頭が痛い   作:orphan

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第5話

「さむい」

 

 朝目が覚めて哲はそう言って瞼を開けるよりも早く体を縮こまらせた。

 

温かい手とは反対に夜気で冷えた足を温めるために、体を折り曲げて尻の辺りにくっつける。

 

この季節の目覚めの悪さは一年の中で屈指のものである。

 

まず意識が覚醒してから目を開けるまでに一苦労、そして目を開けてから毛布を体の上から退かすのに居眠りをし、毛布を退かしてからその寒さに怯んで再び毛布の中に逃げ込む。目覚ましにシャワーを浴びてからまた睡魔に襲われストーブの前で体を温めてから漸く完全に眠気が抜ける。

 

しかし哲が硬い床と固まった体の感触に目を覚ますと、態々暖房器具の前に避難するまでも無く部屋の中は暖気で満たされていた。

 

トントントントン。

 

哲が一人部屋を貰って以来の暖かな冬の目覚めに感動していると、何処からか板を叩くような音が規則的なリズムを刻んでいるのが聞こえてきた。

 

シャツの中に手を突っ込んで腹を掻きつつ、立ち上がってその音がする方向にフラフラと歩み寄っていく。

 

眠っている間に靴下を脱いだのだろう、踏み出した足の裏にひんやりとした感触が伝わって、足の裏から頭まで全身が震えた。

 

「ああ、良い匂いだな」

 

 思わず言葉にしてしまう程美味しそうな匂いが流れてくる。どうやら物音は朝食を作っているようだ。

 

『朝食は各自の裁量で』という方針だった我が家では、もう十何年も嗅いでいないきちんとした朝食の匂いを深呼吸して肺に取り込む。憧れの朝食の匂いはその出所を容易に教えてくれていた。

 

「おはよう絡繰さん。今何時か判るかな?」

 

 エプロンを着けて台所に向かう茶々丸の背中に話しかける哲。

 

茶々丸は小気味良くリズムを刻む包丁を止めて哲の方を振り返った。

 

「おはようございます黒金様。今は6時半を少しまわったところです」

 

「そっか、ありがとう」

 

「いえ」

 

 そういって料理を再開する茶々丸。こんな朝早い時間なのに眠そうな素振りも無く調理の様子も淀みない。

 

学校といっていたから学生なんだろけど随分頑張ってるんだなと哲は感心して心の中で拍手を送る。

 

パンを焼いて食べることすら億劫だった自分とは比較になりそうになかった。

 

しかし六時半かと哲は頭を掻いた。

 

睡眠時間は約四時間。睡眠時間は短いほうであるから体の調子は万全だが、昨日の心労はまだ抜けきっておらず二度寝をしたい気分だ。

 

とはいえここで寝てしまえば少女達に迷惑を掛けることになるので欲望に身を任せるわけにもいかず、口を半開きにしては欠伸を噛み殺して眠気を誤魔化した。

 

「あの……さ。その何か手伝うこと有るかな?」

 

「それでしたらマスターを起してきて頂けますか?」

 

 一宿一飯の恩義もあるしこのまま絡繰さんの料理が終わるのを待ってるのは朝食を強請っていると取られるかもしれない、と思った哲が手伝いを申し出ると茶々丸はそう返事をした。

 

いやいやちょっと待て自分、と自分に言い聞かせる哲。だって昨日初めて会ったばかりの男が少女の部屋にに立ち入ることを許可されるなんて事ありえないではないか。

 

ううんと唸ってからもう一度聞きなおす。

 

「ですからマスターを起してきて頂けませんか?」

 

 とはいえ虚しい妄想に縋ったところで現実に歯向かうことなど出来よう筈も無かった。

 

あっさりと虚実は現実の前に膝を屈し、哲の前には難題だけが残った。

 

「それは絡繰さんが行った方が良いんじゃないかと思うけど」

 

「いいえ、マスターから昨夜、黒金様に起しに来させるようにと申し付けられましたので、黒金様にマスターを起して頂きたいのですが」

 

「うええええっ」

 

 手が空いてないからとかそういう次元のお話ではなく、昨夜の段階から既に決まっていたことらしい。しかもエヴァンジェリンの意思で。

 

吸血鬼の寝所にお呼ばれなんて「殺してやる」と言われているようなものじゃねえか。と顔を青く染める哲。

 

ああ昨日なにか怒らせるような事でもしてしまったんだろうか? いやいや俺のことを泊めてくれたって事はそうじゃない筈だ。となるとアレか。昨日俺を見つけた時点で既に俺を捕食、若しくは殺すことが決まっていて油断しきって起しに来た所を襲って……

 

と考えてから哲は自分の馬鹿な考えを笑った。

 

まさか殺す予定の人間にあんな事を話す義理はない。恐怖を煽るにしたってあのタイミングじゃなく襲う時にすべきだ。

 

はて、ならば何故エヴァンジェリンは自分に起しに来るように言ったのだろうか。

 

女性一般に対して苦手意識を持っている(男女区別無く基本的に人間は苦手だが、女性に対しての苦手意識は男のそれよりも大きい)自分としては出来れば勘弁願いたいイベントだ。

 

