「ヴェルラーさん、死んだんだ……」
「えぇ。まあ、元々それなりの歳だったし、色々と病気を患ってはいたらしいわ」
「そっか……あんまり関わったワケでもないけど、あの胡散臭い笑顔とか芝居がかった動きもみられないのかぁ……」
「もう少し他に惜しむところないの……?」
眼を伏せるヴァリエ。
自身で言ったように、ヴェルラーとの関係性などは二年前のユーリア会戦の前後くらいのもので、あとは時々にホツリ村へやってくるカヤキスとの会話の中でたまに出てくるくらいだ。
ゆえに、亡くなったと知っても彼女の動揺はほとんどなかった。琴線に触れるほどの思いも、喪失感のようなものも少ない。
彼女の夫であるシュタウフェンにいわせれば、ヴェルラーが笑顔を見せていても、気安く話しかけてきていても、常に裏に潜む思惑や計算が気になってしまい、手放しに握手する事さえも憚られる、油断ならない人物という印象で固まってしまっているらしい。
そうした印象論を耳にしているヴァリエであったが、時折みせる好々爺のような接し方などが記憶に残っているためか、それほど悪くは思えないのが本音である。
そう考えると、実感に乏しいだけであって、実はいくらか小さな寂しさを抱いていたのかもしれない。どちらにしても、もう会う事もなければ、話す事もなくなってしまったのだが。
「とはいえ、あの人がいなくなったらヒュルックも大変よ。あの人がいればこそ、あの都市長さんも安心していられたのでしょうから」
「あぁ、あの優しそうだけど、頼りなさそうなおじさん……なんて名前だったかも忘れちゃったけど」
「マレーズ伯爵よ」
「そうだった、伯爵だ。伯爵」
気弱そうで自信なさげな顔つきの男が脳裏に浮かぶ。
数ある爵位の中*1でも伯爵に位置するのだが、とてもそうとは余人には思われない。
ましてや、数千、数万人もの人々が集い、生活を営む中規模都市の運営責任者たる都市長であるなど、想像だにされなかった。
もっとも、単なる爵位持ちの無能が務まるほど、都市長の立場は軽いものではない。
国からある程度の自治を任される反面、国内の有事には駐留する騎士団などを派遣する責任を負うし、その騎士団を運用するための各種軍事費にしたって整えねばならない。
都市内の経済状況にも目を配らねばならぬ。都市長が個人財政で運営できようはずもないのだから、当然ながら徴税も必要となる。
都市内に暮らす一般市民に課す税だけでも多岐にわたり、都市に暮らしているすべての市民に課せられる税、家や農地に課せられた税、病人や貧者を救済する教会へ支払うための税、都市に住まう人々の安全を保証するための税*2など、様々だ。
近隣の村々にも、ある程度の徴税は課せられている。
だが、その代わりに治安維持のために野盗などの討伐を行ったり、村人同士や果てには村同士での諍いに対しての裁判を行ったり、病気や疫病が蔓延した時の聖職者や薬師の派遣、モンスターなどの危険から守るための騎士団の派遣などを行うのだ。
徴税をする以上は、市民や村民の納得がいく結果をもたらさなければならないのである。
税の徴収や、集めた税を適正に配分し、運用していく必要があるのだが、当然ながらマレーズ一人が担えようはずもない。
都市部の有力な貴族や商人、聖職者などの一部が集い、運営組織を形成し、国家の利益を反しない範囲内での自治権を持たせるのだ。
しかし、そうした人々との綿密な連携や調整を行うのも都市長たるマレーズの仕事なのである。
その多忙心労たるや、想像するに難くないであろう。
長々としたが、マレーズは本人の持つ風貌だの、雰囲気とは裏腹に多忙であり、重責を担う立場なのだ。
常日頃より、都市長を辞したいだの、爵位も返還したいだのと言っているのは、何も自信の無さから来る言葉ばかりではないのであった。
その彼を長らくフォローしてきたのが、ハンターズギルドの長であるヴェルラーなのである。
