心にドライアイスを差し込まれたような気分だった。
それでも二人は冷静であろうと努めた。
ユリアンはライトで地面を確認した。
「地面に僅かながら圧力がかかった痕跡が存在する。おそらくはタイムワープの影響だ」
マルガレータが確認した。
「つまり、航時機と、おそらくはヤン提督も未来に戻ってしまった、と?」
ユリアンは頷いた。
「ヤン提督とは連絡が取れないことを考えてもそうだろうね。ヤン提督が君をあえて置き去りにすることはないだろうから、何らかの事故だと思うのだけど。未来にもちゃんと戻れたのかどうか……」
マルガレータが別の可能性を提示した。
「考えたくはないが、アッシュビー・クローンがヤン提督を襲って、航時機を乗っ取った可能性は考えられないか?」
「……否定はできないけど、結局この時空からヤン提督だけ、あるいはヤン提督と誰か一人が消えたという状況に変わりはないね」
マルガレータは嘆息した。
「現時点では打つ手なしか」
「明日、フレデリカさんに連絡を入れよう」
二人は洞窟の中で野宿をすることにした。航時機に万一のために積んでいた非常用食料、飲料水、野営用テントなどは幸いにもそのまま洞窟に残されており、利用することができた。
ユリアンと非常用食料を分け合いながら、マルガレータは未来に戻れないことを覚悟した。
軍人なのだから元より死ぬことすら覚悟していた。それよりは大分マシな事態かもしれない。父上を悲しませることになることだけが心残りだった。……六十年後に届くように手紙を送るのはまずいだろうか?
マルガレータは、自らが思ったほどにはショックを受けていないことに気がついた。一時的に感覚が麻痺しているだけだろうか?
ユリアンが話しかけてきた。
「マルガレータ、ごめん。僕のためにこんなことになってしまった」
彼は現在の状況に責任を感じていた。
「お前のため?祖母殿を助けたことか?それは違うぞ。私がやりたいことをやっただけだ。むしろ私のせいかもしれない」
「それでも結局僕のためだ。安心して。君だけでも未来に帰す方法を考えるから!」
またこの男は、とマルガレータは思った。
「お前はどうなるんだ?」
「僕なんてどうなったっていいんだ。元々天涯孤独だ。でも君は違う。君を僕のために不幸にするわけにはいかない」
不幸?不幸とは何だろう?
マルガレータは自分があまりショックを受けていない理由に気がついてしまった。
未来に帰れないにも関わらずユリアンと二人きりになったことを喜んでいる自分がいた。
この時代なら、ユリアンには何のしがらみもない。この時代が未来に繋がるためには、ユリアンはむしろ何もすべきではない。
ユリアンは自分のことだけを考えていればいいし、ユリアンを止めるという約束をマルガレータが果たす必要もない。
それに……月の三人娘に気兼ねする必要もない。
ユリアンをマルガレータが幸せにしてやれるのでは?
……いや、それは誤魔化しだ。
マルガレータはフレデリカの言葉を思い出した。"自分の幸せを考えてみたら?"
……私は、この時代でユリアンと一緒になることで幸せになれるのではないか?
マルガレータはユリアンへの好意の後ろに自らが押し隠していたどろりとした感情を自覚した。
魔がさした、といってもいいかもしれない。
マルガレータは感情のままユリアンに言葉をかけた。
「なあ、どうなってもいいと思っているなら、この時代で私と一緒に生きないか?」
ユリアンはマルガレータの様子にただならぬものを感じた。
「マルガレータ?」
「お前はそれほど未来に戻りたいとは思っていないのだろう?」
「僕自身はそうだけど、でも」
マルガレータはユリアンの言葉を遮って話し続けた。
「この時代なら私はお前との約束を果たさなくてもいいのだろう?お前を止めることを考えなくていいのだろう?」
「……うん」
「それなら、私は自分の想いを隠したくない」
マルガレータはユリアンの正面に立った。
「私はお前が好きだ」
マルガレータは初めてその気持ちをユリアンに告げた。
止まらなかった。
「恋人になりたい。愛を囁きあいたい。一緒に生きたい。お前が好きだ」
マルガレータはユリアンの頰に手を当てた。
「なあ、ユリアン。私ではだめかな?」
ユリアンはしばらく無言だった。
マルガレータは徐々に冷静さを取り戻した。少しずつ後悔する気持ちが現れ始めた時、ユリアンは口を開いた。
「僕はカーテローゼのことが好きなんだ」
知っている、とマルガレータは思った。心が千々に乱れた。
「サビーネのことも、エリザベートのこともきっと好きだ」
それも知っている、と思った。
答えは、「拒絶」か。
マルガレータは、ユリアンの頰に当てた手を離そうとした。だが、ユリアンはその手を握った。
「それなのに、君のことを好きだと言ってしまっていいのかな?光の下にいる君のような女性を、僕のような薄汚れた人間が」
間近で二人の視線が交錯した。
「狡い訊き方をするんだな」
本当に狡いのは私だ、とも思った。
ユリアンはマルガレータに想いを伝えた。
「マルガレータ、君のことが好きだ。真っ直ぐなところも、強がるところも。動揺すると貴族言葉になるところも、全部。ガニメデで会った時から惹かれていた」
マルガレータは微笑んで応えた。
「私もだ。私もそうだった」
二人は口付けを交わして……
ヤンは焦っていた。
ヤンはフレデリカと別れた後、洞窟に着き、航時機内で待機していた。
刻限まで仮眠でも取ろうと思っていたところ、急に航時機が動き出してしまったのだ。
何とか止めた時には
