ヤンはその後一週間にわたって私服で街を歩き回った。この当時はまだハイネセンに数の少なかった地球教団の施設を監視してみたりもしたが、収穫はなかった。
その日も散々歩き回って、時刻は既に5時近くになった。
「さて、次はどこに行こうか」
ヤンは時間つぶしの場所を探していた。フレデリカにしてもユリアンにしても、そろそろ住居に戻ってもおかしくない頃だった。しかし、ヤンは帰るのを躊躇っていた。フレデリカと顔を合わせるのが、夢をもう一つの歴史と認識するようになってから気まずくなってきていたのだ。
そのことが、仕事が終わっても家に帰るのを躊躇うお父さん会社員のような行動をヤンに取らせてしまっていた。
ヤンは結局、コートウェル公園のスタンドでフィッシュアンドチップスとミルクティーを買い込みベンチに座った。
隣のベンチでは十代前半とおぼしき少女が同じようにフィッシュアンドチップスと飲み物を持って座っていた。
彼女には私はどう見えるのだろうか?会社をクビになった元会社員というところかな、と自嘲的なことを考えてしまっていた。
この頃の失業率はどの程度だったろうか?ヤンはフィッシュアンドチップスをつまみながら同盟の歴史に思いを馳せた。
出産数の減少による少子高齢化、市場の縮小と生産年齢人口の減少により、同盟経済は徐々に縮小し、財政も悪化しつつあった。戦争が優先される中で同盟政府はこのことに有効な打開策を取ることができずにいた。しかし破局を迎える前にブルース・アッシュビーによる局面転換が行われ、独立諸侯連合という戦争代行者と新たな市場、生産年齢人口を手に入れたことで同盟は結果的に延命された。
そうならなかったもう一つの歴史では同盟は一体どうなっていたのだろうか?
考え事をしながら食べていたせいか、ヤンは白身魚のフライを喉に詰まらせ、その拍子にミルクティーまで落としてしまった。万事休すである。
苦しむヤンに、隣のベンチの少女が飲み物を差し出してきた。
私はこういうシチュエーションに縁があるのだろうか?そう思いながらヤンは遠慮なく飲み物を受け取った。
ホットミルク。
「出来れば紅茶の方が良かった」
「先にお礼を言えないなんて、親の顔が見てみたいですわ」
のんびりとした話し方のわりに辛辣なことを口にした少女の顔をヤンはまじまじと見つめた。
美少女というべきだが、どこかで見たような顔だった。
「ありがとう。私はフォン・タイロン中尉、これでも軍人なんだよ」
「そうなんですの?てっきり、職を失った元会社員かと思っていました」
「……私もそう見える自覚はあったよ」
少女はクスッと笑った。
「面白い人ですね、中尉さん。私はカトリーヌ・ルクレールよ」
……ヤンの母親だった。ヤンが5歳の時に死に別れた母親が、少女の姿でそこにいた。
感極まったヤンは思わず声に出してしまった。
「お母さん」
「え?」
場の空気が凍った。カトリーヌが後ずさったように見えたのは気のせいではないだろう。
ヤンは慌てて取り繕った。
「いや、ごめん何でもない」
「私が親の顔を見てみたいって言ったからその意趣返し?」
カトリーヌはなんとか好意的な解釈を捻り出してくれたようだった。
「いや……うん、そうかな」
そういうことにしておいた方がよさそうだとヤンは判断した。
カトリーヌもヤンの顔をじっと見た。
「でも、確かになんだか他人という気もしないわ」
「奇遇だね。私もだ。もしかしたら君の父親の父親の息子の長男の妹の息子ぐらいの関係かもしれないね」
「……それだと結局私の息子ということにならない?」
「あれ?本当だ」
「掴み所のない人。でも嫌いじゃないわ。私、これから親の決めた婚約者と会うの。あなたと同じ軍人よ」
……我が母は奇襲攻撃が得意なようだ。
母は父とは再婚だった。つまり、今から会うのは父と結婚する前の相手ということになるのだろう。
