デグスビイ主教。
かつて、ユリアンの心に残る女性シンシア・クリスティーンを毒牙にかけて利用していた男。
それが個人の意志ではなく地球教団全体の意向に沿ったものであったことを理解していたが、それでもユリアンはデグスビイを憎悪せざるを得なかった。そうすることで多大な負荷の中でユリアンは精神の安定を保っていた。
彼が死んだ時、ユリアンの憎悪がどこに向かうのか、ユリアン自身にもわからなかった。
だからユリアンは彼に殺意を抱きつつ、彼を殺すことを恐れた。
神聖銀河帝国滅亡時に、ユリアンはデグスビイを一度見逃した。
デグスビイは取り乱し、ユリアンとマシュンゴに怯えながら逃げ出した。
しかしユリアンの前に再び現れたデグスビイは、その時のことなど忘れてしまったかのように、以前と同様の薄ら笑いを顔に浮かべていた。
「足を失ったと聞きましたがご壮健のようで何より。ミンツ大主教」
デグスビイの言葉に刺激され、ユリアンは一歩前に出ようとした。
だが、その腕をマルガレータが握った。
首を横に振るマルガレータを見て、ユリアンは少しだけ冷静さを取り戻した。
デグスビイの顔には一瞬強張りが見えたが、すぐに薄ら笑いの中に消えた。
「誤解しないで頂きたい。私はここに話をしに来たのです。この通り、丸腰です」
わざとらしく手を広げて見せてから、デグスビイはユリアンに語りかけた。
「ミンツ大主教、私はあなたが丸腰の相手に対しても銃を撃てると知っている。あなたはそういう人間だ。だから約束して頂きたい。私はあなた方の利益になる話をする。その後立ち去るから、あなたも他の皆さんも手を出さずに見送って頂きたい」
ユリアンは声を荒げた。
「そんな約束ができると思うのか」
しかしヤンの反応は違った。
「いや、ここは呑もう」
「ヤン長官!」
「こちらが追跡を行わないとは彼も思ってはいないだろう。それでも構わないと思ったからこそ彼は出て来たんだ」
デグスビイは話の通じる相手を見つけて安堵したようだった。
「その通りです。私はこれから未来に、宇宙暦804年に戻るのですからな。ここで私ごときを殺しても後味の悪さしか残りませんぞ。航時機もこの世界に残ることになる。それはそれで不都合でしょう?」
「もう一人のアッシュビー・クローンはどうした?」
デグスビイはかぶりを振った。
「彼には彼の目的があるようですが、もはや私の管理外です。我々にとってもあなた方にとっても毒にも薬にもならないでしょうな」
ヤンはユリアンの方を見た。
「ここは納得してくれないか」
「わかりました。ヤン長官がそう仰るなら」
ユリアンとしてもこの場でデグスビイを殺さなければならないと思っていたわけではない。ただ、憎悪を制御しかねているだけなのだ。
「ヘルクスハイマー中佐、ありがとう。大丈夫だよ」
ユリアンの言葉に、マルガレータも腕を放した。
「それで、何を説明してくれるのかな?」
「我々の目的が達成されたことをです」
ヤンは平静を保ちつつ再度尋ねた。
「どんな目的だったんだ?」
「我々の歴史を安定させることです」
「安定?」
「我々の歴史はもう一つの歴史と、第二次ティアマト会戦におけるブルース・アッシュビーの生死によって大きく分岐している。
しかし、ティアマト後もアッシュビーが生きていることなど本来あり得ず、それゆえに我々の歴史は本来の歴史に修正されようとしていた。皆様もご存知でしょう?」
デグスビイは一度ヤン達を見渡した。
「旧帝国暦表記のラベルを持ったビールの混入や、妙な記念碑の出現、夢の形をとった別の歴史の記憶の流入など、我々の世界で起きていたことはほぼ全てそれが原因でしょうな」
「つまり、君たちが歴史改変を行なったのが原因ではなかったのか」
デグスビイは頷いた。
「むしろ歴史改変を起こさないようにすることが我々の目的ですからな。
しかし、その試みはなかなかうまくいかないことがわかった。第二次ティアマト会戦におけるアッシュビーの死はどうしてか不可避だった。まるで歴史自体に修正の力があるようにブルース・アッシュビーは死んだ。
だから我々は一計を案じた。ブルース・アッシュビーが死ぬことを確定させた上で、なおもブルース・アッシュビーが生きている未来を出現させようとした。すなわちクローンによる成り替わりです。
