真・恋姫†無双 仲帝国の挑戦 〜漢の名門劉家当主の三国時代〜   作:ヨシフおじさん

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60話:崩落の前

 収穫を終えた黄褐色の麦畑を貫く、地平線の果てまで続くような直線道路。それは東に向かうにつれて細くなっていき、比例するように雑草や石ころが目立つようになる。やがては周囲の草むらとの境界が曖昧になり、ついにはおよそ人の手入れが入っていない荒涼とした平原が見えてきた。

 普段ならば狼の狩り場にでもなるのだろうが、その日は少しばかり様子が違った。巣を掘り起こされた蟻の群れの如く、数多の人々が忙しなく蠢いていたからだ。服装も持ち物もバラバラだったが、その手に武器を握っているという一点のみが彼らを『兵士』というカテゴリーに区分し規定していた。

 

 そうした兵士たちに混じって、孫権は豫州東部・沛国にいた。目的は“北部諸侯からなる帝国主義勢力が侵略してきた場合”を想定した総合演習。今までも何度か姉に連れられて賊討伐の軍を率いた事はあったが、『袁術軍』として参加したのは今回が初めてだ。

 

「……ったく、これで3日目かよ。オレはいつまであの馬鹿女の命令を待ってりゃいいんだ?」

 

 彼女の隣には、ラフに着崩した軍服を纏う長身の武将。飢えた肉食獣のような印象を与えるその男が、この場にいる全部隊を率いる指揮官・紀霊将軍だった。

 

「よぉ、そっちは何か聞いちゃいないか?」

 

「書記長からは何も。 我々に下された命令は、あくまでこの演習を無事に終了させること。そして……万が一(・ ・ ・)演習中に徐州政府から支援要請があった場合、要請内容に基づいて適切な行動(・ ・ ・ ・ ・)を取る事が望まれます」

 

 そうかよ、と紀霊はつまらなそうに返す。

 

「ずっと思ってたんだが、どうして性根が腐ってるヤツに限ってやたら体裁を取り繕うんだろうな? お前もそう思うだろ、孫権」

 

「性根が腐っているからこそ、じゃないか?」

 

 辟易したような紀霊の問いに、うんざりとしたように答える孫権。というのも、彼らは演習に向かうにあたって“近々徐州で不穏な動きがあるかもしれない”と劉勲から警告されていたからだ。曰く、徐州政府の中に現政権に不満を持つ者が水面下で行動を起こしている、と。

 しかしながら未だ徐州の反体制派が動く気配はなく、かといって劉勲がリスクを冒してまで反乱を誘発するそぶりもない。あくまで“待ち”の姿勢を貫く現状は、戦闘狂の紀霊にとって獲物を目の前にして待ちぼうけをくらったようなもの。

 

「なぁ、いっその事こっちから挨拶しにいくってのはどうだ?案外、向こうさんとうまくやってけるかもしれねぇぞ?」

 

「さぁ……どうだろうか? ただ、敢えて一般論を述べるなら、独断専行はあまり褒められたものでは無い」

 

 孫権が曖昧な返事を寄こすと、紀霊は本気とも冗談とも知れない口調で話を進める。 

 

「そうかい。だがよ、あいにくとオレは他人に焦らされるのが苦手なんでね。それに戦場じゃ臨機応変な現場の判断(・ ・ ・ ・ ・)ってのが重要視されるもんだろうが」

 

 

 

「紀霊将軍」

 

 

 そこで後ろから会話に割って入る声があった。振り向くと、彼らと同じように軍服を着こんだ華雄が近づいてくる。片手には斧を構えており、その視線は油断なく紀霊を捉えていた。

 

「将軍、勝手な行動は控えろ。政治将校にいらぬ疑いを掛けられる」

 

「あ? オレぁ、まだ何も言っちゃいねぇぜ。まだ(・ ・)、な」

 

「つまり、その可能性はあるという事か? 知ってるとは思うが、故意の命令違反は袁家に対する反逆と見なされ、処罰では連帯責任が適応される。ここにいる私たちまで巻き込まないで欲しい」

 

「おうおう、上の命令は絶対ってか。汜水関で馬鹿みたく突っ込んだ脳筋とは思えねぇ台詞だなァ」

 

「貴様……ッ!」

 

 挑発的な言葉をちらつかせる紀霊に、華雄が憤怒の表情を浮かべる。汜水関の敗北によって自制心を学ぶ前、数か月前の彼女ならとっくに激昂して斬りかかっていただろう。もちろん、この先の展開次第では自重する気などさらさら無い。

 

