真・恋姫†無双 仲帝国の挑戦 〜漢の名門劉家当主の三国時代〜 作:ヨシフおじさん
その年は、袁家にとって多くの悲劇が起こった年であった。この頃の袁家は、保安委員会の独壇場であったといえる。
『 ――親愛なる同志諸君! 刻下、我々の生活、尊厳、そして生命そのものが、周到で狡猾な工作員によって脅威にさらされている。犠牲となったのは、ごく普通の生活を送っていた善良な市民たち……我々の同僚、友人、家族、そして隣人たちである。この邪悪で卑劣な行為のため、何千という罪のない命が絶たれたことか!
しかし私は確信している! 我々は強く、そして揺るぎない団結力を有していると!
既に、郷土愛に燃える戦士たちは動き出している。偉大なる社会と、祖先から受け継がれた大地を守るために。工作員の攻撃は、我々の建物を崩すことは出来ても、その土台まで破壊することは出来ない。我々は大地にしっかりと根を下ろした野草のように、何度でも何度でも立ち上がる。
我々の政府もまた、断固とした対応をとることを決意している。地方政府は被害を受けた住民を助けるべく休みなく働き、軍は一秒でも早く治安を回復させようと昼夜問わず安全を守っている。
我々が優先することは、負傷した人々を助け、貴賤を問わず領内に住む全ての同胞を更なる敵の攻撃から守るため、あらゆる用心をすることなのだ!
我々は諸君に訴える! 敵は今や、とらえどころのない存在と化している。あらゆる所にいて、されどどこにもいない。それは職場や街中に現われ、書籍やすべての噂の中にもぐり込んでいるのだ!
しかし一連の卑劣な行為の背後にいる、工作員の捜索は進んでいる。軍と警察は、これらの事件に責任のある者を見つけ出し、彼らに然るべき法の裁きを受けさせるため、あらゆる手を尽くしている。
我々は、平和と安定を欲している。邪悪な意志がそれを阻もうとするならば、我々は強固な意志を持って戦うべく、最後の一人まで立ち上がるであろう!
我々は宣言する! 袁家は不退転の決意で工作員、そして彼らが振りまく脅威に立ち向かう!
例えどれだけ道が険しくとも、我々は決して諦めない! 皆が同じ目標に向かって団結し、戦い、そして勝利するのだ!! 』
――人民委員会にて行われた、劉勲の演説
いわゆる“工作員との戦い”演説である。この頃の袁家は未曽有の大混乱を迎えており、内戦の真っ最中にあるともいえた。特に張繍は「外務委員会に265人の工作員がいる!」と有名な言葉を吐いただけでなく、政府諸委員会内の対外穏健派を次々に槍玉にあげて大鉄槌を振るっていた。暴動や分離運動の関係者はもちろん、彼らと対話の姿勢を見せた者、他の諸侯との繋がりが深い人間や、対外政策で融和的な態度をとった政治家は全て「反乱分子」「工作員」のレッテルを張られ、魔女狩りのごとく逮捕、投獄、追放の憂き目にあったのである。そして秘密警察の執拗な取り調べの中で拷問を受けた容疑者は、枚挙にいとまがない有り様であった。
これによって袁術領の全土で、蜂の巣をつついたようなヒステリー状態が発生した。袁家の良識社会は、文字通り戦々恐々のパニック状態に陥っていたのである。各地で工作員の炙りだしを目的として、いわゆる白色テロルが展開された。袁家は既に勢力圏の内、貧困地帯を中心とした3割の地域のコントロールを失っており、支配地でもテロと暴動、内戦が繰り返されていた。
保安委員会議長の賈駆はやむを得ず「殲滅指令」を布告し、「全ての地域における破壊分子を殲滅するために、警官隊は重度に武装し、全ての必要な手段をとる」よう命じた。保安委員会の指揮下で武装警官隊は掃討作戦を実行、秘密警察を含めた騎馬警官と水上警察まで動員して暴徒や反政府勢力との戦闘を開始し、その過程で政府支配下にない地域を破壊し、住民に危害を加えた。
――『古代の歴史18章・三国志 江南内戦より』(20××年発行)より
◇◆◇
「そんなバカな……」
人民委員会議場の扉の前に立ち、袁渙はは困惑した気分で床を見つめていた。
「……よりによって工作員だと?」
そんなはずはない。そういった陰謀論は巷では流行るが、人民委員ともなれば、そんな馬鹿げた噂で動くような立場ではないはずなのに。
あり得ない――そう断じつつも疑念は深まるばかり。そのぐらい死傷者が多く、尋常ならざる情勢だった。噂では黒幕は曹操とも、劉表とも、人によっては袁紹だという者もいた。しかし具体的な証拠は何一つなく、それらしい噂だけが蔓延している。
