「失礼するよ」
ケイさんがノックの後に一声かけ、扉を開ける。特に躊躇なく慣れた手つきでその部屋の扉を開ける様子に、返事を待たないのは何時もの事なんだろうと思い後に続く。静謐な空気の中、キーボードをカタカタと打つ音だけが響き渡っている。ラステイションの教会、女神の執務室。大きな仕事机に腰かけたノワールが、忙しなく机に向かっていた。
「ああ、ケイ。良いところに来てくれたわね。女神の裁可が必要な案件は処理してそっちにまとめておいたわ。確認しておいてもらえるかしら?」
「流石に仕事が早いね。一先ず、終わらせなければいけない仕事が完了したと言う事かな」
背後の扉が開いた事によりケイさんが来たのが解ったのか、ノワールは振り返る事もせず、机に向かったままケイさんに話しかける。そんなノワールに気を悪くした様子も無く、ケイさんは応じる。ノワールは僕とユニ君が助けだすまで、長い間囚われていたはずなのだけど、二人の様子からはそんな事実は無かったかのように感じる。流石にユニ君が凄いと言うだけあって、その仕事ぶりに思わず感心してしまった。
「ええ、今確認しているもので最後だから、女神宛てに来ているクエストで直ぐに終わらせておきたいモノがあるのだけれど、出ても大丈夫かしら?」
「ああ、構わないよ。こっちで確認はしておくから、何かあったら連絡するよ」
「そう、ならお願いね。っと、これで最後」
そうこうしているうちに最後の資料の確認が終わったのか、彼女は腰かける椅子に一度深くもたれかかると、トンっと軽快に立ち上がった。
「それじゃお願いね、ケイ。私はこれからミッドガルドに行って詳しいは、な、し……ッ!」
「やぁ、こんにちは」
そして此方を向き直ったところで硬直した。そんな彼女の様子に思わず苦笑が浮かぶ。僕自身、ノワールに会う事に抵抗があるのだけれど、ノワールの方もそんな感じなのか、目を見開き口をパクパクさせながら絶句している。
「どうしたんだい、ノワール。お化けを見た子供のような反応をして」
ケイさんが小さく喉を鳴らして笑いながら言った。どうやら、事前に僕がノワールと一緒に仕事をすると言う事を話していなかったのだろう。喰えない人物であるのはノワールから見ても同じな様だ。にこやかに笑みを浮かべるケイさんに、ノワールは困惑しながら詰め寄る。
「ちょ、ちょ、待ちなさい! なんで彼が此処に居るのよ!?」
「それは僕が依頼をしたからだよ。ラステイションの教祖として、万全ではない女神の補佐をして欲しいってね」
勢いよく捲し立てるノワールに、ケイさんは涼しい顔をして答えている。どうやら二人の力関係は、ケイさんに分があるようだ。
「そんなの聞いてないわよ!」
「言ったとしても、ノワールが素直に聞くとは思えなかったからね。だから、事後承諾してもらう事にしたんだよ」
「当たり前よ! 私は誰かの力を借りなくたって一人で……」
「それは本気で言っているのかい?」
一人でできると言うノワールの言葉に、ケイさんは静かに聞き返した。そんなケイさんの様子に、ノワールは思わず押し黙る。ケイさんの言う通り、ラステイションの女神は本調子では無い。それはノワールが一番解っている事だろう。
「ッ、だからって、ユウに頼まなくても……」
「彼だから頼んだんだよ。君の隣に立っても違和感のない人物であり、信頼もできる。それに君だって打ち解けたいって思っているんだろう? 何せ命の恩人だからね」
「……それはそうだけど。私にだって、心の準備が必要なのよ。唯でさえあんな事しちゃった後なのに、助けてなんて言える訳ないじゃない……」
やはり僕に遠慮があるのだろう。逆の立場だったら僕も気軽にモノを頼めないだろう。一応許したのだけれど、ノワールはまだ負い目を感じているようだ。チラチラと僕の様子を窺いながらも、ケイさんに不貞腐れたように言う彼女を見ると、良く解った。こう言ってはアレかもしれないけど、その様子は好ましく思えた。
「あまり気にしなくても良い、って言っても無理だろうね。僕だって何も思わないわけじゃないし」
「そう、よね……」
「けど、あの時僕は君を許したよ。だから、難しいかもしれないけど、もう少しだけ歩み寄る努力をして欲しいかな。僕はあの子の帰る場所を、ラステイションを守りたいからね。それには、ノワールの協力が必要だから」
