「……ユーリアの山地でコンガの群れ?」
場所は、ルクレイア王国の南部に位置する中規模都市ヒュルック。
そのヒュルックを治める領主たるマレーズ伯が、にわかに信じがたいといった趣で声を発していた。
そこは、とある建物の一角の室内。
壁に飾られている絵画や棚に並べられた古美術品であろう瓶などをはじめ、机や椅子などの調度品はいずれも一目で価値があると分かる物が揃っている。
その室内において、彼は豪奢な椅子に座ろうともせずに呟いていた。
マレーズを見た時、多くの者が違和感を感じるだろう。
伯爵という高い貴族階級*1であるにもかかわらず、その容姿は気弱、穏やか、優しげといった中年男性という印象が強いのである。
事実、伯爵にもかかわらず、マレーズは大変に気弱な性格をしており、高圧的だとか傲慢さとは無縁であった。
可能であるなら、領主の立場を辞し、一市民として生きたいと日ごろから公言しているくらいだ。実際のところ、突然に市井へ紛れ込んでも違和感なく溶け込める容貌であった。
そんな風貌に性格であるから、多少の頼りなさを感じはしても、市民達からも嫌悪だの憎悪を抱かれる事とは無縁でいられた。
そのマレーズが呟いた先には一人の男がいた。
こちらは遠慮なく豪華な刺繍が施されたアンティーク調のソファーへと座ってくつろいでいる。
「ヴェルラー、その話は本当なのかね?」
「えぇ、マレーズ伯。もちろんですとも」
ソファーで優雅にくつろぐ男の名はヴェルラーといった。
髪を短く刈り揃え、その顔立ちは悪人顔などと評される事も少なくない。
マレーズ以上に年長であり、老年に半ば差し掛かっているといってもいい。
だが、その佇まいはマレーズなどより、よほど貴族然としている。
堂々とした立ち振る舞いであり、二人の身分を知らなければ、ヴェルラーの方がどう見ても上の立場にしか見えないだろう。
彼は、ハンターズギルドの南方方面の責任者であった。この辺の点在するギルド支部の頂点に立つものと言い換えても過言ではなかった。
それだけの立場にあるだけに、その彼が軽々と根拠のない話を都市長にするわけもない。
マレーズの問いかけなどは、形式上どころか自身の心理における不安を吐露していく中での最終確認にしか過ぎなかった。
「コンガの群れがこちらへ進行してくる可能性があるというのも?」
「その通り。ここヒュルックを襲うかは微妙なところですが」
コンガとは小型の牙獣種に位置するモンスターの一種だ。
桃色の毛並みをしており、頭頂部にはパイナップルのような毛房を備えている。
小型とはいうが、成人男性並みの体躯はあり、屈強な腕に殴られれば容易く人は死ぬ。
そんなモンスターが群れで襲ってくれば、狩猟を生業とするハンターとて決して油断できる相手ではない。
だが、ヒュルックは元々城塞都市であり、防衛用に周囲を城壁で囲んでおり、防衛設備も充実していた。
コンガが群れを成したところで、城壁を破るのは不可能に近い。
しかし、周辺の農村などはどうか?
村を最低限に囲む木々の防柵くらいは備えたとしても、そんなものはコンガが相手であれば、あってないに等しい。
大した苦もなく体当たりで打ち壊すか、屈強な腕をもって枝木の如くちぎってしまうかするだろう。そもそもが跳躍力とて並々ならず、多少の高さであれば壊すまでもなく、飛び越えてしまえるのだから。
まさしく、彼らの行く手を遮るものは無いようなものであった。
「むむむ、ヒュルックのハンター達でどうにかできそうかね?」
「正直厳しいでしょうな。コンガの数はざっと二百頭を超えています。それも最初の報告ですから」
「にっ、ひゃっ、二百ぅっ」
間の抜けた声を出したとマレーズは自覚し、思わず赤面しそうになった。
自身の立場を顧みれば、迂闊に平静を失ってはならぬと思ったからだ。
だが、相手はヴェルラー。今更醜態を晒したところで見くびるような相手ではないと思い直し、こんな事は些細だと切り替える。
とはいえ、冷静になったとしてもコンガが二百頭。それも一斉に動き出す可能性があるのは脅威そのものだ。一介の村々がどうこう出来る規模ではない。
そして、このヒュルックにて活動するハンター達だけでは厳しい事も理解した。
ヒュルックにおいては、数だけなら百人近いハンターが在籍し、活動している。
だが、その中でベテランといえるハンターなどは十人にも満たない。
大体ヒュルックで一番強いハンターがB級なのだ。A級以上は一人とていない。
他はC級が数名、D級が数名といったところ。
あとはF級の新米や、それに毛が生えた程度のE級のハンターがほとんどだ。
さらにいえば、ハンター達の半数近くは狩猟の依頼遂行のために、あちこちへと遠出している状況であった。
このヒュルックの防壁や防衛設備を十全に使えるというならまだしも、都市外の平地で戦えば厳しいだろう。
まさか、ヒュルックの内側に籠りきって、周辺の村々を見捨てるわけにもいかない。
せめて、避難するように知らせるくらいは必要だろうが、逃げている最中の無防備なところをコンガ達から襲い掛かられたら、目も当てられぬ。
では、郊外での戦いを想定してみるとどうだろうか?