二人は不安がっているだろうな、そう思うとヤンは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
航時機の外から声が聞こえる。
マルガレータとユリアンの声だった。
「ごめん、マルガレータ。ごめん、ユリアン。ごめん、二人とも!」
航時機の外に出たヤンは目撃した。
声のした方に振り向いたマルガレータとユリアンは、この時初めて目撃した。
魔術師ともペテン師とも呼ばれる男が、本気で困惑し、顔を引きつらせているところを。
「ごめん、二人とも。私なんてお呼びじゃなかったね。ごめん、ごめんね!」
ヤン・ウェンリーはその場から逃げ出した。
「「ヤン提督ぅぅぅ!」」
二人が洞窟の外で所在なさげに佇むヤン・ウェンリーを発見したのはそれから30分後のことだった。
ヤンと合流した二人は、野営テントを片付けて物資を航時機に積み込み、改めて航時機に乗り込んだ。
ここまで無言だったマルガレータが口を開いた。
「ヤン提督。事情はわかりましたので、お気になさらないでください。我々が刻限に遅れたことも問題ですし、ヤン提督のせいではないと思います。諸々のことを含めて」
「はい」
「でも。ここで見たことは忘れてくださいね」
「はい」
マルガレータの口調は優しげだったし、微笑さえ見せていたが、その纏う空気にヤンは敬語にならざるを得なかった。
「私は何も見ていない、何も聞いていない、何も見ていない……」
ブツブツと呟き始めたヤンを尻目にマルガレータはユリアンに顔を向けた。
「ユリアン、ここであったことは忘れよう」
ユリアンはマルガレータの真意をはかりかねた。
「マルガレータ、どういう意味?」
マルガレータは未来に戻れることがわかった時に決意していた。
「そのままの意味だ。私たちは恋人にはなれない。私たちは未来に戻るのだから」
「それは!でも……」
ユリアンの言葉は続かなかった。
マルガレータの表情は聞き分けのない子供を諭す母親のようにも見えた。
「わかっているだろう、ユリアン。未来に戻ったら、お前はいろいろなものを再び抱え込むことになる。私が約束通り、お前を止めないといけなくなることも出てくるだろう」
「それでも、僕は……」
「ユリアン。カーテローゼさん達との関係を捨ててまで、私のところに来られるのか?」
「!」
言葉に詰まるユリアンに、マルガレータはさらに微笑みを見せた。僅かに期待していたその気持ちを隠すように。
「だからだ、ユリアン。そこでお前が答えられない時点で私達の関係はあり得ないことなんだ。そして、私はそんな、誰のことも切り捨てられないお前だからこそ、どうしようもなく好きなんだ」
「マルガレータ、僕だって」
マルガレータはユリアンのために身を引くつもりだった。
「好きだ、なんて余計なことは言わなくていいからな。私はお前が隣にいなくても生きていける」
「でも……」
なおも言い募るユリアンの様子を、未練がましい、とはマルガレータは思わない。
ユリアンは自らのためにマルガレータに執着しているわけではない。ただ、マルガレータの気持ちを慮るばかりに見捨てるという判断ができないだけなのだ。ならばこちらからそうできるように仕向けてやろう、そう考えた。
「未来に戻ったら、私もそろそろ婚約でもしようかと思う。父上からはそれとなくと言われているんだ」
ユリアンばかりかヤンまでが驚いていた。
「ヤン提督、安心してください。保安機構はやめません。ああ、でも」
マルガレータはここであえて酷薄そうに見えるように笑った。
「ユリアンの担当は外してもらえませんか?」
話を向けられたヤンは、困った顔で言った。困ったような顔ではない。
「ヘルクスハイマー中佐、私にはよくわからないけど」
マルガレータはヤンに笑顔を向けた。
「わからないなら、そのまま受け入れてください」
「……はい」
ヤンは、自分の元副官はこんなに怖い女性ではなかったはずなのに、と悲しくなった。
マルガレータはユリアンにも笑顔を向けた。
「ユリアンも安心してくれ。担当を外れてもお前が道を踏み外したらちゃんと止めに行くから」
ユリアンが傷つくのを、それによって自らが傷つくのも承知の上でそう告げた。
マルガレータの意図通りユリアンは傷ついた表情のまましばらく黙っていた。
マルガレータは胸の張り裂ける思いだった。ユリアンの胸に縋って、「私を選んで。私と共にいて」と言えたらどんなによかったことか。しかしマルガレータは伯爵家を守る立場の者として、そのようには生きて来なかった。
ユリアンはようやく口を開いた。
「本当にそれでいいんだね」
マルガレータはその言葉を発するのに多大な労力を費やした。
「いいんだ。それがお互いのためだ」
「わかった」
「……一つだけ、いいか?」
「何?」
「月で待つ三人娘のことだが、早く結論を出してやれ。余計なお世話だし、矛盾したことを言うようだが、期待だけ持たせてずっと結論を出さないのもかえって酷なことだと私は思うぞ」
「……頭に入れておくよ」
奇妙に感情のこもらない声でユリアンは応じた。
ヤンは何とか仲裁しようと試みた。
「二人とも」
「ヤン提督、この会話も忘れてください」
マルガレータは笑顔だった。
「……申し訳ないですが、忘れてください」
ユリアンもヤンに笑顔を見せた。
「……」
ヤンは自らに対処不能なこの状況を前に、別れの挨拶を交わしたはずのフレデリカに早くも助けを求めたくなってしまった。未来で待つ妻と子供に会いたいとも思った。
それに、あまりの展開にヤンは航時機で待機していた間に浮かんできた疑問を二人に伝え損ねてしまった。
こうして三人は、一つの恋の結末とともに、宇宙暦804年に戻ったのだった。