頭が痛い   作:orphan

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第14話

悪寒、頭痛、倦怠感、震え、寒さ、緊張や恐怖。そういった不調を示すシグナルが神の消失と共に哲の身体から消えていく。

 

深呼吸をして、背伸びをして、全身から良くない物を追い出していきながら哲は自分自身が思っていたよりも多くの物が自分の心の中に去来していたことを悟った。

 

気付かない間に背中が冷や汗でびっしょりと濡れている事も含めて、神との対面が自分にダメージを与えていたことは明白だ。

 

この調子で行くと粘着質そうな神の事である。長い間最も哲にとって悪いタイミングで最悪なアクシデントを引き起こそうとするだろう事を考えるとこれからもこれとの付き合いが続くだろうと言う良くない予感がしていた。

 

「あの祭壇の上に安置してある本って何なんだ。もうさっさと帰りたいしアレが目的の本ならこれで帰れるんだろう? さっさと確かめようぜ」

 

どっと増した疲労感がずっしりと肩に圧し掛かってくると哲の身体に宿る活力は最早ゼロも目前。三日以内に生ける屍に転職することを視野に入れたほう良いだろう。

 

幸いな事に最初から目標としていたのがこの部屋で有る事だし、丁度と言って良い具合に神が立ちはだかっていた向こうには祭壇があって、その祭壇には如何にもと言った風情の本が鎮座していた。

 

神の威容には流石に一光年程譲るが雰囲気は十分に『らしい』レベルのその本は余程丁寧な装丁なのか遠めにも年季を感じさせるのに使われた金糸が衰えない輝きを放っている。

 

神とのやりとりを見て哲に疑問を抱いた少年少女の視線を黙殺しながら、哲はゆっくりと祭壇に向かって歩を進めて行くのを誰一人追いかけない。

 

それは神とのやりとりを傍から見ていただけで何か尋常ならざるものを感じたからなのか、それとも単に会話の内容に不穏な物を感じ取った結果当然発生した防衛本能に因る物なのか。

 

淡々と石の地面を靴が叩く音が10個続いてその分だけ遠ざかる。その間何一つ誰一つ音を立てず、沈黙で満たされた空間を泳いでいく感覚が哲の足に伝わったのを敏感に感じ取って、足に錘が付いた空想が哲の頭の中で現実として像を結ぶ。

 

死にたい。

 

何だって自分がこんな目に合わなければならないのかと思う。自分はいつも群集の中ほどで周りの空気に乗ることも出来ずに何となくボーっと突っ立っているのがお似合いの詰まらない平凡で矮小な存在なのに。今はこうして痛いほど注目を浴びている。というか実際視線を浴びているだろう後頭部が痛い。

 

沈黙に耐えかねたのではない。これは決して逃避や撤退と呼ばれるような行動ではなく、何が起こったのか居合わせた彼らに説明する義務が自分にはあるだろうと思ったからだ。

 

一頻り後ろ向きな勇気を否定して、髪をぐしゃぐしゃと掻き乱しながら振り返った。

 

「分かりました。とりあえず聞きたいことが有る人はまた明日……とかに時間が有ったら説明しようと思います。心配しないでも害って呼べるような害はまだ及んでないはずだから興味の無い人はスルーしてもらっても問題ないし、これからも及ぼすことはないだろうから別に聞く必要は無いんだけど。聞きたいですか?」

 

聞くまでも無いという言葉がこれ程に当て嵌まる場面を見たのはもしかしたら人生で始めてかも知れない。

 

哲にそう思わせる程の勢いで哲に向けていた視線の中に好奇心が根付いていった。

 

その大半は胡散臭そうな霊感商法で売られている壷に一般人が向けるような視線だったが、エヴァンジェリンと刹那、ネギの常識とは懸け離れた常識を知る者達のそれはとても強い物だ。

 

「但し明日以降に時間が有ったらな」

 