村を守る事を考えると、防壁も何もないであろう地上戦になる。
とてもじゃないが、二百頭という大群相手にヒュルックのハンターや騎士だけで勝負になると思えなかった。
騎士団の総勢だけなら、コンガの群れにも劣らぬ数がいるが、そもそもがモンスター討伐を本業としているわけではないのだ。
一方的な劣勢とはいわないが、決して楽観できる戦力比といえないのが現状だ。
「いや、そもそも二百頭もの大群をどうして今まで見過ごしていたのだ?」
「その疑問はごもっともです、マレーズ伯。私もこの報告を聞いた時、まずそこを疑問に感じました」
その質問を待っていた、とばかりに両手を広げ、恭しく頭を下げるヴェルラー。
マレーズはそれを「説明を続けたまえ」と視線と表情で話の続きを促した。芝居がかった動きをするのはいつもの事であり、いまさらどうにも思わなかった。
「先日、街道にてリオレウスが出現し、これが討伐されたとの報告が入ったのはご記憶に新しいかと存じます」
「リオレウス……あぁ、もちろんだとも。討伐したのはホツリ村のヴァリエ殿だったか」
「そう、かの竜姫の異名に知られるヴァリエ殿です。彼女がリオレウスを討伐した折、そのリオレウスがどこからやってきたのか調査を始めました」
「そうだったね。発見報告すら上がっていなかった火竜が、なぜ急に街道へ現れたのか調べていたと聞いているよ。結局、詳細は分からぬがユーリアの方からではないかと聞くが?」
元々、近辺での生息情報や発見報告もないまま、いきなり街道まで飛来してきたリオレウス。
不幸中の幸いというべきなのは、移動中の商隊を襲った際に、たまたま竜姫で知られるヴァリエが同乗していたことだ。
もし彼女がいなければ、行商人達はもちろんだが、そのあとにも村々への被害や、ヒュルックへも襲来していた可能性もあるのだ。
ヒュルック側も、都市部周辺に巡回がてらの警戒などは怠っておらず、この日は遠目に飛竜らしき姿を観測し、報告へ動いていた。
だが、どんなに急いだとしても商隊達にその知らせが届いていた可能性はないに等しい。
彼女がたまたま商隊に同乗していた事、人間側に一人として被害が一切なかったのは、本当に僥倖というべき幸運であった。
その後、ハンターズギルドの調査員達が周辺調査を開始した。
しかし、結果はユーリアの山々の中でひっそりと生息していたのでは? などという曖昧な結論が報告にあがったのだ。
リオレウスが巣にしていたらしき形跡は山中で確認できた。
そのあと、ヒュルックまでの道筋には食べ残したとみられる草食竜の死骸が数頭発見され、深く抉られた傷痕からリオレウスの牙や爪によるものだと判明している。
では、なぜかのリオレウスは山を出てきたのだろう? という疑問が浮上した。
番となる雌火竜の存在はなかった。
存在した気配すら露ほどにも感じられなかった。
雌が子育てをしている時は夫たるリオレウスの気性が荒ぶる事も多く、周辺への威嚇や警戒なども込めて飛び回るケースもみられるのだが、今回は該当しないといっていい。
餌場での食糧確保が難しくなった?
