東京都千代田区に、その個人経営の喫茶店は存在した。
東京駅から徒歩五分弱。皇居から程近い場所に店を構えて三年になるが、脱サラマスターの中年男性は現在、開業以来一番の緊張を強いられていた。
アンティーク系の装飾で統一した店内は狭い。テーブル席が二つにカウンター席は七つ。よって今日の様な晴れの日には、表に設置した開放感のあるオープンテラスが若人には人気な訳だが。今は外の席が全て空席。代わりにカウンター席が三つ埋まっている。
マスターは、そのうち右端に座る女性から目が放せなかった。
赤みがかかった流麗の金髪。白人特有の透き通る様な肌。容姿端麗。赤のカットソーにGパンというラフな服装ながら気品が溢れ、その抜群のプロポーションがまた人々の目を惹き付ける。
現役モデルと言われても疑わない美少女がそこにはいた。
「……………………」
けれどもマスターはその少女の美貌に見惚れている訳でも無く。またその隣に座る高校生と思しき男子に嫉妬する余裕も無い。
固唾を飲み、コーヒーカップを傾ける少女の一挙一動に集中している。
コーヒーを売りとしている手前客の反応が気になるのは当然だが、注文の際に挑戦的な目をされた故の反応だった。
だからマスターは普通にブラックコーヒーを飲んでいる男子でも無ければ、カプチーノのラテアートを称賛している妖精みたいな銀髪ポニーテール少女より、明らかな上流階級者の品格を漂わせる金髪少女の反応が気になったのだった。
同じく貴族の様な風格を魅せる銀髪少女の反応も気になるが、やはりここは自分に挑戦してきた金髪少女の方が気になる。
(俺の渾身の力作! さあ、どうだお嬢さん!)
汗を拭わず緊張に震えるマスターは、その少女がカップを優雅にソーサーへ戻すまで視線を外さなかった。そして、マスターの視線と少女の視線が交差する。
「香り、味、諸々も含めて、充分及第点。若干スチームドミルクの量が多い気がするけど、私はこの方が好みね。正直、日本でここまでの物を飲めるとは思わなかったわ」
上から目線が気にならないのも彼女のカリスマ性。称賛の声にマスターの声は数年若返ったみたく溌剌としていた。
「あ、ありがとうございます! では、もう少しミルクの量を減らす方が一般受けしますかね?」
「そうね。その方が万人受けしやすい味わいが出ると思うわ」
「ああ。あとそれに加え、ミルクの温度を二度ほど下げた方がこの割合には合っているでしょう」
「おお! そちらの方もアドバイスありがとうございます!」
金髪少女だけでなく銀髪少女の言葉も真摯に捉え、とりあえずホッと胸を撫で下ろしたマスターは、新たなやる気を滾らせながら、カウンター奥の調理場まで歩いていった。
早速指摘された部分を実践するマスターの集中力は凄まじく。結局、客の会話一切に耳を傾ける事は無かった。
◇◇◇
「……エリカ、お前な。何でそんな上から目線なんだよ。あのマスターに失礼だろ」
とは、美少女二人に挟まれた草薙護堂の言である。
ジト目を向けながらブラックコーヒー――胃に悪いとリリアナに言われ少量ずつ砂糖とミルクの入れられたもの――を一口飲み、カップをソーサーに置く。
その声量の控えた小言に、エリカ・ブランデッリは毅然とした振る舞いで返答した。
「私、料理に対して言い飾ったりへつらう趣味は持ち合わせていないの。特に自分の好きなものに対してはね。それに、それではマスターのためにならないわ」
「見たところマスターは向上意欲の高い勤勉な御仁と見受けられます。なら真実を告げる事でより上達してもらう方が、マスターの、引いてはこの店のためでしょう」
