真・恋姫†無双 仲帝国の挑戦 〜漢の名門劉家当主の三国時代〜   作:ヨシフおじさん

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65話:とある老人の物語

   

「華琳様!」

 

 大洪水によって激しく損壊した下邳城から出てきた曹操のもとに、夏侯惇と複数の兵が駆け付ける。彼女達も決して浅くはない傷を負っているが、夏侯惇は気にも留めていない。それよりも主君を守るべき立場にある自分達が、戦闘の最中に曹操の元を離れてしまった事を恥じていた。

 

「無事だったみたいね、春蘭」

 

「はい。洪水が起こったとき、一緒に流れてきた柱に掴まったのでなんとか……」

 

 夏侯惇は洪水が収まると、すぐさま部隊の再編成に向かった。しかし洪水が起こった直後はどの部隊も大混乱で戦闘どころではなく、軍の指揮系統が回復するまで予想以上に時間がかかってしまったのだ。

 

「申し訳ありません!すぐにでも駆けつけるべきでした! 私が臣下の役目を怠ったばかりに、華琳様に傷を……」

 

「いいのよ、春蘭。むしろこの状況下でよくやってくれたわ」

 

 真っ赤になって頭を下げる夏侯惇を、曹操は愛おしそうに見つめる。

 

「貴女の仕事は此処にいる兵士を指揮し、統率すること。主君の捜索は大事かも知れないけど、それは全軍を預かる指揮官の最優先業務では無いわ」

 

「はっ!」

 

 夏侯惇は大きな声で、改めて臣下の礼を取る。

 

「……曹操様、これを」

 

 部下の一人が傷を抑えるための布と、刃零れした武器を磨ぐための鑢を持ってくる。曹操は無言でそれを受け取り、改めて口を開いた。

 

「行くわよ」

 

 その言葉を受けて、夏侯惇以下の将兵も各々の武器を握り締める。

 そう、まだ戦闘は終結していない。徐州の先に、本当の敵がある。両軍を潰し合わせて漁夫の利を狙う、狡猾な商人達が。

 

「どうせ近くまで来ているんでしょう?――劉勲」

 

 

 ◇◆◇

 

 

 曹操が去った後、陶謙たちの残された部屋には静寂が訪れた。

 外にいるであろう袁術軍との戦闘に全力を注ぐ為か、それとも陶謙に敬意を示すためか、あるいは結果的とはいえ救われた恩を劉備達に返すためか。いずれにせよ、曹操軍の監視はなかった。

 

 そこにあるのは自分の為した行為の結果。戦闘によって滅茶苦茶になった部屋。放たれた扉から垣間見える、街だった残骸。そして……呆然と佇む桃色の少女と、彼女の仲間達。

 

「………」

 

 しばらくは、どちらも口を開かなかった。否、開けなかった。

 何故なら、聞きたい事があまりにも多過ぎたから――。

 

 陶謙は倒れたまま、未練たらしく剣を握ったままの右手に目をやる。折れた剣と、それを握る血まみれの拳。まさに今の自分そのものだな、と陶謙は小さく苦笑する。

 

「――玄徳どの」

 

「――何ですか?」

 

 やがて、陶謙が口を開いた。それに応えて、劉備も声を返す。

 出来る限り、いつもと同じ声で。出来るだけ、普段通りの微笑を浮かべて。

 

 まるで、失った時間を取り戻すかのように。何かを埋め合わせる様にして、老人と少女は向かい合う。

 

「先の、疑問に答えてくれんかの? まだ儂は答えを聞いていない」

 

 死の足音が刻一刻と迫る中、老人は純粋に疑問を投げかける。その疑問とは、すなわち――。

 

「……曹操さんのこと、ですか?」

 

「そうじゃ。未だに儂には理解できない……たとえ如何なる理由があろうと、琅邪城であれほどの蛮行を行った責任は曹操殿に帰結する。他人の痛みに敏感な貴公なら尚更、彼女を平和の敵と断じ生かしておけぬと憤慨するはず……少なくとも儂はそう思っておった」