しかし、ユーリアの山中には草食竜アプトノスが多く生息しており、水場も要所で発見された事から、遠出をする必要があったとは考えにくかった。
そもそも、火竜が捕食する事が難しいような環境など、そう多くもないのだ。
これも説としては否定された。
では、ただ単に目的もなく飛来していただけなのか?
空の王者で知られるリオレウスには、強靭な飛行能力が備わっており、三日間連続で飛び続ける事も珍しくない。
結局どこから来たのか不明ではあるが、分からない事尽くしである以上、このあたりで結論付けるかとも職員達は話していたのだが、調査員の一人が別の可能性を示唆した。
「リオレウスは別のモンスターに追い出されたのではないだろうか」
討伐されたリオレウスの見分をした時、外傷がほぼヴァリエとの戦闘痕のみであった事からその可能性は低いと判断されていた。
ユーリアの山地で、他に目立った飛竜の存在も確認されていなかったからだ。
そもそも、リオレウスが急に現れた事自体、青天の霹靂というべき事態だったのだから。
他の飛竜がいたのに気付かれないのであれば、いっそハンターズギルドの落ち度であろう。
そのリオレウスの巣や周辺に調査員が赴いた際、コンガが数頭活動していたという報告が記述されていた。
しかし、当初は元の主が出ていったので、縄張りを広げに来たのではくらいにしか捉えられていなかった。
まさか、コンガがリオレウスに立ち向かい、これに勝つなど、到底考えられないケースだったのだ。
だが、物事にはいくつもの例外がある。
実際に格下とおぼしきモンスターが、飛竜や果てには古龍でさえも破った事例は存在していた。
調査を続けていく内に、コンガの群れがいくつも形成している事、ババコンガが八頭も点在している事も分かると、今回はそのレアケースともいうべき事態だったのだろう、という考えが根強くなった。
これだけの群れと、それらを率いる群れのボスが集えば、さしもの火竜とて手を焼くのかもしれないと考えれば、辻褄が合う気もしたのである。
「今も続々とコンガどもは集結を続けています。目的は分かりませんが、少なくとも人間と友好的に接しようだとか、平和的な内容でないのは確かでしょうな」
「早々に片づけねば、いつ群れが動き出すか分からない、か。早期決着を目指すつもりかね?」
「ご明察の通りで。包囲網を形成して、じわじわと、しかし確実に仕留めていく方向で考えたいと思っております」
「此度の件、そのヴァリエ殿にも依頼をするという事かな? 彼女がいれば勝利は確実、と」
「ご賢察恐れ入るばかりです、マレーズ伯。今回の件、念には念を入れて、ヴァリエ殿のお力も借りておくべきと愚行する次第。たとえ、協力が得られないとしても、手は打つべきでしょう。つきましては……」
マレーズの問いかけは、ヴェルラーをまずまず満足させた。
気弱で不断な印象で知られるマレーズであったが、ひとまず平静とならば、都市長としての見分を活かした思考を巡らせる事が出来るのだ。
とはいえ、その後のヴェルラーの言葉には、なんとか平静を装ったはずのマレーズが、再び納得や驚愕の入り混じった器用な表情を浮かべるのであったが。
「ヒュルックから手紙……しかも豪華で封蝋つき」
ホツリ村の酒場、兼、ハンターズギルドにて、ヴァリエは呟いた。
手元には一通の手紙が収まっている。
時刻は昼前。酒場内に人気もまだ少ない。
友人にしてハンターズギルドの支部長であるアイナから、名指しで封筒が届いていると言われ、酒場まで出向いたのだ。
最初、封筒くらいそのまま渡してくれればいいのに、と思いながらヴァリエは来たのだが、実物を見て呼び出した理由を察した。
封筒には豪奢な装飾細工が施されており、これだけでも売り物として扱えるだろうと思われた。
しかも丁寧に封蝋されており、やんごとなき身分の者が差出人である事を保証までしてくれていた。
内容を読む前から、嫌な予感しかしなかった。
身分の高い人間の依頼を受けて良かったと感じた記憶など、極めて稀である。
大概は簡単な依頼で、ヴァリエでなくとも容易に遂行できるものがほとんどだ。
彼らの目的は依頼そのものでなく、そのあとだ。