エリカだけでなくリリアナ・クラニチャールの正論にグゥの音も出ない護堂。まるで俺が悪かったと言いたげに肩を竦めてから残りのコーヒーを飲み干す。
そして思うのだ。何故午前十時なんて中途半端な時間に喫茶店でお茶をしているのかと。
そして全ては自身の先輩カンピオーネ、冬川秋人(9)の用事に付き合っての事だった。
本来なら秋人の『草薙護堂がヒーローブラックに相応しいか確かめるテスト』に直ぐさま取り掛かるところ、それに物申したのが万里谷祐理だった。
曰く、遊ぶ前にケジメをつけなさい。
そのため秋人は正史編纂委員会を取り仕切る一族の次期党首であり委員会の総帥候補。そして現東京分室室長でもある沙耶宮馨(さやのみやかおる)の住居を訪れている。
秋人は日本滞在事の衣食住を馨に頼っており、また馨の事を『司令』と呼んで慕っている。
その呼称にこっ恥ずかしさを感じるも、それでヒーロー戦隊思考の幼きカンピオーネを御せるのならば安いものだと、今では馨も割とノリノリで司令を務めている。あながち間違いではないので見事な嵌まり役だった。
そんな馨の下に秋人は帰還報告に向かい、祐理は馨も交えての説教第二ラウンドを行うために付き添い。また清秋院恵那は時間の掛かる説教を見越し、祐理のストッパーを勝手出たため同じく同行。
なるべく魔術業界と関わり合いになりたくない、そして今後を考えて英気を養いたかった護堂は同行を遠慮し、こうして近場の喫茶店で待機。
エリカは『四家』であり次期党首の馨及び沙耶宮邸に興味があったが、内容が御説教大会というつまらなそうな内容だったため護堂に付き従い、自称護堂の騎士であるリリアナも主が行かないのならと護堂に従い、今に至る。
「……それにしても、テストか」
なんとなしに護堂は呟き、思う。面倒くさいという感想は未だ変わりない。それでも、これは避けては通れぬ道、仕方の無い事だと割り切ってもいる。
それは実際に秋人と接する事で抱いた、護堂ならではの感情の変化だった。
「やはり、気がお乗りになりませんか?」
憂いの表情を浮かべる護堂を心配するリリアナ。それには諦めた笑みで返答する。
「まあな。でも、頑張るさ。先輩に認めて貰えたら日本での戦闘を全部任せてくれるかもしれない」
「あら、自称平和主義者とは思えない発言ね。やっと王としての自覚が芽生えたって事かしら」
「その時は全身全霊を込めて御身の剣、または盾となりましょう」
カンピオーネとは魔術業界のトップに君臨する覇王。神すらも殺す絶対の強者。その絶大の力と人類の守護者という立場がある故に業界でも屈指の発言力を有し、どんな横暴も黙認される。
その気になればたった一人で人類を殲滅出来る者に歯向かうなど、それが愚かな行為であることは彼等に挑んだ自称・正義の味方達が証明していた。
護堂には、その王としてのプライドや自覚が欠けている。向上心が無いと言ってもいい。
別にヴォバン侯爵みたいになれとは死んでも言わないが、剣を、そして自身を捧げるだけの価値のある者になってほしいと、エリカは常々思っていた。
護堂を愛しているからこそ、誰からも畏怖と尊敬を集め、人徳に溢れる一人前の魔王になってほしいのだ。
それが力ある者の責任。可能な限り高みを目指すのはカンピオーネの義務だと考えている。
それが将来護堂のためになると信じているが故に。
けれども護堂の考えは、エリカの想像の遥か外にあった。
「戦いなんて物騒なことは今でも嫌に決まってるだろ。でも、だからこそ、そんな危ない事を子供にさせるのは間違ってるんだ」
護堂の発言に、エリカとリリアナは呆気に取られた。
