その日は、朝から穏やかな晴天で、雪道を行くのも汗ばむほどだった。男は、朝早くからの農作業をいったん終え、妻子が待つ家へと向かっていた。 この地では、厳しい冬でも農作物が育つ環境であり、他国の侵略もなく、人々の暮らしは平穏であった。
なぜなら、ここは古くから住む神々が人々を守ってきたからである。だから、人々は、不自由なく暮らしてきた。
男は、家から森に続く何か引きずった痕跡と血の線に気付いたが、マタギが獲物を山から下ろし、自分の家で休んでいるものと男は思った。 先月、知り合いのマタギが子熊を仕留め、手土産に持ってきてくれたので、また見せに来たに違いない。
その時、家の中で飼われている馬が足をふみ鳴らし、しきりに嘶いて暴れる音が聞こえた。見ると、馬が吐く息が辺りを白く曇らせるほどだった。
どうどう、と男は声をかけ、何とか馬を静めようとした。馬はしばらくして漸く落ち着きを取り戻したが、今度は男の胸騒ぎが収まらなかった。
男は家の入口に近づくと蓆(むしろ)を排して土間に入った。雪道を歩いてきた男の眼には、炉に残った薪の炎の色が赤々と映って見えるだけだった。男は、いったん落ち着くために土間におかれた甕(かめ)の水を杓子ですくって飲むと、炉端には八歳の倅が座っていたので、ほっと安心した。男は自分をおど かすためにわざと狸寝入りをしているのだろうと思い、わざと大声で話しかけながら近づき倅の肩を揺すったが、眼を覚まさない。
「いい加減にしろ」
と言いながらのぞき込んだとき急に男の顔がこわばった。 倅の胸から膝にかけて、乾いた血のようなものがこびりついついるのに気がついたのだ。
男は、倅の顔に手をかけ仰向かせた。男の眼が大きくひらかれた。咽喉の部分の肉がえぐりとられていて、血液がもり上がり胸から膝へ流れ落ちている。さらに頭の左側部に大きな穴がひらき、そこから流れた血が耳朶をつつみ、左肩にしたたっている。
男は、倅の顔をはなすと土間の隅におかれた鉞に走り寄っ た。他国の者が金か食物を奪うために家に押し入り、倅を殺したに違いないと思った。男は、息をひそめ家の内部をうかがったが薄暗い家の中に動くものはなかった。
男は倅と留守をしていた妻のことを思い出し、名を呼んでみた。しかし、妻の返事はなく、家の内部に人の気配は感じられなかった。
静寂と冷気が、男の体を重苦しくつつみこんだ。 ただならぬ事態に家を飛び出した男は農作業現場にいる仲間の方へ走った。
途中に点在する家々の窓からは、女や子供が、男の走ってゆく姿を不審そうに見つめていた。