依頼を完遂し、そのあとに感謝の宴がどうのこうのと理由を付けて呼ばれ、ご丁寧に衣装だの化粧まで施され、豪華絢爛な空間で、着飾った貴族だの身分高き人々が集っているのだ。
ヴァリエに限らず、名前の知られている人物を呼び出し、この際にと交流を図ろうと考える者は幾度もいた。
中には女だてらに竜姫だのと呼ばれているから、どんな奴かと珍獣猛獣を一目見たさに呼ぶなど、失礼極まりない相手もいる。
そうした相手に限って爵位を持つなどして地位も高く、影響力も大きく無視しえないものだから、ハンターズギルドも無下にするのが難しい背景があった。
ハンターズギルドの運営面で出資していたり、便宜を図っている貴族も多いためである。
結果、ギルドの職員、果てには支部長だの責任者などからも懇願され、出向かざるを得なくなるのだった。
最初は礼儀作法も何も学んでいない無作法者だから云々……と断る事もできた。気に入らなければ暴れてしまうかもしれない。素手でもモンスターは殺せてしまうが、それでもよければ等と伝えれば、相手が怯えてしまって有耶無耶になる事もあった。
だが、呼ぶ方にも面子がある。
自分の権力や権限が及ばない事を、自分の希望に沿わない者が存在する事に、耐えがたい屈辱だ、侮辱だと感じる者の方が多いのである。
生まれながらに望んだ事が容易に叶えられる環境下で育つと、どこまでも人は傲慢で我儘な傍若無人に育つのかもしれない。
そうした相手に正面から叩きのめした事も一度や二度でないヴァリエだった。それで仲良くなった相手もいないわけではないが、限りなく少数派に属するだろう。
無論、そんな放蕩じみた馬鹿貴族ばかりでない事をヴァリエは知ってはいるが……。
ともかくも、内容を読んでからである。
とはいえ、どのような内容にしても断るのは難しいだろうと感じていた。
「その封蝋はマレーズ伯爵の紋章ね」
「伯爵様かよぉ……」
カウンター越しにアイナは手紙の差出人が誰であるか、確信して答える。
ハンターズギルドの受付嬢、兼、支部長である彼女であれば、大概の貴族階級の紋章を把握していた。
王家などは流石に少ないが、貴族からの依頼などを斡旋する事が多いゆえである。
マレーズ伯爵といえば、ヒュルックの都市長でもある。
とはいえ、貴族階級者にしては珍しく傲慢や驕慢といった面とは無縁とも聞く。
真偽は分かりかねるが、都市長を辞したい、なんなら貴族もしたくない、等と言っているらしい。
もし本当であれば、特権階級を自ら捨てたがる極めて珍しい人物とも思うし、ヴァリエに対してもそこまで無茶を言わないのではと思った。
実際、マレーズの悪い噂は聞いた事がない。
どちらかというと、ヒュルックのハンターズギルドを治めているギルドマスターたるヴェルラーの敏腕辣腕ぶりの方が有名だ。
二人が並んだ時、ヴェルラーが上司で、マレーズがどう見ても部下にしか見えない、という話は何度も聞く。
表面上、ヴェルラーは恭しく慇懃に礼を尽くしているようにみえるが、まさしく面従腹背、いつでも背中を狙っているという噂も多い。
アイナも立場上、ヴェルラーと関わった事はあるが、この封筒も彼の指示や進言によって届いたものではないかと思っている。
先日のリオレウス討伐からのヴァリエ宛のこれだ。間違いなく影響はあるのだろう。
竜姫のヴァリエが活動を再開したのだと、あるいは復帰に向けて動いていると考えているに違いない。
いずれにしても、そのへんのランポスを討伐しろだとか、容易な依頼ではあるまい。
その程度なら、ヒュルックにて活動するハンターで事足りるのだから。
「ひっさしぶりに封蝋とか見たなぁ……ふんっ」
ヴァリエが封蝋を指先で掴み、力を込めるとパキっと割れる。
それから封筒を開け、中の手紙を確認する。
その様子を、呆れた表情でアイナが見つめる。
封蝋の開け方としては一般的に、金槌などで叩き割るか、ペーパーナイフで封筒の端を切って開ける。
当たり前だが封蝋を指先で押し割る事は推奨されていない。というか普通はできない。
外見から想像しえない膂力を持つヴァリエだから出来る事だろう。
手紙の内容を読んでいたヴァリエの表情や目線を観察していたアイナだが、彼女の様子には否定的な反応がみられなかった。
案外、悪くない内容だったのか?