「……しかし、冬川秋人はカンピオーネです。彼と同等かそれ以上の実力者など、あなたを含めて七人しかいらっしゃらない」
既に最低二柱の神を殺めている事からも実力は充分だと判断出来る。
そうリリアナは締め括り、エリカが援護射撃を行った。
「それにまつろわぬ神と戦うのはカンピオーネの義務よ。彼が今の待遇を受けれている以上、いくら子供でも人類を守る責務からは逃れられないわ」
「でも先輩は子供だ。どんなに頑丈で、どんなに強くて、例えカンピオーネでも、まだ子供なんだよ」
訝しげな眼差しを見せる二人に、護堂は僅かに嘆息する。
護堂は不思議でならなかった。
地震や津波を引き起こし、嵐を生み、島を沈める。人間の都合など考えずに平気でこれ等を行うのがまつろわぬ神であり、そんな彼等と戦うのがカンピオーネだ。
指摘するまでもなく危険が付き纏う。
それなのに何故、子供が神と戦うのを当然と捉えている者がこんなにも多いのか。
それが護堂には理解出来なかった。
しかし、
「……だけど、俺だって分かってる。神様とやり合うにはカンピオーネが必要不可欠だって事ぐらい」
誰も神と戦えないから秋人が出陣した。彼は自ら進んで戦闘を行ったかもしれないが、誰も対処出来ないから消去法で白羽の矢が立ったのだ。しかし今は違う。秋人の代わりは存在する。
現に護堂は秋人が不在の間、死線を何度も乗り越えた。
「いくら強くたって、その子が望んだからって、俺はなるべく子供を戦わせたくない。小学生なんだから年相応に遊んでるべきだ」
義務とか責任とか、少なくとも今はまだ子供なのだから考えなくていい。それをフォローするのが大人の仕事だと護堂は語る。
「護堂……」
この認識の違いは、恐らく育った環境が違うからだろう。
エリカ、リリアナ、そして恵那は、幼い頃から戦闘訓練を積んできた。つまり秋人の歳にはもう戦士の卵だったのだ。またカンピオーネの強さを骨の髄まで叩きこまれていたから、いくら子供でもカンピオーネなら戦って当然であり、実力も充分だと考えている。心配はしているかもしれないが、それもやや淡い感情でしかない。自身がそうだったが故に子供が戦う事に疑問を抱かない。相手がカンピオーネなら尚更だ。
ちなみに祐理があそこまで秋人に厳しく、そして導こうとするのは、神と戦う宿命を課せられた子供に対する心配からくるものだと護堂は考えていた。
彼女の性格を考えれば秋人の戦闘を容認しているとは思えないからだ。
おそらく祐理は既に説得を諦めている。だから少しでも安全を確保するためにサポートや教育係に徹していた。
そして一般家庭で育った護堂は、子供が戦っている現状が異常に見えて仕方がなかった。
そう指摘され、エリカとリリアナは心に痛みを覚える。本来なら、『子供』に戦闘を任せるのは民草を守る騎士として容認出来ない事だからだ。
「……貴方の言い分は分かったわ。でもね、護堂。あの子は自ら進んで正義の味方になることを選んだ。それに言わば、カンピオーネが神と戦うのは本能でもあるのよ。貴方が言ったからって止めるとは思えないわね」
「そうだろうな。……分かってる、これは俺のエゴだ」
戦うのは止めて他のカンピオーネに任せろと言っても聞くはずがない。
それは少し話をしただけで良く分かった。
秋人は正義感に溢れている。定期的に神様と殺し合う現状に不満を抱いていない。
世界を旅していたのが仲間探しのためだったとしても、旅の目的には悪い神をやっつける事も含まれていた筈だ。
全ての国にカンピオーネがいる訳では無いのだから。