(いいや、そんなものがあるはずがない。そもそも、証拠はどこにもないのだ……)
自分を納得させるようにそう断じて、袁渙は廊下へと踵を返す。長い廊下には誰もおらず、ポツポツと灯される蝋燭だけが、申し訳程度に彼の安全を保障していた。
(工作員などデタラメに違いあるまい。……とはいえ)
――早ければ今週中にでも、警備兵の数を倍に増やそう。単なる気休めかも知れないが、気休めには気休めなりの意味があるのだ。
再び、袁渙は歩き出す。人民委員会議場の廊下は長く、周囲に薄闇をまとわりつかせていた。時折、風で庭の茂みが揺れる。まるで誰かがそこに潜んでいるかのように――。
**
「――っ!?」
とある暑い夜、楊弘は異様な物音を聞いて目を覚ました。飛び起きてみると、隣の家から煙が出ている。慌てて表に出てみると、既に多くの見物人が周囲を取り囲んでいた。3時間後には兵士が駆けつけ、何者かによる放火事件だということが判明した。幸いにも死傷者は出なかったものの、宛城の高級住宅街、それも政府要人が集中する区域で起こったという事で、この事件は世間の注目を浴びることになる。
楊弘は呆然としながらも、心のどこかでひとつの言葉を反芻していた。張繍が言った工作員という言葉が忘れられない。
何かがいて、彼らが自分たちの死を望んでいるのだ。それは日常の中に紛れ、ふとした拍子に害を与える物の怪のような何かだ、という気がしてならなかった。それは自分の派閥を食らいつくし、いよいよ自分の家にまで迫ってきた。これから敵は自分の周囲で猛威を振るい、キャリアとコネクションを根こそぎ破壊するだろう、という予感がした。
(そんなはずはない……)
工作員だなんて、ふざけている。そんなものを信じるのは、張繍のような狂信者だけだ。そしてその糾弾がどんな茶番に終わったか、自分だって知っている。
だが、楊弘は一時的に身を寄せる政府公舎に向かいながら、馬車の窓から見た街の光景に、どこか禍々しいものを感じないではいられなかった。袁家では焼き討ち事件も相次いでいる。被害者は自分で4人目だ。別に陰謀じみたことを信じている訳ではないが、なんとなく不安を掻き立てられる。
死んでいく人々、街を出ていく人々。逆に続々とやってくる移民と難民。多くは揚州人のように得体が知れず、西涼人のように野蛮だ。いつの間にか増えているスラムの貧民、そこここに出来た空き家と、暗闇に潜む何かの気配。街の中に侵入し、あちこちに潜んでいる工作員――。
(内なる敵だなんて、あり得ない。保安委員会の阿呆どもが自分の無能を隠すために作り出した、適当な言い訳に違いないはず)
楊弘は自分にそう言い聞かせる。絶対にそれだけは無いと断言できる。けれども――。
**
「顧奉が潁川太守を辞職した?」
劉勲は閻象からの報告に、思わず声を上げた。
「それで、後任は?」
まだ決まってませんよ、と閻象が返す。内心の疑念が感じ取れる表情だった。
「まったく、今の袁家では退職が流行っているんでしょうかねぇ」
閻象の声は自嘲を含んでいる。
「誰か適当な人物をすぐ着任させられるよう、人事局に候補者の一覧表を作らせるわ」
「それだけで大丈夫でしょうか? 本件と直接の関わりはないのですが、その一族も揃って行方をくらましたそうです。突然に」
劉勲はどきりとした。そういえば消えた顧奉は行方不明になる数日前から、保安委員会から接触を受けて領内にいる工作員狩りを準備していた。
顧奉は辞任したのではなく、させられたのだ。そして消された。袁家を狙う敵、それが誰かは分からないが、彼らにとって邪魔になったから始末されたのだ――。
「どうしましたか?」
閻象が首をかしげている。劉勲は背筋が凍るのを堪えて、首を振った。
「何でも無いわ。少し考えすぎたみたい……色々と」
◇◆◇
その日の午後、久々の休暇をとった劉備と諸葛亮は宛城の街を散策していた。しかし休日にもかかわらず、街は閑散として人気が無い。ここ暫くの滞在で知ったことだが、夜に人の姿が見えないのはもちろん、日暮が近づくと明らかに人通りが減る。昼はまだ減った感じはしないものの、活気が失われつつあるのが感じ取れる。みんな用がなければ外にでたくないのだろう。