いくら考えても答えが得られるわけでもなし、更に準備にどの位の時間が掛かるか分からないが、起床の時間が遅れればそれだけ慌しい朝をエヴァンジェリンに強いてしまうとあれば恩を仇で返す趣味のない哲にとっては己の苦手意識を無視することもやむなしだった。

 

早々に答えあわせをするために茶々丸にエヴァンジェリンの居室の場所を聞く哲。

 

さてここで説明しておくが決して哲は女性に対して特別思うことは無い。女性恐怖症ではないし、同性愛者でもない。自己認識はともかく哲は女性が好きな極々普通の男性だ。

 

では何故苦手なのかといえば特に理由は無い。

 

まあ少ない人生経験の内で女性に歓迎されることなど皆無だった人生であり、女性特有の体臭と思われる甘い匂いになんとなく気後れしてしまう事から苦手なんだなと思っているだけなので、単純に知らないものに対する恐怖と言ってしまう事も出来るのかもしれないが。

 

という訳で大した理由も無しに女性を苦手にしている哲としては、その無意識の苦手意識にすら罪悪感を感じてしまって苦手意識は倍増。相手がまだまだ少女とは言え日常話すのは兎も角居室にお邪魔する行為は心臓に多大な負担をかけていた。

 

「気が重いな」

 

 エヴァンジェリンの居室の手前、あと一段も階段を上れば部屋が見える位置に立って一言。

 

哲はこういう点で俺は友人達から変わっているなどと評されるのだろうなと溜息を一つ吐いて覚悟を決めた。

 

一つ上の段に脚をかけつつ緊張の余り生唾を飲み込む。その音がフロア全体に響いた気がした。

 

えいやっという掛け声と同時にドアを全開。居室に進入を試みる。

 

始めの一歩は勢いで、その後は惰性で脚を動かし続ける。

 

居室を見た第一声は、

 

「殺風景な部屋だな」

 

 階段を上がって直ぐの所から始まっている部屋には、障子で仕切られた畳のスペースとフローリングの床。部屋の中央付近にベッドが置かれていてその枕元には本棚が設置されている。差し込んでいる朝日の輝きに満ちていて部屋の広さといい、実に雰囲気の良い部屋と言っていい。

 

とはいえ年頃の人間として部屋に置かれているものが本棚だけというのはどうなんだろうか。

 

起きているか否かは別にして部屋の主の前で言うことでない。

 

哲は慌ててエヴァンジェリンの寝ているベッドに向けるがどうやらまだ眠っているようだ。

 

「良かった」

 

失言を聞かれずに済んだようだった。

 

スンスンと何度か鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。少女の部屋の匂いを鼻を鳴らして嗅ぐなんて傍から見たら完全に変態だな。哲は己の所業を省みてそう思いつつも止めることが出来ない。自分でも理解できないが嫌いの物ほどやたらと匂いを嗅いでしまう癖があるのだ。

 

嗅覚に神経を集中しつつある事に気がつく。肺の中に流れ込む空気にも、鼻腔をくすぐる空気にも自分が苦手とするものが感じられない。

 

いや、正確に言えば微かにではあるがそういった甘い匂いはする。

 

しかし胸のむかつきを覚えるような重さを感じさせず、匂いの殆どが冬の朝に相応しい凛とした空気に融けていて寧ろその心地よさを増しているのだ。

 

「おう、幾ら良い匂いって言っても感動してる場合じゃねえな」

 

 母親の匂いなど忘れて久しく、恐らく人生でも二度目の体験に、哲は数秒陶然として慌てて我に返る。

 

危ない危ないとんだトラップだぜと口の中で呟いて心を落ち着かせるために深呼吸。

 

すると当然空気と共にエヴァンジェリンの匂いが……

 

「ぬあああああ!! ヤバイさっさと起こそう!」

 

 口を閉じて鼻からも呼吸をしない。哲は一切空気を取り込まずにベッドで眠るエヴァンジェリンの元へ。

 

「おーいエヴァンジェリン。起きろ、朝だぞ」

 

 いち早くこの場を離れんと苦手意識も忘れてエヴァンジェリンの体を覆う毛布を剥いだ。

 

「うっ」

 

 寒さにでも驚いて目を覚ますだろうと思って毛布を剥いだ哲だったが、目的の少女は毛布を剥がれても身じろぎ一つせず、哲は目を剥いて身動きが出来なくなった。

 

毛布の下から現れた少女の姿に見蕩れたからだ。

 

ロリだろうと熟女だろうと可愛ければ問題なしというスタンスの哲からすればエヴァンジェリンは「大丈夫だ、問題ない」とサムズアップしたくなる程のど真ん中ストライクだ。

 

名前は分からないがふわふわと広がるフリルが可愛らしく、袖や裾から覗く真っ白な肌の手足や首。

 

呼吸のたびに膨らむ胸から腹部にかけてのなだらかなライン、瑞々しく潤った唇は指でなぞりたくなる程だ。

 

「くそ、一体全体なんなんだ。こんな存在そのものが可愛いとしか表現できない生き物に遭遇するなんて。物語なんかで気障な男が美少女美女を神の造りたもうた芸術とか言うけど強ち嘘とは思えなくなってしまう位可愛いぞ」

 

 実際はこの世界は人の創作したものを神が再現したものなので、神が造った筈はないが半ば本気で哲はそう思った。

 