日本で大人しく小学生をやっていろと言っても、聞き入れてくれるとは到底思えない。なら、同族である護堂に出来る事は何なのか。
ドニとの通話を終えてから裕理に電話するまで、護堂は自分に何が出来るかを考えていた。
その答えを、秋人との出会いが導きだした。
「先輩は今後も世界を飛び回って正義の味方を続ける。ならせめて日本での戦闘は俺に任せて貰うし、度が過ぎない限り遊びや我儘にも付き合ってやる。そうすれば神様と戦う頻度も少しは減るだろうし、負担も軽くなって気分転換も出来るだろ、きっと」
それが年上として、秋人の意志を尊重した上でしてやれること。
護堂が想いを吐き出した後、二人は静かだった。相変わらず考えが甘い、と一蹴される覚悟で心中を吐露した護堂は、恐る恐る両脇の顔を覗く。
そして、驚愕した。
片方は目を閉じて感銘を受けた様に何度も頷き、そしてもう一人は見惚れる程の微笑を浮かべている。
そのどちらも、まるで愛しい子供を慈しむ様な慈愛に満ちた表情だった。
「甘さと優しさは違う。その心遣いは大変立派で、尊いものだと思います。我が主よ」
「護堂の優しさは美徳の一つだって分かっていたけれど……全く、これ以上私を惚れさせて、一体どうしたいのかしら? 愛しい我が君」
リリアナは感服したと全身で語り、エリカは艶やかな微笑を護堂へと近付ける。吐息が耳に掛かるほど接近され、護堂は狼狽した。
過剰なスキンシップの目立つエリカだが、だからといって慣れるなんて事は無い。護堂は頬を紅く染め、反射的に上体を仰け反らせた。
恍惚の美貌を見せるエリカに胸の高鳴りを抑えきれない。
「こんな場所で止めろエリカっ」
「あら、なら別の場所でならオーケーなのね」
エリカは興が乗ったのか狼狽える護堂にしなだれかかり、その耳元へ桜色の唇をそっと近付けた。
そして甘い言葉を囁く。
「ねぇ、護堂。今晩、あの場所での続きをしましょう?」
エリカの言う『あの場所』に護堂は心当たりがある。幽世(かくりょ)と呼ばれる場所に二人っきりで囚われた時の事を言っていると、彼は瞬時に理解した。
「バカっ、いったい何を言っ――ッ!?」
悪寒を感じた護堂は言葉を詰まらせる。何だか怖くて後ろを振り向けない。ただの視線の筈が、質量を持ったナニカと化して背中をグサグサ刺していた。
その根源に向けてエリカは咎めるような視線を向ける。
「なあに、リリィ。今私は護堂と愛を語らっていたのだけれど」
「あ……あなたという人はっ、公衆の面前でなんてふしだらなっ 」
「あら、ここには私と護堂しか客はいないのだから、少なくとも公衆の面前では無い筈よ」
「さりげなく私を無き者とするな! エリカ・ブランデッリ!」
ワナワナと震えながら噛み付くリリアナを、エリカは華麗に受け流している。頻繁に見る光景だが、間に挟まれる護堂としてはたまったものではなかった。
そしてリリアナの矛先が護堂へと向き、彼はギクっと肩を震わせた。
「そもそも、あなたにも責任があります! 草薙護堂!」
「うぇっ!? お、俺にもか?」
「当たり前です! あなたが強く拒まないから、こうしてエリカが調子に乗り出すのです!」
「護堂が私を拒む訳ないじゃない。私と護堂は相思相愛で将来を誓い合った仲なんですもの」
「エリカ!? お前はまた火に油を注ぐような事を――」
「聴いているのですか!?」
三人もとい、極一部がエキサイティングしている会話が店内を満たす。
だからか、
「うわ、修羅場だ、修羅場」
「あ、秋人さんは見てはいけませんっ! 」
「よし、ここは祐理も正妻として負けていられないね。だから祐理も参戦しよう。恵那も頑張るからさ」
