真・恋姫†無双 仲帝国の挑戦 〜漢の名門劉家当主の三国時代〜   作:ヨシフおじさん

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 第4章ではかなり政治外交関係の話が増えるかと思います。会話はたぶん減ると思う……。


34話:洛陽会議

 戦争とは、戦いが終わったら全てが終了という訳では無い。戦いとはあくまで自己の目的を押し通すための手段に過ぎず、「戦いの勝者」が必ずしも「戦争の勝者」であるとは限らないのだ。

 

 例え戦いに勝利しようとも、その為に多額の負債を抱え込んだり、軍事力の大半を喪失しようものなら足元を見られて、多くの血を流して得た領土や権利を横から掠め取られるだけ。

 逆に言えば無理に軍事的勝利を収めずとも、戦後処理で各勢力の利害を調整し、うまく立ち回ることが出来れば遥かに効率良く国益を追求できるのだ。

 

 

 

「長らくお待たせ致しました。これより、戦後処理会議を始めさせて頂きます。」

 

 むしろ外交官にとっては戦闘終結後の戦後処理、講和会議でどれだけのモノが得られるかが腕の見せ所と言っても良い。会議場には反董卓連合に参加した主な諸侯は当然、参加しなかった諸侯や朝廷からも多くの人間が出席していた。

 

 そして劉勲もまた、そんな外交官の一人としてこの会議に赴いている。袁術陣営は孫家の手柄を半ば横取りする形で、戦後会議における議長・司会者の地位を得ていた。とはいえ、袁術にやらせた所でロクな事にならない事は分かり切っていたので、劉勲が“誠実な仲介人”として会議の事実上の運営を任される事になったのだ。

 

 

 

「僭越ながら、本会議の議長代理を務めさせて頂く劉子台と申します。本日はお忙しい中、お集まりいただき誠にありがとうございます。」

 

 テンプレなビジネス会議冒頭挨拶から続いて、劉勲は主な議題を話し始めた。

 

 1つ目は、恩賞金の分配と功績に応じた官位の授与。

 2つ目は、太守、州牧、刺史といった地方官の任命。

 3つ目は、戦火によって大きな被害を受けた首都圏・司隷の復興

 

 以上の3点が反董卓連合軍による戦後処理会議、通称『洛陽会議』主な議題であったが、その内実は反董卓連合による中華の領土分割といっても差し支えのないものだった。黄巾党の乱と董卓の暴政、洛陽大火によって漢王朝の機能は麻痺しており、各地の有力な諸侯諸侯がまるで独立国のごとく振る舞ったおかげで、一種の国際会議と化していたのだ。

 反董卓連合に参加しなかった諸侯の殆どは「間接的に董卓の暴政を助長した罪」によって領土を分割され、基本的には勝者の利益が優先された。

 

 

 官位の授与については比較的スムーズに事が運んだ。

 洛陽が戦火に巻き込まれた際に多くの役人が死亡しており、空いたポストを適当に功績順に分配すれば済む話だったからだ。漢王朝の形骸化によって、官位が単なる名誉称号になり下がっていた事実もこれに拍車をかけた。

 

 恩賞金についても同様に功績順に分配されることが基本となったが、袁紹・袁術陣営などは各諸侯の兵力負担の違いから今までかかった諸費用も考慮すべし、との主張を展開。片や曹操・馬騰陣営などは「戦死者及び負傷者に対する補償」を要求し、会議は紛糾する。

 

 

「いいですか、華琳さん?あなたのような2万そこそこのちっぽけな軍隊と、わたくしの7万もの華麗なる軍隊。どっちの方がお金が掛かるか、分かっていらっしゃいますの?」

 

「そうは言っても戦場にて実際に血を流し、国の為に命を捧げたのは我が軍の兵士よ。逆に聞くけど、麗羽の“華麗なる軍隊”とやらは戦場で何をしたのかしら?」

 

「そんなもの決まっておりますわ――この連合を纏める、『総大将』ですわよ!」

 

 得意げにおーほっほっほ、と高笑いを始める袁紹。総大将といっても結局は何もしちゃいないわけで、他の諸侯は呆れたように目を伏せている。

 しかし、どんな詭弁でも解釈次第では正論となり得るのが外交というもの。

 

