「俄には信じ難い話じゃ。しかし、あれを目にした以上信じざるを得んのう」
近右衛門の言葉はつまり、その場に居合わせた全員の総意でも在った。
信じ難い。信じたくはない。だが、そんな感情論を蹴飛ばして圧倒的な現実が目の前には在った。
「ええ、俺自身今の今まで信じては居ませんでした。というよりも今も信じたくありません」
場に漂う敵意と恐怖にすっかり縮こまった哲は、逃げ場もなくただ目を伏せていた。
消失した図書館島を元通りに復元してから湖の畔に現れた哲は、その場にいる全員に自らがこの世界に降り立って今までの経緯を語って聞かせた。
神による黒金哲の殺害から、転生、そして自身に起こった変化の全てを何一つ隠し立てすることなく。
そしてそれを聞き届けた人間達の反応を待った。
エヴァンジェリンからすれば、いや力を理として生きる全ての生命からすればそれはおかしな光景だった。圧倒的な力を持った存在が、それに劣るものの顔色を伺うなどということは。
それは魔法教師達とて根源的な所では否定しきれる物ではなかったが、人間としてそう道理ばかりに従えるものではない。
結果は明らかなものとなって直ぐ様顕れた。
「学園長」
誰かが近右衛門に呼びかける。それは実質として黒金哲に対する糾弾を要求するものだ。ただ、巨大な暴力に晒される我が身大事さにその盾を求めたに過ぎない。
エヴァンジェリンの中で吸血鬼として長きを生きた部分がそんな人間の弱さを嘲笑う。ほら見たことかと。
正義だなんだと言った所で、結局の所人間の本質は薄汚い自己保身と欲望の坩堝でしかないのだと。
同時に麻帆良学園で15年を生きたエヴァンジェリンは彼等と同じように恐怖に叫んでいた。
コントロールが効かず、ふとした拍子にこの世の全てを根こそぎ消滅させかねない神のそれとしか形容出来ない力に対して。
それは、今まで彼女が見聞きしたどんな強者も凡百のそれと見下す絶対の存在。それは彼女が知るどんな伝説も敵わない不動の事実。
死してなお夢物語の様に語られるナギ・スプリングフィールドすらも歯牙にもかけない哲の力は、今まで世界最強を自認してきた自らとて、とても受け入れる事の出来ない大きさだ。
たかだか数十年生きて、精々が数百の屍を踏むことしか出来なかった人間にはとても直視できない強すぎる光。太陽のそれだった。
「申し訳ありませんでした」
そんな存在が今、矮小極まる人間に頭を垂れていた。
「黒金君、それは」
「申し訳ありません。自分自身、今何について謝罪すべきなのか理解できてはいません。しかし、今自分はこうすべきだと感じております」
人的、物質的被害の全ては元通りとなった。が、人間の体験までは奪われてはいない。
誰かが傷つき怯えているのならば、その原因となった自らこそが悪であると認める哲。誰に対して、何を謝るべきなのか。それすら定めずに謝罪するをすることが不実と罵られようとも、自らの行いに対して責任を全うしようというのだろう。
魔法教師達はざわつき始める。
危険な兆候である。エヴァンジェリンの経験から言ってこうした対応は時として取り返しのつかない展開を生む。
それをいち早く察知したのはエヴァンジェリンだけではなかった。近右衛門も同様だ。
「黒金君。……なるほど、これならば」
近衛近右衛門は海千山千の魔法使いであり組織の長である。決断は早かった。
「黒金君、今すぐワシとエヴァンジェリン、高畑君と君だけを移動させられるかね?」
「学園長!?」
「君の面接を行った部屋があったろう? 場所はあそこじゃ」
魔法教師達は信頼の厚い近右衛門の対処に戸惑いの声を上げながら詰め寄ろうとする。しかし、それを気にも留めない近右衛門。混乱はいとも容易く恐怖と怒りに結びついた。
