数日前から、ユリアン達の結婚式のために参列者が月に集まって来ていた。
ヤンの妻にして独立諸侯連合における要人の一人であるローザ・フォン・ラウエは、従者一人を伴って、ユリアン・フォン・ミンツとの面会に臨んでいた。
「ご足労頂きありがとうございます」
「軍人としてでも、メグの友人としてでもなく、ラウエ家当主としての私に用とは何かしらね。しかも、夫には内密だなんて」
表情はにこやかだったがローザが多少の警戒をもって場に臨んでいることは護衛役の従者を連れていることからも明らかだった。
対するユリアンは一人である。
「まずは冷める前に紅茶を飲んで頂いてからということで」
ローザとユリアンの前には、ユリアンが自ら淹れた紅茶が置かれていた。
ユリアンの目は何かを期待しているようだった。
毒味に動きかけた従者を目で制して、ローザはティーカップに手を伸ばした。それはシロン茶に思えた。
口に近づけると果実のような香りが鼻腔を刺激した。香りに覚えた違和感は僅かなものだったが、口にした途端に、ローザは眉を顰めた。
従者が慌てて叫んだ。
「ローザ様!」
「いえ、大丈夫よ」
不味いわけではなかった。むしろ……
「お口に合いませんでしたか」
ユリアンは薄い笑みを顔に浮かべていた。
「いいえ。結構なお点前で。でも、これは何処の紅茶?飲んだことがないわ」
紅茶のことでユリアンに後れをとることはローザにとって屈辱的なことだった。
「ご存知なくて当然です。これは地球産です」
「地球産?あなた、まさかこれは!」
「ご推察の通り。これはダージリンです。ダージリンの茶葉を、再生した地球の環境で復活させたものです」
それはシリウス戦役により失われた地球三大紅茶の一つだった。
ユリアンは月のアーカイブからダージリンに関する情報と種子を回収し、再生事業によって再生の進んだ地球の上で、その製法も含めて復活させたのだった。
「ダージリン……」
「正直なことを言うと、本当に再現できているのかまだ不安なところもあったのですけど、でも」
「いいえ、よく再現できていますわ」
「え?」
「何か?」
ローザは不思議そうな顔をしていた。
「いえ……でもその通りです。レディ・Sが別の歴史でダージリンの味を覚えていて、確認してくれたので」
「ダージリンが復活した……」
ローザはティーカップを手にしたまま考え込み始めた。
「ただの紅茶趣味人ならともかく、エルランゲン紅茶会社の出資者であるあなたなら当然懸念しますよね」
ラウエ家当主であるローザは、独立諸侯連合、同盟の紅茶取扱量のそれぞれ60%、5%を占める紅茶会社の筆頭株主だった。
ダージリンが出回れば、紅茶会社の経営に大きな打撃となる可能性があった。
「しかし、あなたはそれをわざわざ私に教えた」
ローザの眼差しは鋭く、普段の朗らかな様子は完全に影を潜めていた。
ユリアンの方は笑みを絶やしていなかった。
「ええ、そうですね。手を組めると思ったからです」
「我々地球財団は流通手段を持たない。そこがネックです。一方で、エルランゲン紅茶会社はそれを持っている。ダージリンを武器に、現在はシェアの低い同盟や帝国、フェザーンに対して販売量を増やしていくこともできるかもしれない」
「ダージリンを専売させてくれるということかしら」
そうであるなら、大きな利益のある話だった。
「少なくとも直近は、そう考えて頂いて構いません。生産量も少ないですから」
「面白い」
ローザはティーカップに再度口をつけ、答えた。
「私はただの株主だけど、紅茶会社に対してはよく言っておきますわ」
「ぜひ、お願いします」
ユリアンは手を差し出した。
「長い付き合いになりそうですわね」
ローザもその手を握り返した。
「ああ、そうそう。メグが私に相談してきましたわ」
ローザは笑顔を取り戻していた。
「え?」
「最近あなたがよそよそしい、と。メグが同年代の友達がいたことをあなたに言わなかったから?そんな理由で?」
ユリアンは動揺した。同時に最近の自分の行動を思い返すと心当たりもあった。
「えっ、いや、そんなことは……いえ、そうかもしれないですね。メグには謝っておきます」
「仲良くね」
「はい……」
式の前日には家族達の顔合わせが行われた。
事情を知る者からは多少の懸念を持たれていたヘルクスハイマー伯とクリスティーネ、サビーネの再会はごく平穏に済んだ。