とはいえ、730年マフィアを従えることも、いまだ数に勝る帝国を相手に帝国領侵攻作戦を成功させることも、ブルース・アッシュビー並みの才が必要だった。ただのクローンには無理だったのです」
フレデリカは尋ねた。
「もしかしてあの人、ライアル・アッシュビーが生み出されたのも……」
「エンダースクールにおけるアッシュビー・クローン計画が元々それを意図していたのかどうかは私も知りませんな。ただ、我々がライアル・アッシュビーの利用を思いついたのは事実ですな」
ヤンは呟いた。
「我々はそのためにこの時代に来させられたというわけか……。では、アッシュビー・クローンを何故過去に連れてきた?」
「アッシュビー・クローンはライアル・アッシュビーに対する撒き餌です。まあ、クローンにはクローンの目的があったわけですが」
「我々の歴史は何故生まれたんだ?我々の歴史が存在すること自体がとても不自然に思えるんだが」
「さあ?私ごときにはわからないことです」
「お前を送り込んだ者ならわかるのか?」
ユリアンが口を挟んだ。彼にはデグスビイがこの件の首謀者であるとはどうしても思えなかった。
デグスビイははぐらかした。
「さあ、どうでしょう?」
「お前を送り込んだ者も所詮大した存在ではないということか」
デグスビイの顔色が変わった。
「驕るなよ、ユリアン・フォン・ミンツ。お前ごときの想像が及ばぬ存在が、この世には存在するのだ」
「へえ?どんな存在なんだ?」
デグスビイは己の失態に気づき、その問いには答えなかった。
「いや、失礼。そういうわけで、我々は仕事を終えたので未来に帰るわけです。もはや航時機を使うこともありません。航時機は帰還と同時に自壊します。あなた方の乗ってきた航時機にも同様の仕掛けが施されていますのでご注意を」
「何故使わないんだ?航時機があれば我々に対して優位に立てるじゃないか?」
「航時機が複数存在した場合、それぞれが過去に戻って歴史に干渉を繰り返すことで、歴史は安定せず常に変化するものになる。そして最終的には全ての航時機が誕生しなかった歴史に辿り着いてしまう。それゆえに、航時機は、つくられたとしてもただ一台だけに留めておく必要があるし、航時機のことを不用意に外部に漏らしてはならない。あなた方に制限付きとはいえ航時機を渡したこと自体かなり危ない橋だったわけです。あなた方が我々に対抗するために航時機を開発しようなどと考えさせないためにも、我々は航時機を放棄します」
「その上でも、最終目標を達成できると考えているわけだね」
「ご想像にお任せします。ともあれ、話すべきことは話しました。それでは機会があれば未来で」
デグスビイは立ち去ろうとした。
「ライアル・アッシュビーは死ぬの?」
フレデリカの呟くような声はそれでもデグスビイに届いた。
「死ぬでしょうな。死んでもらわなければ我々全員が困る」
デグスビイはそう返して、立ち去って行った。
フレデリカは住居に戻るまで無言だった。
ヤンはその様子を心配し続け、ユリアンとマルガレータはさらにそんなヤンの様子を見ながら帰ることになった。
住居に戻ると、そこにはライアル・アッシュビーがいた。
「あなた!」
フレデリカがライアルに駆け寄った。
「これから政治家連中との会合だ。俺に協力してくれるんだそうだ。大方俺の票目当てなんだろうがな。その前に立ち寄らせてもらったんだ。まだ帰っていないとは思わなかったが」
ヤンはライアルにデグスビイとの邂逅のことを説明した。
「そうか。やはりそれが目的だったか。しかし、これで本当に歴史は安定したのかな?」
「そのようですわ。『ゴールデンバウム王朝全史』の記述が私の覚えている限り、元に戻りましたから」
もう一つの歴史の記述が混入するようになっていた『ゴールデンバウム王朝全史』をフレデリカは持ってきていた。彼女の高い記憶能力と情報処理能力が合わさることで、それは歴史改変の有無をある程度まで判断できる道具になっていたのだ。
「ひとまずは一件落着というわけだな。それなら俺を残して、もう未来に帰還したらどうだ?」
その言葉に敏感に反応したフレデリカを見やりながらヤンが尋ねた。
「しかし、まだもう一人のアッシュビー・クローンがいるじゃないか」
「俺と情報部第四課に任せてくれていい。ヤン長官はいいかもしれないが、ユリアン君とヘルクスハイマー中佐は二十代の貴重な時間をこんな時代で潰すのはもったいなかろう?」
