真・恋姫†無双 仲帝国の挑戦 〜漢の名門劉家当主の三国時代〜   作:ヨシフおじさん

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62話:蹂躙

                        

「まさか……そんなはずが……」

 

 下邳の町を外界と隔てる城壁、その接点である城門前で陶商は戦慄と共に呻いていた。

 彼はクーデター計画に従って下邳を制圧すべく、まず部下と共に城門の制圧に向かっていた。周辺の軍の再編成を任されていたこともあってか、下邳に限って言えば兵の大部分はクーデター派に所属している。だが徐州全体で見れば未だ陶謙に忠誠を誓っている部隊も多数存在しており、外部からの増援到着を阻むには城門の制圧が必須。逆に言えば東西南北に4つある城門さえ占領できれば、後は内城に籠る父・陶謙を廃してクーデターに正当性を持たせる事が可能になるのだ。しかし――。

 

「早馬を出せ!ここ以外の城門がどうなっているか、すぐ情報をもってこい!」

 

 彼の目の前にそびえる城門は、すでに門としての機能を失っていた。より正確に言い表すならば、開閉機構が破壊されていたのだ。

 計画が今まで順調に進んでいたので、そろそろ何かあるのではないかと疑っていた頃だが、流石に目の前の状況は想定外だった。

 

「わからん……父上は何を考えている!?」

 

 だが真っ先に陶商の脳裏をよぎったものは、目算が狂ったことに対する憤りでは無く、純粋な疑問だった。

 

「もし増援の到着を期待しているなら、城門の破壊にも一理ある。だが、それでは仮に私達に勝ったとしても……」

 

 陶商はその先を続ける事が出来なかった。部下が新たな敵影を発見したからだ。

 

「前方に敵影多数!曹』の軍旗を掲げています!」

 

 やはりか、と陶商は思った。同時に、先ほどの疑問に対して最悪の答えが返ってきた事に嫌悪感を隠せない。

 

(城門を破壊すれば増援到着の可能性は高まるが、同様に曹操軍の到着を防ぐ防壁も存在しなくなる。父上はその危険性を承知で城門を破壊したのか、あるいは……)

 

 ここで自分達と曹操軍を潰し合わせる気なのか。

 

 だとしても、やはりおかしい。仮に両者を潰し合わせたとして、陶謙が保有する戦力が増える訳では無いからだ。通常、戦闘では勝った側は全軍の1割、負けた側は3割程度の被害を被ると言われている。下邳にある軍の7割はこちらで掌握しているし、曹操軍も恐らくは同程度かそれ以上の兵力を有している。つまり陶謙の現有戦力では、漁夫の利を狙うには余りに少なすぎるのだ。

 単なる馬鹿、楽観論者として一蹴する事も出来るが、短絡的にそう決めつけられない程度には、陶商は父を知り過ぎていた。父親は無責任な上に強者にへつらう俗物だが、考えなしの馬鹿では無い。10年以上の長きに渡って徐州を曲がりなりにも統治し、州牧の地位を保ち続けてきたことからも有能さは伺える。

 

「父上、あなたは一体……」

 

 それゆえに、今回の行動は理解できない。

 そして人は理解できないものにこそ、真の恐怖を覚える。

 この時、陶商は始めて父・陶謙に恐怖を抱くと同時に、大きな不安を覚えた。

 

 ――自分はどこかで、致命的に間違ったのではないのかと。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 周囲一帯に立ちこめる腐臭。

 鮮血に染まった大地。

 内臓物がまき散らされた死体。

 

 その先に立つ、一人の少女。

 

「何ですか……これ……」

 

 言葉を失う。そんなはずがない――とっさに思考停止に陥りかける。。

 なぜ此処まで残酷なことができるのか。分からない。分かりたくない。

 

「どうして、ここまでやる必要があるんですか……!!」

 

 理解を超えた殺戮に、劉備は慟哭した。

 

「これは……」

 

 隣にいた一刀もまた、目の前に広がる景色に絶句する。付き従ってきた兵士の大半も青ざめ、諸葛亮は耐えきれずに嘔吐している。

 

「あいつら、ここまでやる必要が……ッ!」

 

 太史慈らの手引きで青州から脱出した後、昼夜問わずに走り続けやっとのことで徐州へ辿りついたが、そこは既に彼らの知る徐州ではなかった。

 見渡す限りの死体。豊かな土壌は無残に掘り返され、木々は焼け落ちている。かつては養分を豊富に運んでいた命の河は、赤黒く濁った死の河と化し、積もれた死体が流れを変えている。人はおろか、生命の気配というものがまるで感じられない。聞こえてくるのは風の音と、死体にたかる蠅の羽音のみ。