よくよく見てみれば少女の指はどれもほっそりとしていて同時に少女らしい柔らかさも持っているように見えるし、月の光でも相当な美しさだった金髪は陽の光に照らされて昨夜とはまた違った趣になっている。

 

「あ、ありえんだろう。テレビで見たことのある有名人と比べても月とスッポンレベルの違いだ。女神だなんて紹介されたらうっかり信じそうになりそうだな。俺みたいな人間に宿を貸してくれるなんてスゲー優しいし」

 

 少女を起こしに来た事すら忘れて只管心に浮き上がる言葉に音を与え続ける。

 

少女の美しさに我知らず哲の脚が後ずさりそうになったとき、哲はエヴァンジェリンの顔が赤くなっているのが見えた。

 

俺の独り言と寒さで目が覚めかけているのか手足もむず痒そうにぴくぴくと動いている。

 

「ヤバイヤバイ。早く起こさないと寒いに決まってるか。しっかし……可愛いなー」

 

 これ以上ぐずぐずしているとエヴァンジェリンに風邪でも引かせてしまいそうなので最後に一言万感の思いを込めて呟く。と同時にエヴァンジェリンの手足が一度ビクンと大きく跳ねそれから震えが止まった。

 

哲はそれに気付かず、これが聞かれてたら恥ずかしくて死ねるな。確実に気持ち悪がられるだろうし。いや、しかし溜息が出るほど美しい物ってのを生まれて初めて見た気がするなと軽く感動していた。

 

「おーい、朝だぞー。起きろ。エヴァンジェリン」

 

 いくら暖房器具が働いているからといって、階も違えば幾つか部屋も隔てている。当然その恩恵は殆ど無いわけでじっとしていた哲も寒さを感じ始めた。

 

剥いでしまった毛布を掛けなおし、これ以上寒い思いをしないようにしてから声を掛ける。

 

とはいえ冬の寒さ故にか中々エヴァンジェリンは起きず、俺が部屋に入って直ぐの頃と見比べると心なしか頑なに瞼を閉じているようにも見える。

 

頬っぺたも赤くなったままだしなと小さく呟く哲。

 

「エヴァンジェリン。起きてくれよ。絡繰さんが朝食作って待ってるぞ。学校に行く準備もあるんだろ」

 

 仕方無しに布団越しに体を揺すってもエヴァンジェリンの反応はない。

 

こういう時相手が家族や友人だったら枕元で喚いて起こすんだが、恩人相手にそんな蛮行には及べない。

 

万策尽き果てたように思えた哲だが、ふと寝起きの悪かった妹の事が思い起こされた。

 

下手をすれば四度寝五度寝をしようとする妹を起こそうと自分達家族は何度か妹をストーブの前まで運んで遣ったが、そういう時は比較的すっきり目覚めていた。

 

寒くなると一層布団が恋しくなるのは分かるんだが、と隙あらば寝ようとする妹を起こしたという事まで思い出して頭を抱える哲。

 

性格も俺に輪をかけて嫌な奴で本当面倒くさい奴だったなアイツ。

 

そういえばもう知り合いには誰も会えないんだな。とそんな事に今更気がついた哲だった。

 

「よっし、じゃあちょっと失礼して暖炉の前まで運ぶからな」

 

 それでも目覚めなければ調理で台所を離れられない絡繰さんにでも見せればいいかな。 投げやりにどうするか考えることで少女を抱きかかえるという行動から目を逸らし、さっと行動に移る哲。

 

眠っている人間相手に意味があるとは思えなかったが断りを入れてからエヴァンジェリンの背中の下に手を差し入れた。

 

「よっと」

 

 おっさん臭い掛け声を挙げてエヴァンジェリンの体を抱えあげる哲。勿論頭を支持して後頭部から後ろに仰け反ることがないように気をつける。

 

そうして丁度エヴァンジェリンの顔が哲の肩の辺りまで遣ってきたとき、哲の首がチクリと痛んだ。

 

「おわっ!? なんだ? 髪でも刺さってんのか?」

 

 二本の尖った物体が首の辺りを刺している気がする。

 

大騒ぎするほどの痛みでも無かったので、とりあえず一階にエヴァンジェリンを下ろしてから見てみようと階段を降り始める哲。

 

いつのまにかチューチューという音と共に体から力が抜けていくような感覚まで覚える。

 

これ以上酷くなる可能性もあるので余裕のあるうちに急いで階段を駆け下りる。

 

「うっ……うおおお!」

 

 最後の一段を降りようという時にいよいよ脱力感も強くなり危うく前のめりに転びそうになる哲。

 

気合で姿勢を持ち直し今度は一路暖炉の前へ。

 

さっきまで冷たいと思っていたエヴァンジェリンの体がいつのまにか温かくなっていて、逆に哲の体温が下がったのか首から背中にかけて寒さが這い上がり身震いする。

 

遂に視界がふらつきだした時漸く暖炉の前に着いた。

 

思考が巧く回らなくなった頭で必死に椅子を探して其処にエヴァンジェリンの体を預ける。

 

エヴァンジェリンの体を抱きかかえていた腕から力を抜き椅子の前に座り込もうと、

 

「あれ?」

 

 したが、全身脱力してしまった今も尻が地面に着かない。

 

まるで俺の首に顔を埋めたままのエヴァンジェリンに抱えられているかのようにエヴァンジェリンの体から離れられない。

 