同じ校舎内に居るとしても今まで一度も顔を合わせていない実績と、テスト期間が目前だという事。何より自分は研修で手一杯で時間が作れないという事もあって逃げ道完備の作戦でその場を凌げば如何にでもなるだろうと、いつも通り自分の感覚を基準にして甘い計画を立てる哲。普通の人間の好奇心というものがどの位強いものなのか。人類の進歩が何によって齎された物なのか知ってはいても感じたことがない哲の立てたこの計画は人類を舐めきっていたと言う他ない。

 

哲の目論見まで読みきったエヴァンジェリンが意地の悪い笑みを浮かべるのにも気付かずに今度こそ祭壇に近寄っていった。

 

何気なく祭壇を登りきった哲は何事も無く本を掴み取り、そのまま祭壇を降りてくる。

 

小説辺りならば此処で鉄板とも言える妨害イベントが発生しそうだが、そういった事も無く何処か物足りなさを感じながら哲は本を夕映に見せた。

 

「これで良いのかな? って見たこと無いのに分かる訳ないですよね」

 

何当たり前のこと言ってんだと自分で自分に突っ込みを入れ、その行為の寒さ、突っ込みの無い孤独に哲が打ちひしがれる横でそんな哲とは一線を画すリアクションを夕映達が見せていた。

 

「こ、これは伝説のメルキセデクの書!? 最高クラスの魔導書ですよ!」

 

「ちょ、ってことは本物なの?! アレ」

 

「本物かどうかなんてこの際大した問題じゃありませんよ。例え偽典でもメルキセデクの偽典です。間違いなく人の頭を良くする位簡単に出来るはずです!」

 

「メルキセデクですか? 聞いたことが有ります。確かキリスト教グノーシス派では平和と正義を司るとされている天使の名ですが」

 

「夕映ー、凄いもの見つけちゃったね」

 

「ほんまやねー。そんな伝説の本なんて見つかると思わんかったわ」

 

銘銘が驚きの余り自分がどれ程の大きさの声で喋っているのかも忘れて語り合う。

 

特にネギがその知識を余すことなく声に乗せて喋りまくり、それに触発される形で明日菜が驚き夕映がまた歳相応とは思えない知識でネギの言葉に食らい付いていく。のどかと木乃香は交わされる会話の内容に驚嘆するばかりだ。

 

「って何であっちに渡すんだボケっ! まず私に見せろ」

 

ネギにメルキセデクの書を掻っ攫われた哲が白熱するネギ達の会話に付いて行けずに離れた場所まで避難するといつのまにか近づいてきていたエヴァンジェリンに襟首を掴まれて顔を引き寄せられた。

 

かなりの身長さがエヴァンジェリンと哲の間には有ったためしゃがむ様にしてエヴァンジェリンに協力するとそう囁かれた。

 

「そんなに見たかったのか? メルキセデクの書」

 

「違うわ! 本物だとしてあいつ等に渡して何かあったらどうする!? 世の中には開いた人間の脳味噌に侵入して中身を打っ壊す様な魔導書も有るんだぞ?」

 

「まじで!!? 全然知らなかったわ。そうならなくて良かったよ、はあ」

 

「それにお前全く戦えないくせにあんなに無造作にアレに近づくなんてどうかしてるんじゃないか?」

 

アレと言ってエヴァンジェリンが向かい合って聳え立つ2体の石像を顎でしゃくる。

 

「もしかしてあの石像動いたりすんの? いや定番のパターンを踏襲するなら有るんじゃないかと思ったんだけど何も無くて肩透かし食らったんだ」

 

「普段ならまず間違いなくゴーレムが邪魔した筈だ。その辺の魔法使いなら話にならない位強い奴がな。恐らく不測の事態が起こってシステムが正しく作動してないんだろう」

 

「不測の事態って………ああ、間違いなくアイツか」

 

哲の頭の中に一人確信を持てる相手が思い浮かぶ。理由は邪魔をされたくないから程度の物だろうというのも推測が容易い。

 