「恵那さんも一体なにを頑張るのですか!?」
――そうテンション高々に叫んでいるから、護堂達は待ち人の到着に気付かなかったのだ。
◇◇◇
最大で五万人以上も収容出来るこの場所も、たった六人で占有すると不気味に静かで。またテレビで見るよりも広く感じられる。
かつてシニアでその名を轟かせた関東屈指の四番打者としては、この場所に立てる事に感動を覚えている。
だがしかし、
「まさか東京ドームを貸し切るだとッ!?」
そう、護堂は感動するより呆れてしまった。
たまたま試合が夕方からだったとしても、頼み込んで僅か三十分足らずでこの状況を作れるものなのか。
正史編纂委員会、恐るべし。
ちょうどピッチャーマウンド近辺で護堂は立ち呆けるが、この気持ちは観客席にいるエリカ達も似たようなものだろう。
そんな中、テストが開始された。
「はい、それじゃあ今からテストを開始します! 三十分しか借りれなかったからサクサク行こう!」
土が少し盛り上がった投球位置で仁王立ちする秋人は、コンビニ袋を片手に高らかに宣言する。
そして護堂は片手を挙げた。
「はい、質問」
「とうぞ兄ちゃん」
「テストって何をするんだ?」
とは訊いてみる護堂だが、流石に察しが着いている。わざわざ東京ドームにまで足を運んでやる事など一つしか無い。というより、ここまできて別の事をするなど考えられない。
質問された秋人は、よくぞ訊いてくれたと言わんばかりの笑顔だった。
「もちろん野球……って言いたいけど、人数が足りないからキャッチボール! これは兄ちゃんの運動神経を見るテストだ」
体力や身体能力テストで無いのがミソである。
カンピオーネたる者、身体能力が化け物染みていて当たり前。五感も常人を遥かに凌駕している。
体力面では確かめる必要もなく合格。だからここでは運動神経、つまり運動能力諸々のセンスを見る。
全力でキャッチボールをするために、秋人は人目を気にせず堂々と本気を出せる東京ドームを貸し切ったのだった。敷地が広く、また人目を遮断出来る近場のフィールドがここしか無かったからだ。
尚、秋人はここに来てすぐ祐理から小言を貰ったのは言うまでもない。
そう説明されて一応納得はするが、護堂の顔は次第に曇っていった。
「あー、先輩。フェアじゃないから言うけど、俺は――」
「兄ちゃんがシニアで有名だったのは知ってる。だからバッター勝負じゃなくてキャッチボールなんだよ」
俺がピッチャーをやっても勝てないと、秋人は悔しそうに、しかし笑ってみせる。
日本代表候補だった護堂が上手いのは百も承知。野球センスもずば抜けて高い。それでも投球フォームや動きから運動神経を察せられる程度の目は持っていると、秋人は自負している。
本当は野球以外で能力を見た方が分かりやすいのだが、あえて野球をチョイスした。
百々のつまり、この幼き魔王は、
「俺だって野球は得意で、やる時はいつもピッチャーだったんだ。その実力で兄ちゃんの力をテストしてやる」
「とか言いつつお前、単にキャッチボールをしたいだけだろ」
図星を指され、秋人の生意気そうな笑みが硬直する。分かりやすい反応に護堂は苦笑した。
「だ、だったらどうだって言うんだよ! ……ああ、そうですよ、 全力でキャッチボールしたかったよ! でもこれはテストなんだからな!」
そうヤケクソ気味に叫びながらコンビニ袋を漁る秋人を、護堂は微笑ましく思う。
彼は、自分と同じだったのだ。
否応なしに身体能力を高められ、これでは一般人と野球をするのはフェアじゃないと諦め、大好きだったモノを封印した同志。
そんな彼が全力を出せる機会を逃す筈がない。そしてそれは、護堂も同じだった。