「エヴァンジェリン、お前起きてんのかよ。だったら離せよ」

 

 腕を使ってエヴァンジェリンを突き放そうとしても駄目。細く艶やかな脚が俺の

体を挟み込んで足掻いても足掻いても外れそうにない。

 

「もう駄目だこりゃ」

 

 次第に力は抜けていって最早体を揺するくらいの事しか出来なくなった。

 

寒さと脱力感は最高潮になり、重くなった頭は意識ごと後ろ側に落ちていきそうだ。

 

 ああ、こんな酷い体調になるなんて中学二年生夏以来だな。あの日も気付いたら倒れてたっけ。

 

とエヴァンジェリンの体越しに見える天上を見つめながら哲は考え眠りに就いた。

 

と思ったが、

 

「ぷはー」

 

 なんて間抜けな声と共にエヴァンジェリンの体が哲の体から離れ、自らの力で姿勢を保つことすら出来ない哲は呆気なく床に倒れて、そしてエヴァンジェリンの座っている椅子の脚に頭を激突させた。

 

「ぐ……が……」

 

 足やら手やらは力が入らないくせに痛覚まで鈍ってはいないらしい。激しい眩暈と思考力の低下で何処を何がどうなっているのか判然としない哲。ただ強い痛みを放っている頭だけが頭をぶつけた事実を教えている。

 

その頭上ではエヴァンジェリンがアルコールの過剰摂取で酩酊状態に陥っているのでは、と心配に成る程顔を紅く染めて笑っている。

 

「…………っ……おい! 大丈夫か!?」

 

「……はあ……は…はあ……ぐ。大丈夫に見えるか? ったく貧血っぽいて頭がく

らくらする。はあ……気持ち悪い。それよかお前大丈夫かよ」

 

「何のことだ?」

 

「何処かぶつけてねえかって……はあ…聞いてんだよ。足元覚束なかったからな。壁とかに脚やら頭やらぶつけたりしてんじゃねえかと…思ってな」

 

 茫然自失していたらしいエヴァンジェリンが慌てて声をかけてくる。これが大丈夫そうに見えるならそいつを病院に駆け込ませたい所だ。

 

息を継いで頭の中が纏まってくるのを待ってから返事をする。といっても自分でも大丈夫かどうかなんて分かりはしないのだから今の気分くらいしか答えられない。

 

とりあえずエヴァンジェリンの心配をしてみる。注意不足で良く自動ドア等に体をぶつけるような人間が前後不覚の状態で人を運んで無事に済むとは思えない。

 

「ああ、大丈夫みたいだ。悪かったな」

 

 一応何事もなかったらしい。

 

二つの意味でほっと一息つく哲。

 

この調子ならなんで自分がエヴァンジェリンを抱きかかえて運んでいたのか気にしてはいないようだった。

 

「どういう意味だ? お前何もしてないだろ」

 

 まだまともに物を映さない視覚を瞼を閉ざして意識の外にはじき出す。

 

頭を撫でさすりながら聞いたエヴァンジェリンの声には謝罪染みた響きがあった。

 

「気付いていなかったのか。どれだけ馬鹿なんだお前は」

 

「おいおい、謝ってる最中に相手に向かって馬鹿とは何事だよ」

 

「ふん、馬鹿に馬鹿と言って何が悪い。何で首に食らいついて吸血されてる事に気付いてないんだよ」

 

「ん? ……ああ…は? 吸血って仰いましたか? 今」

 

「ああ言ったよ。まったく、吸血鬼を何の抵抗も無く抱き上げるお前に警告でもしてやろうかと思って血を吸い始めたら想像を絶する美味さに我を失ってしまったんだよ。手加減もせずに吸ったからな、全身から一滴も残さずに搾り尽くす勢いで吸ったのにそれを貧血で片づけようというんだから馬鹿という他あるまい」

 

「仕方ないだろ。俺は健康体なのに体調不良ってな事が結構ある変わった体質なんだよ。つうかお前一滴も残さずにって殺す気かよ」

 

 自分の考えよりも遥かに危険な状況だったと思い知って哲は悪態をつく。

 

「我を忘れて吸ったからな。殺意は無かった。というかお前が死ぬかどうかなんて考えにも至らなかったな。ま、まあ許せ、泊めてやった対価だ」

 

「何が対価だよ。釣りあってねえだろ、飯と死じゃ。てかどうすんだよ全く動けねえ」

 

 200ミリリットルの失血でも失った血液の量を補填するのに約一週間、成分まで戻すのには約一ヶ月もかかるのだ。大量に抜かれた血液が数分足らずで元に戻る筈などなく体に力が入る様子はない。

 

「心配するな、普通だったらとっくに死んでる量の血液を失ってるんだ。放っておいてもお前は死なん、その状態でも喋れるのがいい証拠だ。昨晩もお前から大量の血液を吸い上げたのに平気な顔をしていたからもしかしてとも思ったが、どうやら単純な物理攻撃でも大量失血でもお前は死なんらしいな」

 

「てめえ死んでねえからってそれは酷いだろ。それから、そんな役に立たない考察はどうでもいい。もう子供だろうが女だろうが恩人だろうが容赦しねえ。元気になったら仕返ししてやる」

 