 

 解せぬ。分からぬ。全くもって度し難い。ゆえに、真意を問わねばなるまい――劉玄徳は如何なる理由を以て、曹孟徳の死を防ごうとしたのかと。

 

「………」

 

 劉備は沈痛な面持ちで陶謙をじっと見つめ、やがて躊躇うように口を開く。

 

「生きている限り道は開けるって、そう思ったから……」

 

 それは、かつて陶謙が劉備に告げた言葉。

 

「死んでしまったら、後には何も残らない………違いますか?」

 

 されど、その意味するところは――。

 

「確かに、曹操さんを殺してしまえば今回の兌州と徐州との戦争は終わります。でも、袁術さんと裏取引をして、ほとんど騙し打ちのようなやり方で勝って……それで兌州の人達が納得するでしょうか?」

 

 どんな手段を使っても勝てば勝利、等というのは勝った側の認識だ。対して、負けた側は何かと理由を付けて敗北を否定したがるもの。

 

 我々に“勝った”だと? ふざけるな、第3国という虎の威を借りただけの狐が何を以て“勝利した”などとほざくのか。しょせんは馬鹿の一つ覚えのように、物量の差で押し切っただけであろう。戦争法規を遵守する我らと違い、野蛮な貴様らは容赦なく卑劣な戦法を使えたからであろう。我らは戦闘で一度たりとも負けてはいない。戦術でも個々の兵士の質でも常にこちらが勝っていた。条件が同じなら勝っていたのは我々だ―――例を上げればキリがないが、そう考える人間は決して少なくはないはず。

 

 加えて、一連の戦闘では双方に大きな損害が出た。長い籠城戦の末に、琅邪城では気の立った曹操軍兵士が降伏した捕虜や難民を虐殺した。下邳の戦いでは堤防決壊によって曹操軍も甚大な被害を受け、その後も混乱した両軍が街のいたるところで殺戮を繰り返した。死傷者は両軍合わせて3万人を軽く上回り、民間人も含めれば少なくとも倍の数字にはなる。

 これで、理性的な対応が出来ると思う方が可笑しい。いくら曹操が軍紀を徹底しようとも「戦友の仇打ち」と言う名の私的制裁や暴行は発生するだろうし、大多数の兵も内心では同じ思いに違いない。曹操軍によって多くを失った徐州の人々も、同様に復讐をしたいと考えているはず。

 

「沢山の人が死にました……徐州の人たちも、曹操さんの兵隊さんも。友達を殺されて、家族を失って、お互いに相手を恨んでいる人も少なくないはずです。

 それなのに……あんな(・ ・ ・)やり方で(・ ・ ・ ・)勝って(・ ・ ・)しまったら(・ ・ ・ ・ ・)何も解決しないじゃないですか!」

 

 瞼に大粒の涙を浮かべながらも、毅然と己の意見を述べる劉備。

 

「曹操さんは自分の考えをしっかり持ってて、実力も人望もあるから………そんな人が騙し打ち同然に殺されたら、残された人たちがどう思うのか……」

 

 夏侯惇に夏侯淵、荀彧、許緒、典韋、程昱、郭嘉、楽進、李典、于禁……曹操の下にはその人柄に惹かれて名だたる名将・名軍師が集まっているし、彼らが曹操に向ける敬意と忠誠の深さは劉備達にも伝わっていた。

 

 もし曹操が殺されていたらどうなっていたかなど、想像するまでもない。彼女が父親の仇討ちを契機として戦争を始めたように、今度は曹操の死がきっかけとなって別の戦争が生まれるだろう。報復の連鎖は次々に新たな戦乱の火種を生み、どちらかが絶滅するまで終わりなき殺戮が繰り返されるだろう。

 この二ヶ月に体験した様々な経験が、劉備の脳裏で交錯していく。

 

「こんな悲惨な戦争なんて、もう二度と起こって欲しくない……ううん、絶対に起こしちゃいけないんです。だから……!」

 