「…………」
「どうかしたの? 無茶な内容だったの?」
「伯爵がここに来るって。ギルドマスターのヴェルラーって人と一緒に」
「えっ、ここに?」
普段から冷静にして沈着な印象の強いアイナでさえ、一瞬間の抜けた表情を浮かべてしまった。
その時、酒場内で食事を取っていたり、真昼間から酒を飲んでいた少数のハンター達も固まっていた。
やはりというか、さりげなく耳を傾けていたようだ。
耳聡い連中に対し、アイナが一瞥すると何事もなかったかのように振舞ってはいるが。
「まったく……で、いつ来るの?」
「この手紙が届いてから、近々には到着するようにします。だって」
「この手紙が届いたのが今朝だから、下手したら今日か明日には来るかもしれないって事よね……困ったわ」
形の綺麗な顎に手をやりながら、アイナが悩む様子を見せた。
伯爵やギルドマスターに無理難題を言われたとしても、どうにかしようと考えてくれているのだろうか。
笑みを浮かべ、気にしなくていいと、そうヴァリエが言おうとすると。
「私、あのマスターって苦手なのよね。にこにことしながら外堀埋めて追い詰めてくるタイプだし。伯爵みたいな偉い立場の人も苦手なのだけれど。今から休暇をもらっちゃダメかしら?」
「……アイナが逃げるのかよ」
「当たり前でしょう。貴方だけの問題なら多少は気にするけど、私が当事者になるのは嫌よ」
「アイナはここの支部長でしょーが。逃げたらダメじゃんか」
ヴァリエを案じてくれているのかと思いきや、自分の保身に走るアイナであった。
ヴァリエが呆れつつ、彼女にしては珍しく正論を口にすると、アイナはやれやれといわんばかりに首を振る。
爵位持ちの貴族だのギルドマスターから、まさか本当に逃げるわけにはいかない事を、アイナもヴァリエも分かっている。
大体、真面目が服を着て歩くのがアイナといわれるほどだ。
そんなことをするとは思えなかった。
「ヴァリエ」
「何さ」
「貴方らしくもない。ハンターの三箇条を忘れたの? 生物の繁栄を忘れるなかれ、自然との調和を怠るなかれ、面倒事は万事何事も避けるべし、でしょ?」
「最後のやつ、そんなんだったかな?」
ホツリ村のハンターズギルドにおける責任者であろうアイナが、ハンター三箇条を間違えるはずもない。
大体、今は前線で戦う事も減っているが、元々ハンターとして活動し、氷姫の異名まで持つアイナだ。覚えていない方が不自然だろう。
だが、真面目で堅実なアイナであっても、ヴェルラーと会うのを避けたい様子は明らかだ。
落ち着いて何事にも望んでいる彼女にも、苦手とするものはあったのかとヴァリエは何故だか感心するのだった。
それだけに、ギルドマスターのヴェルラーとやらに会うのは、避けれるなら避けたいが。
別にギルドマスターに限らずとも、組織のお偉いさんに関わる時点で面倒でしかないのだから。
とはいえ。ここへ来るのが分かっている以上、今からどこかへ行く方がまずいのは流石のヴァリエでも分かる。
手紙を読む前に旅立った事にでも出来れば誠に僥倖だが、そうもいくまい。
「でも、直に会って依頼って珍しいなぁ」
「それはそうね。貴族からの依頼なんてものは、大概使用人か代理の人からの話だものね」
「そうそう」
爵位を持つ貴族階級の人間が、一介のモンスターハンターと直に会って話をしたいというのは珍しい。
如何にそのハンターが界隈で有名人であろうとも、貴族の社交界においては、大概が野蛮な戦闘専門の卑しき身分の者でしかないのだから。
政界の事情に疎く、礼儀作法にも欠け、上位層である貴族達への敬意さえも足りない。
そうした侮り、嘲りを彼ら彼女らは隠すつもりもなかった。
とはいえ、依頼完遂後に見世物がてらに呼びつける趣味の悪い貴族だの、あるいは関係づくりの一環での社交界じみた催しで関わろうとする貴族はそれなりにいる。
催しに名の知れたハンターを招く事で、自分はそうしたハンターとのつながりを示したり、そうしたハンターをも容易く呼べるだけの権力を持っているのだと、暗に誇示してみせているのである。
周囲の貴族などからしても、物珍しそうに、半ば珍獣であるかのように接する者も多い。面白半分に話しかけ、貴族界の常識に乏しいハンターの一問一答を笑う者もいる。
いずれにしても、趣味の悪い行いだとヴァリエもアイナも感じるものであった。
もっとも、ヴァリエの場合はそうした行為をしてきた相手を、公共の場で叩きのめす事で違う催しに変えてしまう事が多々あったが。無論、殴る蹴るばかりでなく、口論でもヴァリエは強かった。
普段はともかく、喧嘩になると途端に語彙力も向上するヴァリエである。
案外、地頭は悪くないのかもしれない。
話を戻そう。
目立たぬといえど、国の要人には変わりない人物が、素手で人の頭を粉砕する事も可能なヴァリエと直に会うというのは、いささか不用心ではないだろうか?