「ほう、この状況でその発言。自分が置かれた状況が分かってないらしいな」

 

 ほれ、なんてエヴァンジェリンの声が聞こえると同時に俺の顔に何かが触れた。

 

 目を開けてみると少しはまともに見えるようになっていて視界の半分は顔に触れている何かに塞がれており、残りの半分にはエヴァンジェリンの綺麗な足が映っていた。

 

「だあっ! 分かった! 分かったからやめてくれ。俺は足で踏まれて喜ぶような性質の人間じゃねえから」

 

「良いじゃないか。貴重な経験だぞ、私みたいな美少女に足蹴にしてもらえるなんてな」

 

 哲は頭を動かして足を退かそうとするが、その度俺の顔の上に足を移動させ何度も何度もぺたぺたと足で俺の顔を触るエヴァンジェリン。

 

唯単に嫌がらせをしたいからなのか、はたまた哲をこんな状態に追い込んだ負い目からなのか行為の割りに体重をかけたりせず、目などの周囲にも何もせずに本当に足の裏で触るだけのエヴァンジェリン。

 

哲としては変な性格を発揮しており、特に嫌な顔をすることなく何度も足を振り落とす作業に講じている。

 

漫画のキャラってのは足の裏まで良い匂いするんだな、なんてズレにズレタ考えをしていると、

 

「どうした? 嫌がってるようには見えないが、もしかして嬉しいのか」

 

「馬鹿言うなよ。別に痛くねえから必死になる必要もねえだけだよ。まあそれに嬉

かねえけどお前の足の裏柔らかくて気持ち良いしな。って、ふぁなをつまむな」

 

「やかましいわ変態め。暫く其処で大人しくしておけ」

 

 エヴァンジェリンは俺の鼻を器用に足の親指と人差し指で摘んで一頻り弄んだあと、そう言って椅子から立ち上がって茶々丸の居る台所の方へ移動していった。

 

「変態とはまた心外だな。感触が気持ちいい事と足で踏まれて嬉しいかは別の問題だろ」

 

 取り残された哲はエヴァンジェリンが茶々丸に朝食の配膳をさせるまでの間、暖炉の前で動かない体を相手にせめて座ろうと格闘し続けることになった。

 

 

 

「まさかまた絡繰さんの料理を味わえるとは。これの為と思えばあの殺人未遂も辛うじて許せるな」

 

「物欲しそうに私を見ていた人間の言うこととは思えんな。さっさと出て行けばいいものを」

 

「それこそお前の言い草じゃねえだろが。俺はお前のせいで歩くことも出来なくなる位弱ったんだぜ。あんだけされたら普通朝食くらい要求するだろ」

 

「普通は怖がって何処かに逃げるんもんなんだよ変態」

 

あれから茶々丸の作った料理が配膳されるまでの間に歩き回る程度の体力を回復させた哲は、自分の体が本当に普通じゃないらしい事を初めて実感を伴って自覚しつつ茶々丸の作った料理を食べながらその対面に座ったエヴァンジェリンと激しく罵りあいをしていた。

 

とはいえ双方互いに罵り合っているだけであり、罵り合っている両人の表情は発言の無いように比べて非常に穏やかだ。

 

「茶々丸も茶々丸だ。なんでコイツの分なんか作ってるんだ」

 

「お前と違って優しいだけだろ。絡繰さん本当にありがとうございます。とっても

美味しいです」

 

「ありがとうございます黒金さん」

 

「おいコラ! どうして茶々丸に対しては丁寧なのに茶々丸の主である私に対してはぞんざいな態度なんだ。茶々丸の施しを受けるという事は私の施しを受けるという事なんだぞ。私に対する態度を改めたらどうなんだ?」

 

「絡繰さんの手伝いもしないでグースカ寝てた挙句に起きたら俺から大量に血を奪いやがった奴に丁寧に接する必要はねえだろ。それに人の顔を足蹴にするわ自分が原因で身動きできなくなった俺を放置するわでお前に対する感謝なんか吹っ飛んでったっつうの」

 

「茶々丸は私の従者だから良いんだよ! それにな茶々丸の為というならお前みたいな変態が茶々丸に近づくんじゃない。悪影響が出たらどうしてくれる」

 

「マスター、あまりゆっくりと食事をしていると急いで登校することになります」

 

「チッ、下らん事に気を取られすぎたか。分かった。茶々丸、お前は先に準備を済ませておけ」

 

「はい、マスター」

 

 茶々丸に急かされてエヴァンジェリンの食事のペースが上がると共に罵詈雑言の飛ばし合いが止んだ。

 

洗物をいつするのか分からないがもしも食後に片づけてしまうなら自分も遅れるわけにはいかないので哲も同じように食事のペースを上げる。両者罵りあいを止めただけの話だが。

 

やはり青年と少女では食べるペースが違うのか、同じだけの量を用意されているはずにも関わらず哲が食事に専念してから直ぐに、哲の皿には何も載っていない状態になった。

 

コップに注がれていた牛乳を一口で飲み干してから哲はいつもの習慣で「ごちそうさまでした」と手を合わせる。

 

いつも一人で朝食を食べていた哲にとって、この行為は食事とそれ以降の行動の区切りとなっているのだ。

 