 これ以上、悲劇を増やさないために。もう皆に辛い思いをさせないために。

 

ただ戦争を(・ ・ ・ ・ ・)終わらせる(・ ・ ・ ・ ・)だけじゃ駄目で……未来へ禍根を残さずに終わらせなきゃ意味がないって、そう思うんです!」

 

 

「……そうか」

 

 ようやく合点がいった、というように陶謙は呟く。

 

「未来への禍根、か……成程、確かに儂の計画ではその点を見落としていたやもしれん。袁術の配下に入れば戦争を有利に進められるとはいえ、戦争そのものを無くせるわけではない。復讐に燃えた曹操殿の部下達とやり合うのは、中々に骨の折れる作業じゃろうて」

 

 あの場で曹操を殺し、今回の戦争に決着をつける事は易い。が、それで互いの憎みが消える訳ではない。むしろ第3者の介入や堤防決壊など道義的に問題のある手段を取っている以上、より恨みは増すだろう。

 ゆえに復讐の連鎖を起こさぬよう、曹操を和平の席につかせる必要があった。和平ならば少なくとも“自分の意志”で戦争を放棄している以上、力尽くで屈伏させるよりかは幾分かマシだろう。

 

「では、もし儂があの場で曹操の殺害ではなく、拘束を命じていたら……玄徳殿は従っていたのかな?」

 

「そっ、それは……」

 

「曹操殿をこちらで用意した“話し合い”の席に着かせよと、そう命じていたら大人しく従ったかのぅ?」

 

 陶謙は少しばかり意地悪な質問をかける。

 予想通り面食らう劉備だったが、それも長くは続かず――。

 

「はい」

 

 しばしの俊巡の後、劉備は意を決したように答えた。

 

「桃香様……!」

 

「桃香、それは……」

 

 一刀と諸葛亮が目を見開く。だが劉備が意見を曲げる事はなかった。これまでの彼女に無かった反論に、陶謙も驚いた様子で彼女を見つめる。

 

「その時には、曹操さんを説得して和平の席に着かせてみせます。今でもわたしは……“話し合う”ことが平和への一歩だと、そう信じていますから」

 

 瞳に強い光を宿し、はっきりと通る声で告げる劉備。決して、心からは納得した訳では無いだろう。質問に「力尽くで」という条件を加えれば、再び押し黙るかもしれない。だが、それでも――今、彼女は確かに「はい」と答えたのだ。それは揺るがぬ事実だった。

 

「ふっ……成長したな、玄徳殿も」

 

 思わず頬が緩むのを自覚する。これまでの劉備なら、実の伴わない理想論だけでものを語っていたに違いない。しかし今の劉備は平和をもたらすための具体的な方法を探し、その上で結論を出そうとしている。平和とその意味について深く考え、自分の思い至らなかった視点すら見出したのだ。

 

 であれば、せめてその程度は――彼女のことを認めてやらねばなるまい。

 

 

「……陶謙さんは」

 

 今度は、劉備が口を開く。

 

「陶謙さんは、どうして殺そうとしたんですか? 曹操さんを」

 

 陶謙の眉が一瞬だけ、苦しげに歪んだように見えた。しかしそれでも劉備の視線は揺らがず、老人の顔をひたと見据える。

 

「確かに曹操さんの性格からして、交渉が成功する余地は少なかったと思います。でも、零ではありませんでした。なのに、陶謙さんは交渉しようともしなかった」

 

 それどころか、わざと曹操を挑発しているようにすら見えた。不正を嫌う曹操の前で袁術との裏取引を自慢げに語ったり、露骨に武器をちらつかせて敵意を隠そうともしなかった。

 

「はて、そんなに意外かのぅ? 曹操は徐州の民を万単位で虐殺したのだ。同胞を殺されれば、仕返ししたくなるのが人情だと思うのじゃが」

 

 しれっと恍ける陶謙に、劉備は困ったような表情で返す。

 