妻の死がリッテンハイム大公によって引き起こされたものだとしても、ヘルクスハイマー伯は弁えていたし、クリスティーネとサビーネはそもそもそのような事情を知らなかった。
一方でひと騒動が持ち上がったのはワルター・フォン・シェーンコップとカーテローゼである。
カーテローゼはシェーンコップを無視し続けていた。
シェーンコップは目も合わせようとしない娘を放っておいて、ユリアンに言葉を向けた。
「坊や、跳ねっ返りだがまあ仲良くやってくれ」
「ええ、そうさせて頂きますよ。お父さん」
「お父さんじゃないでしょ」
その発言に場の空気が凍った。
シェーンコップも、顔に苦笑いを浮かべたまま何も言えなかった。
平然としていたのはカーテローゼとユリアンぐらいのものだった。
注目が集まる中、カーテローゼはおもむろに手を自らの腹部に持っていき、撫でるような仕草をした。
シェーンコップの顔に理解の色が広がっていった。
「おい、カリン、まさか……」
「あんたの孫よ、おじいちゃん」
カーテローゼはシェーンコップの表情を確認し、ついに堪え切れなくなって思い切り笑いだしたのだった。
ユリアンはトリューニヒト、レディ・Sにも会った。
彼らは公式には死んでいる存在のため式典には参加できない。それでも彼らは祝ってくれた。
「ユリアン、もう大丈夫だな」
トリューニヒトは本当に嬉しそうだった。
「突然の苦しみは、今も発生するの?」
レディ・Sの顔つきは心なし柔和になったようにユリアンには思えた。
彼女が尋ねたのは、未来における絶望的な戦いの記憶の残響がユリアンを襲う現象のことである。
「残っています。歴史が変わっても、並行世界における人類滅亡の未来はなかったことにはならないようですね」
「苦しい?」
ユリアンの反応は落ち着いたものだった。
「苦しくないわけではないですが、原因がわかっているのですから耐えられます」
まして人類が上帝に対する対抗手段を手に入れた今となっては絶望に押し潰されることはなかった。
ユリアンは逆に尋ねた。
「お二人はこれからどうされるのですか?」
トリューニヒトが答えた。
「姿を変えた上で、いずれここを去るよ」
「そうですか」
ユリアンにも想像できていたことだった。
「人類が存続していけるのか、ずっと見守っていくわ」
レディ・Sは自らの守ったものの行く末を見続けるつもりだった。
「私もそれに付き合うよ」
トリューニヒトも同調した。
「では、ぜひ見守り続けてください。僕達の未来を」
「勿論だとも」
「忘れないでください。トリューニヒトさん、あなたは僕にとって父に等しい人でした」
トリューニヒトは満面の笑顔になった。
「私にとっても君は息子だったよ」
ユリアンはレディ・Sにも話を向けた。
「あなたのことを何と考えべきか、今でもわからないのですが」
「でしょうね。無理しなくていいわよ」
いつも通りの口調のようでもあったが、ユリアンの目には少し寂しげに見えた。
「姉だと思ってもいいですか?」
「姉?」
レディ・Sの瞳が揺れた。
「身内じゃないとは思えなくて。でも適切な言葉が見つからなくて。それで、いてくれたらよかったと思っていたのが姉だったので」
「いいわよ。姉と思ってくれて」
レディ・Sを構成する人格の一部には、ユリアンのことを「お父さん」と呼びたい気持ちもあった。
とはいえ、人類を救う使命から解放された今、ユリアンが自分のことを身内だと考えてくれることがレディ・Sには何よりも嬉しかったのだった。
多数の人格の混成物と成り果てた存在であるレディ・Sは、トリューニヒトやユリアンとの関わりの中で、再び一人の人間と呼べる存在になり始めていた。
ユリアンはクリストフ・ディッケルと月地下都市の廊下で遭遇した。
クリストフはユリアンを見てバツの悪い顔になった。
「マルガレータに余計なことを言ってしまったが、まあ式にはお前の友人として出てやるんだから許してくれ」
ユリアンは訝しげに答えた。
「何のこと?」
「知らなかったのか。いや、聞いてなかったらいいんだ。まあ言うほどのことじゃないか……」
まるで逃げるように去って行ったディッケルに対して、ユリアンはしばしその場に立ち止まり、やがて元来た道を戻り始めた。
そして、結婚式当日となった。