 用事と言えばエヴァンジェリンと茶々丸に礼を言う事位しかない哲が、そのままエヴァンジェリンの食事が終わるのを待っていようと思い暫く見つめていると不意にエヴァンジェリンと哲の目が合った。

 

「お前も食事が終わったら最低限人に会う準備をしておけ」

 

「はあ? 何で? 俺この後ここを出て行く以外に用事なんて決まってないけど」

 

「この街がどんな街であるか位一般人であるお前も知っているだろ。お前をこの学園で一番偉い奴に会わせてやるよ」

 

 当然昨日の少女から教えてもらっているので此処が何処かという事は知っている。麻帆良学園だ。聞いたこともない規模の学術都市で、小中高大とそれぞれ幾つかの学校が存在しているらしい。

 

恐らく一番偉い奴というのは経営者の事だろう。

 

ぼんやりとした想像上の経営者像が哲の頭の中に映し出されたが、その像は見たこともない頭をした老人の姿をしていて何処でこんな人見たんだっけと哲は頭を掻いた。

 

「なんで? もしかして通報? それはちょっと勘弁願いたいんだけど」

 

「違う。一応お前の事を教えておかねば不味い。一見して裏の人間と思われること

が無くても何かの拍子に誤解を受けたら捕まりかねん。魔法の使い方も知らんようだが、お前の場合魔力が発露しただけでも大騒ぎになるだろうしな。その点奴に面通ししておけば問題さえ起こさなければ自由に歩きまわれる」

 

「心配要らないだろ。万が一にもそんな事起こりえないんだから。俺は激怒して才能が目覚めるような人種じゃないよ」

 

 怒るような理由もまだこの世界にはないしな。とこれは口に出さずに胸の中で思う哲。

 

「もしかしたら仕事を紹介できるかもしれないのに、そうまで行きたくないと言うなら仕方あるまいこの話は無かった事に」

 

「いやいやいやいや。喜んで付いて参りますともエヴァンジェリン様」

 

 エヴァンジェリンの言葉に戦況は激変。俺は物を乞う立場になった。

 

迷い無く頭を下げて同行を決める俺の視界の端でエヴァンジェリンが邪悪な笑みを浮かべた。

 

「な、何かおかしい事でもあったのか?」

 

 その笑みに嫌な予感を感じた哲は、飛びついた獲物が毒を持っていることを悟った。

 

 嵌められた、と内心汗を流しつつ狩人の表情からその本心を読み取ろうと目を凝らす。

 

「気にするな、大した事じゃない」

 

 しかしエヴァンジェリンは心底面白そうに笑うばかりでまともに取り合わず、哲はエヴァンジェリンの魂胆を読み取ることは出来なかった。

 

喜ばせた直後にすかさず落とす。恐ろしい。でもやっぱり優しい。

 

昨夜から何度も味わっているこれが、きっとエヴァンジェリンという少女なんだろう。

 

哲は邪悪な笑みを浮かべるエヴァンジェリンに心底愉しそうな笑顔を向けた。

 

 

 

「黒金哲です。朝早くから押しかけてすみません」

 

「この学園で学園長をやらせて貰っておる近衛近右衛門じゃ。」

 

 部活の朝練や何か特別な用事でもない限り一般の生徒が登校しないような時間にエヴァンジェリン、茶々丸と共に麻帆良学園中等部(正式名称は麻帆良学園本校女子中等学校と長ったらしいので大抵この略称で呼ばれるらしい)の校門をくぐった哲は、職員用昇降口でスリッパを借りて生徒用昇降口で上履きに履き替えたエヴァンジェリン達と合流。学園長室の扉を叩いていた。

 

ここの最高責任者が学園長であること、その学園長が何故か自分の想像したへんてこな頭をした老人だったことに驚きつつエヴァンジェリンと茶々丸の後ろで大人しくしていると、エヴァンジェリンと茶々丸と学園長との挨拶の後に視線を向けられた。

 

強いものには巻かれろ。とりあえず愛想良く。ヘコヘコしてれば角が立たない。を人付き合いの基本方針とする哲は、礼儀を知らない人間なりに努力して挨拶し、学園長もそれに挨拶を返した。

 

学園長をしているのだから当然だが、その特徴的な形状の頭故にコミュニケーションを取れるかどうか危惧していた哲としてはファーストコンタクトを成功させただけで疲労困憊。はっきり言って逃げたかった。

 

「こいつが昨日森の中で寝ているのを発見してな。行く当てがないというので家に泊めてやった。一応こちら側の事も知ってはいるが基本的にはただの一般人だ。だから今こうして此処に連れて来た。」

 

「この季節に森の中で野宿とはよく無事じゃったな」

 

「凍死する一歩手前くらいの状態で拾われて助かりました」

 

 エヴァンジェリンと学園長の仲は顔見知り程度じゃないらしくかなりフランクに話し合っている。

 

エヴァンジェリンは俺と話しているときと態度を変えないし、学園長もエヴァンジェリンに対して殊更態度を改めるように迫らない。

 

 しかし小学生にも見える少女と立派な髭まで生やした老人が対等に話しているという奇妙な光景を初体験した哲はその光景に耐えられず、肝の小さい一般人らしくエヴァンジェリンの態度を窘めた。

 

「おい、エヴァンジェリン。年上に向かってそういう態度は不味いだろ」

 