「もう、はぐらかされませんよ? 街を水浸しにしたくせに……。わたしだって少しは学習します。陶謙さんは何を言おうと、最後には徐州の為になるように動くって」

 

 徐州に対する陶謙の純粋過ぎるほど想いは、並々ならぬものがある。でなければ自らの民や誇り、家族を全て徐州の為に投げ打つことなど出来はしない。そんな強い信念を持った人間が、一時の感情に囚われるなどありえないと……劉備は、彼女にしては珍しい諧謔で返す。

 

「だから、余計に分からないんです。わたしは政治に明るくありませんけど……もし曹操さんを説得できれば、袁術さんに対しても有利に事を運べたはずです。――違いますか?」

 

 曹操ほどの人物ともなれば、その身柄を拘束しているというだけで大きな交渉材料になる。彼女の本拠地・兌州に対する人質にもなるし、万が一袁術が交渉内容を破った時の保険としても機能する。無論、説得できるかは別次元の話だが、少なくとも“その可能性がある”と相手に思わせるだけで、外交は大きく変わってくるはず。

 

「そうじゃな……怖かった、とでも言うべきか」

 

「怖かった……?」

 

「左様、儂は曹操殿が怖かった。世の中が彼女によって変えられる事が、たまらなく恐ろしかったのじゃ」

 

 劉備が顔をあげると、陶謙は苦しそうに微笑んで見せた。

 されど、その瞳に映る光は強く鋭くて。

 

「今回の戦争……本当に父親の仇討ちなどという理由で、曹操殿が攻めてきたと思うのかね?」

 

「それは……」

 

 違う――劉備には分かっていた。かつて洛陽で劉勲らを交えて曹操と問答したことがある。その時、曹操は何と言っていた?

 

“――この国を再生しようとするなら、それを根底から変えるぐらいの意志が必要よ”

 

“――唯才是挙。人が生まれや血筋に関係無く実力で評価される、私はそんな世界を作りあげる”

 

 それはすなわち、既存の秩序の破壊。曹操が倒そうとしているのは、陶謙や袁術といった敵対勢力に限らない。何世代にも渡って中華で受け継がれてきた儒教的価値観、それ自体を破壊して新たな常識で社会を塗り替えようとしているのだ。

 

「もしこのまま中華が“変わって”いけば、この先どうなるのか……」

 

 遠い過去を思い出すかのように、陶謙は目を伏せる。

 

 陶恭祖は特段変わった経歴の持ち主ではない。州牧という位には就いているが、ずば抜けて有能だったとか目を見張るような功績を挙げた訳では無い。それなりに恵まれた家に生まれたがゆえに勉学に励み、周囲に勧められて官僚の道へ進み、それに見合った役職を与えられ、運よく出世街道から脱落せずに高位に昇りつめた。口にすれば、所詮それだけのこと。

 

「面白くもない人生じゃろう? 思えば、ただ周りの人間や環境に流されて、漫然と生きて無駄に齢だけ重ねてしまったものよ。じゃが……」

 

 確認するように間を置いたのは、劉備に対してだったか。それとも自分自身に対してか。

 

「それでも、儂の人生はそこにしかない。儂は漢帝国という枠組みの中で生き、その中で生きることしか知らぬ。たとえその行先が長くないと分かっていても、もはや儂の居場所はそこ以外に無い」

 

 それは洪水で今にも崩壊しそうな堤防を、補修し続けるようなものだったのかもしれない。長年にわたって積み重なった、ありとあらゆる社会問題が洪水と化して人々を脅かす。そして人々はいつ崩壊するかも分からぬ恐怖に怯えながら、老朽化した漢帝国という堤防を延々と補修し続ける。

 

「……儂は怖かった。生まれたときから慣れ親しんだ環境が変わり、今までの常識が通用しなくなる事が。200年、いや400年以上続いた漢帝国……その間に膨れ上がった怒りと怨念が破裂し、吐き出された先に何があるかなど予想もつかない」