「爺の事だ。どうせあの本も渡す積もりは無かっただろうな。適当にお茶を濁して別の事にでも興味を逸らして追い返すか何かする気だったんじゃないか?」

 

「じゃあ、あのまま地上にあの本持ってかれたら不味いって事か。ああ、どうやって置いてかせれば良いんだよ。めちゃめちゃ興味津々だってのに」

 

しゃがみ込んだままネギ達の方を盗み見るとまだああだこうだと盛り上がっているのが見える。

 

何故か夕映が魔法を知るはずのネギよりも食いつきが強く、覗き込もうとするネギの事も気にせずに開かれたページに目を通している。

 

どんな理由をでっち上げるにせよネギと夕映の二人からメルキセデクの書を引き離すのは骨が折れる作業になるだろう事は予想に難くない。

 

「そんな事はお前が考えろ。私には関係ない。それよりも貴様さっきの話明日になって忘れたとは言うまいな?」

 

「そりゃあ……まあ、俺に時間があればの話だからな。何せ明日も研修で忙しい………身だし?」

 

生徒達が半ドンでも恐らく哲には何の関係もない可能性が高い。本来なら別の業務に掛かるか帰宅できるはずの教師達を自分の都合で拘束してしまうことは心苦しいが、哲の研修は放課後も続けられるだろう。それならば幾ら生徒であるエヴァンジェリンらに詰め寄られようともそれを回避することは容易いだろうと考えての後回しだったのだが、今現在哲の言葉を聞いてにやりと笑いを浮かべる伝説の吸血鬼を前にしては矮小なる人間の浅知恵で考え付いた事で直前までの余裕を保つ事は出来なかった。

 

「そうかそうか、時間が無かったらか。何私とて仕事に就くために努力する人間の邪魔をする程鬼じゃない。ちゃーんとお前の時間が有り余っているときに尋問してやるさ。吸血鬼なりにな」

 

「いやあ、そんな大した事じゃないから肩の力を抜いて皆既月食を待つような心積もりでいて欲しいなーなんて。尋問ていうのも凄く穏やかじゃない雰囲気だしさ」

 

フフフとエヴァンジェリンが妖しく笑う。

 

10歳の少女が浮かべるとは思えないその笑みに、三日月の様に深く、口が裂けたように笑う悪魔の姿が重なる。

 

悪魔のように人間の非力を笑うエヴァンジェリン。妖美さと清楚さを併せ持つその悪魔的魅力と小悪魔的な可愛らしさ。

 

現実ではモニター越しにさえ見たことの無い美貌に、人間の頭の中にしか存在し得ない美しさの極限を垣間見た気がした哲はああ、やっぱり。と自分が元いた世界との記憶を実感し背筋を撫で上げる少女から感じる怖気に尻餅をつこうとした。

 

「あれ?」

 

一瞬の無重力体験は臀部と床との出会いの前に終わり、その代わり背中に仄かな人肌の温もりが訪れた。

 

「お話中申し訳ありませんが、これからどうすれば良いでしょうか?」

 

直ぐ真後ろには誰かの身体が有るせいで立ち上がれず、身体の正面にはエヴァンジェリンが居るせいで前に逃れることも出来ない。身動きできないスペースが簡易的に作られてしまったので仕方なしに首だけ振り返りながら見上げると桜咲刹那の姿が。

 

哲の背中に当たるすらっとした脚とその上に続くスパッツとスカート、白いブラウス。

 

其処から上を見上げるのが困難なほどの至近距離で女子中学生に見下ろされながら、その足に寄りかかっている今の状況が哲にとっては窮屈で堪らない。

 

「それより先に其処を退いてくれ。苦しい」

 

「すいません。今直ぐ」

 

すっと背中を支える柱が無くなるとやっと立ち上がるだけのスペースが出来上がったのでエヴァンジェリンから距離を取る意味も込めてさっさと立ち上がってしまう。

 

