのを恐れていた。
マルガレータにもそれはわかっていた。
「私は幸せだよ。愛する男の子供を産めるのだから」
マルガレータは微笑んだ。その柔らかな表情は、ユリアンを黙らせるのに足りるものだった。
「それに、子供も一人で立派に育ててみせる。いや、屋敷には父上や使用人もいるから一人ではないな。大丈夫だ、ユリアン。子供に悲しい思いなんてさせない。私がさせない」
子供には父親が必要だとマルガレータを説得するには、ユリアンには家族との幸福な経験というものが足りなかった。それを考えるとそもそも自分が立派に父親を務められるのかさえ怪しかった。
それに気づいてしまったことで、ユリアンは何も言えなくなってしまった。
マルガレータは自らが笑顔でいられるうちに、泣き出す前に通信を切ることにした。
「それじゃあな。約束の通り、お前が道を外れたら私は必ず止めに行くが、子供のためにもそんな日が来ないことを祈っているよ」
「マルガレータ!」
ユリアンの呼びかけも空しく通信は切断された。
人払いをした執務室にユリアンは一人残された。
何をどうすべきなのかユリアンにはわからなくなっていた。
だが一つだけすべきだと決意していたことがあった。
カーテローゼ達三人に、はっきりと別れを告げるのだ。理由は話せないし、彼女達も戸惑うだろうが、結局はその方が彼女達の為になるのだとユリアンは自らに言い聞かせた。
マルガレータはあのように言ってくれたが、ユリアンは彼女達に隠し事をしながら幸せになれる気も、幸せにできる気もしなかったから。
執務室を出たユリアンは、すぐにカーテローゼと出くわした。
ユリアンは今すぐに彼女に別れを告げようと思った。今でも明確に付き合っているというわけではない。単に会うことが少なくなるだけだ。しかしそれを考えるだけでユリアンの心は引き裂かれるようだった。
今まで別れを告げることを引き延ばしてしまったのは、結局のところユリアン自身が彼女、いや、彼女達と別れたくなかったからなのだ。
しかし、もはや許されないことだとユリアンは考えていた。
「カリン、話があるんだ」
「丁度よかった。私もあなたに話があるわ」
カーテローゼはそう答えながらもユリアンの顔をじっと見つめた。
「……あなた、また何かあったわね。ろくでもないことをしでかす前に、洗いざらい私に話しなさい」
カーテローゼの顔はまったく笑っていなかった。