「――議長、発言を要求する。」

 

 会議場に響く、低い厳かな声。渋みと力強さを帯びたその声に、弛緩した会議室の空気が再び厳粛なものに変化する。

 

 袁紹軍筆頭軍師・田豊――反董卓連合の、真の立役者。

 

「単なる朝廷と袁紹の権力闘争」という脚本を書き直し、「悪人董卓を討つための正義(・ ・)の戦い」というシナリオに変更させた張本人だ。恐らくこの場で最も老練な、あらゆる権謀術数を知り尽くした男が、堂々たる威厳をその身に纏い、発言を求めていた。

 

 

「発言を許可します。どうぞ。」

 

 議長の劉勲が頷く。田豊は、袁紹の意味不明ともいえる論理を更に突き詰め、正論を作り出す。

 

「姫様の言葉通り、我らは総勢30万の反董卓連合を纏める総大将としての役割を十二分に果たした。そして我らは無事に董卓の魔手から、皇帝陛下を奪還したのだ。この『正義の戦争』を始めるにあたって、各自がどの役割を担うかは、先の会議で既に検討済み。

 逆に聞くが……もし戦場で敵の矢面に立つ事が不服というなら、なぜその時点で異議を申し立てぬ?」

 

 田豊の言い分は、ある意味では正しい。彼の解釈に立てば、連合結成時に役割はすでに決められていたため、役割に応じた恩賞が与えられるべき。曹操がいかに活躍しようとも、それは決められた義務を果たしただけである、と。

 

「血と引き換えに勝利を得る。戦いとは元来、そういうもの。そなたの兵が前線に配置された時点で、その程度は知れたことよ。例えどれほどの被害を受けようと、一度決められ、納得した義務を果たすのは至極当然の義務。己の責任の範囲内で起こった損害補償を、第三者に求めるのは筋違いというものだ。故に恩賞は、当初の役割に応じて、適切に支払われるべきであろう。」

 

 要するに田豊の主張はいわば職務別の定額給支払いの要求であり、曹操はボーナス比率を高めた出来高払いを要求しているのだ。当然目立った働きのあった有力諸侯は曹操案を支持し、大して功績を挙げられなかったその他多数の諸侯は田豊案を支持する。

 

(……一応、麗羽達は旧董卓軍軍師・李儒との裏取引で『皇帝陛下に対する反逆者、劉弁』を討ち取った事にはなっている。とはいえ、あまり大っぴらに手柄を主張する訳にもいかないから、私達の足を引っ張ることにしたというのが本音か……)

 

 流れが田豊案に傾きつつある現状を、曹操は苦々しげに見つめる。このまま話が平行線をたどった場合、間違いなく採決が行われるだろう。原則として会議は一人一票のため、強行採決となれば田豊案になるのは確実だ。

 とはいえ、それでは曹操の恨みを買うことも確実。誰もが皇帝を擁する曹操を敵に回すのを恐れ、採決を言い出せないでいた。

 

 

「はいはぁーい、皆さぁーん落ち着いて下さーい。とりあえず発言をする時は一旦、議長に許可を取ってもらえませんかぁ?じゃないと収拾つかなそうですしぃ~」

 

 パンパン、と手を叩いて仲裁に入る張勲。渋々ながら諸侯が意見をひっこめた時を見計らい、議長の劉勲が口を挟む。

 

「このまま話がまとまらなかった場合、場合、手順に従って採決を取る事になりますが……原則として、本会議は一人につき一票です。異論も多々あるかと存じますが、第2の董卓を生み出さないためにも、本原則は守られなければなりません。力を背景にした強者が、合意によって得られた決議を一方的に踏み躙って良い道理がどこにありましょうか?」

 

 どの口が言うか、との気がしないでもないが内容そのものは実に正論。多くの参加者が賛成し、共同で取り決めた条約が一方的に破棄されるようならば、秩序の再建など不可能だ。誰かが覇権を握るまで終わり無きパワーゲームが繰り広げられるのみ。

 軍事・経済の原理は一株一票だが、政治・外交の原理は一人一票――どちらを優先するかはその都度違うが、今回劉勲が選択したのは後者だった。

 