 

 ゆえに自分は、中華を変えようとする曹操の死を望んでいたのかもしれない――。

 

 変化は必ず痛みを伴う。かつては価値あったものが一夜にして塵屑同然となり、どこの誰が変革の中で没落するのかは神のみぞ知る。それがどこに向かうのか――少なくとも、徐州に向けられる事だけは避けたかった。皇帝から徐州の民を任された州牧として、それだけは避けなければならなかった。

 

「……などと言うのは、やはり無駄に齢を重ねた老人の戯言かな? 世に言う『老害』、歳をとると何事にも臆病になる」

 

 ふっと、老人の口元に笑みが走った。

 

「そなたは……どうなのだ? ――怖くは、ないか?」

 

 視界が霞み、意識が遠のいてゆくのが分かる。自分の命はもう長くないだろう。むしろ、此処までよく持ったものだ。だから、どうせなら、最後にそんな事を聞いてみたいと思う。

 

 

 少女の唇が開く。

 

「ねぇ、陶謙さん」

 

 震える声の中には、弱さと憂いが。

 潤んだ瞳には、哀しみと痛みが――。

 

「誰だって、そうだと思うよ。変わっていくことが全然怖くない人なんて、いないと思う。――袁紹さんだって、劉勲さんだって。きっと……曹操さんも」

 

 それら全てを抱え込もうと、劉備は立っていた。

 逃げたい、隠れたいという本心を必死に押しとどめて、少女は正面から向き合おうとしていた。

 

「……だけど、怖がって自分の殻に閉じこもってるだけじゃ、やっぱり何も分からないから。何が変わっているのか、何を変えなきゃいけないのか、何を変えちゃいけないのかも」

 

 立つべき場所が違えば、それぞれ見えてくるものも違う。それは自身の経験に裏付けされたものだったり、文献から得た知識だったり、周囲にいる人達の言葉だったりと様々だ。

 だから理想や信念がすれ違う。例え同じ未来を目指していても、各々の最善と信ずる道はおのずと異なってくる。陶謙と彼の息子たち……全員が徐州の為を想っていたにもかかわらず、見えるものが違っていたばかりに、進む道は分たれてしまった。

 

「でも、だからこそ、――みんなが自分の知らない世界を知って、その中で自分なりの答えを見つけようとするんじゃないのかな?」

 

 青州の人たち……最後までそこに住む人々の期待に応えようと抗い続けた太史慈も。みっともない醜態をさらしながら、たとえ忌み嫌われようとも民の生命と財産を守った孔融も。降伏の際、彼らは何も言わなかったという。敗北を現実として受け止め、敗者として潔く頭を垂れ、全ての感情を押し殺して未来への希望を僅かにでも残す道を選んだ。

 決して楽な道では無いだろう。けれども――。

 

「……それが自分で見つけた、答えだったから」

 

 それは徐州の人たちも同じ。皆が弱小の徐州を、あらゆる手を尽くして守ろうとした。

 陶謙の2人の息子は純粋な郷土愛で徐州を救おうと立ち上がり、陶謙は袁術すらも利用して徐州を守ろうとした。前者は力無き理想家と蔑まれようとも、後者は弱腰と非難され売国奴の汚名をかぶろうとも――逃げる事だけは決してしなかった。

 

「他の誰でも無い、自分で見つけた答えだから……誰もが逃げずに自分で決めた役割を果たせたんじゃないのかな、ってわたしは思うよ」

 

 そして願わくば――いつか自分もそんな風に。

 

 

 静かに屋敷に佇む二人を、ゆっくりと静寂が包んでゆく。

 遠くからは聞こえる、軍勢がぶつかり合う歓声は掻き消されて。

 

「そなたは……見つけたのか? ――その答えを」

 

 老人が顔を上げると、少女がこちらを覗き込んでいた。

 陰のせいで泣いているかまでは分からないが、その姿はひどく頼りなかった。

 

