宇宙暦745年12月、帝国軍七個艦隊五万六千隻と同盟軍五個艦隊四万八千隻がティアマト星域に集結した。
ここまでの兵力が一つの星域に集中することは同盟軍と帝国軍の長きに渡る戦いでも稀であった。まさに帝国と同盟の命運をかけた一大決戦である。
ヤンは、戦いに臨む兵士達の空気を感じ取っていた。
この時代既に厭戦感情が個人レベル以上のものになりつつあったと歴史は伝えているが、兵士達の間には防衛戦争への意気込みが確かに存在するとヤンには思えた。比較の問題かもしれないが、それは宇宙暦8世紀末、独立諸侯連合領で帝国軍と戦っていた同盟軍の兵士達からは半ば失われていたものだった。
戦いへの意義を感じられることと感じられないこと、どちらが幸せなのかヤンにはわからない。
ヤンはこの戦いに参加しているはずのアレクサンドル・ビュコック大将、前同盟軍宇宙艦隊司令長官、この時代では19歳の砲術下士官のことを考えた。この時代で話す機会はきっとないだろうが、未来に戻ることができたら「呼吸する軍事博物館」たるかのご老人と一度話がしてみたいと思った。
当然のことながら同盟軍兵士達には戦いへの不安も忌避感も皆無ではなかった。特に、上層部の不協和音は兵士達の間でも噂になっていた。
とはいえ、兵士達の不安が深刻なものとなっていないのは、ジャスパーのジンクスが勝ちの順番であったこともさることながら、ブルース・アッシュビーが戦う度に勝利をもたらしてきたからに他ならない。
仮にブルース・アッシュビーがこの戦いの中で倒れるようなことがあれば、この会戦自体が敗北で終わるだけでなく、精神的支柱を失って同盟軍が崩壊し、同盟それ自体が存亡の危機に陥ることにもなりかねなかった。
歴史改変のことを抜きにしても、それは何としてでも避けなければならないことだった。
ライアルはハードラック内でフレデリカに与えられた士官用の個室にいた。彼は密航同然の状態のため、出歩くことはできない。
このため、フレデリカの部屋がライアル達の作戦会議室となった。
フレデリカがライアル、ユリアン、マルガレータに報告した。
「この数日の皆さんの協力のお陰で艦内主要部に監視カメラを設置し終えました。特に艦橋部は複数のカメラによって死角をなくしています。カメラの映像はこの部屋から把握できますので、常に私が確認するようにしておきます。何者かがアッシュビー暗殺に動く兆候を見つけた場合など、必要があればイヤホンを通じて私が指示を出しますので皆さん気をつけておいてください」
単純に艦橋でブルース・アッシュビーを護衛するだけでなく、監視カメラでモニタリングするというアイデアはユリアンの発案だった。
ユリアン、マルガレータは小型のイヤホンを付けて、フレデリカの指示の元艦橋でアッシュビーの護衛にあたることになった。
勿論、アッシュビーには彼らの他にも正式な護衛役がついており、二重の防衛体制が敷かれる形になっている。
ハードラックの周囲も三隻の巡航艦と六隻の駆逐艦で固められており、外部からの攻撃に備えられていた。これはアッシュビー暗殺と関係なく、総旗艦を守るための通常通りの護衛体制である。
ヤンは巡航艦の一隻に既に搭乗しており、外部からの攻撃の兆候がないか万一に備えて見張ることになった。艦長にはヤンに従うようにアッシュビー直々の指示が与えられていた。
このようにライアル達の準備が整えられた頃、フレデリカの個室に訪問者があった。
一度ブルース・アッシュビーがやって来たことがあったが、その時はライアルが追い返した。今回もそうかもしれないと内心溜息を吐きつつ、設置したカメラの映像で相手を確認したフレデリカだったが、今回は違った。
訪問者は参謀長として多忙な筈のローザスだった。
「レッドフォード氏はいるかね?」
ローザスはライアル・アッシュビーの偽名を口にした。
呼ばれたライアルも少々驚いた。
「ローザス提督、今の時期にこんなところに油を売りに来ていいのか?」
「開戦前に交代で最後の休息を取っているところだ。仕事は副参謀長に任せてある。戦いの前にお前さんと話がしてみたくなった」
「無論こちらは構わないが」
「答えられる範囲でいい。教えてくれ。お前さん達の時代、帝国はどのような存在だ?」
ライアルの警戒が高まったのをローザスは見て取った。
「もうわかっている。帝国は未来においても続いているんだろう?」
ライアルは慎重だった。
「想像に任せる」
ローザスはライアルの返事に構わずに続けた。
「未来はどうだ?こんな戦いが未だに続いているのか?」
「酷いこともいろいろと起きるが、言えるのはあなた方のお陰でそれほど捨てたものにはなっていないということだけだ」
ローザスは未来から来た者達に思いをいたした。
「まあ、そうか。あの二人のように有望な若者がいるのだものな。ジークマイスター提督がひどく残念がっていた」
ライアルは、二人のことを考えた。マルガレータはともかく、ユリアンに「有望」という言葉は妥当なのだろうか。まあ有望過ぎるほどに有望かもしれない。もたらしてくれるものが希望なのか絶望なのかは未だにわからないが。
ローザスは何気なさを装って尋ねた。その質問こそ今回の訪問の目的であった。
「お前さんは、ルドルフになれるならなりたいと思うか?」
ライアルはその問いにルドルフクローンのことを想起した。
「ルドルフになりたいとは思わないな。……アッシュビーになりたいとも思っていなかったが」
クローンに対して適切な問いではなかったことを認識し、ローザスは問いを変えた。
「では、宇宙を手に入れられる機会があったら手に入れようとするのか?」
ライアルは遠い目をして呟いた。
「妻一人御し得ないで宇宙の覇権を望むなんて不可能だと思わないか?」
フレデリカが淹れた紅茶を盆に乗せて笑顔で近づいて来た。
「何か言いましたか?」
「何も言っていません」
ライアルの返事は棒読み気味だった。
ローザスはそんな二人の会話を見て、この男はブルースとは何かが違う、と思った。
ブルースは危険な天才であるが、彼は何というべきだろうか?尻に敷かれた天才?
ブルースに似ていながら考え方の異なるこの男は今までどのような来歴を辿ってきたのだろうか?
話を聞いてみたいところだが、それこそ簡単には教えてくれない部分だろう、とローザスは諦めた。
「ありがとう。邪魔をした。紅茶を頂いたら艦橋に戻るよ」
ライアルはローザスの目を見た。
「今の会話で用は済んだのか?」
ローザスは紅茶に目を落とした。
「ああ。特に何かあったわけではない。よい息抜きになったよ」
ローザスは去っていった。
三時間後、ティアマトにおける同盟と帝国の二度目の会戦の火蓋が切って落とされた。
もう一話、本日中に投稿予定です。