タクシーが郊外まで来たところで、それは起きた。
前を走っていた車が対向車線に乗り出し、前から来た車とぶつかったのだ。自動運転の車が道を外れるなど、通常はあり得ない事故である。
ユリアン達の乗るタクシーも止まった。
二台の車に近寄ってみると、事故の原因となった車は無人だったが、対向車線の車には人が乗っており、まだ生きていた。
それは臨月だと思われる妊婦だった。
亜麻色の髪を持つ、美しいと表現できる女性にユリアンは既視感を持った。
妊婦は額から血を流しながらも意識を保っていた。
「お願いです、お腹の子を助けて。ミンツ家の名にかけて必ず、必ずお礼はしますから」
子を守ろうとする執念か、それだけを絞り出すようにユリアンに伝えて気を失った。
マルガレータが叫んだ。
「ユリアン、大変だ。破水している!早く病院に連れていかなければ!」
マルガレータは妊婦の状態の方に気を取られて聞いていなかったようだが、ユリアンは聞き逃さなかった。
ミンツ家。間違いない。
ユリアンの祖母である。
その事実を前にユリアンは動けなくなった。
ユリアンを、息子を奪った女の子供と見なして憎しみの対象とし、生まれて来るべきではなかった存在として扱った女性。
お腹の中の子供はユリアンの父親だろう。祖父はこの時既に戦死しており、祖母にとっては父は祖父の忘れ形見だった。
「ユリアン、手を貸してくれ!」
マルガレータが再度ユリアンに呼びかけた。
ユリアンはふと思った。
ここで赤ん坊が助からなければ、祖母の願い通りに自分は生まれて来なかったのではないか。それが世界のためにもよいことなのではないか、と。
そう思ってしまった。
心を闇が覆った。
「ユリアン!」
それに、ここで未来から来た我々が干渉することの方が不自然なことなんじゃないか。ヤン提督も僕達を待っていることだし。
「ユリアン!」
ユリアンはようやく呼ばれていることに気がついた。
「マルガレータ、行こうか。ヤン提督が待っている」
マルガレータは唖然とした。
「ユリアン、何を言っているんだ?」
「歴史に干渉しちゃいけないだろう?」
マルガレータはユリアンの頭を両手で挟み、その目を覗き込んだ。
「ユリアン、お前は何を言っているんだ?目の前で命が二つ消えかけているんだぞ。助けないわけにはいかないだろう?」
マルガレータの真っ直ぐな声はユリアンの心を揺らした。闇が少し薄れた気がした。
「マルガレータ……」
「とにかく病院に連れて行くから手を貸してくれ!」
「……わかった」
ユリアンはマルガレータと共に妊婦を担ぎ上げ、タクシーに乗せ、近在の病院に向かった。
マルガレータが妊婦の面倒を見ている間に、ユリアンはヤンに携帯端末で連絡を取ろうとしたが繋がらなかった。そのため、伝言のメッセージだけを送っておくことにした。
妊婦、ユリアンの祖母はうわ言を呟いていた。
「私が守るわ。お父さんがいなくても立派に育てて見せるわ。だから無事に生まれて来て」
ユリアンは胸が詰まった。
祖母が子供を純粋に愛していることが伝わって来た。ユリアンはそれを見捨てようとしていたのだ。
ユリアンの祖母がユリアンを憎んだことだって、父への愛の裏返しだった。そのことも頭では理解していたはずなのに。
妊婦を病院に預けて、面倒ごとが発生する前にユリアン達はそこから離れた。
子供が無事に生まれてくることをユリアン達はもはや祈ることしかできなかった。
ユリアンはマルガレータに感謝した。
「マルガレータ、ありがとう。僕はとんでもない間違いを犯すところだった」
「ユリアン、お前、どうしたんだ?目の前で人が死にかけていたら悪人でも助けてしまう奴だと思っていたのに」
マルガレータは怒るというよりは純粋に困惑していた。
「僕の祖母なんだ」
「何だって?」
「僕の祖母さ。髪の色が似ていただろう?それにミンツ家の名前を口にしていた」
「それじゃあお腹にいたのは?」
「僕の父親だね」
マルガレータはユリアンの正気を疑った。
「ユリアン、お前!自分が生まれなくなるところだったんじゃないか!」
「そうだね」
「そうだねって……どうしてそんなことを?」
「祖母は僕を憎んでいた。生まれてくるべきではなかった、と。あの瞬間、僕は祖母の言う通り生まれてこなくなった方がいいんじゃないかと思ってしまったんだ。いや……」
ユリアンは今にも泣きそうな顔をしていた。
「今でもそう思っている」
マルガレータはユリアンの心の闇の深さにかけるべき言葉を見失った。
マルガレータは衝動的な行動に出た。
ユリアンを抱きしめたのだ。
「マルガレータ?」
驚くユリアンにマルガレータは語りかけた。
「私はお前が生まれて来てくれてよかったと思っている。私だけじゃない。ヤン提督だって、フレデリカさんだって。トリューニヒト主席だってそうだ。それに……カーテローゼさん達だって」
「そうなのかな?」
「そうに決まっているじゃないか」
「そうか……」
マルガレータとユリアンはしばらくそのまま抱き合っていた。
ユリアンがやがて呟いた。
「あの、マルガレータ」
「何だ?」
「人目が」
マルガレータが目を向けると、周りにはそこそこの人通りがあり、マルガレータ達は注目を集めていた。
マルガレータは飛び退るようにユリアンから離れた。
「周りが見えるようになったということは、少しは落ち着いたみたいだな」
赤面しながらマルガレータは誤魔化すようにユリアンに言った。
ユリアンも赤くなっていた。
「おかげ様で。何から何までありがとう」
「大したことは何もしていない」
ユリアンの闇が消えたわけでもない、とマルガレータは心の中で呟いた。
マルガレータとユリアンは再度タクシーに乗った。既に刻限は過ぎている。
タクシーの中でユリアンはマルガレータに訊いた。
「あの二人が本来あそこで死んでいる存在だったら歴史が変わっていたことになるけど、その時君はどうするつもりだったんだ?」
助けられた立場で意地悪な質問をしている自覚はあった。
マルガレータは何でもないことのように答えた。
「航時機で未来に連れて行こうと思っていた。ちょうど二席空きができたわけだし」
ユリアンは正直意表を突かれた。
「君にはかなわないな」
ユリアンはそう言って笑ったのだった。
マルガレータは揺れる自分の心を無視するべく努めなければいけなかった。
マルガレータは誤魔化すように呟いた。
「しかし祖母の事故現場に出くわすなんて、そんな偶然があるんだな」
どこまでが偶然なのか。その疑問が脳裏をよぎったが、二人とも深く考える余裕はなかった。
山に着いた頃には時刻は既に午後8時を回っていた。
暗い山道を可能な限り早足で歩きながらマルガレータがユリアンに尋ねた。
「ヤン提督とはまだ連絡がつかないのか?」
「うん。もしかしたらバッテリー切れなのかも……」
ヤン提督ならあり得なくはないとマルガレータも思った。
「一人夜の山中に待たせていることになるから急がないといけないな」
山道を登り、航時機を隠してあるはずの洞窟まで辿り着いた。
遅くなったが、ヤン提督は待っているはずだと二人は当然のようにそう思っていた。
しかし。
「航時機が、ない」
航時機はあるべき場所から消えていたのだった。