「………誰が誰より年上だって? お前にはまだ言ってなかったかもしれないが私は600歳だぞ。私にとってはコイツもお前も同じガキだぞ」

 

「は? ………………600歳? 6歳ではなく?」

 

「そうなんじゃよ。こんな姿をしていてもエヴァンジェリンはワシよりもずーっと年上なんじゃよ。ずーっとな」

 

「ずーっとをやたら強調するんじゃない!」

 

 キラーンと目を光らせてエヴァンジェリンをからかう学園長とそれに凶悪なツッコミを行うエヴァンジェリン。

 

何処から取り出したのか1メートル程もある大きなハリセンで学園長の頭をしばいた。

 

「うぎゃあああああ!!」

 

 ハリセンで叩かれたにしては大げさな悲鳴を挙げて学園長が座っていた椅子から転げ落ちた。

 

「ふん、お前も私の封印が解けたのを承知しているくせにふざけているからそういう事になるんだ」

 

「いたたたたたた。エヴァンジェリン、お主が封印が解けたにも関わらず此処に留まっているとは思わんかったからな。ナギの奴が自ら解呪するのが望ましかったが、無事解放されてワシも嬉しいぞい」

 

 学園長が嬉しそうににっこりと笑みを浮かべる。

 

「奴の居場所が分かれば直ぐにでも行ってぶん殴ってやりたい所だが、肝心の奴は死んでしまったしな。奴の息子がこの学園にやって来た事で何かが分かる可能性も高いし、私も暫くは暴れる気などないからな。まだ此処に居させてもらうぞジジイ」

 

 そして寂しげな響きの声でそう言って意地悪そうに笑うエヴァンジェリン。

 

なんなんだこれ!? と唐突に理解不能な空気を醸す現状に混乱する哲。

 

立ち入りにくい空気に居心地の悪さを感じた哲は同じく話しに加わっていない茶々丸の後姿を見るが、その背中には微塵も動揺が感じ取れない。

 

 如何することも出来ずに針の筵を味わいながらただ立ち尽くすこと僅か一秒。

 

再び会話が始まった。

 

どうやら空気を読み違えていたらしい哲だった。

 

「それでその少年はお主の登校地獄が解けた事と何か関係があるのかのう」

 

「まあな、それについては後で詳しく教えてやる。とりあえずこんな朝から学園長室に来たのはこいつに仕事を用意してやって欲しいからだ。それも出来ればうちのクラスの副担任としてな」

 

「お、おいエヴァンジェリン! 何の話だよそれ!?」

 

 突然爆弾を爆発させるエヴァンジェリン。勿論比喩表現であるから実際にはエヴァンジェリンは喋っただけ。しかしそれを聞いた哲には実物が爆発したのと変わらない衝撃があった。

 

 仕事を紹介できるかもしれないと言われて付いて来て見れば仕事は教師だという。

 

目の前の学園長がどれだけ人間らしくないフォルムをしているからと言って感性まで人外である筈がないのでこの提案は十中八九棄却されるだろうが、それでも哲はエヴァンジェリンに詰め寄るのを止めることが出来なかった。

 

「うむ、分かった。出来るだけ早く用意しよう」

 

「何でだよ!!?? ありえないだろ普通」

 

「お前の言う通りだよ。普通じゃないから有り得るんだ」

 

 学園長の理性を疑う決定に思わず自分も敬語を忘れる哲。

 

しかもエヴァンジェリンがしたり顔でそんな事を言うもんだから哲の混乱はますます勢いを増す。

 

「お前ら俺の学力舐めてんのかよ?! 生まれて初めて自主勉してどうにか大学に受かったような人間だぞ。教師なんか出来るわけねえだろ! 人格的にも能力的にも問題が有り過ぎる!! そんな人間が教壇に立つなんて理念の上で許されるわけないだろが!」

 

 自分が如何に教師に適していないか大声で自虐的に叫ぶ哲。ギャグマンガテイストなノリのこの世界ではこの話が本当になってしまう、と勘まで囁いている。決まってこういう時に感じる悪い予感は想像を斜め上に突き抜けていくと経験的に知っている哲は、馬鹿二人の企みを砕くことに一切の迷いが無かった。

 

「ふぉっふぉっふぉ、そう心配しなさんな黒金君。担任をやっているネギ君は僅か10歳でオックスフォード大学を卒業している天才少年じゃし、担当教科もたった一教科だけじゃ。家庭教師をしているとでも思えばええじゃろ。補助魔法もあるしの。」

 

「何処に安心する要素があるんだよ。完全に泥舟じゃねえかそれ! 10歳のまだ世の中ってモンを理解してない子供に教師なんか勤まるわけないだろ。ガキの視点で他人なんか満足に導けると思ってんのかよ!! 無理だね。億に一も出来やしねえよ。大体な、人の一生左右する問題をそうホイホイと決めてくれるんじゃねえよ!」

 

 と思ったが、話を聞いてみればまた別の部分に堪忍袋の緒が切れた。

 

「まあ残念ながらそこまで大した教師に当たった事も無ければ影響なんて全く受けてないけどな、それでもそれなりに大事なもんだろ先生って仕事は。ガキじゃ困るんだよ! はあっ!? 天才? 脳みそ腐ってんのかよてめえは!! 頭の具合がどれだけよろしいかなんて問題じゃねえよ。魂の問題なんだよ!」