モンスターの生態や活動を把握しつつ必要な依頼などの適宜斡旋、ハンター達の活動内容や動向を把握しつつも、有望な人材の早期育成や適正な依頼を回していったり、王国の各分野の責任者達との連絡調整、ギルドやそれに属する者達のマネジメントなど、多岐に渡る業務をこなしつつも、マレーズの担う仕事をフォローしてきたのだ。
もっとも、これはレアケースである。
ギルドマスターが都市長からの依頼を受ける形での協力は数あれど、都市運営や経営に対しての介入をする事例は限りなく少ないのだ。
大抵は都市長が無用な介入を嫌悪する傾向にあるし、ただでさえ運用組織に属する上位層の存在が厄介であるパターンも多い。悩みの種というものは減らしておくに限る。
そういった点でも、マレーズとヴェルラーでの関係性は珍しく、しかも軋轢が生じる事もないままに今日までやってこれたのである。極めて稀な一例といえよう。
「マスター・ヴェルラー。あの人が睨みを利かせていたからこそ、スムーズに回っていた部分も多いと思うわ。きっと、これからが大変になるわよヒュルックは……」
別段、アイナは予言者を気取るつもりなどない。
ただ、必然的に起こりうるであろう物事の流れを告げているにすぎなかった。
不穏で深刻さを秘めた言葉であったが、おそらくは遠からずヒュルックで何かしらの異変は起きるかもしれない。
ヴェルラーが死した以上、その空いたギルドマスターの地位には誰かが就く事になるであろう。その人物がヴェルラーほどの辣腕ぶり……とまではいかずとも、マレーズと友好的に接する事ができて、かつ、都市運営に対しての助言や支援が出来うる人物であるならいいのだが。
贅沢な要求であろう。
「そんな人材が早々いるわけないわね。かといってあんまりおかしなのがマスターになると、こっちにも余波が来るから勘弁してほしいのだけれど……」
「アイナはぶれないなぁ」
「当然。これでもこのギルド支部の長だもの。この村に影響が出ないようにするのが第一じゃない? それに、こっちに余波が来た時に被害を受けやすいのはヴァリエだから心配なのよ」
「えっ、私ぃっ?」
「ギルドマスターでも中にはロクでもないのがいたでしょう? 覚えてるか分からないけれど、あのマクシミリオンとか」
「げっ。マクシミリオン……」
「あの」という部分を特に強調するアイナに対し、ヴァリエがあからさまな嫌悪感を顔に出し、脳裏に浮かべたくもない顔が浮かんでしまう。
日頃は愛らしいと評される幼げな相貌や琥珀色の双眸が、嫌悪で歪んだ。
それを見て、アイナは小さく頷く。
「覚えてるなら話が早いわね。あんなのがヒュルックの新しいギルドマスターになってごらんなさい。たちまちハンターを私物化するわよ」
「アイツみたいなのは嫌だなぁ」
マスター・マクシミリオン。
決して多くはないギルドマスター達の一人であった男。
かつて、まだヴァリエがこのホツリ村ではない地にてハンターとして活動していた頃に事は遡る。
狩人養成学院で知られるエールトベーレを卒業し、ハンターランクもA級に至り、竜姫の異名で知られてそう日も経っていない頃だったと、彼女は記憶している。齢、大体十五歳か十六歳あたりであっただろう。
この頃は、アイナもまだハンターとして現役で活動していた時期だ。ゆえにこの時の出来事もそれに対する率直な悪感情も互いに共有していた。
マクシミリオンは、指名依頼を何度もヴァリエに斡旋してきた。
依頼者のすべてが貴族階級であり、すべての依頼者が依頼達成後に御礼も兼ねての祝宴を催してきたのだ。
そういうのは……と断るヴァリエの意思など無視するように、参加を半ば強制するのがマクシミリオンだったのだ。
依頼者との付き合いも大切だの、依頼とは最後まで成り行きを見届けるまでが仕事だ、等と今にして思えば無茶苦茶な理屈を言っていたのを思い出し、ヴァリエは歯噛みしそうになる。まったく忌々しい思い出だ。