「今後の中華の秩序を維持する上でも、一人一票の原則、多数決の原則、法の支配の3つは忠実に維持され、誠実に実行されるべきです。」

 

 ここでいう、『法の支配』の『法』とは所謂『国際法』に近い。

 4方を囲まれている袁術陣営が地政学上の不利を克服するためには、周辺地域の安全を確保する事が死活問題だ。特に秦嶺・淮河ラインの安定は、熾烈な中原の争いから、袁家の勢力下にある南陽群や豫州を防衛する為に何としても必要である。

 

 だが軍事的解決が望めない以上、それは外交によって解決するしかない。強者が弱者を力で従える事そのものに異論はないが、力を背景に一方的に条約を破るような前例を作ってはならないのだ。

 それゆえ袁術陣営にとって『各諸侯に条約を遵守させる』という国際法秩序体系の確立は早急の課題であり、劉勲はそのために細心の注意を払っていた。

 

 

「劉勲議長、発言の許可をよろしいでしょうか?」

 

 その言葉に劉勲が頷いたのを見て、北平太守・公孫賛は別の視点から反撃を試みる。

 

「議長の言い分も分からなくはない。だが、それでは多数派の専制、少数意見の抑圧を助長するものではないのか?」

 

「あっ、それ私も同感。会議って、多数決でゴリ押しすればいいってもんじゃないわよー?」

 

 公孫賛の持ちだした「少数意見の保護」という意見を盾に、馬騰・曹操といった諸侯は再び強硬に反対。どちらの意見も間違ってはおらず、解釈次第でどうとでも取れるだけに、会議はまとまらない。

 

 

 結局、1月にも及ぶ会議の末、双方に配慮した議長の劉勲は実に巧妙な解決策を提示した。すなわち第3の議題・被災地の復興支援を曹操らに委任したのだ。

 

「首都・洛陽を含む司隷全体における復興支援業務、具体的には治安維持、街の再建、住民の生活保護といった事項を全面的に委任したいと思うのですが、意義のある方は?」

 

 要するに第1議題では田豊案を支持するが、代わりに第3議題に使う予定だった復興支援金などを曹操らに渡す、というもの。無論それは表向きの理由で、実際には司隷における影響力強化を容認するといった意味も含まれていた。

 

 支援金を使って司隷に対する支配を強めるのも良し、金だけネコババして自分の領地に戻るも良し。支援金の使い道や勢力圏の設定は参加者同士の判断に委ね、基本的に他の諸侯はそれに干渉しない事が決定される。何かいろいろ面倒ゴトを丸投げしたような気がしないでもないが、現状ではこの辺が両者の妥協できるギリギリのラインだったのだ。

 

 結局、金欠だった公孫賛は家臣に押される形で、司隷における権益を放棄する代わりに支援金の一部を譲り受ける。逆に曹操は公孫賛に支援金を譲る代わりに司隷の大部分の権益を得て、馬騰は両方を少しづつ得たのだった。

 

 

 

 同じく地方官の任命についても各諸侯の利害が衝突し合い、これも遅々として進まなかった。

 一方で議長の劉勲は、弱小諸侯が乱立している状態は本質的に不安定(外交経験の不足、失う物が少ないが故の無謀な挑戦など)だと考えており、所謂列強が彼らを抑圧・管理することで地域紛争を抑えようとした。よって最終的には強者の利益が優先され、弱者の権益・領土が分割される事となる。

 具体的に主な州牧の変更は以下の通り。

 

 幽州・・・公孫賛へ  兗州・・・曹操へ  冀州・・・袁紹へ  青州・・・孔融へ

 

 曹操軍の功績については言うまでも無い。皇帝を保護した事もあり、連合軍随一の功績を上げた彼女は朝廷に深いパイプを築くと共に、兗州牧に抜擢される。

 

 公孫賛、袁紹なども同様に功績が認められ、それぞれが新たに州牧に就任。

 

 青州牧・孔融に関してはやや事情が複雑であり、青州におけるパワーバランスが関係している。

 青州では袁紹派、公孫賛派、青州黄巾党の三大勢力が互いに争っており、非常に不安定な情勢だった。そこで議長の劉勲――安全保障上の観点から、漢中~青州ラインの安定化を望んでいた――が折衷案として、比較的中立姿勢だった孔融を仲介役とすることで現状維持を提案。最終的に孔融を州牧に就任させることで両者は合意し、青州の安定化が図られた。