そうしてから一度ネギ達の方を見てこちらから距離が有る事を確認してから声が漏れないよう、されど遠めに見て怪しまれないように声を潜めながら話し始めた。

 

「これからどうするかだっけ? えーっと………」

 

しかし目の前の相手の素性が知れず、漠然と魔法が一般的な物ではない事しか知らない哲にはこれからどうすべきかという答えも、目の前の少女相手に何を話したら不味いのかも分からない。こういう時出しゃばってしまうのは自分の悪い癖だった。

 

とりあえずで口を開いてしまった哲はその軽率さを後悔しつつも目したまま語らないエヴァンジェリンに助けを求めた。

 

「桜咲刹那も私と同じ側の人間だ。何を言ってもとりあえず問題にはならん。安心しろ」

 

「そして黒金さん、エヴァンジェリンさんがそういうと言う事は貴方も」

 

「つい最近まで魔法の存在も知らなかった俄かだがな」

 

嗜虐的な笑みを潜めて仏頂面を刹那に向けながらエヴァンジェリンが話すのを見て哲は脇で胸を撫で下ろした。

 

情けない話暴力的なイメージしか持てない魔法のある世界、そちらに属する人間と対峙して恐怖を抱かない程哲は勇気ある人間ではなかった。

 

「それならばエヴァンジェリンさん、話し声が漏れないように結界を張った方が良いのでは?」

 

「そんな事をすればネギ先生が私達の存在に気付くぞ」

 

「しかし、彼もこちら側の人間。何の問題も無いのでは?」

 

「あそこで自分が誰を相手に何を話しているのかも自覚していない、来日から一日も経たない間に神楽坂明日菜に魔法がバレた10歳児を呼んで何が出来ると思う?」

 

「それは………」

 

「もしかしてと思ってたけど学園長が言ってたのはあの子の事なのか」

 

ぐうの音も次げない反論を浴びて刹那が言葉に詰まる。まさかそこまで酷いとは思っていなかったネギの行状は確かに魔法関係者からすれば耳を塞ぎたい物だ。

 

「爺が何を考えてるのか、神楽坂明日菜に忘却魔法で処置をする気配もない。いくら何でも魔法バレを推進する気はないだろうがこのメンバーに近衛木乃香のいる意味というのも邪推したくなるものがあるな」

 

「そんな!? それではお嬢様にも? しかしそれでは関西呪術協会の長である詠春様の意向に反します」

 

「あの爺がそんなもの気にすると思うか? そもそもあの坊やをうちに呼ぶこと自体がおかしいんだ。その裏で何か企んでいないという方が不自然だ。何せあの坊やはサウザンドマスター・ナギ・スプリングフィールドの息子だからな」

 

桜咲刹那の属する関西呪術協会。その首領である近衛詠春の一人娘である近衛木乃香の護衛の為に、離反だと思われるリスクを負ってまで関東魔法協会の膝元・麻帆良学園都市にやってきた刹那。

 

長と長の間に血縁者という事も有り、また関東魔法協会会長である近衛近右衛門の指示を受けているものの、あくまで刹那が従うのは詠春。

 

その詠春は木乃香を育てる上で一つ徹底した事があった。

 

木乃香を魔法から遠ざける事だ。

 

生まれてから暫くして発覚したナギ・スプリングフィールドさえ凌駕する木乃香の魔力。それを埋もれさせるという長の決定に反発するものも居たが、刹那は詠春の決定を肯定する者達の一人だった。

 

それに加えてある負い目も有って、木乃香と出会った当初から刹那は木乃香の護衛という命を受けながら同時に魔法や陰陽道等の超常の力を木乃香から遠ざけ続けた。

 

稽古は絶対に見つからない場所で結界を張って行われたし、幼い刹那がうっかり洩らしてしまわない様に魔術的な誓約まで立てた。

 

魔法の存在を教えることさえ出来たなら、或いは彼女自身が抱える負い目さえなければ幼少期の木乃香を一人きりにする事等なかっただろうし、今も木乃香の顔を曇らせることなど無かっただろう。