思い返すなら、当時からあからさまに貴族との繋がりを隠すつもりもないようだったと思う。
マクシミリオン自体も男爵と貴族の端くれであったのだが、それゆえに貴族社会との繋がりを持ち、いずれはもっと上を……という考えを巡らせていたのは、のちに失脚する際に判明している。
そんなつまらない思惑のために、手頃な鑑賞動物くらいの扱いでヴァリエを使役するつもりであった。
貴族達の多くは、年若くして竜姫の名で知られる少女を間近に見たいという興味や関心がほとんどだった。
だが同時に、その少女を気軽に宴に呼び寄せる事が出来る地位や権力を持っているのだと、他の貴族に対して誇示する見栄や虚栄もあり、後日になって少女が活躍をした暁には、まだ目立たぬ内から目をかけていた等と白々しくも宣伝するため、先んじての接触を図りたかったのもあるのだろう。
この時期、ヴァリエに限らず、将来有望な若手のハンターが貴族達に指名での依頼をされ、達成後に祝宴と称しての集まりに呼びだされる事例が多発していた。
考える事はどこも同じようであった。
ヴァリエは最初、我慢していた。
というより、どういう意図があってのパーティーなのか分かっていなかった。
貴族側も招く以上は面子があるから、豪奢で絢爛ともいえる華やかな場を設け、ヴァリエにも華美な衣装を貸し出されて着用させ、よりどりみどりの美味珍味な料理を振舞った。
ヴァリエも、むしろ最初は喜んでいた。
貴族の依頼を受けて達成したら、こんな良い思いが出来るのか等と、呑気に捉えてすらいた。
だが、何度も宴を繰り返す内に、付き合いから参加を続けていた貴族達も、貼り付けていた仮面にほころびが出始めたのだろう。
いってしまえば、いつまでも思ってもいない美辞麗句だのお世辞を言い続けるのにも、飽きてきていたし、うんざりしてきたのだった。
次第に周囲の参加者からの視線や表情に、好奇や侮蔑、蔑視や嘲弄といったものがあからさまに含まれていき、無駄に装飾された美辞麗句にも、言葉の端々や口調の中に同様の見下した気配が隠すつもりもなく現れていった。
中には、年若い内からハンターとして名を馳せている事に対し、純粋な嫉妬や羨望を向ける者もいたのだが、それらは極めて少数である。
こちらはのちにヴァリエとの諍い、あるいは争いの末に和解し、いまでも交流が途絶えていなかった。ヴァリエが完全な貴族嫌いにならなかったのは、こうした少数派の存在があったからこそだ。
貴族達の悪感情に気付いた以上、いつまでも忍耐強く我慢していられるほど、ヴァリエは寛容でも寛大でもなかった。
一方で貴族達からすれば、ハンターの中で多少強かろうが、多少は一般庶民の出。生まれながらに身分も権力も違うのだから、不満があろうとも大人しく従うのが道理なのだと、多くの貴族達は妄信的に信じていた。
それは、貴族の端くれながらも爵位を持ったマクシミリオンも例外ではなかった。
「ふん、無作法で礼儀知らずな野蛮なハンターといえども、女は女。どれ、一つ私が味見をしてやろうというのだ。大人しく私達についてこい」
「へぇ……今アンタがしようとしてる事って、作法に則ってて、礼儀を弁えてて、紳士的なの? 面白くもない冗談だけど、馬鹿みたいな顔して聞かせてくれた御礼はしてやるか」
「何っ……生意気なメスがぶぁ”っ!?」
事もあろうに、ギルドマスターという要職にありながら彼は、幾人かの貴族と共にヴァリエへ不埒な行為へ及ぼうとした。
宴の途中にもかかわらず、空いていた一室に誘い込んで行おうとした事、しかも計画的であり、宴に参加していた一部の者達はこの事が行われると知っていて協力したのだと、のちに明らかになった。
ヴァリエが貴族に対しての印象が悪く、好感度もかぎりなく最低値に低いのもやむなきであろう。
地につかぬのは、先述したように例外といえるマシな貴族がいた事や、この件に関してヴァリエの味方になってくれたからだ。
もっとも、この件の結果に関してだが。