男性教師が1人、哲に飛びかかろうとする。が、哲の転移はそれよりも速かった。
哲の怯えた声だけを置き去りにして4人だけが麻帆良学園女子中等部学園長室に移動した。
タカミチが近右衛門に問う。
「よろしかったのですか? 学園長。彼等は貴方の行動に納得しないと思いますよ」
「頭の痛い事じゃ。しかし、彼等の納得を買うために全てを危険に晒す訳にはいかんじゃろう? それに」
魔法ではない未知の方法によって転移した事実に対しての驚きを微塵も見せないまま、近右衛門は返答した。
「これは恐らく、ワシの人生における中でも最も重要な決断の1つになるじゃろう。申し訳ないが彼等に邪魔をされる訳にはいかんのう」
タカミチも他の教員達同様に近衛近右衛門という人間を信頼している。
ナギ・スプリングフィールドの友人であり、赤き翼の支援者の一人。そして自分が連れてきたアスナの保護。何も言わず彼女に平穏な学園生活を送らせてきた彼を。
とはいえ、タカミチ自身でも近右衛門の行動には驚きを隠せない。こうして同行を認められた以上自分が近右衛門の腹心として信頼されているのは理解できる。が、だからと言って。
信頼と不審の鬩ぎ合いに答えを出せぬまま、タカミチは口を噤んだ。
「こうしたという事は爺、黒金は」
次に口を開いたのはエヴァンジェリンだった。その視線は近右衛門の考えを半ば見透かした余裕を漂わせていたが、近右衛門が冷静だったならばそこに幾許かの緊張が在ったことを見抜いただろう。近右衛門はそれに気が付かないまま首肯した。
「ああ、黒金君には変わらずにここ居てもらう事にする」
「良いんでしょうか? 自分が今日仕出かしたことは」
「確かに、先程は十数年ぶりに肝を冷やしたわい。しかしな、黒金君。ワシには今それ以外の選択は無いように思えるがの」
血の気が引いて真っ青になった唇で自らを弾劾しようとする哲を、近右衛門が制する。
「時に黒金君。幾つか質問をしたいのじゃが良いかな?」
近右衛門はそう言うと哲とエヴァンジェリンにソファーを勧め、自らは執務机についた。タカミチは近右衛門の脇に控え場の趨勢を見極めようと目を凝らす。
生きた心地もしないといった表情を浮かべる哲と、警戒も露わにしたエヴァンジェリン。両者の顔を見つめながら、ふと近右衛門は自分の喉が乾きを覚えていることに気付く。
「先の件についてもう少し詳しく教えて貰いたい。君をこの世界に送った者の事を君は神だと言ったが、何かそれに根拠はあるかね?」
「……私の姿形を変えて、全く見知らぬ世界に送り込むという所業が人の手によって行われるものとは思えないからです。……少なくとも自分の知る限り所謂電脳空間のような物が存在しない世界に生きていた自分が、こうして魔法の有る世界に辿り着けるとは。とはいえ、そこまでの自分の記憶全てが誤りだったという前提が有れば話は別ですが」
「そこを疑い始めればキリがないの。では次に、その神の目的は君に対する嗜虐であると君は言ったが、今宵のように神が現れる機会はこれからも有ると思うかね?」
「……全く無いとは言い切れないと思います。ですが、あれの最大の関心は自分の愛した人間に向けられている筈です。初めて遭った時にもこう入っていました。自分以外が作ったどうでもいい世界に放り込んでやってオサラバすると。教では仏は地獄に関心を向けることも有ると聞いてますが、キリスト教的神についてそうした話は聞いたことがありませんし」
あくまでその愛の対象となるのは彼が創造した人間、つまり以前哲の存在した世界の人間に限られるが。なので、最悪でもこの世界においてあの神がソドムとゴモラやノアの箱舟の逸話に有るような粛清を行うとは考え難い。