 

 刺殺、斬殺、射殺、斬殺、絞殺、磔殺、圧殺、屠殺、縊殺、溺殺、噛殺、殴殺、剥殺、焼殺、扼殺――いったいどれほどの人間が殺されたのか。

  男も女も老人も子供も兵士も民衆も。一切の区別なく公平かつ平等に死んでいる様は、ある意味で幻想的とさえ形容できた。

 

 “死が満ちている――”

 

 そんな言葉が彼らの頭をよぎる。陳腐ながらもそうとしか表現できない。曹操軍の破壊と殺戮は、世界を塗り潰すがごとく容赦がない。

 

「これが……あなたの『覇道』だとでも言うんですか――曹操さん!!」

 

 劉備が再び、絶叫する。

 洛陽で会合した時から、互いの進む道は相容れないであろう事は理解していた。

 だが、それでも――曹操には彼女なりの理由があると思った。信念があると信じていた。正義があると願っていた。

 

 その結果が、この地獄だと言うのだろうか。

 眼前に広がる鬼畜の所業が、曹操の求める理想の姿なのか。

 

(曹操さん……なんで、なんでこんな酷いことが……!)

 

 戦争というものを甘く見ていた、と言われれば首を縦に振らざるを得ないだろう。

 だが、それでも劉備は認めたくなかった。信じたくなかった。

 

 董卓軍を相手に、自分達と共に最前線で戦った曹操。本人とは一度洛陽で話をしただけだが、無用な殺傷を好む人には見えなかった。“平和には犠牲が必要”と冷徹に切り捨ててはいたものの、反董卓連合戦ではどの諸侯よりも規律を重んじ、民への被害を減らそうと努力していたはず。それなのに――。

 

 彼女もまた、一人の冷酷な独裁者に過ぎなかったというのか。

 

 

 『 ――曹操ちゃんの有能さは認めるけど、そこまで信用できないのよ。国をたった一人の人間に賭けられるほどには、ね 』

 

 

(………っ!)

 

 脳裏にこだます、一人の女性の声。ねっとりと絡みつくような不快さで、それは何度も何度も反復する。

 

(そんなはずは……!)

 

 だが、目の前にあるのは紛れもない大量虐殺の痕。その光景を感情で否定する。信じたくはない。

 あれほど己の理想を自信をもって語った曹操。そんな彼女が過ちを犯す筈がない。そう信じたかった。

 

 

 

「――桃香様、何か聞こえませんか……?」 

 

 緊張しているような諸葛亮の声。

 

「……あそこの“山”からです」

 

 そう言って彼女が震える指で示した先には、文字通りの死体が堆く積み重なってできた“山”。劉備は黙って頷き、一刀もまたそれに続いた。

 こみ上げる嘔吐感を堪え、3人は蝿の群れをかき分けながら“山”に近づいていく。

 

「ッ……!」

 

 思わず鼻を袖で覆い隠す。距離を詰めていくにつれ、これまでに無いほど強烈な異臭が襲ってくる。煙と血と精液と腐敗した肉、そういったモノが醸し出す戦場のフレグランス。“死”の香りだ。

 

「あ……」

 

 何かが動く気配がした。崩れた死体の山の、陰になっている部分で小さな影が動く。

 

「見て、まだ誰か生きてる!」

 

「よし!引き摺り出すぞ!朱里、悪いがそっちを支えてくれ!」

 

「はい!!」

 

 考えるまでもなく、3人は飛び込んでいた。

 死体の山をかき分けること数分、中から出てきたのは幼い少女だった。見たところ齢は10歳ほど。白い肌には無数の生傷があり、体中にはべっとりとした白濁液がこびりついている。

 

「まだ、するの?」

 

 焦点が定まらぬ瞳のまま、少女は生気の抜けた笑顔を浮かべる。

 何を、とは言われずとも推測できた。

 

「っ――!」

 

 劉備が駆けだし、少女を抱きしめる。

 

「ごめんね……本当に、ごめんね……」

 

 悲痛に歪んだ顔から、一筋の涙が頬をつたう。しゃくりあげながら、何度も何度も懺悔を繰り返す。

 

 きっと何万回謝ろうと、土下座しようと、許してはくれないだろう。既に起こってしまった出来事は、もう2度と取り返しがつかないから。ただ自分が犯した罪から許されたいがための自己満足、そう罵倒されても仕方ないだろう。それでも、今の自分にはそうする事しかできないから――。