「ユニの……。解ったわ。貴方に協力をお願いするわ。……その、よろしくお願いします」
おずおずとノワールが手を差し出してくる。僕自身思うところはあるけど、こうも露骨に反応を窺われると、苦笑が浮かぶ。何と言うか、何時までも拘っている自分が馬鹿らしくなってくる。
「ああ、よろしく」
だから、差し出された手を握り返しそう伝えた。
手にした長釣丸を読み取り、使い手たちの記憶を引き出していく。早く、そして正確に。この剣の持ち主が戦った数多の剣士たちの技を用いる事が出来る。そんな不可思議な感覚に身を委ね、ゆっくりと刀を振るい、宙に銀色の軌跡を描く。
異界の魂として強化された肉体の力を徐々に入れて行く事で、弧を描く銀閃の速度が増していく。自分の得た力は、どれ程のモノなのか。そして今僕に出来るのはどの程度までなのか。それを知る為に体を動かしていた。魔力を用いず、自身の身体能力に経験を重ね合わせ振るう。それでも、軌跡を視るのが困難なほどの速さだった。
「これが、異界の魂か……」
呟き、刃を止める。何度も実感していた事だけど、身体能力だけでも常人離れしていた。どうして自分はこんな力を得たのか。理由は解ったのだけど、そんな事を考えてしまう。
「――
声に出し、自分の能力を更に引き出す。剣を読み取り再現する能力の第二段階。剣の記憶から別の剣を読み取り、それを自身の魔力で再構築し、顕現させていた。記憶から記憶を読み取り続け、こと剣に関する事ならばどこまでも読み取る事が出来る。それが僕の能力の
さらに魂砕から深く記憶を読み取り、魂砕に蓄積された長釣丸の本来の使い手の記憶を辿っていく。魂砕の持ち主と、長釣丸の持ち主は、両者ともに僕と同じく異界の魂であった。その所為か、他の使い手たちに比べより鮮明に読み取る事が出来た。
「――
「遅くなってごめんなさい! 待たせたわね」
異界の魂の中で最強の剣技を持つ人物の剣を再現しようとしたところで、そんな声が掛けられた。声の主は、ラステイションの女神であるノワール。彼女の準備が終わるまで時間が余ったため、いろいろ試していたと言う訳である。剣を再構築する為に練り上げ、集中させた魔力を霧散させる。魔力によって再構築されていた剣の刃が砕ける様に零れ落ち、その姿を元の長釣丸の形に戻した。気付かないうちにかなり集中していたのか、小さな溜息が零れた。
「あ、邪魔しちゃった?」
そんな僕の様子に勘違いしたのか、ノワールは少し遠慮がちに聞いてくる。
「いや、そんな事は無いよ。思いのほか集中してたから、ちょっと疲れただけだよ」
「そう、なら良かった」
ほっとした様子で胸を撫で下ろす。相変わらず随分と気を遣わせているようで、少しだけ不憫に思えた。
「もう、準備はいいのかな?」
「ええ、完璧よ。貴方から見てどうかしら?」
僕の質問にノワールは自信ありげに頷くと、感想を聞いてくる。支度を終えたノワールの姿をゆっくりと見据えた。服装は何時もの黒と白を基調にコーディネイトされたドレスのような服で、何故か赤い縁の眼鏡を掛けている。ちなみに髪型は特に変わっているわけでは無く、何時ものように二つに結っている。所謂ツインテールって言う髪型だった。早い話が、ノワールは普段の格好に加え赤い眼鏡をしているだけだった。
「眼鏡しただけだね。オシャレかな?」
ノワールが眼鏡をしているところを初めて見たため、そんな事を尋ねてみた。目が悪いのかとも思ったけど、仕事中には眼鏡を付けていなかったので、多分違うと思う。なら、伊達眼鏡だろうか。と言うか、そもそも女神様って言うのは視力が落ちたりするのだろうか。
「違うわよ。変装よ、変装」
そんな僕の質問に、ノワールは呆れたように答える。
「……え?」
しかし、その反応は予想外だったために驚く。だって、何時もの服装で眼鏡を掛けただけで変装をしたなんて言われるとは思わなかったから。先程とは違い、まじまじとノワールを見詰めた。正直言ってどう見ても変装しているように思えない。どこからどう見ても、ノワールでしかないのだから。
「な、なによ」
そんな僕の反応が予想外だったのだろう。ノワールは急に自信なさげになると、僕の方をじっと見つめてきた。