散々な、とでも形容できそうな有様である。かつて眩いばかりの栄華を誇った袁家は、ここまで食い荒らされてしまったのだ。
どうしてこんなことになったのだろうか、と劉備は改めて思った。袁家と運河建設の取決めを交わしたとき、こんな事態は想像もしていなかった。徐州は袁家の庇護下に置かれながらもその財力の一部を得て復興へと進むものだと思っていたし、袁家も乗り気であるように思えた。自明だと思われた未来は、今や何一つ分からない。
あまりにも異常な様相。政府への不満だけだろうか、本当に。何かそういう、目に見える異常とは別の以上が進行しているように思えてならなかった。
「あの……朱里ちゃんは前に袁家で何が起こっているか、分かるかもって手紙に書いてたよね? 一体何が……」
隣を歩く諸葛亮を、劉備はまじまじと見る。
「やっぱり一刀さんの報告通り、孫家絡みのことかな?」
「……孫家だけ、じゃないと思います」
諸葛亮は一瞬だけ劉備を見ると、すぐに目を伏せる。
「この前から、ずっと工作員の脅威を宣伝している人の事を覚えてますか? 保安委員会の」
「張繍さんの事?」
「はい。あの人の話ですが……間違ってはいないと思います」
劉備は動きを止め、目を見開いて諸葛亮を注視する。「そんな」と思う。しかし同時に「やはり」という思いもあった。
「どういう訳か孫家の陰謀論みたいにされて、大半の人々は孫家が全ての黒幕だと考えてるみたいですけど、そう簡単な話じゃないと思います。襲撃に一貫性がないのが証拠です。原因はひとつじゃないんです」
原因が沢山あって、それが複雑に連鎖して袁家に害をもたらしている――諸葛亮は弱く微笑んだ。
「こんな意見が何の解決にもならない、ということは分かってます。でも、たぶん“敵”は何処かにいるんですよ。もし本当に袁家の敵が存在しないとしたら、袁家が傷つくはずがないでしょう?」
「そう……かもね」
見えない敵だなんて馬鹿げている。だが被害が出ている以上、それが本当であっても不思議はない。劉備は俯きながら、自分に言い聞かせた。
◇◆◇
「おい、聞いたか? 張繍の話」
一人の人民委員が口を開いた。
「工作員の事でしょう。そりゃ当然、知ってますよ。自分もあの演説の場に居合わせたので」
「保安委員会も本格的におかしくなってきたよな。もともと危ない組織だと思ってたけど」
「本当にそうだな」
人民委員の一人が頷く。
「よりによって内通者に工作員、ですからな。そんなもの疑い出したらキリがないというのに」
華雄は続く忍び笑いを、眉をひそめて聞いていた。
疑い出したらキリがない? とんでもない――袁家に変事が起こっている。最近の事件は異常だ。偶然の要素も確かにあるかもしれないが、明らかに度を過ぎている。そんなことは彼らたちだって百も承知のはず。
(これは……まずいかもしれない)
華雄は内心で独白した。この間までは誰もが不安を抱き、事態をいぶかしんでいたのに、「工作員」という解を出された途端に及び腰になっている。
たぶん、怖いのだ。普段なにげなく過ごしている日常の中に敵が潜んでいる、などという仮定は想像すらしたくないのだろう。それを認めてしまえば、今までの日常が崩壊する。当たり前の日々が当たり前でなくなり、辛うじて保たれている平穏な生活も戻らなくなる。だから異常事態に直面し、それに非常識な答えを突き付けられ、それを否定するために異常だという現状すら否定しているようにすら見えた。
だが、この現状は絶対に異常だ。何かが狂っている。工作員であろうとなかろうと、それだけは間違いない。それなのに。
(救いがたいな、これは……)
華雄は小さくため息をつく。積極的に危害を加える者だけが敵ではない。敵の存在を知りながら、動こうとしない消極的な者もまた、広義の敵ではないのか。そう思えてならなかった。
**
「――なんだか元気ないわね、大丈夫?」
賈駆がそう言うと、袁術は「うむ」とだけ答えた。廊下を歩いていたら、たまたま鉢合わせた2人だったが、袁術の方は口が重く、ひどく億劫そうだった。それから二、三ほど会話を交わしたが、どうもおかしい。元気のない袁術の様子に、賈駆は驚愕を禁じ得なかった。いつもなら袁術の方から威勢よくまとわりついて、自分たちを辟易させるのに。