「どうした、華雄ちゃんよぉ? 殺りたいってなら遠慮はいらねぇぞ」

 

「ほう、そこまでして死に急ぎたいか? 傭兵崩れ」

 

 刹那、同時に発せられる殺気。大斧を握る華雄の拳に更なる力が加わり、紀霊が腰に提げたナイフへと指を伸ばす。心拍数が加速度的に上昇し、アドレナリンが全身を駆け巡る。

 いくら演習といっても、その内容が人殺しの術である以上、完璧な安全など保障はできない。今回のように大規模な演習ともなれば、その最中に事故(・ ・)の1つや2つ――。

 

 

「はぁ……2人とも、少しは落ち着いたらどう? 言っておくけど、私たちの周りにいる護衛兵は大概が政治将校よ」

 

 呆れたような口調で仲裁に入る孫権。すかさず睨みあっていた両者の殺気が彼女へと矛先を変えるも、『政治将校』という単語が行動へと移るのを抑制していた。

 

「私闘は許可申請書を提出してから、第3者の立ち会いの下で行うこと――それが上の方針。私が今ここで警告を出した以上、無視すれば明確な軍紀違反として処罰の対象になる」

 

 袁術軍には一般の指揮系統とは別に、政治本部の統率下にある政治将校が存在する。彼らの目的は袁家の方針を作戦に反映させ、プロパガンダや反体制思想の取り締まりを通じた、シビリアンコントロールの徹底による軍人の監視にあった。作戦への介入こそ認められないものの、部隊の人事権や一時的な罷免権などが与えられており、正面からの反抗は自殺行為に等しい。

 

「チッ……なんか一気に白けたな。 わかった分かった、了解したよ。落ち着きゃいいんだろ」

 

 渋々、といった様子で矛を収める紀霊。それを見て華雄も斧を握る力を緩めるが、未だ武器から手を放そうとしないのは相手を完全には信用していないからだろう。

 

 そんな2人を見てやれやれ、と孫権は本日何度目かになる溜息を吐く。

 

 袁術軍、とは言ってもその内実はおよそ一つの『軍』と呼べるのかすら怪しい烏合の衆。紀霊のような傭兵崩れ、華雄のような外人部隊、そして自分のような客将、奴隷兵、強制徴募の農民兵――これら雑多な兵士を袁家直属の政治将校が監視・督戦することで、何とか規律を維持しているのがその実態といえよう。 

 仲間意識とまでは言わないが、最低限の協調性ぐらいは見せてもいいのではないか。今日だけで4度(・ ・)も仲裁に入る、こっちの身にもなって欲しい。

 

(いや、元より指揮官同士の不信を煽るのが目的か。袁術、というより劉勲らしいやり方ではあるが……)

 

 再び、溜息。劉勲が政権を握ってからというもの、財政支出削減の一環として袁術軍は減少の一途をたどっていた。そのためいざ軍を拡大するとなると、どうしても忠誠心の疑わしい非正規軍の割合が増えてしまう。そこで指揮官や部隊同士を反目させ、お互いを監視させながら袁家への不満を逸らすのが劉勲の選んだ回答だった。

 

 

「――孫権さま!」

 

 横から呼びかける声に、孫権は思考を現実に戻す。声のした方に振り向くと、若い兵士が一枚の書類を出している。それを受取って広げると、孫権の瞳が小さく見開かれた。

 

「そうか……あれは、そういう意味だったのか……!」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「前方に敵発見!数は約50人、まだこちらには気づいていません!」

 

 下邳城内部にある市街地。その一区画では武装した2つの集団が戦闘を開始していた。

 

「このまま突っ込め!一気に蹴散らすぞ!」

 

「「「了解!」」」

 

 複数の応答を耳に入れながら、陶商は自ら剣を振るって突撃する。目的は下邳の制圧。身も蓋もない言い方をすれば、クーデターの決行だった。

 

「昨日、夜に紛れて早馬が袁術領に向かった!その内容が袁術への協力要請――事実上の植民地化の承諾であることは疑いようがない!州を統治するという州牧の責任を放棄した父上・陶謙のとった行動は、民に対する紛れもない背信行為である!」

 

 陶商は味方を鼓舞せんと、あらん限りの声を張り上げる。彼と共にある兵士はその大部分が生粋の徐州出身者であり、異邦人に振り回される徐州の現状を憂いていた。

 

(そもそも劉備などという、何処の馬の骨とも分からぬ小娘を重用したのが間違いの始まりだったのだ。父上はあの取り澄ました様な平和主義を真に受けて弱腰になり、徐州は主体性を失って余所者の傀儡となり果てた……)

 

 幸いにも彼は父・陶謙から新規に編成された部隊の指揮を任されており、北部同盟の徐州侵攻によって公然と多数の兵を下邳に集結させる事が出来ている。計画では非クーデター派の部隊を一掃した後、下邳の外壁を制圧・城門閉鎖によって完全に支配下に置く事を予定した。

 

(ましてや袁術に救援を要請するなど……!――ついに耄碌したか、父上!)