下劣な行為に及ぼうとした者達の全員が、一人の例外もなくヴァリエに殴られ、蹴られ、壁に叩きつけられる。
指一本でさえ、ヴァリエに触れる事はかなわないまま、一方的に痛めつけられたマクシミリオン達は、肋骨をはじめ、幾つもの骨が折られ、身体のあちこちに強い痛みを感じ、頭部などからは血も流れていた。
状況だけを考えれば、ヴァリエが一方的に傷害を負わせた形となる。
しかも被害者には、爵位を持つ貴族達や現役のギルドマスターなのだから、あわや加害者としてヴァリエの方こそが理不尽な罪状を課せられるところであった。
貴族達が団結して、ヴァリエの所為であると口を揃えて証言されてしまえば、ヴァリエ自身が己の潔白を証明するのも困難であっただろう。
実のところ、結構に危ない橋を渡っていたのだといえた。
詳細は長引くため、この場では差し控えるものの、アイナやシュタウフェンをはじめ、多くの知己や友人、さらに少ないながらも貴族達が弁護や、無実の証明に奔走してくれたため、事なきをえたヴァリエであった。
今回の件に絡んだマクシミリオンや貴族達が、今回やそれ以前の悪行や不正に対し、それを裏付ける物的証拠や関係していた人物の証言などが得られたのが決定打だった。
本人らは隠蔽していたはずの証拠が見つかった事に対し、最後まで反論していたが、一蹴された。
竜姫は従順な少女にあらず、と人々の間で一時噂が広がった。
黙っていいなりになるわけもなく、無抵抗であろうはずもなく、唯々諾々としたり、泣き寝入りをするなどあり得ぬ事だと、彼女は態度で示した。
甘く見ていれば、強かな逆撃を被ることになるのだと、実例をもってそれは証明されたのだ。
そうして、マクシミリオンが失脚し、幾人かの貴族が爵位を返還する羽目になった事もあり、貴族や富裕層の者達がヴァリエと関わるのを避けるようになったのだった。
「でも、あんなのばっかりギルドマスターなワケないよね? 大体、アイツが追いやられてから変なのは一掃されたんでしょ?」
「それはそうだけど。でも、おかしなのはどこにでもいるから気を付けるに越した事はないわよ」
「まぁ、ね」
肩をすくめるヴァリエ。
互いにそうした実例となる者達を見てきて、関わった事での苦労を知るがゆえの反応である。
「とにかく、しばらくは気を付けて。私の方でも次のギルドマスターがどんな人になるのか、探ってはおくけれどね……」
「分かった。アイナが心配してくれてるんだから、私も気を付けるよ」
アイナが締めくくるようにして、警戒を呼び掛ける。
それに対し、ヴァリエは素直に頷くのであった。
アイナは予言者ではない。
あくまでも、いくつか想像した中での起きうる展開について提示し、念のために気を付けるようにと促したに過ぎない。
だが、それは思いもかけぬ形で、のちにホツリ村へと影響を及ぼすことになる。
マスター・ヴェルラーの死から、さらに半年が経過した。
瞬く間に月日が流れていく中で、ホツリ村の周辺だの近隣にいくつかの変化が生じた。
一つ目は必然的な変化であり、ヴェルラー死後に生じたギルドマスターの空席が埋まった事。
半月くらいが経過したあたりで、アンベシルという名の男が次なるヒュルックのギルドマスターに就いたらしい。
今のところ、良くも悪くも目立たない存在だという印象であり、ヒュルックで処理しきれず、ホツリ村に回ってくる依頼が増えるなんて事もなく、無難に仕事をこなせる人物のようだとアイナが話していたのをヴァリエは聞いている。
都市長であるマレーズとの関係性も、可もなく不可もなくといったところのようだ。
これは、ヒュルックから訪れた別の人物からの話によって知った事であるが。
二つ目は、ヒュルックで一番の実力者であったカヤキス・プリンシバルが新たな土地へと旅立った事だろう。
彼女は、新天地へと赴く前にホツリ村へと、旦那と娘のラキシスも連れて三人で別れの挨拶を告げに来たのである。