「ううん……まだ、見つけてないよ。もっと、自分でよく考えてみたい。いろんな人の話を聞いたから、段々と分からなくなってきて」

 

 それでも、劉備は困ったような微笑みを崩さない。

 まるで、笑っていれば悪い事もいつかは良くなるとでもいうように。

 

「だから、探したいんだ」

 

 誰にともなく、桃色の髪の少女は呟いた。

 自分の意志で選んだ、平和への祈りを――。

 

 

「見つけたい答えなら、あるから」

 

 

 

「……そうか」

 

 陶謙は静かに、ぼそっと短く返した。集中が切れると同時に疲労が体を襲い、陶謙は仰向けになったまま目蓋を閉じる。 

 

(現実を知ってなお、その上で諦めきれんか……。じゃが、その妄想(ゆめ)、真摯な祈りから生じた狂気(りそう)はそなたを破滅へと導くぞ)

 

 護りたいものを護れないという狂おしさ。されど護る為の力を手に入れれば、却って他者を傷つけてしまう……きっと彼女は昔も今も、そしてこれからもそんな自己矛盾に苦しめられることだろう。

 そして自分の矛盾と苦悩を自覚しながらも、生来の善性ゆえにその歩みを止めることができない。

 

 それが陶謙の知る、劉玄徳という人間の素顔だ。聖人と狂人の2面を持つ、『大徳の英雄』。行動原理の根底には仁愛と優しさがありながら、本来なら常人を遥かに陵駕した異常者に与えられる“英雄”の称号を持つなど、皮肉でしかないだろう。

 

 だからこそ、そんな彼女に自分は――。

 

 

「強いな、玄徳殿は。儂などよりも、――ずっと」

 

 

 精一杯の応援と、皮肉を贈った。

 

 ――もしかしたら、本心では自分も彼女のようになりたかったのかもしれない。世間一般からどう思われようと、子供が持つようなしょうもない“夢”を諦めずに追い続ける。窮屈な世間体や無味乾燥な現実など知った事か、と青臭い理想に殉じる自由な人生を送ってみたかったのかもしれない。

 

 

「劉備殿……最後に一つだけお願いがあるのだが、聞いてくれるか?」

 

 懐から小さな木箱を取り出し、彼女に手渡す。

 

「これを袁術軍の元へ届けてはくれないか?」

 

 結局、自分は最後まで自分を縛るしがらみから逃れられなかった。しがらみの中で人生を送り、敷かれた線路にうまく乗り、最後まで一人の「陶謙」という個人では無く、陶「徐州牧」という社会の歯車として生きた。自分にとって最良の人生では無かったかも知れないが、それでも最終的には自分で選んだ道だ。だから最後まで筋を通す――と、子供のような意地を張ってみるのも悪くない。

 

「陶謙さん、これは……」

 

「中華に十三ある金印の一つじゃ。この印綬を以て、初めて正式な州牧位が授けられる」

 

 それはつまり、陶謙が徐州の支配権を劉備に託すということ。その上で、それを袁術に渡して欲しいという。州牧の金印を袁術が得れば、彼女は名実共に徐州の支配者となる。従来の経済のみを握った実効支配などより遥かに権威は増すだろう。

 だが誰の目にも袁術の勝利が明らかな今、それを改めて盤石にするような行為に何の意味があるのか。劉備一行は首をかしげる中、陶謙は小さく笑って劉備達に自分に近づくように言い、そっと小さく囁いた。

 

「だからこそ、じゃよ」

 

 劉勲の主導した外交の基本は勢力均衡――誰かが強くなり過ぎれば、周囲が足を引っ張るシステムだ。力のバランスを重視するがゆえに、突出したパワーを持った勢力の誕生を許さない。そう、たとえそれが自分自身(・ ・ ・ ・)であろうとも(・ ・ ・ ・ ・)

 