 

 ゆえに陶商は、故郷の未来を憂う仲間達と共に決起した。自分達の住む土地、その政治を異郷の人間の手に委ねる事は、自らを奴隷に貶める行為に等しい。結局この地の為に心の底から踏みとどまれるのは先祖代々この場所を育み故郷と思える人だけ。

 

「たしかに徐州は弱小だ。そして政治外交には強い力が必要な事も認めよう。 ――だが、力が必要なら何故自分達で力を蓄えない!?何故他人の力をアテにする!?」

 

 力が無ければ力のある余所に助けを求め、その為に余計な労力を割くのではなく、自分達で自分達の為の力を蓄えるべきなのだ。徐州は此処で生まれ育った人間だけのものであり、余所者のために徐州の民が犠牲になっていい訳がなかった。

 

「迫りくる曹操軍の恐怖に怯え、生きるために袁術の犬と成り果てるを良しとする者もいる。――だが、我々はそうではない!」

 

 陶商は背後に続く兵士達を見やる。徐州のために立ち上がった、真の志士たちを。この困難な状況から逃げずに、自分達で立ち向かう事を選んだ勇者達を。

 徐州は弱小勢力なのかも知れない。それでも……これだけの人がこの地を護る為に立ち上がってくれたのだ。歪んだ政治を正し、そこに暮らす人々が誇りを持ち続けられるよう、戦いに身を投じてくれたのだ。なればこそ――。

 

「この地を外様の好きにはさせん!我々の未来は、我々自身がこの手で築きあげるのだ!」 

 

 通路にこだます金属音――全員が走りながら、陶商の声に応える様に各々の得物を構えた。

 

「目標、前方!――売国奴共を、金に目の眩んだ金の亡者共を一掃せよ!」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 その日、下邳からもたらされた情報に誰もが耳を疑った。

 

「馬鹿な……そんな馬鹿な事があってたまるか!」

 

 報告書を読んだ太史慈は思わず声を荒げる。城を包囲する同盟軍の目を掻い潜り、やっとのことで臨菑城に帰還した矢先の事だった。ただでさえストレスで蒼くなった顔色が、より一層白みを増す。

 

「下邳で内乱騒ぎだと……!?」

 

「内、乱……?」

 

 目を見開く一刀。隣にいた劉備は勿論、諸葛亮すらも驚きのあまり声も出ない有様だ。青州牧・孔融に至っては顔中が引き攣って情けない顔をしている。

 

「連中は状況が分かっていないのか!? この余裕の無い時期に、いったい何を考えている!?」

 

 ただでさえ強大な北部連合に対して青州と徐州は劣勢を強いられている。どんな理想や対立があるのか知らないが、身内で争っている余裕など無いはず。

 

「そんな……どこの誰がそんな真似を……!」

 

「……分からない。報告書にはただ“下邳で内乱が発生。徐州牧・陶謙の生死は不明”とだけ書かれている」

 

 そう言って太史慈は徐州から届いた報告書を見せる。公式文書にもかかわらず殴り書きのような乱暴な筆跡で書かれている事から、よほど時間が無かったと見える。つまり下邳ではそれだけ状況が混乱しているという事だ。

 

「いったい下邳で何が起こっているんだ……?」

 

 

    

 ◇◆◇

 

 

 琅邪城――

 

 

 同じ頃、内乱の知らせは関羽達にも届いていた。

 

「どうして……」

 

 張飛が呆然としたように呟く。関羽や鳳統も表情こそ平静を装っているものの、その顔色は見るからに青ざめている。

 

「鈴々たちはどうなるのだ?援軍は?このままだと……!?」

 

 泣きそうな声で、その場にいる全員の気持ちを代弁する張飛。いくら一騎当千の武将とはいえ、本来ならば独り立ちすらしてないはずの子供なのだ。ずっと我慢していたものが、ついに耐え切れずに溢れ出したのだろう。

 鳳統も声にこそ出していないが、その表情には恐怖の色がありありと見える。救援部隊の存在を否定しながらも、やはり内心ではどこか期待して心の支えにしていたのか。それがあっさりと覆されれば、彼女達で無くとも動揺する

 

「落ち着いてくれ、鈴々。まずは状況把握が最優先だ」

 

