「やめぬか。治丘衛(じへい)」
あのひときわ大きい家屋の戸口が、がらりと開き、中から老人がでてきた。面長で顎がとがって、頬が痩けている。 一見、落武者みたいであった。 治丘衛とは対称に武芸などには縁のない体つきだったが、 頼邑にむけられた細い眼には能夷らしいものがあった。
「旅の方よ、無礼を赦せ。伊助が世話になったな」
そして、付け加えるように、
「客人をもてなしおやり」
そう言い残すと、自分は帰って行った。
「客人?この男が」
治丘衛は眼を丸くし、キョロキョロとした。 頼邑は、治丘衛に案内してもらうことにした 。その間、 治丘衛は、何かとぶつぶつと小言をしていた 。 女、子供 は珍しい客人の頼邑に好奇の眼で後ろ姿を見送っていたが 、やかて、ひとりふたりとその後をついていった。
その日の夜、頼邑のために宴が開かれ、男たちはここぞとおいて美味の酒を持って宴が行われる場所へ、ぞろぞろ集まってくる。 そこでは、男たちの笑い声が絶えない。その中に伊助の姿もある。怪我しているので伊助は 、酒はひかえ、飯だけにした。肩口の傷のた めである。
「さぁさぁ、頼邑どの。遠慮せずに飲んでくだせぇ」
そう言って頼邑のお猪口に酒をついだのは平八郎だ。 平八郎は、三十 六歳。あの伊助と酒をくみかわすほどの仲なので手当してくれた頼邑に、
「伊助の命の 恩人と一杯やりてぇ」
と言って、家から酒を持ってきたのだ。 平八郎は酒好きで、何かにかこつけては飲みたがるのである。
「にしても、伊助。とんだ阿呆だな」
「おれも聞いてあきれた。こんな話もあるんだな」
なぜ、 伊助が怪我を負ったのか伊助自身が、 事の成 り行きを話した。襲った相手に助けられたことを聞いたものだ から、おかしくて中には、 ひ っくり返るほど大笑いをしている者もいる。
「だってよ!頼邑さまが、あやかしかと思ってよ」
伊助は、口をとがらせ、拗ねるように言った 。 伊助は、最初は頼邑どの、と呼んでいたが、 頼邑さまと 呼ぶようになった。
「私が、あやかしに見えたのか」
予想もしない言葉に頼邑は驚きを隠せない。
「そりゃねぇだろう。頼邑どのが、あやかしなら伊助は 貧乏神だな」
平八郎が、伊助の顔を覗きながら言った。
「その言葉は、そっくりお前に返してやろう 」
平八郎こそ、酒臭い息をし 、だらしのない格好になっている。肩まで伸びた総髪が乱れてくしゃくしゃになっている 。 顎がしゃくれ、頬が肉を抉り取ったようにこけている般若のような顔が、貧乏神のようである。
「そいつはいいゃあ」
男たちは高々と笑い声を上げた。
「伊助どの、先の言葉の意味を教えてくれ」
笑いの中、頼邑の声に振り返った伊助は、思い詰め たような表情があった。
「それは、狐の化け物のせいだ」
平八郎が、しゃっくりをしながら言った。
「狐の化け物」
すると、脇にいた伊助が、
「馬の丈ほどある、でけぇ狐でよ。尾がいくつも生えてるんだ。人里におりて来なかったのに、ここら最近、現れるようになったんだ 。悪さもしねぇから、気にもとめていなかったんだが、ついに人間を食い殺した」
と、言い添えた。
「食い殺した のは熊だが、狐が従えてるってんだ。それより、厄介なのが人間が俺たちを殺そうとしてる」
お猪口を手に持ちながら、
「その人間は、恐ろしい力を持っている。おぞましい力だ 。巫女みてぇな力で、名は「覡 」(かんなぎ)という」
頼邑の横に座った、吉之介が言った。
頼邑よりさほど、歳が変わらないように見える。
「だから、伊助は見なれず、そなたを狐の類いだと勘違いしてしまったのだ。すまぬことをした」
伊助の代わりに吉之介が、詫びを入れてきたが、重いひびきはなく軽く聞こえた。 頼邑は、それには何も答えず、
「伊助どのは、川を渡る前からずっと私をつけておられたか」
と、伊助に言った。 すると伊助は、首をひねった。
「 おれがつけてきたのは、杉林のとこからですよ」
「本当か」
てっきり、川を渡る前からつけられているとばかり思っていた。あのとき、確かに気配はあった。