 

しかし、木乃香を魔法から遠ざけながら手元から離すというリスクを犯すことも出来ずに彼女は友人を刹那以外に作ることが出来なかったし、今も彼女を気にし続けている。

 

そうしてなんとも中途半端な生活の末に訪れたのが木乃香が川で溺れた事件だ。

 

木乃香自身も恐らく覚えているだろうこの出来事だが、絶対に木乃香自身が覚えていない事実が一つ存在した。

 

「しかし、詠春様がそれを許すはずありません! 過去お嬢様に魔法の事が知られてしまった時には………ときには」

 

「詠春の気でも変わったんじゃないか? それより落ち着け。 坊や達がこっちを見てるぞ」

 

「す、すいません、取り乱しました」

 

突然刹那が激発して声を荒げてエヴァンジェリンに訴える。身近で聞いていた哲が驚くような大きさで挙げられた声は離れた位置に居たネギ達にも聞きつけられて注意を引いた。

 

「エヴァちゃん達そんな所でこそこそ何やってんのよ? 内緒話?」

 

本から興味が離れかけていた明日菜がネギ達から離れて近づいてくる。のどかも一緒だ。

 

「あのう、どうかしましたか?」

 

「全然、大したことありませんよ」

 

だから気にしないで下さい、と言外に告げた積りの哲だったが何故かのどかに弱った顔をされてしまい哲も弱ってしまう。

 

「それよりも目的の物も手に入りましたし、帰りませんか?」

 

怪しまれてはいなかったが、この場であの本を置いていこうともいえずて哲は無難な話題で気を逸らしてしまうことにした。

 

何かするとすれば帰り道以外に小細工を弄することは出来ないからだ。

 

「馬鹿が、お前のせいで何も決められないうちに帰ることになったぞ」

 

「す、すいません」

 

哲の背中を壁にしてエヴァンジェリンが刹那の脇腹を肘で突いて責め、刹那が萎縮して頭を下げた。

 

「それもそうね。おーい夕映ちゃん、ネギ、木乃香ー。そろそろ帰りましょう。私眠たくなってきちゃった」

 

「お前って良い子だなー。スゲー良い子」

 

「ってちょ、勝手に頭撫でてんじゃないわよ!!」

 

「いたっ!」

 

疑うことを知らない明日菜の扱いやすさに感動してしまい、哲の手が思わず滑る。艶のある長い髪の毛を柔らかく撫でた。

 

そしてその報復に明日菜からの鋭い蹴りを貰ってしまった。

 

「少女の頭を何だと思ってんのよ。まったく」

 

「いや、すまん。こう4歳児位を相手にしている気になってしまってだな。甥っ子とかに結構こんな感じにやってたからだよ。間違いない」

 

「ちょーっと!! それって私がガキっぽいって言ってんの? しかも甥っ子って私は女の子よ!」

 

「その位の子供と同じ位の純真さを保ち続けていて凄いなって意味だと前向きに受け止めてくれ。それと蹴るな」

 

蹴られた場所を手で払うと同時に第2撃を警戒して構える。獣の威嚇行為の様に息を荒立てる明日菜の運動神経を考慮に入れると防げるはずも無いのだが実際結構な力の篭っていた蹴りの痛みはそれなりだ。

 

「ネギ先生はこの本を読めるみたいですが、分からない言葉も少なからずあるようです。辞書が必要ですし、一旦帰りましょうか」

 

「ええ、早く帰りましょう。先が気になって仕方ないです」

 

「宮崎さんもそれで大丈夫ですか?」

 

「あ、はい、だいじょうぶです」

 

誰からも異論は出なかったのでそのまま帰宅という運びになった。

 

さて、と皆が一度気合を入れなおしている間にエヴァンジェリンが哲に目配せをした。

 

「ああ、言っちゃったけどどうするんだ? 最悪俺が綾瀬から受け取って途中で落っことした事にでもすれば良いだろうけど」

 