二人のことを持ち出されると、ヤンも残留を強くは主張できなかった。
「私は」
フレデリカの発言をライアルは遮った。
「フレデリカ、君も未来に戻るんだ」
フレデリカはライアルを睨んだ。
「……あなたを置いて?」
ライアルは頷いた。
「俺はもうすぐ死ぬ人間だ。忘れてくれ。俺がいなくてもヤン長官がいる。頼ればいい」
「何を言っているの!?」
ライアルは屈託のない表情をしていた。
「もう一つの歴史では二人は良い仲だったんだろう?もう一つの歴史の記憶がなくても君を見ていればわかる」
フレデリカとヤンは顔を見合わせた。
ライアルは微笑を見せた。
「何だったら二人で再婚してくれたっていい」
「あなた……」
フレデリカはライアルに駆け寄り、その頰を……思いきり引っ叩いた。
「ゴヘッ」
ライアルは妙な声を出して床に倒れ伏した。
唖然とする面々の前でフレデリカはライアルに近寄り、その襟首を掴んで引き起こした。
「別の歴史でどうだろうと、この歴史では私はあなたの妻です。あなたを愛しているんです」
フレデリカはライアルから手を離して立ち上がり、今度はヤンに近づいた。
「ヤン提督、私にはもう一つの歴史のかなり鮮明な記憶があります。だから、私は覚えています。あなたとの結婚生活の幸せも、プロポーズして頂いた時の歓喜も。そして……あなたを失った辛さも」
「フレデリカ……」
ヤンがフレデリカから明確にもう一つの歴史のことを聞いたのは初めてだった。
「私は全宇宙が原子に還元したっていいからあなたに生き返って欲しいと願っていた。だから、関係が変わっても、この歴史であなたが生きてくれていることが私は堪らなく嬉しい」
ヤンは困ったように頭をかいた。その仕草は歴史が変わろうとも同じだった。
「フレデリカ、君は今幸せかい?」
フレデリカは微笑んだ。微笑もうと決めていた。
「ええ、幸せよ。あなたは?」
「幸せだ」
ヤンはその言葉を噛みしめるように言った。
「もう一つの歴史での君との結婚生活と同じぐらい幸せだよ」
「よかった。その言葉が聞けて」
フレデリカは涙を見せながら手を差し出した。
二人の間で握手が交わされた。
そこに存在する感情を表す言葉をマルガレータは知らなかった。
友情の握手、ではない。愛情と表現するのは簡単だが、安易過ぎるように思う。
「私はこの時代に残るわ。最後の瞬間までライアルと共に。それでも私はこの時代からあなたの幸せを願っているわ」
「私もだよ。何処にいても君の幸せを願わずにはいられない」
「ありがとう、あなた。……それじゃあ、さようなら」
フレデリカは名残惜しそうにしながらも手を離した。
それから、ようやく立ち上がったライアルに歩み寄った。
「いきなり叩いてごめんなさい」
若干身構え気味のライアルにフレデリカは謝った。
「いや、いい。……そういえば君に殴られるのは初めてだな」
「そ、そうね」
フレデリカの動揺にライアルは気づかなかった。
「本当に俺と一緒にいてくれるのか?」
「私はアデレード夫人のように、あなたが帰ってくるまで待つような女じゃないわ。嫌かしら?」
「嫌なものか」
ライアルは唐突にフレデリカを抱きしめた。
いきなりのことにフレデリカは少し慌てた。
「みんな見ているわ」
見ると三人とも顔を背けていた。マルガレータなどは顔を真っ赤にしていた。
ライアルはフレデリカから体を離した。
「嫌だったか?」
「嫌なものですか」
ライアルは三人に告げた。
「そういうわけで、俺とフレデリカは残ることになった。寂しくなるが、三人とはここでお別れだな。今まで世話になった」
ヤンが答えた。
「こちらこそ。未来と、保安機構の方は何とかする。だからフレデリカを頼んだ」
フレデリカは涙ぐみながらも笑顔を見せた。
「これでお別れになるけどあなた達も元気でいてね」
「あの」
ユリアンは思いきって口を挟んだ。
「なんだか今すぐにでも未来に戻る流れになっていますけど、僕、マルガレータとこの時代でデートをする約束をしているんです。もう一日待ってもらえませんか?」
「あ……」
フレデリカもそのことを忘れていた。
「ええ!」「へえ?」
ヤンとライアルの驚きと好奇の視線が二人に集中した。
平然と佇むユリアンを置いて、
マルガレータはその場から逃げ出した。