 

「お姉ちゃん、どこか痛いの?」

 

「ぐすっ……ぅぅ……ううん、もう大丈夫だよ……?」

 

 その顔は、とっくに涙で濡れていたけれど。

 劉備はひたすら優しく少女を抱きしめ、柔らかな顔が一瞬だけ大人びる。

 

「もう大丈夫だよ。ここにあなたを傷つける人はいないから、安心して。ね?」

 

 にこりと満面の笑みを見せる。いつもの彼女が浮かべる、優しい笑顔を。

 

「うん……」

 

 劉備に抱かれ、少女の瞳が閉じていく。

 それは偽善かも知れない。同様の悲劇が当たり前に起こっている現実の前では、全くの無意味な自己満足かもしれない。それでも――。

 

「もう……こんなのは嫌だよ……」

 

 それは何に対してだったのか。

 残酷な現実に対してなのか。無力な自分に対してなのか。

 

「……駄目だね、わたし。泣いてばっかりじゃ……本当に何もできない」

 

「桃香?」

 

 少女を抱えたまま、劉備はゆっくりと立ち上がる。よろめきながらも、しっかりと足を前に進める。

 まずはこの少女を安全な場所へ。それからは下邳へ行こう。

 

(――それで、わたしには何が出来るの?)

 

 心の中でもう一人の自分が質問する。しかし答えは出てこない。

 

 それでも、足は次の一歩を踏み出す。

 立ち止まっていては、何を為す事も出来ないから。

 

 ひたすらに進み続ける。問い続ける。

 そのために紅蓮の戦場へと、その足を向けるのだ――。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「来たかの」

 

 下邳城の私室にいた徐州牧・陶謙は、曹操軍の到着を告げる部下の報告を受けて呟いた。

 

「部隊の展開状況は?」

 

「はっ。ご命令通り一度撤収させ、現在は所定の位置に着かせて待機させています」

 

 姿勢を整える部下の姿に、白髪の州牧は重く頷く。

 クーデターが発生してからというもの、陶謙派が抵抗らしい抵抗をしてこなかった理由はここにある。なんということはない。単に無駄な戦闘を避けつつ部下を下邳城の内城へ撤収させ、戦力を温存したというだけのこと。外では今頃、曹操軍とクーデター部隊が潰し合っている事だろう。

 

「しかし、徐州軍同士で争うのは……」

 

「あれは軍などではない、ただの暴徒じゃよ。軍というのは正規の指揮系統に従って行動する兵士のみを指す。いかなる理由があれ、正規の手続きを得ないまま武力を背景に破壊行為を行うような連中は暴徒以外の何物でもない」

 

 言いにくそうに呟く部下に、陶謙は冷静に返す。

 

「ですが、中心人物はご子息様達ですよ?一度話し合ってみたらどうです?『他勢力の傀儡になるべきではない』という彼らの主張にも一理あるとは思いますし――」

 

「ほう?」

 

 陶謙の眼光が鋭さを帯び、部下はその先を続けられなくなった。

 

「動機や理想がどうかなど、そんな感情論の是非に意味などありはせぬ。劉備ら他州の人間を追い出し、曹操軍に屈せず、袁術の経済支配から脱したい――その願い自体は結構」

 

 陶謙は皺だらけになった手を組み、机の上に置かれた中華の地図を見やる。

 地図にはそれぞれの勢力の人口が記されており、その上には兵力を表す駒が置かれ置かれている。曹操は徐州の3割増しほどの人口と約2倍の兵力を有し、袁紹はそれよりも多い人口と兵力を、袁術は兵力こそ平凡だが人口は徐州の3倍近くもある。

 

「問題はこの『現実』をどう覆すのか、それを示せていない事。反乱の結果どうなるのか、どうするのか、どうできるのか……その道筋すら示せず感情で動くようならば、この地の未来は任せられん」

 

「………」

 

 老人の瞳に浮かぶのは、ひたすらに黒い闇。

 それはどこまでも沈んでいくような、深く暗い沼のようでいて――。

 

 

「商、応……流石は我が息子達じゃ。人の上に立つ者として立派な志を持った指導者へと育った事は、父として嬉しく思う。だが――」

 

 ふと漏らした陶謙の声には、紛れもない賞賛と感嘆の響きがあった。自分の知らない内に、愚鈍だと思っていた息子達はこんなにも成長していたのか。強大な敵に恐怖することなく、ただ民と故郷を思って立ち上がる――世が世なら、救国の英雄になっていたかも知れない。あるいは、それを具現化する実力があれば。