 

 

 

 一方、涼州では馬騰の実効支配が認められる事となる。

 曹操の次に連合で功績を挙げたのは馬騰であり、氾水関・虎牢関戦での戦功を高く評価されていたため、本来ならば彼女が涼州牧となるはずだった。しかし、異民族の血が混じっていることを理由に一部保守派の根強い反対があったのだ。

 

「羌族――異民族の血が混じった人間を州牧にするだと?バカな、どこの国に外国人、違う民族を地方行政の長に任命する国があるというのだ?」

 

「え~、でも戸籍とかも持ってるし、税金もちゃんと払ってるわよ~?ちゃんと漢の臣民としての義務は果たしてると思うんだけどなぁ」

 

 とはいえ、税金をちゃんと払ってる異民族より、税金を払ってない同じ民族が優先されるというのもまた事実。保守的な官僚からしてみれば、馬騰ら友好的な羌族も敵対的な匈奴も同じ「異民族」で区別は無く、いつ叛旗を翻すか分からない危険分子としての認識しかない。

 

 信頼――目に見えないそれは長い時をかけて作り上げるしかなく、馬騰という個人の努力・功績ではどうしようもない、世の中の仕組みといえよう。

 馬騰もそれを分かっていたからこそ、中華の民の信頼を失わぬよう、董卓が無実である事を知りつつ、敢えて反董卓連合軍に参加したのだ。西涼から直接洛陽を目指さなかったのも、洛陽を単独で占領しようとういう野心を持っていない事を示す為。

 

「……しかし、馬騰どののおかげで、涼州における異民族の侵略が抑えられているというのもまた事実。それに馬騰どのは今や、中華の全ての異民族の希望の象徴だ。余り無下に扱うのも得策ではありません。」

 

「……では、こういうのはどうだろうか?授与する位は将軍に留め、涼州牧は引き続き韋端殿に務めてもらうが、外交及び軍事上の優越・監督権は馬騰どのに譲る。悪い話では無いと思うのだが。」

 

「つまり内政は今まで通り漢人が、外交は新たに馬騰どのが。両者で分担という事か。」

 

「……まぁ、その辺が落とし所でしょうね。」

 

 論争の末、馬騰には将軍位が与えられ、涼州を実効支配させるという線に落ち着いたのだった。加えて先の『復興支援』により、馬騰は「三輔の地」――京兆尹・馮翊郡・扶風郡――に強い影響力を行使することが可能となる。

 

 

 しかしながら、司隷における支配権は意外な事に、連合に寝返った旧董卓軍系の人物――李儒、李傕、郭汜――らが握る事となった。本来ならば処刑されてもおかしくないような立場の悪さだった3人だが、劉勲の入れ知恵によって『正統主義』を提唱。

 宦官や外戚の側近政治によって腐敗し、董卓に破壊された中華の秩序を、かつての皇帝と地方豪族が協力して統治する状態に戻そうというのが李儒の主張だった。

 

「我々はまだ敗れた訳ではありません。いいですか?敗れたのは董卓と、利権を求めてそれに集った宦官達なのです!たまたま近くにいたという、ただそれだけで我々は脅され、暴政に加わることを強制されていました。我々とて、貴方がたと同じく被害者なのです!」

 

 いけしゃあしゃあと嘘八百をぶちまける李儒だったが、最終的にはこの屁理屈が認められたのだから驚きだ。

 実は長安の周辺では李傕、郭汜という二人の将が10万に達する旧董卓軍を纏め上げており、連合にとっては新たな悩みの種になっていた。虎牢関や洛陽の戦いで疲れた連合軍では厭戦気分が蔓延しており、主戦論を述べたのは曹操などごく僅か。曹操、馬騰陣営はこの機会に司隷に勢力を拡張しようとするも、両者の更なる勢力拡大を恐れた他の諸侯はこれに反対した。

 