警護面で不安はないのだろうか? あるいはヴァリエを相手に多少の護衛がいたところで焼石に水との判断かもしれない。それとも、名の知れたハンターなどを護衛に来るのか? 否、ヴァリエを相手に護衛としての任を果たせる実力者なら、その者を使えばいいだけの話である。
はてさて、別の考えでいけば、ヴァリエの人柄を信じての事かもしれない。が、この線でも、そもそも出会うのは今回が初めてだ。そこまで信じてもらう道理が見当たらない。
いずれにしても、来る以上は応対せねばならない。
「あぁー、もう。かったるぅ。面白い依頼ならいいけどさぁ」
あぁ、面倒だとヴァリエは思った。声にも出していたが。
とはいえ、とはいえである。
実のところ、ヴァリエは伯爵という偉い立場の者が、さらにハンターズギルドのマスターほどの者が、自分へどういう依頼をしてくるのだろうかと興味を抱いてもいた。
わざわざヴァリエを指名しての依頼ともなれば、まさか薬草を摘んでこいだの、特産のキノコを集めてきてだの、ランポスを数頭討伐してまいれだのといった依頼を持ってはきまい。
もしも万が一そのような持ってきたならば、ヴァリエはヴェルラーもマレーズも締め上げるだけの事であろう。さもありなん。
ただ、懸念材料があるとするなら、大きな依頼だった場合にここを留守にする可能性があるか、否か、である。
そうなれば、愛娘にしばらく寂しい思いをさせねばならない。そこに申し訳という気持ちが出てしまう。
シュタウフェンが留守で残っていても大丈夫なら、ヴァリエ自身はともかく、まだセリエを見てくれる存在がいるので安心はできた。
だが、おそらくはそうはなるまいと感じていた。個人での戦闘能力はともかく、シュタウフェンに求められる能力は大きな依頼にこそ活きるからだ。
「まあ、来るものは仕方ない。ちゃっちゃと片づけてやるか。覚悟しろよ伯爵にギルマス!」
「一応言っておくけど、暴力で解決はダメよ。ヴァリエ」
「分かってるよ。今は大人なんだから、慎みくらい嗜んでますわ、おほほ……」
「…………」
貴婦人の真似事か、口元に手を当てて笑う仕草をするヴァリエ。
それを若干、いや、かなり不安そうに見つめるアイナだった。
不安がないといえばまさしく嘘になるだろう。
だが、これまでもヴァリエはなんだかんだと貴族階級の者達や、果てには王族に連なる人間とも依頼を通して接してきている。
そこでトラブルが無かったかといえば……アイナが知る限り、結構に上位層の貴族をそれとなく脅してみたり、殴り合いになれば喜んで応じていたヴァリエの姿が浮かぶ。
彼女が壁に右ストレートをかましたあと、蜘蛛の巣さながらに広がったヒビだらけの壁を尻目に、震え、命乞いをする貴族を相手に、平静に普段通りの表情を浮かべるヴァリエ。
何の足しにもならぬ謝罪だの、面白みのない命乞いをするより、ゼニー紙幣やゼニー硬貨を、美味しい食べ物を、もっと良い依頼を寄越してほしいとおねだりするヴァリエ。
うんうんと高速で首を縦に振る貴族を見つめ、にこりと笑うヴァリエ。
……途端に、アイナは不安になってきた。
ここ三年間は、ヴァリエがそうした貴族などを相手にしなくなって久しい。
アルハイド家の面倒事や雑事はいずれもシュタウフェンが担ってきた。彼であれば、紳士的に礼儀を守り、脅迫じみた行為には及ばない。
人の形をして社会へ紛れ込んだ竜ともいえるヴァリエより、節度を持った生活を営むシュタウフェンを相手にし、命の保証された安全な交渉を望むのが、人間としては生存本能に従っての道理ある行動といえよう。ヴァリエよりよほど話も通じるし、無茶な要求もしてこないのも一因だろう。あとはやはり、怖くないというのが最大の理由だ。
マレーズやヴェルラーが権力だの地位を笠に着てくる性質の持ち主であるかといえば、そうではないと思う。