「竜姫さん……ううん、ヴァリエ。今日はお別れの挨拶に来たわ」
「お別れって……カヤキス。どこか行くの?」
ある日の事。
突然にやってきて(もっとも、毎回唐突に遊びに来ているのだが)、お別れだと告げるカヤキス。
いつもは勝気な彼女が眉を下げ、悲しげな表情を浮かべていた。
出迎えたヴァリエも思わず気遣わしげな視線を送り、理由を尋ねる。
ちなみに、二人が話を始める前にカヤキスの旦那と娘のラキシスは外へ出ている。
旦那の方はシュタウフェンと男同士で何やら話しており、ラキシスはセリエとおそらくは最後となるであろう共に過ごす時間を、なるべく有意義なものにしようとしている。
幼いながらに、ここへ訪れた理由も、これからどうなっていくのかも理解しているのだ。
幼いながら聡い少女であった。
「えぇ……この国を出ていく事にしたの。私達」
「そう、なんだ……。もし聞いていいなら、どこに行くのか聞いてもいい?」
「もちろんよ。モンタベルクっていうところなんだけど、知ってるかしら……?」
「モンタベルク……いや、聞いた事ないなぁ。結構遠いところなの?」
ヴァリエにしては真面目に頭を捻って思考を巡らせたが、モンタベルクという名に聞き覚えがなかった。
カヤキスにいわく、海を隔てた先にある小さな山国との事だ。
ここからだと、船に乗って海を渡って一カ月、陸地についてからも徒歩なり馬車なりを使っても半月はかかるだろうから、二カ月程度の距離はあるだろうとの見込みである。
モンタベルクにはいくつもの山岳が広がり、それらの山の中腹などに街や村が点在としており、のどかな自然と人々の営みが両立する国のようだ。
場所が場所なだけに、モンスターの活動も多く、ハンター業もそれなりに盛んであるらしい。
彼女の旦那がその国の出身であり、そこからモンスターハンターとして修行がてらに旅へ出て、行き着いた先がヒュルックだったのだ。
そのヒュルックでカヤキスと出会ったのがきっかけで、街一番のハンターが誕生する事になり、やがては結ばれ、子供にも恵まれるのだから、人の縁とは分からないものである。
「ヒュルックを出ていく理由も聞いても大丈夫?」
「ふふ、もちろん。別に隠すことじゃないもの。率直にいえばね、なんだか嫌な予感がしたから離れる事にしたってわけ」
「嫌な予感?」
「そっ。おかしいでしょう? 具体的な理由もないのに、なんとなーく不安だからって理由でね、旦那と娘も巻き込んで街を出ていこうとしてるんだから……」
どことなく自嘲的にも、申し訳なさげにも見えるのは、元々暮らしていた街を見捨てていくような後ろめたさを抱いているゆえかもしれない。
聞けば、カヤキスの両親はヒュルックに残るらしい。
両親共にそれなりの年齢であり、長らく暮らしてきた街への愛着もあるし、この歳になってから海を越え、遠く異国の地で新生活を送るのは無理だと断られたという。
それでなくとも、ヒュルックには共に戦ったハンター仲間や、幼い頃からの友人や知人だって多くいるカヤキスだった。
そうした繋がりも思い出をはじめ、あらゆる愛着や残心を置いたまま、遠い地へと旅立とうとしているのだ。
具体的な理由を説明するための、根拠となる判断材料にも乏しく。
ただ、直感に任せての突発的で大胆で、傍から見れば短絡的にも、不可思議にも思えるであろう行動を起こす自分に対し、彼女なりに思うところがあるのだろう。
ヴァリエであっても、その程度は察せられた。というより、言葉以上に雄弁なほどにカヤキスの顔が物語っている。
普段は勝気で自信に溢れ、活発で陽気なカヤキスの表情には翳りが見られ、口調もどこか弱々しい。
ここまで明確な変化がありながら、何も気付かぬほうがどうかしている。
「今のヒュルックって、そんな危ない感じなの? 新しいギルドマスターの人は、別に悪い人じゃないって聞くけど」