マウンドに立った時から高揚を抑えきれなかった。
「俺も同じだから恥ずかしがる必要は無いぞ。それで、道具はどうするんだ?」
まず、カンピオーネの全力に耐えきるスポーツ用品が存在しない。一般人レベルに力を抑えれば互いに不満が残るし、何よりそれでは東京ドームを貸し切りにした意味がない。あくまで全力を出すことに意味があるのだ。
「心配無用。道具が無けりゃ作れば良いんだ」
けれども護堂の心配は杞憂に終わる。そして、同時に思い出した。目の前の魔王が、どの神を弑逆したのかを。
秋人は『にひひ』という擬音が似合う笑みを浮かべ、コンビニ袋の中から来る途中に購入した軍手とゴムボールを取り出した。
そして、並みの術者十数人分にも匹敵する呪力が体内で溢れ、渦巻く。
「善と悪、破壊と再生、愚者と賢者! 我は秩序を破壊し、また全てを欺く者!」
聖句。もしくは言霊。
それはカンピオーネが権能を用いる際に唱える己の呪力を高める言葉。その魂の赴くままに脳裏に浮かぶ言葉を唱えた途端、両手に集められた呪力は臨界に達して形となる。
すると秋人の持っていた軍手はそれぞれ右利き用のグローブに、ゴムボールは硬球に姿を変えた。
「どうよ、これで準備オッケー」
「権能の大盤振る舞いだな」
得意気な秋人に対し、便利だと思う反面、こんな事に権能を使っていいのかと思う護堂だ。
『善悪の悪戯』。
この権能で変化させる物質は、前提として変化前後の物質が似通っていなくてはならない。つまり服を媒介に変化させられるモノは制服や職業服といった服系統のモノに限られ、同じく鉛筆などからは万年筆やボールペンなど書く道具にしか変化させる事が出来ない。
今回のも軍手からグローブ。そしてゴムボールから硬球へと、共に『手袋』と『ボール』という枠組みの中でのみ変化している。
中には秋人のハエへの変身など例外もあるが、それは逸話の中でロキがハエに変身したという伝説があるからこその例外だった。
「はいよ、兄ちゃんって右利きでしょ」
出来立てのグローブを放られ、護堂は左手に装着しながらマジマジとグローブを監察する。
どこからどう見ても新品のグローブは硬い革で出来ており、元が軍手など想像出来ない。
魔術の中には『変形』という物の姿を変化させる術系統も存在するが、その術では決してあり得ない程の力が野球道具に込められていた。あの硬球を全力で投げれば、おそらく神やカンピオーネにも少なからずダメージを負わせられるに違いない。
一見してただのスポーツ用品が、邪神ロキの神性を帯びた神具と化している事を護堂は直ぐに看破した。
「そんじゃ、いっくよー!」
秋人はその場で硬球を弄び、護堂はバッター席まで後退する。すると護堂は徐にしゃがみ、左のグローブを前方へと突き出した。
それは護堂の遊び心であり挑戦状。強肩で知られた元キャッチャーは不敵に微笑む。
「へぇ」
そして秋人は護堂の企みを瞬時に理解した。
「それで良いの? なんだったらキャッチャーミットに変えてあげるよ」
「いや、一発受けてみたいだけだからコレで構わない。その代わり球種はストレートで頼む」
「りょーかい」
秋人はそのまま右半身を後ろに護堂に対して半身になり、左膝を折りながら足を上げる。左手を前に、右手は限界まで後ろに下げて大きく振りかぶる。
そして左足が力強くマウンドを踏み込み、右から左への体重移動に乗せ、右手から硬球が解き放たれた。
速度は二〇〇キロオーバー。
カンピオーネの力に任せ、砲弾の如きスピードで硬球が宙を駆けた。
(さあ、捕れるもんなら捕ってみろ!)