ヤンとしてはなんとも複雑である。
「そうなのか。それはなんと言ったらいいか、おめでとうというか……」
「おめでたくはないわ。こんなに早くから人生を決められて。しかもかなり年上よ」
カトリーヌの気分が沈んでいるのは見るからにわかった。
やめられないのかい。そう言いかけて、ヤンは思いとどまった。彼女が本気になってやめてしまったら、下手をしたらヤン自身が生まれない可能性が高くなるのだ。
カトリーヌは勝手に話を進めていた。
「どうせ年上で軍人なら、相手があなたみたいな人だったらよかったのに」
「……光栄だね」
母親からのさらなる奇襲に、ヤンはそれしか言えなかった。
不満気なカトリーヌの様子に、ヤンは少し考えて言葉を続けた。
「君が先々独り身だったら、その時には私みたいな顔の私によく似た名前の男が交際を申し込みに来るかもしれないから、その時は真剣に考えてみてくれないか?」
「予言?」
「予言じゃないよ。ええと、そうだな。私は知っているんだ」
「……へぇ。そう。楽しみにしているわ」
カトリーヌは勝手に納得したようだった。
「そろそろ行かないと。行きたくないけど。さようなら、私の父親の父親の息子の長男の妹の息子さん」
カトリーヌは手を差し出した。
ヤンはその手を握った。
母親と握手を交わすというのもなかなかない経験だった。その手の暖かさがヤンにはとても貴重だった。
「さようなら、命の差し入れをありがとう、カトリーヌ」
カトリーヌは手を振りながら立ち去って行った。
ヤンはカトリーヌに対して再度心の中で呟いた。
私を産んでくれてありがとう、お母さん。
「しかし、私の母はなかなか個性的な人だったんだな」
うっすらとした記憶の中の母は太陽のように温かく優しい人という印象だったのだが、それに加えて芯の強さも持っていたようだ。
当然かもしれない。変人の父と結婚するような人なんだから。
ヤンは頭の中にジェシカやフレデリカ、ローザを思い浮かべて考えた。……ローザに似ているかな。
なかなか失礼な比較であったし、そこに無意識にフレデリカを入れてしまったことに申し訳ない気にもなった。
ヤンはふと気がついた。
「そういえば父さんも母さんと同じぐらいの年頃でこの時代を生きているんだよな」
会ってみたいとも思ったが、今何処にいるかというと判然としなかった。
「まあいいか」
気まぐれな父に妙な影響を与えたくもないと考え直し、ヤンはそのように結論づけた。
8時近くなってから住居に戻ると、毎夕恒例のユリアンによる料理教室が開催されていた。
生徒はフレデリカとマルガレータである。
台所に立つ三人。
朧げなもう一つの歴史の記憶の中でも似たような状況があった気がした。
もう一つの歴史ではヤンは殺されていた。随分とユリアンとフレデリカを悲しませたことだろう。この歴史ではヤンは生きて二人と笑顔で言葉を交わすことができる。それがどれだけ貴重なことか。
ヤンは母親と会ったことでそう感じた。
明日からはもう少し早く戻るようにしよう。ヤンはそう思ったのだった。
翌日、ヤンはコートウェル公園に今日も行くかどうか迷った。
母親にまた会えるかもしれない。
しかし、結局行かなかった。
彼女とヤンの人生が交わるのは本来は二十年後のはずだったから。
カトリーヌはコートウェル公園のベンチに来ていた。
また、あの妙な男が来るのを期待して。
夜が近づいてきても男は来なかった。
彼女は溜息を一つだけついて立ち上がった。
彼は結局何だったのだろうか?妙に切羽詰まった顔で自分のことを「お母さん」と呼んだあの男。彼はきっともうこの公園には来ないのだろう。
それでも、カトリーヌはいつかどこかでまたあの男と会える気がしていた。
星々が混ざり始めた夕焼けの空に向かって、カトリーヌは呟いた。
「またね」