 そこで劉勲は袁紹に保護されていた李儒を利用しようと画策。李傕らと面識のある李儒に連合との仲を取り持ってもらう事で、彼らに制限つきで司隷に対する支配権を与えようと画策。宮廷での袁家の影響力衰退を懸念する袁紹陣営もこの案に賛成し、司隷は旧董卓軍系の李儒、李傕、郭汜ら3人が三頭政治を敷くことが決定された。

 

 この結果洛陽では上記の3人と、『復興支援』を名目に影響力増大を目指す曹操、馬騰の勢力が入り乱れ、袁術陣営は隣接する北の脅威を取り除くことに成功したのである。

 

 

 ちなみに袁術軍はというと正式な位こそ授けられなかったものの、豫州の大部分を事実上支配下に治める。ただし汝南郡のみ、袁術の直接支配が認められた。

 もともと豫州、特に頴川~汝南周辺は袁家のホームスタジアムであり、あらゆる面で繋がりは深い。袁術陣営は死んだ孫堅の甥・孫賁を豫州刺史とした傀儡政権をうち立て、間接的に大きな影響力を及ぼすことになったのだ。

 

 また、袁術の豫州支配は、洛陽解放直後に各地の諸侯に向けて発表された劉勲・馬騰協定と、皇帝を擁立した曹操の存在という2つの要因が複雑に絡み合った結果でもある。皇帝を保護した曹操は今や飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を急拡大させており、彼女の急成長を脅威に感じた諸侯は決して少なくは無い。

 

(……曹操は、第二の董卓になるのではあるまいか?皇帝の威光と武力を背景に、我々諸侯を力づくで従わせる気なのでは……?)

 

 彼らの思惑を敏感に感じ取った劉勲は、すぐさま各諸侯に根回しを開始。曹操が拠点としていた兗州~司隷に近い、涼州と豫州をそれぞれ馬騰、袁術に支配させ、両者を組ませることで、曹操に対する抑止力とすることを説いて回ったのだ。

 

「この協定は専守防衛を是としており、我ら両者が平和的に共存できるよう『諸侯の権限』を守る為のものであります。」

 

 劉勲は『諸侯の権限』という概念を強調し、漢王朝の権限範囲の制限を主張すると共に、具体的な裏付けとなる抑止力として劉勲・馬騰協定を位置づけた。もともと真面目に漢王朝に従うつもりなどない殆どの諸侯は『諸侯の権限の保護』を主張した劉勲を支持。

 

 結果、諸侯の実質的領土権、領土内の法的主権およびと相互内政不可侵の原理が確立される。漢王朝は依然として『権威』は保持していたが、『権力』に関しては各地に割拠する諸侯の統治に依存する事となり、現状――諸侯の分裂・勢力均衡状態――は維持される事となった。

 

 とはいえ、袁術の影響力増大を警戒する諸侯も当然ながら存在する。

 袁術陣営が豫州全体を直接支配下に置かず、敢えて豫州を間接支配の形に止めたのも、そういった諸侯への配慮に基づいたものだった。具体的には外交権(関税自主権等を含む)と駐軍権(駐留経費、通称:思いやり予算は豫州で負担)を獲得し、外交と防衛を除く内政は豫州刺史・孫賁に委ねる、という案に落ち着いた。

 

 しかもその際に州の一つ下の行政単位である、「群」の権限強化を劉勲は約束。徹底的に権力の分散を図る袁術陣営の念の入れように、反対していた諸侯も最終的には合意したのだった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 上記のような新たな秩序が構築された上に、新秩序を維持するための協定が結ばれる。

 『洛陽憲章』と呼ばれたこの憲章によって、“不当に条約を破ったした国に対し、その他の国々は集団で制裁する”という集団安全保障を目標とした声明文が発表された。各諸侯には『締結した条約の遵守』が求められ、一種の国際法として機能することになる。

 

 しかしながら集団安全保障体制の抱える本質的な弱点――各国の利害と国益、現状認識は一致せず、最終的には囚人のジレンマに陥り、協調よりも自国だけの利益を追求してしまう――は克服されなかった。集団の利益を自己の利益よりも優先させるためには、やはり何かしらの強制力を必要とする。

 