なのだが、ヴァリエの我慢の限界というのは想像以上に狭く小さい器に込められている。面白くもない依頼を、強権でねじ込んだり、傲慢な態度で臨みでもすれば、ヴァリエはすぐに許容という殻を破り棄てるだろう。意気揚々と。
頭を握りしめられ、苦悶の声を上げる伯爵やギルドマスターを見てみたいという思いもアイナにはあるにはある。
だが、そうなれば面倒どころの騒ぎではない。色んな責任問題だのが絡んで、大変な事になるだろう。それでもなんとかする自信もアイナにはあったが。
そうなってしまうと書類処理や事務仕事、対人関係での仕事が膨大になってしまうので、そうならない事を祈る程度の分別も一応はあった。
と、ここまで懸念事項を並べはしたものの。
今回の場合、ヴァリエの伴侶にして、頭脳役たるシュタウフェンが同席してくれる。
それがアイナの心理的不安を多少は和らげてくれた。ヴァリエが自分より、シュタウフェンを頼る姿には複雑な心境を巡らせてはいたが。
かのヴァリエも、シュタウフェンがそばにいれば、多少のお転婆もなりを潜める。あくまで、潜める程度であり、完全な制御とはなりえないが。
「気に入らないから暴れた。後悔はしていない」とけろりと答えるヴァリエも、シュタウフェンが近くにいれば、「気に入らないから暴れた。ちょっとは後悔している」と悲しげな顔を浮かべるのだ。
やってる事は変わりないのだが、ヴァリエを知る者からすれば、途方もない変化である。
彼女ばかりに限らないのだが、こうして特定の相手に悪く思われたくないばかりに、本来の自分を抑えて可愛げのある姿を見せるのを、一般的に『アイルーをかぶっている』と人は言う。
アイルーと呼ばれる獣人族は、二足歩行で歩く猫のような姿の生物だ。
人間の腰元くらいまでしか身長はなく、その猫さながらの姿は愛らしいと評判だが、実際は行動的な者が多く、外見とは裏腹に勇敢な者も多い。
人類社会にも進出し、その文化や社会にいち早く適応し、人間同様に生活する個体も少なくない。事実、人語も解しており、人間同様に働いたり、店を開いたり、中にはハンターとなって活動する者もいる。
人間にとっては馴染み深い種族であり、基本的には友好関係を築けているといえよう。
一方、そのアイルーとよく似て異なる種族にメラルーという獣人族がいた。
アイルー達が明るい色の個体が多い中で、メラルーは暗めの色、もっといえば黒色の毛並みの者が多い事で知られている(注・あくまでも一般論。例外あり)。
メラルーの方もアイルーに劣らぬ知性や社会性を備えているのだが、好奇心が非常に強く、後先を考えない面がある。
いってしまえば、気になる物があればどんどん突っ込んでいくし、相手の心情云々は考えずに悪戯を仕掛けるし、欲しいなと思えば善悪付かずに掏り取ってしまう事もある。
思わぬ被害をこうむる人間からすれば、アイルーはともかく、メラルーに対しては敵対心を抱く者も少なくない。
その敵意を理解するメラルーなどは、人間社会へ進出する際にしばしばアイルーに化けて訪れる事が多い。
その際に白い粉などを身体に被り、無害なアイルーだと主張するのである。
こうして、相手に悪く思われないための行為を指し、いつの間にかアイルーをかぶっているなどという俗諺が生まれたのである。
……話がそれてしまったため、戻す事にしよう。
結局暴れる事に変わりがないのでは? という考えを持つ者も少なくないが、アイナはそれは違うと反論できる。
飛竜が人里で暴れ、燃やし尽くした後に懺悔をするか? やりすぎたのだと自省するだろうか? もっと節度を、己を律せねばと考えるか? 否、それらはまったくもってありえぬ空想だ。そう考えた時、かの暴虐なる飛竜が己をわずかでも悔い改めるとあらば。それがどれだけ凄まじい事象であるのか、驚愕すべき現象であるのか、凡人でも一端でも理解しうるだろう、と彼女は語るのだ。