「いや、それで変装したつもりなんだ」
「そ、そうだけど、何かおかしいかしら?」
「おかしいって言うよりは、おかしいところが無いから変装できてない」
僕だって変装の経験なんかないけど、流石に断言できた。これは無いだろう。
眼鏡をかけただけで変装と言うのなら、僕だってすぐにでも変装できるし。仮に僕が眼鏡をかけて、ユニ君相手に変装したなんて言ったらなんて言われるだろうか。……何馬鹿な事言ってんのよ。とか言われそうだ。
「ちょ、ちょっと待って! どこからどう見ても完璧な変装でしょ?」
「……あれ、本気で言ってるの? どっからどう見ても、ノワールだよ。ラステイションの女神にしか見えない」
もしかしなくても、本気で言っているのだろう。彼女の反応を見てそう思った。ユニ君の自慢のお姉さんのであり、凄い人だとは思うけど、意外と残念なところもあるのかもしれない。そう言えばケイさんも、ノワールは完璧に見えるだけで完璧じゃないと言っていた。それはこう言う事なのだろうか。正直、残念加減がちょっと面白い。
「嘘よ、この完璧な変装がばれる訳……」
「いや、ばれるよきっと。それならもう、変装なんてしない方が良いんじゃないかな」
そもそも女神宛ての依頼を受けに行くわけなのだから、変装なんてする必要も無いと思う。まぁ、今のラステイションは女神救出で湧いているから、変装でもしないと動き辛いのかも知れないけど。
「そんな事ないわよ」
「ふむ。少し失礼」
若干、意地になり始めているノワールに一声かけてを伸ばす。言うよりも、見せる方が早いだろう。
「ひゃう!?」
「変な声出さないで欲しいなぁ」
両目を閉じ可愛らしい声を上げるノワールに、苦笑が浮かぶ。眼鏡を取る為に手を伸ばしただけなのだけど、何か悪い事をしている様な気がしてくる。
「あ、貴方がいきなり手を伸ばすからでしょ!?」
「あはは、ごめんなさい」
頬を赤く染めながら怒るノワールに謝る。流石に僕も配慮が足りなかったと思う。どうにもユニ君から引き続き、ノワールの事も知らず知らず子ども扱いしているのかもしれない。女の子に手を伸ばすのはやり過ぎたと、素直に反省する。
「まぁ、見て貰うと解り易いと思うけど、これで変装できていると思うかな?」
そのまま赤い縁の眼鏡を掛ける。思った通り度は入っていないようで、特に問題なくみる事が出来た。
「変装も何も、ユウが眼鏡をかけただけじゃない」
「……つまりはそう言う事だよ」
半眼で睨みながら言うノワールに乾いた笑いが零れる。
「……あ」
「さて、また変装してくるかい?」
自分の発言の意味に気付いたのか、先ほどとは違う理由に赤面するノワールに尋ねる。どうにもユニ君の憧れの人と言う印象が強く、凄い人だと思っていたのだけど、意外と抜けているところがあるようだ。確かにケイさんが一人にするのを心配するのも頷ける。
「あうあう……」
恥ずかしそうに赤面しながら口をパクパクさせ僕を見詰めてくる。あれだけ自信満々だったのに、終わってみれば自分で自分の変装を否定している訳だから、ノワールの気持ちも解らないでは無い。
「完璧よ。貴方から見てどうかしら? だったっけ?」
「うぐッ」
「完璧な変装がばれる訳ない?」
「う、あ、うぅ……」
ノワールの言葉を思い出しながら告げる。意外な事に打たれ弱いのか、ちょっと面白い反応を示してくれる。第一印象では知的であり凛々しかった緋色の瞳だが、今は水気を帯びてきている。一言一言で、ぐさぐさっとダメージを受けていくのが何か面白かった。本当にこの人はユニ君の言う、憧れのお姉さんなのだろうか。
「じゃあ、ノワールの変装も完璧な様だし行こうか?」
「ぐ、あぅ……、わ、私だって偶には間違えるわよー!!」
涙目で叫ぶノワール。遂に耐え切れなくなったのか、一気に爆発した。ケイさんがノワールの事も支えて欲しいと言っていたのを思い出す。ユニ君の中では憧れの人だけど、それはノワールが精一杯気を張って見せている姿なのかもしれない。恥ずかしさに耐えかねて怒るノワールを見ると、そんな事を思った。
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