「うーん……本当に勘任せなんだけどね。新しいギルマスの人……アンベシルっていうのだけれど、なんだか信用出来ない感じ。喋り方も表情も演技というか、取り繕っているっていうか……ごめんなさい、上手く言えないけれど」
「大丈夫。なんとなく私でも言いたい事は伝わるよ。都市長さんはどうしてるの?」
「マレーズ伯は……前のギルマスがいなくなってから落ち込んで塞ぎこみがちだったけど、今は少し良くなった……のかしら。あまりお会いする人じゃないから自信ないけれど。最近は少しずつ表に出てきてるかしら」
「でも、カヤキスはなんとなく不安に思ってるんだよね?」
「うん……」
今まで接してきた中で、今この時ほどカヤキスの不安そうな様子は見た事もなかった。
別れの挨拶だというのなら、当面簡単には会えなくなるだろう。
ともすれば、これが最後の会話となりえる可能性だってあるのだ。
そう考えると、ヴァリエは途端に気持ちが沈んでくるのを自覚した。
それほど長い時間や、多い回数の付き合いがあるわけではなかったが、カヤキスとの間に親愛だの友誼を感じていたようだ。
「寂しくなるね。でもさ、せっかく来てくれたんだから……」
「うん?」
「悲しい気持ちでいるのはやめとこ? まだもう少しはいられるんでしょ? 行くまでは楽しい話したいな。前聞きそびれた旦那さんとの出会いとか、教えてよ」
「…………そう、せっかく来たんだものね。分かったわ。って言っても、結構前の記憶だから、曖昧だけど……」
「いいんだよ。そっから、お互いに話そう。私達に暗い顔でバイバイは似合わないんだし」
「ふふ、そうかも……」
それから暫し、二人は語らう。
まだうら若きカヤキスが、ハンター修行がてらに訪れた旦那と巡り合い、そこからハンターを目指すカヤキスの話。
ハンターとなって旦那と一緒に狩りに行くようになり、気づけば結婚していた話。
逆に、ヴァリエがシュタウフェンとどのようにして、結婚へ至ったのか、竜姫と呼ばれるきっかけとなった話など、かいつまんで話していく。
お互いに限られた時間である事を承知していたから、要点をまとめながら(もっとも、カヤキスほどに簡潔にヴァリエが話せたかというと……詳細は控えよう)談話に花を咲かせていたのだが、こうした時に限って時間の流れは淀みないものだ。
あっという間に、出立の予定時刻へと至る。
「モンタベルクかぁ。結構遠いけど、私の方からも会いに行くからね!」
「ううん、いいのよ。船に乗って海を渡らないといけないし、陸地についてからも長いらしいから。私の方こそ、向こうに行って落ち着いたら会いに行くから」
「元気でね、カヤキス。旦那さんも、ラキちゃんも」
「竜姫さ……じゃなかった。ヴァリエも、元気で。また会いましょうね」
「うん。お互い、元気でいようね! また、会おうね!」
互いに、軽く抱擁した後、固く握手を交わす。
こうして、カヤキス達一家はホツリ村を去っていった。
ヴァリエもカヤキスも、社交辞令ではなく、本心からの言葉であった。
だが、後々からも分かるように、彼女達が再び相まみえる事はないのである。
「ラキ姉ちゃん、楽しかったね!!」
「うん。私も、楽しかった」
「今度はいつ会えるのー?」
「次はっ、次はね…………」
一方で、幼い子供達の方は何気なく聞いたセリエの言葉に、声を詰まらせて泣いてしまうラキシスの姿があった。
たまに会う程度の間柄、けれど、ラキシスにとってはその短い時間の中での関わりこそが、とても貴重なものであったのだ。
誠心、セリエの事は実の妹のように接してきたのだから。
すごく遠い国へ行くから、もう二度と会う事はないかもしれない。これが一緒に遊べる最後の日なんだ。
そんな事を言うわけにはいかないと、まだ齢八歳ながらに自制するラキシスであった。
ゆえに、彼女は守れるかも分からないと理解していながら、セリエと約束を交わす。
「ごめんね、セリエちゃん。次はいつになるのか分からないの」
「そっかぁ……」
「でもね、また会いに来るから。きっと、約束するから……!」