今夜の魔法教師達の精神操作についても気紛れに違いないと哲は考えた。あれにとって紙上の存在である近右衛門達は態々関心を割く対象ですら無いからだ。
大方創作の世界であれども、現実として認識する哲を周囲の人間を利用して精神的肉体的に苦しめようとした程度の話だと思われる。
今の哲の状態を鑑みても、確かに苦痛と恐怖を感じているとは言っても、あれが満足するほどの状態とも思えない。同じような事はそうそうないと思いたかった。
質問される度緊張と罪悪感で真っ白になった頭の中に一々その内容を呼出ながら哲は返答した。うっかりすると返答を考えている間にも直前脳内で考えていた内容が零れ落ちていく。
この部屋の中に今哲に対して敵意を向ける存在は無い。少なくとも哲にそうと感じさせる存在はなかった。にも関わらず冷や汗と悪寒がいつまでたっても無くならずにいた。
そんな哲に近右衛門が不思議そうな顔を作った。
「何故黒金君はその神がキリスト教的なものだと?」
「……すいません。直感というか、余りにも人間臭かったのが原因でしょうか。何十億と居る人間の中から一人が解脱によって輪廻転生の輪から外れるとして、そんな事を気にするイメージが有ったのがそちらのイメージだったので」
特別神という概念に通暁している訳でもない。あれほど人間を愛している神に他に心当たりが無かっただけなのだ。
その為哲自身もそういった属性を持っているという印象が有るだけで、実際どうなのかは分からなかった。それにその事を考えてみても、図書館島を復元した時と違い答えは浮かんでこなかった。
「では、最後に君自身の事について聞かせて貰おうかの」
己の功名心など抜きにしても黒金哲は、間違いなく一組織の長として喉から手が出る程欲しい戦力だ。想定外の要因、それもネギという爆弾を遥かに超える威力のそれを、あわよくばこの麻帆良学園に留め置き、御するためにも不安な要素を取り除きたい。最早近右衛門にとって哲は彼等の計画にとって最も重要な駒に変貌を遂げていた。
それだけではない。魔法教師達の凶行に見舞われた彼は、首だけでも生存しその後完全な復活を遂げている。不死身かつ強大な魔力とそれ以上の力を持ちながらどの組織にも属さず、その上あまりにも無防備な彼を監視の目から遠ざけるという行為は火種の着いた爆弾を身近に放置するに等しい。
幸いなことに、少なくとも表面上温厚な顔を崩さない彼を相手にしている内は、関東魔法協会は屈服という外交手段を用いずに済む。残るは吸収か共存か。どちらにしろ封印すら困難を極めるだろう反物質を極普通のガラス瓶に閉じ込めておく以上のリスクを冒す以上のメリットが得られると予想できた。
近右衛門は態とらしく深く息を吐きながら深く椅子に腰掛け、リラックスしている風を装った。と、同時に有る魔法を使用した。
それは、以前哲がエヴァンジェリンに連れられてやってきた時等にも使った心に作用する魔法だ。心の枷を緩めて、思っている事を正直に話したり、或いは普段よりも強く感情が揺れ動くようになる魔法。
多少魔法について心得が有れば容易くレジストできるこの魔法は、既に2度使用した経験から言って間違いなく今回も哲には効くはずだった。
平時の近右衛門ならばこのような策は取らなかっただろう。しかし、今の彼もまた誰にもそうと悟られないままに平静を失っていた。
使用する魔法の効果が哲の精神を揺さぶりすぎれば、再び、今度は自分達を巻き込む形で大消失が起きるかもしれない。そんなリスクを承知しながらも彼はもう踏み留まることが出来なかった。
「黒金君。君はその力を自覚して、何をしようと思うかね?」
魔法という超常の力を私利私欲に使おうとする者はそう珍しくもない。が、哲程の力を秘めた者が同じように考えた時、それは誰にも止められなくなってしまう脅威でしかない。何よりも危惧すべきなのは彼を利用しようとする何者かではなく彼自身なのである。