 

 普段の哲からすれば羞恥の余り既に五回は悶死しているであろう言葉の羅列。いつのまにか理性が握っていた筈の手綱もコントロールを放れ、思うまま感じるままに叫んでいる。

 

だがしかしこれは正義感や義侠心などといったありふれた『感情からくる行動』ではない。

 

恐怖だ。あるいは嫌悪感と言ってもいい。

 

哲はそういった何かに衝き動かされていた。

 

「お前は何を急に怒っているんだ? 良いじゃないかお前は仕事が欲しかったんだろう。それにあいつらの担任なんて誰がやったところで大して変わらん。結局はあいつらのペースに振り回されるんだからな」

 

 そうだ! と叫ぶ自分が居ることを哲は自覚する。そうだ何を熱くなってるんだ自分は。興味ない他人なんだからどうだっていいじゃないかと。

 

「そんな訳ないだろ。高校とか大学じゃないんだぞ。未完成な倫理やら道徳やらそういうモンの欠片を教師なり大人なりの姿を見て学び取っていく途中だ。10歳の天才少年が教えるのと極普通の男が教えるの。どっちが良いかなんて決まってるだろ」

 

 それでも自分の口が動くのを止めることが出来なかった。

 

それで一体どうなると言うんだ。最悪本当に後悔しながら自ら命を絶つことになる可能性だってある。

 

そう思うと堪らなく怖くて、堪らなく嫌だったのだ。

 

「そう思うというなら尚のこと君にはこの仕事引き受けて貰いたい物じゃな。君の言うように生徒の将来が懸かってのことじゃ」

 

 言うまでも無くこの時点で何かおかしいと分かっていた。異様に熱したままの頭の中で妙に冷めた視線の自分は学園長という人間がその程度の事も考えていないはずがないと思っていたし、コントロールを失って際限なく熱くなっている自分も何か違和感を覚えていた。

 

にも関わらずこの人質を取ったみたいな言い方に自動的に反応してしまった。

 

「ああ分かったよ。やってやる。俺がやってやるよ!!」

 

 この時の俺の内心を表現すれば

 

やっちまった

 

 この一言に尽きる。

 

18年の人生でも最大最悪のやっちまっただ。

 

「決定じゃな」

 

 仕事上のミスや人間関係の上でのミス。そういった諸々の中で確実に最悪だった。

 

特にその……今でも後悔してない辺りが。

 

 

 

「死にたい」

 

 俺が学園長相手に啖呵を切ってから、しんと静まり返った部屋に響いた声は俺の声だった。

 

は、恥ずかしい。かなり恥ずかしい。

 

顔に火が灯った様に熱くなり、頭やら背中やらの毛穴がワッと開いて冬場の屋内で、しかも運動したわけでもないのに汗をかきはじめる哲。

 

しかも学園長がニヤニヤして哲を見ているのがまた痛い。

 

何の変哲もない唯の視線だというのに今の哲には痛恨の一撃だった。

 

「生意気言いました。すみませんでしたっ!!」

 

 ダラダラと冷や汗やら脂汗やら流しつつ平常運転に入った脳が羞恥心やら目上の人間に対する礼儀やらの、今までオフになっていたものを軒並みオンにしていく。

 

これで謝る必要が無かったのなら、今すぐにでも走り出して図書館島を囲む湖にでも身を投げていただろうという位哲は恥ずかしがっていた。

 

「いやいや、まさかあれほど熱く教育に対する気持ちを語ってくれるとはの。少々驚かされたし短気な気もするが、気に入ったぞい」

 

 どんなに心の中で呻いてもそれが他者に聞き届けられることはない。やめてくれと心の中で言ってもそれが学園長に届くはずが無かった。

 

「忘れてください。間違ったことをいった心算はありませんが、あれはちょっと」

 

 まるで素肌に毛羽立った衣服を着たときみたいに体中が痒くなる。

 

手で掻きたいし床に転がって擦りつけても良い。とにかくどうにかしたい。

 

「何を恥じているんじゃ。ああまで見事に啖呵を切って見せたのじゃ。堂々としていれば良い」

 

 これならネギ君の補佐を任せても心配ないじゃろうと完全にその気になってしまった学園長を前にして哲は愕然とした気持ちになった。

 

俺が何をしたというんだ。乱暴な言葉遣いで意味不明な事をまくし立てた挙句暴言まで吐いたというのに、何がどうして何処がどうなったらこんな状況になるんだ。

 

「エヴァンジェリン。何とか学園長に言ってやってくれよ。俺は向いてないとか」

 

「私は最初からお前を副担任にするつもりだったが?」

 

「くそっ、普通こういう時は『だ、大体子供が先生なんておかしいじゃないですか』とでも言うべきところだろ。絡繰さんも何か言って下さい」

 

「……いえ私からは特に」

 

「ノォオオオオオオオ!!」

 

 応援を要請しても結果は総スカン。

 

孤軍奮闘しようにも相手はこちらの話を聞いていない。

 

「よしよし。ならば早速書類の偽造の準備から始めようとするかのう」

 

 愉しそうに脱法行為の存在を明らかにする学園長の声は、さながら真夜中の墓場の様な不気味さだったと後に哲は語った。


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