 劉勲はそのことを承知していた。だから直接支配しようなどとせず、陶謙を政権に座らせたまま経済支配に留める、などと回りくどい手段を取ったのだろう。その気があればいつでも徐州を占領できたにもかかわらず、わざわざ陶謙の救援要請があるまで孫権らを待機させていたのも、野心がないというパフォーマンスのため。

 

「だが劉勲が有能な外交官だとしても、袁術軍の全員がそこまで深く読んでいるわけではなかろう?」

 

 紀霊にしろ華雄にしろ、その本分は軍事であって政治ではない。州牧の金印といった重要品を徐州の方から差し出してくれるなら、喜んでそれを受け取るだろう。普通に考えれば大手柄なのだから。

 

「まぁ、劉勲あるいは張勲が軍を率いていれば、容易に防げた事態ではあるがのぅ。しかし彼女らは表舞台に出てこなかった。自らの臆病さと保身ゆえに、危険を冒そうとしなかった。……それゆえに」

 

 袁家は覇権を(・ ・ ・)握りかけて(・ ・ ・ ・ ・)しまう。2州と1郡、中華の全人口の4分の1を手に入れた彼女らを、他の諸侯が放っておくはずがない。しかも袁術軍主力部隊は徐州にいる。袁家の中枢・南陽群ではないのだ。

 加えて、敵は外ばかりではない。袁家はかつて母虎を謀殺し、虎の子を飼い慣らそうとした。されど猛獣は本来ヒトに懐きはしない。陰に潜み、小さくなって時が来るのを待ち、そして――。

 

「これが『外交』じゃ。覚えてくが良い、いずれ何かの役に立つやもしれん」

 

「はい……」

 

 一同が頷くと、陶謙はやっと肩の荷が降りたとでも言うように満ち足りた笑みを浮かべた。

 

「袁家の書記長殿には酷く恨まれるじゃろうが……まぁ、それもまた一興。もう見ぬ故郷に保険を残していけるのなら、それでも構わんさ」

 

 曹操が疲弊し、袁家もまた不安定。ならば、後はその弱みに付け込めばいい。相対的な力関係の差が縮まれば、もう徐州は一方的に理不尽な扱いを受ける事は無くなるのだ。

 対して、劉備は小さく一言。

 

「本当に……身内贔屓の激しい人ですね」

 

「郷土愛や愛国心など、突き詰めればそんなものじゃよ」

 

 お互いにくすりと笑い合う。

 老人は満足したように頷き、再び目を閉じた。

 

 ――明日はきっと、良い日になりそうだ。

 

 

 ◇

 

 

 徐州牧・陶謙、下邳城にて没す……。死因は事故死とされ、堤防決壊による混乱の最中に命を落としたと言われている。その死に際し、著名な名士たちの反応は大きく相反するものだった。以下に、著名な2つの評価をあげる。

 

「――道義に背き、感情にまかせて行動した。凡人でもここまで酷い事にはならなかっただろう」

                           陳寿の評より

 

「――美徳と武勇と知性を兼ね備え、性質は剛直であり、その統治は恩愛をもって行われた」

                           張昭の追悼の辞より

 

 無駄に人命を散らし、私利私欲のために実の息子すら謀殺した卑劣な売国奴か。

 あるいは、どんな汚名に塗れようとも故郷の為に何もかも捧げた真の愛国者か。

 

 後世に至るまで、未だその評価は定まっていない――。

    




 やっと陶謙さん殺せた……前話のまま殺しても良かったんですが、劉備たちが完全に道化になってしまうので、それも何だかなぁと。

 劉備の意見は、まぁアレですね。勝ちは勝ちでも、相手に恨まれるような勝ち方すると後々逆恨みとかされて困るっていう。
 史実でも第3国の援軍のおかげで勝てた場合とかは「俺ら戦勝国!」「いや、俺ら別にオマエに負けた訳じゃないけど? 1対1だったら勝ってたから!」みたいなノリで尾を引く事って結構ありますし。戦争の勝敗と軍隊の強弱は別問題だと思うんですが、まぁお互い気分的にスッキリしませんからね……。

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