「……分かったぁ! 約束!!」
突然にラキシスが泣き出した時、一瞬ぽかんとしていたセリエであったが、また会えると聞いて、この時は嬉しそうにはにかんだ。
だが、なんとなく、ラキシスの様子がおかしい事は子供ながらに感じていたらしい。
お互いに手を振り続け、姿が見えなくなるまで見送っていたセリエだったが、その日の夜の内に突然と泣き出した。
本人自身も理由が分からないまま、言葉に言い表す事も出来ないままに泣きじゃくり、この日はヴァリエに抱きしめられたまま休むのだった。
「昨日はお疲れ様、ヴァリエ」
あくる日。
ヴァリエにしては本当に珍しく、朝早くに目が覚めた。
起きて寝起きに一杯と、汲んできた水を居間で飲んでいたらシュタウフェンが声をかける。
手にはいくつかの書類らしきものを持っていた。
「シュウ。昨日は眠れた?」
「そりゃあ、ヴァリエがセリエをみてくれてたからね。悲しいかな、僕じゃあの子を泣き止ませる事は難しかっただろう」
「またまた。ところでだけど、手に持ってるの何さ?」
「ん、これ? テンプエージェンシー発行の新聞さ。いや、まさかこんな物があるなんてね。良い時代になったものだよ」
「しんぶん……?」
聞きなれぬ単語を耳にし、首を傾げているヴァリエにシュタウフェンが説明する。
新聞とは、紙に様々な情報が記載されたものであり、その書かれた情報は多岐に渡るものらしい。
世界各国の事や、このルクレイア国内の事、地域や辺境の出来事まで書かれていて、中には狭いコミュニティ内の事であろう小話まで挿絵付きで書かれてたりと、豊富な情報をひとまとめにした物らしい。
それこそ大きなものであれば、どこか遠くの国同士での戦乱だの、どこかの国の王様が逝去したから追悼式があっただの、どこかの国で大々的なお祭りが開催されたと大きく扱われており、ルクレイア国内に関しても、エールトベーレ学院の入学試験の告知だの、モンスターによる被害状況一覧だの、国内各地での祭りの開催予定日などまで記載されている。
一体、どこまでの情報網が確立されているのやら、これらが事実であるのなら、テンプエージェンシーの組織力や情報収集力には脱帽せざるをえないとシュタウフェンは語る。
どことなく興奮しつつシュタウフェンが語るのは、様々な情報を仕入れるのが好きな彼の嗜好と適合するからだろう。
ましてや、これが手軽に入手できる上、豊富な情報が掲載されているにもかかわらず、さらに庶民でも購入が難しくない価格設定なのだ。
デメリットがあるとするなら、ある程度の識字を理解していなければ、読む事さえも敵わない点であろう。
だが、このホツリ村に限れば、その点はある程度解消されているといっていい。
村の教会を運営している鬼謀のゲマこと、ゲマ・シンプトンが引き取って育てている孤児達などを中心に、文字の勉強を教えているからだ。
ホツリ村の大人達も、多少恥じらう気持ちはあるが、文字を学べる機会など滅多にない事を知っている。だから、子供達に交じって一緒に学ぶ光景も珍しくなかった。
「文字が分からねば、あらゆる面で苦労する。それが嫌なら学べ。別に構わないというなら、一生搾取されていろ」
ゲマの言葉は、端的で、取り繕う事がない。
弱者である事に甘んじ、この先も容認するのであれば、遠慮なく、容赦もせず、切り捨てる事だって厭わぬ姿勢も崩さない。
「無知とは、それだけで一つの枷だ」
文字が読めない。数字が分からない。計算もできない。
それを他者に知られれば、たちまち食い物にされるだろう。
安い賃金で働かされても、気づけず、正当な報酬を得る機会さえも失う。それならまだマシで、場合によっては騙されて後悔する羽目になる可能性もあるのだ。
実際にゲマはそうして騙された者たちを見ている。ゆえに学ぶことの重要性を説く。
ただし、懇々と説くつもりもなかった。