 

「遺憾ながら政治家としては落第点。しっかり勉学を叩き込んだはずなのじゃが……あやつらめ、単純な引き算も出来んとはのう」

 

 この時代の常識として、人口は国力を図る指標である。農業生産力の増大や経済発展による社会の効率化、軍事力による治安回復といった生活の改善は、後世でいう『マルサスの罠』によって最終的には人口の増加という作用をもたらす。国が豊かになるのと比例して人口が増えていくのだから、当然ながら人口が多い国ほど国力が大きい、という訳だ。

 なればこそ、人口310万の徐州が人口440万の兌州に勝てる道理はない。何せ一人が一人を殺していけば徐州は全滅し、なお曹操のもとには130万残るのだ。いささか単純化し過ぎたきらいはあるが、極限まで突き詰めていけばそういう話である。

 

「まぁ、勇気と蛮勇の違いを教えられなかったのは、儂の落ち度でもある。どんな信念や理想にせよ、実力が伴わねば絵にかいた餅に過ぎん」

 

 陶謙は重々しく、刻みつける様に呟く。その長い生涯の中で、人生の辛酸も苦楽も全て見てきた男の言葉。経験に裏付けされた強さを持ちながら、同時に気慨を失った哀愁をも漂わせる……その姿がどうしようもなく痛々しい。

 

 

 もう少し、あと少しだけ時間があったのなら。

 親子で、もっと話し合う時間があったのなら。

 

 ――結果は、違っていたかも知れない。

 

 

「さて……そろそろ終わった(・ ・ ・ ・)と見てよいかな?」

 

「恐らくは」

 

 外へ耳を傾けてみれば、先ほどまでの喧噪はなりをひそめている。決着がついたのだ。

 

「ご子息方は、故郷を守るべく侵略者・曹操軍と戦って立派に戦死されたものかと」

 

「……そうか」

 

 陶謙は深く目を瞑り、静かに黙祷を捧げる。これで、全ての舞台は整った。後は、予定通りに事を進めるだけ。それで徐州は崩壊を免れるはず。だというのに――。

 

「思いのほか、つまらぬものじゃな……」

 

「は?」

 

「気にするな、老人の戯言だ。 それより、準備は万全かね?わざわざ出向いてくれた女性を待たせるのは失礼だからの」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 響き渡る轟音が聴覚を麻痺させ、焦げ臭いにおいが鼻をつく。下邳のどこかで起こった火災が、建物と中にいる人間を纏めて焼却でもしたのか。焦熱地獄の如く燃え盛る炎の中、曹操はただ黙々と歩みを進めていた。

 

 下邳城にいた徐州軍の主力は、すでに始末している。途中、州牧・陶謙の息子と名乗った男がいたような気がするが、夏侯惇が一瞬でその首を刎ねた。それなりに人望はあるように見えたし、袁術の傀儡政権云々やら徐州の自立がどうとか叫んでいた事から、恐らくあの男が実質的な徐州軍の指揮官だったのだろう。何を信じて戦っていたかは定かでは無いし、今となっては知る必要もない。

 自軍の戦力は徐州軍を上回り、それゆえに戦えば勝利する――それがこの場における唯一の“現実”。その裏にどういう人々の思惑があり、人生や理想があったなどという“真実”は、この場では無意味に等しい。

 

 睡眠不足による頭痛を堪えつつ、曹操は戦闘で疲労した体を動かす。彼女達とて、そう余裕がある訳ではない。限界まで肉体を酷使した自分同様、既に自軍は満身創痍。ゆえに素早く戦争に勝利せねばならない。その為に必要なのは、一刻も早く陶謙の首を取ること。

 だから曹操は急ぎ歩みを進める。傷ついた身に鞭打ち、軋む関節の痛みに歯を食いしばりながら。

 

「ここか……」

 

 ついに下邳城の内城に辿り着き、建物の内部に足を踏み入れる。内邸は数段の巨大な台座の上にあり、曹操は正面から階段を昇って両開きの扉を開け放つ。眼前に広大な謁見室が開け、その中央は一人の老人が座っていた。

 

「おや、思ったより遅かったのぉ。だいぶ疲れている様子だが、一杯お茶でも?」

 

「……不要よ」

 

「これはこれは。こちらの歓迎はお気に召しませんでしたかの? でしたら謝罪させて頂きたい」

 