哲が認識しているかはさておいて近右衛門達にとって最も致命的なこの質問に対する彼の答えは以下のような淡白極まるものだった。
「特に何も」
後にも先にも、哲の言葉はそれだけだった。
「欲がない。理想的すぎて逆に胡散臭いぞ」
エヴァンジェリンの茶化しにも、頬を掻きながらこう答える。
「仕方ないだろ。欲しいものなんて何もないんだよ。こんな力の使いみちなんて、強いて言うならミスをする度にそれを帳消しにする可能性が有るくらいだな」
魔法の効果だろうか。彼は饒舌に語った。
「何でも出来るって言われたって。……普通に生きて普通に死にたいとか、そんな事しか考えたことないのに」
「はっ、なるほどな。お前の不死身も嫌がらせの一環という訳か」
「これはどっちかというと脱走対策らしいぞ。肉体の檻から逃げられなければ、その外側たる世界からの脱却も出来ないらしい」
エヴァンジェリンの声に宿った微かな喜びの色が有った。だが、今の近右衛門にとってはそんな事はどうでも良かった。
賭けに勝ったのだ。無色かつ平凡な精神に対して巨大すぎる力。エヴァンジェリンというオブザーバーが居たとしても、黒金哲という人間を利用することの障害とは成り得ない。むしろ彼が善良であればあるほどに、近右衛門の目論見に沿った動きが期待できる。
机下で近右衛門の拳が握りしめられる。
だが哲の次の一言によって、そんな詰まらない考えは全て吹き飛んでしまった。
「欲しい物もないのに何でも出来るって言われても。死人を生き返らせるにしたって会いたい人なんかいませんし」
「なんじゃって?」
「なんだって?」
「なんだって?」
3人が同時に同様の言葉を口にした。そして全く同じ人物を思い浮かべた。
「黒金、お前今なんと言った?」
机に乗り出した近右衛門よりも先にエヴァンジェリンが哲に組み付いて問い質した。
それに対する哲の返事はやはり暢気な日常そのものだった。
「死人を生き返らせたって会いたい人なんかいやしない」
「お前、まさか」
「ああ、出来るよ。死者蘇生」
今度こそ近右衛門は頭を抱え込んだ。そして底知れぬ喜びが湧き上がってくるのを感じた。年甲斐も無く哄笑したい気分ですら有った。
目の前に誰かが入れば誰彼構わず抱擁を交わしていたかもしれない。
「誰か生き返らせたい人でもいるのか? エヴァンジェリン」
「私を担ごうというのなら」
「嘘じゃない。なんなら今すぐにでも」
「本当か? 本当にアイツに?」
いつの間にかエヴァンジェリンの瞳には涙が浮かんでいた。それを正面から見つめながら哲は微笑んだ。
「名前を言ってみて」
気負いも何も有ったものではない。この世界のタブーを冒す事に、前人未到の奇跡を前にまるでコーヒーの砂糖の数を聞くように言った。
エヴァンジェリンはもう迷わなかった。迷う余地を持たなかった。
彼女の人生で最も鮮烈な輝きを持った人物の名前を告げる。照れ隠しにほんの少しの憎しみとその他殆ど隠し切れない愛おしさを込めて。
そうして聞き取った名前を哲は脳裏に刻んだ。彼がした事と言えばそれだけ。
たった、それだけで有史以来多くの人間を狂わせた奇跡がこの世に顕現する。
正しく神話の中に記された神の御業の再現。
音もなくその部屋に降り立った人の姿は、赤い髪、成熟した肉体を持ち魔力を迸らせる。
「ナギ!」
感極まって涙を流しながらその男に抱きつくエヴァンジェリン。近右衛門とタカミチは展開の素早さについていけなかったが、やがてどんな表情を浮かべるべきなのかも分からないままその方を抱き寄せようと。
「封印は解かれたようだが、我が下僕達の姿がないな。まさかお前がやった訳ではないのだろう我が娘よ」