それを言った時のヴァリエはなんともいえない表情だった。そのあとアイナは手加減されつつもアイアンクローを受けるのである。
その時、痛みと共に少なからぬ幸福を感じたのは秘匿中の秘匿、内緒であった。
とにもかくにも、旦那にも同席してもらえば、多少はヴァリエもマシになるかと考える。
とりあえず、ヴァリエはシュタウフェンに事情を話し、同席してもらう事にした。
セリエはその間、例のごとくでネインツェル家にて過ごしてもらう事となった。
幸い、セリエの方は二歳年長で姉のように慕うクローチェと遊べる事に喜んでくれているし、普段から第二の娘だと公言するほどにセリエを溺愛してくれているティルテュも歓迎の趣であった。
「マレーズ伯爵からの依頼とはまた……大物だねぇ」
「ねぇー。びっくりしたぁ」
伯爵からの手紙をもらって、それから。
自宅に戻り、夫であるシュタウフェンを酒場に招き、先ほどの手紙を見せるヴァリエ。
シュタウフェンは内容を確認すると、文字を読み進めるたびに表情が固くなっていき、読み終えると小さく息をつく。
どの程度の厄介事だろうか、とはかりかねているのが正直なところだった。
シュタウフェン自身、マレーズ伯爵の人柄については噂程度でしか知らなかった。
伯爵ほどの高位の貴族と直接対面など、一介のハンターがそうそうするはずもないので、致し方ないのだが。
噂通りの人物であれば、そこまで危険視する必要はないと思うのだが、問題はその裏に控える人物だろう。
「ギルドマスターのヴェルラーさんが本命だろうね」
「そんなにやばい人? ヴェルラーさんって人」
「まあ、あくどい事を好んでするわけじゃないけど、必要なら切り捨てる事も出来る人って印象だね」
「囮とかにされる可能性ってある?」
「君を? それはないだろうけど」
むしろ、狩猟に関連する話であれば、ヴァリエこそ、もっとも大事に保有すべき戦力だろう、とシュタウフェンは付け加えた。
単純な戦闘能力に限定すれば、この周辺近辺においてヴァリエの右に出る者はいない。
知名度の点でも未だに高いヴァリエが前線に赴けば、それだけでもハンターはもちろん、騎士や兵士、市民達でさえも士気を上げられるのだから。
その彼女を捨て駒にする利点を見出す方が難しいだろう。
ここでヴァリエを使いつぶすメリットより、デメリットの方が上回る事くらい、よほどの低能か途方もない無能でもない限りは理解できるというものだ。
政治的な分野において、今後邪魔になる前にここで……というのならまだしもだが。
そもそも、ヴァリエに政治的野心があると捉え、考えるなら、それこそ節穴だろうと考える。眼球の代わりに硝子の玉の類でも入っているのだといわれて信じる程度に浅はかだ。
だが、ヴァリエを利用しようと考える人間は決して少なくない。ありえない事だとは思うが、警戒はしておくにこした事はないのかもしれない。
そう、思考を巡らせるシュタウフェンだった。とはいえ、判断材料も乏しい中での結論付けもそうそう出来るはずもない。
となれば、まずは当面の動きから考えるべきであろう。
伯爵やギルドマスターの言動や様子、情報の中から整理して考えるべきだと。
あるいは、本当に厄介そうな依頼をどうにかしてほしく、名の知れたヴァリエを頼ってくるだけかもしれない。
そうであればここまでの思考もシュタウフェンの杞憂にすぎない。
むしろ、単なる杞憂であれば、それに越したことはないだのから。
「失礼。こちら、ホツリ村のハンターズギルドでよろしかったでしょうか?」
その時だった。
酒場の入口に、見慣れぬ人間――私服ではあるが、見る者が見れば、ギルドに所属する職員の挙動は明らか――が一人。
いよいよ、件の二人が来たのだとヴァリエ達は察したのである。