 年長者としての責任感からか、関羽は動揺を抑えつけながら状況把握を試みる。

 だが下邳から送られてくる報告は一貫性の無いものばかりで、それが現場の混乱を暗に伝えていた。

 

(どうする?情報が錯綜していて下邳からの報告はアテにならない。それにこの状況で反乱が起これば、敵軍も何かしら仕掛けてくるはず……)

 

 彼女が取り得る選択肢は2つ。一つは下邳の混乱が早急に回復することを信じ、このまま籠城を続けること。2つ目は琅邪城を放棄し、イチかバチかで突破を図る事だ。

 だがどちらにしても、下邳の状況次第となる。反乱軍優位ならば後者を選択すべきだろうし、逆ならば前者の方が有益だ。

 

 関羽達が決断を決めかねていると、ふと部屋の入口が騒がしくなる。

 

「おい!ここは将官以下は立ち入り禁止だ!言いたい事があれば手続きを踏んで……「そっ、曹操軍の一部が動いています!」」

 

 次の瞬間、部屋にいた全員が慌てて外へ駆けだす。急いで曹操軍が見渡せる高台に上ると、そこには先ほどの兵士が伝えたとおりの光景があった。

 縦に隊列を組んだ曹操軍騎兵が南へ向かって進んでいるのが見える。数は5000騎ほど。他にも数か所で撤収作業が開始されており、同盟軍の兵士が慌ただしく天幕を片付けている。

 

 内乱で揺れる下邳を横合いから殴りつけるつもりか――関羽はそう思った。

 あるいは――。

 

「罠……ですね」

 

 ぽつり、と鳳統が呟いた。

 狩りでは最初から全方位で追い詰めるようなことはせず、逃げ道を一つは残しておくという。そうすれば、獲物は必ずそこへ向かう。その場所こそが真の狩り場であるというのに……。

 

「――――!?」

 

 鳳統がそれを他の士官たちにも告げようとした瞬間、どこからか鬨の声が上がった。見れば、南側にいる友軍の一部が臨戦態勢に入っている。

 

「どこの部隊だ!?」

 

 要塞司令官が顔に怒気を貼り付けて叫ぶ。

 

「司令官、あれを!――南部を守る広陵太守・趙昱の軍勢です!」

 

「あのバカ共め……!」

 

 大音量の正体は、要塞南部に配置されていたであった。要塞司令部の判断を待たず独断で攻撃を開始したらしく、3000人ほどの部隊が先陣を切って曹操軍の防備が弱い場所へ突撃している。下邳へ軍を派遣するために配置転換をしていた曹操軍の包囲陣は一時的に緩んでおり、このまま行けば突破も不可能では無いように見えた。

 

「命令も無しに動くなど!いったい何の為の軍隊だと思っている!?」

 

 顔を赤らめながら苦々しげに呪詛を吐く要塞指揮官。しかし、一度起こってしまったことは止めようがない。それに徐州軍の中核が豪族の私兵集団である以上、いつかは起こる事だったのだ。

 

 

「お、俺達も続こう!全員で打って出れば、あの包囲網だって突破できる!」

 

 関羽の隣にいた若い士官が叫ぶ。

 

「州都がヤバいってのに、こんな辺鄙な所にいてもしょうがないだろ!?俺達がこの場にいる2万の兵を連れて下邳の窮地を救えば、上層部だって賞賛してくれるはずだ!」

 

 たしかに一理あった。だが関羽は同時に、震えながら訴える彼の真意が別の場所にあることに気づいていた。

 

「……まだ脱出の許可は下りていない。そんな状況で独断で城から撤退すれば敵前逃亡に……」

 

「非常時には現場の判断で一定の自由裁量が認められる!これは撤退じゃない、転進(・ ・)だ!」

 

 詭弁だ。目の前にいる若い男はこれ以上の籠城戦に耐えられず、この場から逃げ出そうとしている――関羽はその事実に気付きながらも、彼の事を責められないでいた。

 

 誰だって飢えと疲労で苦しんだまま、野垂れ死になんてしたくなんて無い。どうせ死ぬならまだ動ける内に戦って死にたい。自分達はもう充分戦った。徐州の為に充分苦しんで、給料分の働きはしたんだ。脱出を正当化できる大義名分だってある。

 

 ――違う。

 

 関羽は揺らぎ始めた自分の心をとっさに否定する。

 こんな事を考える様では、桃香様の理想は叶えられない。自分は「みんなが笑って暮らせう世界」作ろうとしているんだ。ここで自分達が逃げれば、残された難民たちには間違いなく悲劇が待っている。曹操軍は規律の厳しいことで有名だが、それでも虐殺や暴行と無縁の軍隊など存在しない。反董卓連合戦の折、廃墟と化した洛陽で充分思い知ったではないか――。