やる気のない者は早々に見捨てて、その分の労力を努力する者達に向けた方が有意義だからだ。
一見すれば合理的で冷淡に思えるかもしれないが、合理的であるなら、わざわざ孤児達に知恵を与える必要などないのだ。冷淡であろうとするなら、知恵を与えないほうが遥かに搾取しやすい土壌を形成できるのだから。
シュタウフェンなどは、冷徹を装いつつも情を捨てきれぬ人物と思っている。もっとも、本人にはいえないが。
それに、鬼謀の名は伊達ではなく、ゲマが敵対するものに対しては、本当の意味で情けも容赦もない事を知っている。まるきり慈愛に満ちた性格であるかといえば、そうではないのだ。
「で、その新聞に何か面白いの書いてあるの?」
話を戻そう。
シュタウフェンから説明を聞きはしたが、じゃあ具体的に何が書いてあるのか。
ヴァリエの質問に対し、シュタウフェンはいくつか読んだ記事から抜粋していく。
「そうだなぁ……たとえば、お隣のブルメニアで国王が崩御したそうでね。後継者をめぐって大規模な内乱の兆しありらしい。こっちまで巻き込まれるかといえば、ないだろうけど」
「ブルメニアで……ベルは大丈夫かな」
「ベルって、あの昔一緒にいた騎士の? ベルフラウさんだっけ」
「そっ。覚えてたんだ」
「そりゃあ、君と一緒にいた人たちは大体覚えてるよ」
「そっか……ふふっ」
理由は分からぬが、なんとなく嬉しそうに口角を上げたヴァリエに、シュタウフェンも微笑む。
とはいえ、このルクレイア王国の隣での大規模な内乱ともなれば、治安や物流だのをはじめ、少なからぬ影響も出るだろう。
それに、ヴァリエの友人であるベルフラウが、その戦乱の火種燻るブルメニアで騎士をしているのだから、ヴァリエにとっては心配や不安もあるはずだ。
「まぁ、でも……」
「ん?」
「ベルなら大丈夫だろうけど。ベルは昔からそつなくこなせる子だったから」
「まあ、確かに」
シュタウフェンの記憶も、どの情報もが鮮明なわけでもなかった。
だが、記憶の中のベルフラウという女騎士は、凛々しく、礼儀正しく、あらゆる出来事に対しても冷静沈着に対応していたと思う。
自由気ままにマイペースそのものなライフスタイルのヴァリエとは、あらゆる面で正反対に思えた。だが、不思議と息が合う二人であった。
ヴァリエが屈託なく笑い、ベルフラウが静かにつられて微笑んでいたのはよくみる光景であったのだから。
「あと気になったのは……」
「何々?」
「この国のモンスター情報だね」
「それが大事なんじゃん。で、何か強いやつとか活動してる?」
「そうだなぁ……【蒼の女王】って呼ばれる雌のランポスが、最近目立ってるみたいだ。北の方だけど、村々に被害が出てるらしい」
「へぇ、蒼の女王……」
「うん。かなりの数のランポスを率いて襲いかかってるらしいから、面倒だよ。これは」
「そうだね……」
自分から身を乗り出すように聞いておきながら、ヴァリエの返答は先ほどより抑揚のないものとなっていく。
明らかにトーンダウンしているし、輝かせていた琥珀色の双眸も、どことなく暗くなった気さえする。
村の防衛という点で関心は少しあれど、単純な興味という点ではあまり惹かれていないのが明らかだ。
実際、この時期に蒼の女王率いるランポスの群れはルクレイア国内の北部を中心に活動しており、このホツリ村までの距離も遠い。
国内のあちこちにハンター達がいるし、遠からず討伐されてしまうだろうとヴァリエはこの時思っていた。
なんなら、シュタウフェンですらもこの時は、それほど警戒もしていなかったのだ。無理からぬことであろう。
昔、国内を騒がせた最恐最悪のランポスで知られる【惨劇の蒼】くらいに厄介であれば、否応なく警戒心を最大限に引き上げていたかもしれないが。
ゆえに、二人は後悔の念を抱くことになる。
この時、脅威とも捉えていなかった蒼の女王が、このホツリ村やそこに住まう人々を脅かすほどの存在となるなど、露ほどにも思っていなかったのだから……。