 余裕のない表情の曹操とは対照的に、陶謙はいたって呑気な声音で声をかける。まるでお茶会でもするかの如き気の抜けた陶謙の対応に、曹操はこみ上げる不快感を禁じ得ない。

 

「ひとつ、いいかしら?この期に及んでまだ何か勘違いをしているようだけど、私は温情をかける気なんて微塵もないわよ。無条件降伏か否か、それだけを答えなさい」

 

「ふむ、これはお厳しい。ですが……後々の事も考えれば、あまり苛烈な条件を叩きつけるのも如何なものかと」

 

 つっけどんに告げる曹操とは対照的に、陶謙はあくまで穏やかな態度を崩さない。だが、柔らかな物腰の節々に見え隠れしている打算を、曹操は見逃さなかった。

 

「つまり、こういうことかしら? まだ袁術や公孫賛が残っている以上、私達の支配は盤石じゃない。だから自分たち徐州名士の協力が必要である。ゆえに寛大な処置を希望する、と」

 

「お分かり頂けたようで何よりじゃ。もし温情が頂けるようでしたら、徐州の名士には儂から話を通そう」

 

 義に篤い武人が聞けば激昂しそうな面の皮の厚さだが、こういった対応はこの時代そう珍しいものでもない。長い中華の歴史の中でも、完璧な中央集権政府が存在したのは始皇帝時代の秦国ぐらいで他の王朝は全て地元有力者の協力を必要としていた。ゆえに不安定な現状では徐州名士と完全に対決するより、彼らの歓心を買って協力を仰いだ方が安全であり、曹操もそうするだろうという予想もあながち的外れなものではなかった。

 しかし――。

 

「何度も言わせないで。でないと、今この場で貴方の首を刎ねるかも知れないわよ?」

 

 降伏か死か……話は終わりだと言わんばかりに、曹操は最後通牒を叩きつける。

 彼女が目的とするのは、正に秦王朝のような中央集権的な統一国家。ゆえに地元の有力者に妥協するつもりはないし、そもそも彼らのような存在自体を認めてない。

 

 だがそういった思考は、豪族達の協力抜きには存続しえない後漢にあって異端ともいえるもの。事実、海千山千の陶謙でさえ、彼女の真意を理解するまで数秒の時間を要した。

 

「ふむ……では、こちらの話を聞く耳は一切持たぬと?」

 

「くどい」

 

「成程、そうか……」

 

 此処に来てようやく曹操の本気を陶謙も悟ったらしい。

 覚悟を決めたのか、曲がりかけた背筋を真っ直ぐに伸ばす。

 

 

「では、仕方無い。交渉決裂じゃな」

 

 

「ッ……!?」

 

 予想外の陶謙の返答に、曹操は嘘を突かれる。が、それも一瞬のこと。次の瞬間には素早く剣を抜き、剣呑な表情で陶謙を睨みつける。

 

「陶徐州牧、貴方この期に及んで自分の立場が分かっていないかしら?残存していた徐州軍は今しがた壊滅させた。今の貴方に何が出来ると――」

 

「ほう?」

 

 ぞくり――と曹操の背筋に寒気が走った。

 既に力を失ったと思った老人……徐州牧・陶謙の黒い瞳が光を放つ。決して珍しい色では無い。だが見慣れた誰の瞳とも違う、陰のある暗い光を伴っていた。

 

「孟徳殿、年長者として貴公にひとつ忠告を送ろう」

 

「……何かしら?」

 

 曹操は陶謙に続きを促すも、その双眸は彼の一挙手一投足に油断なく注がれている。

 

「絶好の機会は最悪の状況で生まれる――そしてその逆もまた然り、じゃよ」

 

 

 

「……!?」

 

 そこで曹操は初めて異変に気づいた。

 地震が発生したわけでもないのに、室内が小刻みに揺れているのだ。

 同様の異変を兵士達も感じ取ったらしく、不安げに周囲を見回している。

 

「な、何だ……?」

 

 耳を澄ませば、遠くから何か大きな音が近づいてくる。

 音は徐々に大きくなり、今や轟音と呼んで差し支えない喧しさだ。

 とてつもなく巨大な、ナニカが下邳城に迫ってきている――! 

