宇宙暦804年6月1日 自由惑星同盟首都星ハイネセン
航時機は宇宙暦804年のハイネセンに帰還した。
「30分後に自壊を始めます」
発せられたアナウンスを聞き、搭乗者は無言で航時機から降りた。
洞窟の外に出ると、そこには出迎えがいた。
「無事に戻って来れたのね。嬉しいわ」
10代だと思われる長い髪の少女だった。
搭乗者、デグスビイは主教服のフードを下ろして応えた。
「それも偉大なるレディの導きがあってのことです」
レディと呼ばれた少女は、不愉快げに首を振った。
「偉大などという枕詞は私には不要よ」
「申し訳ありません」
デグスビイは頭を下げた。
「レディの方も首尾はいかがでしたか?」
「ええ問題ないわ。あなたが帰還して以降も全て予定通りだったわ」
「それは喜ばしい限り」
その少女も、航時機の搭乗者で、デグスビイと共に過去に旅立った一人だった。
ヤン達の航時機とデグスビイの航時機は共にメッゲンドルファーが組み上げたもので、搭乗者数も同じく五人である。
デグスビイと三人のアッシュビークローンが搭乗したとしても、もう一人乗ることが可能なのだ。
ヤンが気づきつつユリアン達に伝え損ねたのもこのこと、もう一人時間遡行者がいる可能性だった。
デグスビイは帰還したが、少女は過去に留まった。
……その彼女が何故デグスビイを未来で待つことができたのか?
「これからだけど、一度拠点と連絡をとる必要があるわね」
「では、いよいよ計画が始動するのですね」
少女は笑みを見せた。
「いいえ、まだ準備が必要よ。あなたの力も借りることになるわ。……あなたには酷なことを命ずることになるのだけれど」
「一度はないものと思った命、悲願の達成に資するならば、いかようにもお使いください」
少女はデグスビイに手を伸ばした。
デグスビイはその手を取り、恭しく口付けをした。
亜麻色の長い髪と類稀な美貌を持ったその少女の手に。
宇宙暦748年4月18日 自由惑星同盟首都星ハイネセン
亜麻色の髪を持つその少女に、痩身の男が体を預けていた。体が震え、目元にはくまがあった。その焦点の定まらない瞳を、見る者が見たらサイオキシンの禁断症状だと気付いただろう。
とはいえ、この時代の同盟にサイオキシン中毒者はさほど多くはなく、気づかれたことはなかった。
だからこそ、その男、情報部三課課長アンドリュー・ホィーラー准将は今の地位を保っていた。
長い亜麻色の髪を持つその少女は一瞬身を震わせた後、ホィーラーに囁いた。
「ブルース・アッシュビーの分身が、シャンタウ星域で死んだわ」
ホィーラーはうわ言のように呟いた。
「ルドルフになろうとしていた悪いブルース・アッシュビーはティアマトで死んだ。あなたが良いブルース・アッシュビーだと言っていた男までが今日死んだ。いずれも俺が殺したことになる。同盟は英雄を失ってしまった」
彼はティアマトに向かうハードラックに仕掛けを施し、ローザスに最後の判断を預けた。ブルース・アッシュビーが道を踏み外していたならば、謀殺できるように。
結果、ローザスは判断し、ブルース・アッシュビーは死んだ。しかしホィーラーは、何の満足感も抱くことができなかった。むしろ、虚脱感に襲われた。アッシュビーは彼を嫌い、警戒していたはずのホィーラーにとっても英雄だったのだ。
結果、この少女の持ってくる「薬」に頼る頻度が増えた。
彼はアッシュビーの代役たる男が台頭しても、その少女の説明を言うがままに信じた。
ホィーラーに対してアッシュビーの謀殺を指示した者は別にいたが、彼はその者には作戦が失敗したと報告した。
そして、再度の謀殺指令への対応を少女の命じるままに引き延ばし、シャンタウでようやく実行に移したのだ。
ホィーラーは少女に縋った。
「なあ、レディ。俺はこれからどうしたらいい?英雄はもういない。同盟はこれからどうしたらいいんだ?」
少女は艶然と微笑んだ。およそ10代とは思えない笑みだった。
「いないならつくればいいじゃない?」
「つくる?」
「そうよ。民主共和制の真の英雄をあなたがつくるのよ」
「どうやって?」
「あなたは今回の"功績"で少将になるでしょう。そうしたら年少者に英才教育を施す教育機関をつくればいい。あなたの思い描く理想を教え込み、理想の英雄に育てればいいのよ。それができれば」
少女は腕をホィーラーの首に絡ませて、その耳に口を近づけた。
「英雄を生み出したあなたこそが救国の真の英雄ということになるのではないかしら」
ホィーラーの目にギラギラとした輝きが宿った。
「俺が真の英雄……そうか、それはいいな」
それはいい、と呟き続けるホィーラーから少女は身を離して立ち上がった。
「頑張ってね。私はそろそろ行くわ」
「レディ、どこに行くんだ?」
「身を隠すのよ。四課の連中が私の存在に気づきつつあったから、そろそろ頃合いよ」
ホィーラーはそれが意味することに気づいた。
「まさか、もう会えないのか?」
少女は淡々と答えた。
「そうなるわね」
それを聞いたホィーラーの表情は絶望そのものだった。
少女は溜息をついた。
「この様子じゃあ何も手につかないでしょうね。決めたわ。私のことは忘れてもらいましょう」
少女はホィーラーに再び近寄っていった。
ホィーラーは後ずさった。
「い、いやだ!忘れたくない!」
少女の手にはいつの間にか注射器があった。嫌がるホィーラーの首にそれを押し当て、彼女は囁いた。
「無理よ。あなたは忘れるのよ。それがあなたのためよ」
「いやだ。忘れたくない。忘れたくない。忘れたくない……」
意識を失ったホィーラーの耳元で、少女はしきりに何かを呟き続けた。
暫くして少女は立ち上がった。
「これで問題ないわね。せめてもの情けで、夢の中でなら私を思い出すことができるようにしてあげたわ。それでは良い夢を」
少女はホィーラーとの密会に使っていた部屋のドアを開けて外に出た。
ハイネセン・ポリスの一角であるその場所からは、春の日差しに照らされるアーレ・ハイネセンの巨像がよく見えた。
彼女はデグスビイと再び合流するまでに六十年近い時をこれから過ごすことになる。
定命の者には絶望的に長い時も、不老不死の体を持つ彼女には何の問題もないことだった。
「次の用件まで今少し時間があるわね。いろいろと動いたから少し休ませて貰うわ。春眠暁を覚えずと言うけれど、人類を待つ夜の後に夜明けなんて本当に来るのかしらね?」
彼女は遠くに見えるハイネセンの像に向けて呟いた。
「……あなたは夜明けが来ると本当に思っていたの?アーレ・ハイネセン?」
春風が彼女の亜麻色の髪をたなびかせた。
笑みを見せる少女の顔は、どことなくユリアンに似ていた。