幸い硬球は秋人の望み通りの軌跡を描く。球は直ぐに護堂の下へと辿り着き、グローブの構えた所、およそ一メートル右上を通過し――、
「危ないッ!?」
――いや、通過する寸前で護堂は飛び込み、左手をスイング。バシンッという轟音がドームを満たした。グラウンドを転がって起き上がった護堂の手には、しっかりと硬球が煙を立てながら収まっている。
「おお、スッゲー! ちゃんと捕った!? ……チッ」
「こら秋……先輩! 今のわざとだろ!?」
思わず素が出そうになった護堂が秋人に詰め寄る。
護堂には分かっていた。今のが自分の反応速度や体捌きを見るために、わざと外したという事を。
そして護堂は野球センスに富んだだけでなく運動神経も優れている事を立証した訳だが、どこか釈然としなかった。
「あはは、ごめんごめん。でもほら、次からちゃんとしたキャッチボールだからさ。戻った戻った」
悪びれていない謝罪に憮然とした態度を取りながら戻った護堂は、そのまま軽く――それでも豪速球のメジャーリーガー並みのボールを返球する。それを難無くキャッチした秋人は直ぐにボールを返球し、しばらくは普通のキャッチボールが続いた。
(おぉ)
そんな中、護堂は秋人の投球フォームを見て軽く感嘆する。フォーム、体重移動、先程の暴投でも思ったが、動きは悪くない。荒削りだが磨けば光るものを持っている。
元キャッチャーとして培った観察眼が、秋人が原石であると告げていた。
「……そう、そうだよっ、キャッチボールっていうのはこういうのを言うんだよ!」
嬉しそうに捕球した秋人は目をキラキラさせながら力強くボールを投げる。相手に気兼ねなくボールを投げられて嬉しいと。どうやら相当ストレスを溜め込んでいるらしかった。
投げる力がどんどん強くなり、気付けば球速が第一球と比べて遥かに速くなっている。
もはやエリカ達でさえ辛うじて白球を追える、というレベルにまで達した球をキャッチして、護堂も少し強めに投げ返した。
「そうだな! 俺も久しぶりだけど、かなり楽しい!」
「でしょ!? ホント、兄ちゃんが野球経験者で助かったよ! サルバトーレの兄ちゃんなんて直ぐに飽きてボールを魔剣の権能で叩き斬ろうとするんだから! 何でバットが剣になるんだってーの!」
「それは完全に人選をミスってるだろ!?」
「しょうがないじゃん! 付き合ってくれるのがサルバトーレの兄ちゃんだけだったんだからさ! でも、もうそんな悩みとはおさらばだ!」
「ああ! これからは俺が相手になってやる!」
距離や捕球音に負けじと張り上げる両者の声が彼等のテンションを物語っていた。二人とも声が弾んでいる。
特に秋人はドニの他にイギリスのカンピオーネ、黒王子ことアレクサンドル・ガスコインを誘ったところ、野球道具を一瞥した彼に『帰れ』と言われて門前払いを食らった経験があるので、その感動は凄まじいものだった。
もはや秋人も、これがテストである事を忘れてしまう程に。
「そりゃ!」
「うおっ!?」
テンションMAX、ついでに全力投球されたボールは視認不可能のレベルで宙を走り、それを辛うじて捕球した護堂からは冷や汗が垂れ、そして楽しそうに口角を吊り上げる。
落雷に似た轟音が左手から発せられ、ビリビリとした衝撃が左腕を駆け抜けた。
その力の篭った投球が、護堂の野球魂に火を点ける。
「なら、お返しだ!」
カンピオーネとは生まれながらの勝者。故に負けじと大きく振り被られて放られた球は、今までとは比較出来ない程の速度と重さを備えていた。
さて、そこで一度思い出してもらいたい。
いくらカンピオーネと言えど冬川秋人はまだ九歳。小学三・四年といった歳でしか無い。野球センスがあっても本来は成長途中の未熟な身体だ。
対して護堂は高校一年生。それも肩を壊すまで関東屈指の四番打者、その強肩で知られた日本代表候補であった。
つまり、同じカンピオーネでも身体の土台が、地力には圧倒的な差が存在する。
そんな秋人が、護堂のテンションMAXで本気の投球を捕れるのか。
「うぎゃ!?」
――答えは、否。
「…………あ」
間抜けな声を溢す護堂が見守る中、秋人が触れる事すら叶わなかった硬球が直進し、そのまま失速する事なくセンターフェンスに直撃する。
轟くのは衝撃音と、フェンスが砕ける破壊音。
粉塵が舞い、ガラガラと崩れ落ちる音がここまで響いてくる。
銃弾よりも速く、そして硬くて大きい硬球が招いた当然の結果だった。
被害はおよそ両幅一〇メートルにまで及ぶ。
さながら砲弾を直撃されたような有り様になり、一朝一夕では修復出来ないほど半壊したフェンスを、二人の魔王が呆然と見続けていた。
――その後しばらくして、祐理から長期に亘る野球禁止令が通達されたのは言うまでもない。
最初の件がいるのかどうか悩みましたが、結局入れる事に。
エリカや護堂達の考えは、あくまで独自解釈です。ご了承ください。