 

「うろたえるな!」

 

 大喝一声、曹操は動揺する兵士達を怒鳴りつける。それによって浮足立った兵士達もいくらか落ち着きを取り戻すが、依然として謎の轟音は止まらない。

 

「ッ……!」

 

 陶謙の見張りを部下に任せ、曹操は事の元凶を確かめるべく外へ通じる扉を開く。

 そして――迫りくるそれ(・ ・)を見た。

 

 

「―――ッ!!」

 

 

 声にならない曹操の悲鳴。それが聞こえた頃には、全ては終わっていた。それはもはや、人の手では止められない所にあった。

 

 ――大洪水

 

 飛沫を上げて押し寄せる泥色の波。数多の生命に命を与え、奪う自然の猛威。それが今、滝の如き怒濤となって下邳の街に押し寄せてくる。全てを覆いこむ濁流は城壁を砕き、家屋を水底へと沈め、付近にいた不幸な人間を瞬く間に飲み込んでゆく。

 

「総員、退却ぁぁぁぁぁくッ!」

 

 城下から夏侯惇の絶叫が聞こえる。しかしその指示はもはや手遅れだろうと、その場にいる誰もが悟っていた。

 下邳の街は泗水と呼ばれる黄河の支流付近にある。古来より度々洪水を起こしていた泗水であったが、歴代王朝が健在である時には堤防が立てられ、猛威を奮う事もなくなっていた。そして後漢の混乱の中にあってなお堤防を補修し、その恵みを民へ与え続けたのは陶謙の偉大な功績であったと言っても良い。

 

 それを今、彼は何の躊躇もなく破壊したのだ。

 文字通り捨て身のの一手は街を水没させるだけには留まらず、水圧によって簡素な家屋を吹き飛ばし、元より広いとは言えなかった通路を次々に遮断する。曹操軍の攻撃とそれに伴う火災によって基盤が緩んでいた多くの建物は、急な水圧に耐え切れず瞬く間に支柱が崩壊。支えを失った家屋のいくつかは町の人々を圧死させんと言わんばかりに通路側に倒れ込み、退路を遮断する。荒れ狂う波に流された木材は凶器と化し、杭となって人々の体を貫く。

 

 数刻前に陶商が訝しがった城門の破壊。その狙いは曹操軍を誘き寄せるに止まらない。続けて起こす堤防決壊と泗水の氾濫こそが、その策の本質だったのだ。

 結果として、その目論見は見事的中した。塞ぐことのできない城門から、膨大な量の水が流れ込む。その勢いはなおも止まらず、周囲一帯を濁った海へと変えてゆく。人の手で抗える限界を超えた猛威。戦争の狂気を体現するかのような破滅の奔流が、溢れる波浪となって町中を覆い尽くす。

 

「逃げろ!このままじゃ全員死ぬぞ!」

 

 半狂乱になって逃げだす曹操軍の兵士達。それでも運の悪い数人の兵士が家屋の倒壊に巻き込まれ、押し寄せる泥水の渦の中で生きたまま溺れてゆく。逃げ惑う同僚たちに押し倒され、そのまま踏み潰されて死んだ兵士も多くいた。そして数分と経たないうちに、視界と呼吸を奪われたまま水膨れの肉塊へと変化してゆく。なまじ重い鎧を着ていた精鋭部隊ほど、その重量ゆえに死からは逃れられなかった。どれほど厳しい訓練を積み、戦場で武を磨いた兵士いえども大自然の猛威の前には赤子に等しかったのだ。

 

「あ……」

 

 そして難を逃れた曹操達は、味方の兵士や数多の住民が為す術もなく流されてゆく様子を見つめることしかできない。最初の堤防決壊から半刻以上経過してもその洪水は勢いを衰えさせることなく、逃げ惑う全ての命を悉く殺しつくしていった。家を沈め、庭を沈め、性別も年齢も人種すら分け隔てなく捕え、暗い水底へで物言わぬ骸へと変えてゆく。大地を抉って人の世界を濁った水面で覆い、死の宴は終わることなく延々と続けられた。

   




 ※途中で人口についての話がありましたが、数は本作の独自設定なのであしからず。第4章あたりに載ってると思います。

 割とあっさり終わった陶商さんのクーデター。信用できない味方ごと曹操軍も水に沈めちまえ、とかフツーは考えないので、そこら辺は親父の方が一枚上手。
 下邳城の水没というネタは三国志からの拝借です。三国志では曹操が下邳城に籠った呂布を水攻めするために使ってますが、本作では陶謙が曹操軍を迎え撃つために堤防決壊を使っています。
 この戦術、オランダなんかではよく使われてたそうですね。なんと冷戦時代まで洪水線というものがあって、堤防決壊も立派な戦術としてしばしば作戦に組み込まれていたとか。

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