 かといって誰かにリーダーシップを発揮させれば、強者の一極体制に移行する危険性を孕み、力の無い纏め役では会議が纏まらない。結局、洛陽憲章では具体的な制裁手段について明言されず、「高度な柔軟性と多様な選択肢を維持しつつ、臨機応変に対応する」とされた。

 

 

 

 以上、1月にも及んだ会議の結果できあがった新しい中華の秩序は、後に『洛陽体制』と呼ばれる事になる。諸侯は定期的に、あるいは非常事態が起こった場合に会議を開く事を義務付けられ、“対話”によって諸問題を解消するシステムの構築が目標とされた。

 諸侯の独立性の維持、戦争の回避、勢力均衡。それらを支える洛陽体制の元で、中華は平和な時代の到来を迎える。

 

 しかしながら、その実態は大諸侯による中華の分割といっても差し支えのないものであった。弱小諸侯は周囲の大諸侯に隷属する状態に置かれ、民衆の苦しい生活も一向に変化しない。当然ながら弱小諸侯による反乱や一揆が頻発し、大諸侯は勢力拡大よりも領内統治を優先せざるを得なかったのだ。

 

 結局のところ、このシステムが機能した最大の要因は、大諸侯が勢力圏内の弱小諸侯を抑えつけるのに手一杯であり、反乱が自領に飛び火するのを防ぐ為に大諸侯同士の協調が必要だった事だとされている。

 

 

 

 いずれにせよ外戚や宦官によって弱められた中央政府の力が更に弱められ、漢王朝は統一・集権制を失う。同時に諸侯、地方豪族の自治権が保障されていき、洛陽憲章は『漢王朝の死亡診断書』とまで評されたのであった。

 

 これについては賛否両論があり、実際には既に起こりつつあった地方豪族の台頭を、ただ単に明文化しただけという見方も存在する。むしろ洛陽体制は漢王朝の延命を助長したとさえ主張する者もいるほどだ。

 

 なぜなら洛陽憲章で『諸侯の権利』定められた事は、それを保障すると同時に、定められた権利以上の力を持つ諸侯の発生を防ぐ効果をもたらした。誰かが覇権を握ろうとすると、それに抵抗する諸侯達が連合を組むことで、天下統一の野望を妨害してしまったからだ。

 

 

 結果、漢王朝は諸侯の危ういバランスの上で、その威光を取り戻す事は無かったものの、同時にそれ以上低下する事も無かった。逆に諸侯の権限は大幅に拡大され、そのまま共通の価値観となる。諸侯はもはや自領を漢王朝の一部というより、自分に固有の領土のように感じ、事実そのように扱った。

 

 これは洛陽会議における、劉勲最大の功績とも呼ばれている。諸侯の事実上の独立を認めると共にその認識・価値観を普及させる事で、特定の諸侯が皇帝の威光を盾に他を圧倒しようとする試みを防いだのだ。

 

 

 

 ――されどこれより2年後、諸侯の思惑とは裏腹に、歴史は再び動かんとする。平和への祈りが時として戦争を誘発するように、世界を止めようという流れが歴史の針を進めてしまう事もあるのだ。

 その発端となったのは、大陸の東に位置する青州。袁紹と公孫賛、そして青州黄巾党の入り混じる、混沌の大地だった。

 




 とりあえず現状維持の為の、勢力均衡の基礎づくりが完了。改革&拡大路線の曹操さんを外交で封じ込めるのが劉勲さんの狙いです。だってガチで戦争したら負けそうだし……

 世界史に詳しい方はすでにお気づきかと思われますが、モデルはウェストファリア条約とかウィーン体制とかです。
 個人的には世界三大外交官はタレーラン、メッテルニヒ、ビスマルクだと思ってます。次にリシュリュー、パーマストン、キッシンジャー辺りかな?面白いのは有名な外交官の殆どは、勢力均衡がポリシーなんですね。

 ちなみにイギリスは卓越した外交官はあまりいないけど、首相や外相のほぼ全員が並み以上の外交能力を持ってる点がすごいと思います。なんでも外交の専門家だったり、どっかの大使館で勤務した経験があったりする人間じゃないと絶対に外相にはなれないとか。アジアの国々にみたいに「党内の事情を考えて、適当に国のトップに近い人間にやらせるか」みたいな事はないらしいです。

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