 

「……駄目だ。もし我々がこの地を放棄すれば、残った難民たちが……」

 

「奴らがどうしたっていうんだ!俺達はもう充分戦った!そもそも此処の生活が苦しくなったのは、大量の難民を抱え込んだのが原因だろう!?」

 

 ざわつく感情を抑えつけて必死に言葉を紡いだ関羽に返されたのは、およそ軍人とは思えぬ発言。しかし同時に、この場にいた将兵の大半が口には出さずとも内心で堪えていた思いだった。

 

「最初から難民なんて保護しなければよかったんだ!血気逸った曹操軍に何をされようが、俺達がそこまで責任持てるか!捕虜の身柄を保障するのは占領軍の責任だ!俺達じゃない!」

 

 洪水のように吐き出される呪詛。

 戦いもせずただ物資を消費するだけの難民に、本当に守るだけの価値があるのか。そんなものを守る為に、歴戦の兵士達の命をすり潰して良いのだろうか――。

 

「どの道、もう秩序は回復しない!広陵の連中が此処を出ていくのを見ただろう!? 主要な豪族とその部下達がまとめて逃げ出したんだ!無理に残留を命じた所で、どうせ他の部隊もそのうち逃げ出すに決まってる!!」

 

 そう、崩壊したモラルは容易には回復しない。特に脱走というのは一度始まると連鎖的に広がってしまい、歴戦の名将ですらそれを留める事は容易ではない。

 

 なんで別の部隊の連中は逃げたのに、自分達だけ戦い続けなければいけないんだ……こうした不公平感は戦時下においては致命的だ。負担が平等だからこそ、人は苦しくても耐え凌ぐことが出来る。その大原則が崩れてしまえば、誰もが自分の負担を減らすことを最優先に考えるだろう。やがてそれは兵士のモラルを失わせ、自国民への略奪や暴行へと走らせる要因となる。

 それを省みれば、このまま琅邪城に留まった所で部隊の統率が利かなくなる事は火を見るより明らかであった。士気の低下も容易に予想できる。

 

「あんただって本当は分かってるんだろう!?もし下邳が反乱軍の手に落ちれば俺達は袋の鼠だ!」

 

 まだ指揮系統が機能している内に、全軍で脱出を図るのが最善策ではないだろうか?少なくとも、兵士と難民のうち片方は助かる。

 

「今ならまだ間に合う!今ならまだ、生きてこの惨めったらしい場所から出られるんだ!」

 

 逃げられる。生きて此処から脱出できる――その言葉はこの2ヶ月間、地獄の攻城戦を生き延びた将兵達にとって麻薬にも似た甘美な響きだった。

 

 そして――。

 

 

「……脱出の準備を。この城はもう持たない」

 

 要塞司令官の命令に応じて、配下の将兵が慌しく動きはじめる。だが前もって準備もしないまま場当たり的に決められた脱出作戦は、曹操軍の陣からも容易に観測可能であった。

 

 

 

 

 後世、この判断には人によって大きく議論が分かれる。

 

 曰く、民間人を保護するという軍の任務を放棄し、極度のストレスでタガのはずれた同盟軍の中に難民を放り込んだ。

 曰く、状況的に琅邪城の陥落は時間の問題であり、貴重な戦力再編のために必要な撤退と犠牲だった。

 

 

 ――だがいずれにせよ確かであるのは、この脱出作戦の決定が後に『徐州大虐殺』として知られる悲劇を引き起こしたという事実だった。

 陰鬱で凄惨な消耗戦は、曹操らの予想を上回るスピードで兵士達の心身を蝕んでいた。極限まで擦り減っていたモラルが崩壊するには、たった一つの切っ掛けで充分だったのだ。

    




 安定の「ドサクサに紛れて漁夫の利狙い」の袁術軍。それを察知して徐州の独立を保とうとする陶謙の息子達。でも、それによって一層苦しい状況に追い込まれる青州。クーデターによる混乱の隙をついて徐州にワナを仕掛ける曹操。一方で関羽達は大きなジレンマに直面し……味方同士でも連携がロクに取れてないのがこの作品の平常運転。

 戦争に勝つために劉備達が行った飢餓作戦が、巡りにめぐって最終的には虐殺の原因になったのはまぁ、因果応報?みたいな。だいたい攻城戦って長引くと、落城時にイラついた兵士がヒャッハーしてますしねー。

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