いつもは元気な童女が塞ぎ込んでいる姿を見るのは、あまり楽しいものではない。そう考えたところで、賈駆はそのような考えに至った自分を不思議に思った。感情に動かされない合理的で冷徹な軍師――賈駆は日頃からそうあろうと振る舞っていたし、そのような人間でありたいと思っていた。袁術についても、お飾りの愚鈍な主君として、利用すべき対象だと見なしていたはず。
だが、現実の自分はどうだろうか。目の前にいる幼女が落ち込んでいるのを見て、僅かに狼狽えている。さっさと去ればいいのに、言うべき言葉を見つからないまま立ち尽くしているのだ。
「袁家が好きか、賈駆」
唐突に、思いもかけぬ問いを投げられた。
「さぁ、そんなの考えたこともなかったけど……」
賈駆はとっさに言葉を濁す。そうした類の質問を張勲や劉勲からされた事はあるし、その時はあらかじめ用意したあった百点満点の解答で答えた。にもかかわらず、袁術の問いに賈駆はなんと答えるべきか決めかねている。
「アンタはどうなの? 袁術」
自分でも卑怯な返しだと思う。しかし袁術は僅かの間を置かず、即答した。
「好かぬ」
「え……?」
「じゃが、嫌いではないぞ。つまり、その、ええと……」
少しばかり袁術が考える。
「今の袁家より、昔の方が好きじゃった」
絞り出されるような言葉に、賈駆はハッとした。袁術も子供ながらに、情勢が悪化していることを敏感に感じ取っていたのだろう。逆にいえば子供にすらそう思われているという事は、成人の目には袁術領全体が重苦しい空気に包まれていることを証明するものであった。
「変な話じゃが、妙に寂しくての。皆も暗い顔をしておるし、口数も少ない。七乃も、昔ほど妾に構ってくれぬ」
賈駆は不意に、ぞわりと悪寒を感じた。
「妾は怖い。今の袁家は、まるで知らない国のようじゃ……」
◇◆◇
劉備と別れた後、諸葛亮は一人、街角の食堂で遅めの夕食をとっていた。このところ、街からは活気が失われているように見える。実際問題として、そこら中で毎日のように暴動とテロ事件が起こり、運河建設は遅々として進まず、豫州の反乱軍は依然として行方が知れない。外出を楽しむどころではないのだろう。
(大丈夫でしょうか……)
とろみのついた溶き卵の汁物を口に入れながら、諸葛亮はふと思う。彼女が南陽に来た直後は、徐州とのつながりを強化したり貿易商人や、親戚の土地を相続しようという魂胆が丸見えな名士が何人もゴマを擦りに来たものだ。それが最近では日に1人か2人、3人いれば多い方だった。
街の様子を見た限り、生活に支障は出ているほどでは無いようである。食糧は十分に供給されているし、袁家の財務状況が実は破綻寸前にある、といった噂も聞いたことがない。にもかかわらず、人々の顔は不安げで、日が沈むと逃げるようにそそくさと家に帰る。諸葛亮自身、今の宛城で夜の一人歩きはしたくないと思っている。
食事が済むと、彼女もまた何かに急かされるように徐州領事館の執務室へと戻った。ここなら100人以上の警備兵がいるし、建物の周りも高い塀で囲まれている。
物質的な安心感と共に諸葛亮が部屋に戻ると、机の上にぽつんと手紙が置かれていた。封筒に押された判子を見ると、徐州からの公文書だった。
(何の手紙でしょうか……?)
業務の煩雑化を防ぐため、基本的に書類や手紙は早朝にまとめて提出されるのが慣例だ。よほど緊急の用件を除けば、昼過ぎに手紙や報告書が出されることは無い。何か嫌な予感を感じつつも、諸葛亮は封を開けた。
『 北郷一刀を含む揚州派遣団、現地で行方不明。揚州政府は反政府武装勢力の犯行と断定―― 』
(っ………!)
諸葛亮は息を飲み、しばらく手紙を凝視していた。
ここ最近、袁家では何かが進行していた。明らかに異常な何かが。それが袁術領全体を蝕んでいる。それは段々と、領外にも広がっていくようであった。まるで疫病か何かのように。
とうとう来たか――と諸葛亮は思った。それはついに徐州をも捉えたのだ。
むしろ、今まで捕えられずに済んでいたことの方が幸運だったのだ。こんな悲劇は、ここ数か月の間にいくらでもあったことだ。特に最近では、毎日どこかであったようにすら思える。自分だけに降りかかってきた不幸ではない。
けれども、涙が止まらなかった。なぜ、どうして、なんで、何が原因で――こんなことに。
工作員が跋扈するから国が衰退するのか、国が衰退してるから工作員が跋扈するのか……難しい問題です。