「それが一番手っ取り早い。そうしろ」

 

「了解。……綾瀬さーん、此処まで荷物持ってないし代わりに荷物持つよ」

 

哲とエヴァンジェリンのやりとりは一瞬で済んだ。汚れ役ともいうべきその役目を担うことに抵抗はあったが、そうも言っていられない。

 

哲は一般人に魔法がバレるという事が一体どのような展開に結びつくのか理解していなかったが、エヴァンジェリンや刹那の自分よりも魔法を熟知している人間が懸念するような事なら否やはない。

 

まだなっていないとはいえ自分の生徒になる人間を守ることに通じるなら、まあしようがないと諦めることも出来た。

 

恐らく誰からも責められる面倒くさい役割なだけに踏みとどまりたいと思う気持ちも一入だったが。

 

「あ、いえ黒金さん、私ではなくのどかの荷物を持ってあげてください。私はまだ大丈夫です」

 

そう言って意味ありげにのどかを見る夕映の視線に哲の知らない企ての気配があった。しかし、疑っているような口ぶりではない。

 

それなら

 

「分かりました。のどかさんも荷物を貸してもらって良いですか? 荷物を纏めて貰えるなら二人分位持てますよ…多分ね」

 

図書館探検部員でもあるのどかと夕映の二人の荷物は、備えという意味も有って少女が背負うには分不相応な重さだ。歳も性別も違うとはいえ二つ担ぐ負担は一般人哲を憂鬱にさせる。

 

「黒金さん力持ちやねー、うちのも持って欲しいわ」

 

「それならお嬢様、私が」

 

「いややわ、冗談にきまっとるやんせっちゃん」

 

「私のも持っていいわよ。勿論冗談じゃなくね」

 

囃し立てる木乃香の冗談を真に受けた刹那を木乃香が笑う。

 

そして便乗するように自分の荷物を押し付けてくる明日菜に哲は、他人と話しているときには珍しく完全に笑いを消した真顔で返した。

 

「ふざけんなよ」

 

「怖いわよっ! 真顔でそんな言わなくても」

 

「ふざけんなよ?」

 

「分かりました。冗談です、ごめんなさい!」

 

「ふざけんな?」

 

「木乃香ー助けてよー」

 

「む・り」

 

「裏切り者!」

 

「ふう、すっきりした」

 

「ふざけんじゃないわよ! 私は玩具か!」

 

ごめんなさいと頭を下げてそれじゃあと夕映とのどかから荷物を受け取って一つのバッグに押し込んでいく。

 

空になったバッグは明日菜のバッグの中に入れてもらって荷物を持ち上げる。案の定ずっしりとした重量が腕に襲い掛かった。

 

「それじゃあ行きましょう。ハルナも寒い中待ってくれていますから出来るだけ急ぎますよ」

 

「ええ、そして家に帰ったらじっくりと読みましょう」

 

「眠そうにしてた癖にネギったら本を見つけた途端に元気になるんだから。帰り道でも気をつけなさいよ、アンタ」

 

夕映が号令をかけるとネギが待ちきれないと内心を洩らす。目まで輝かせているところを見ていると間違いなく本気なのだが、エヴァンジェリンと刹那がそれを見て溜息を吐いた。

 

「む………っ! 黒金、良かったな。お前の心配事はなくなりそうだぞ」

 

そうしてわいわいと騒ぎながら元来た道を戻ろうと石畳の中にぽっかりと開いた穴まで戻ってきたところでエヴァンジェリンが唐突にそう言った。

 

「それってどういう」

 

哲がその意味を問いただすより早くそれは起こった。

 

ゴゴゴゴゴと地鳴りの様な重低音を響かせながら祭壇の両脇に立つ石像が動き出したのだ。

 

石像は最初永い眠りから目覚めた獣の様にゆっくりと動き、やがて体の動かし方を確かめるように身体を揺すり始めた。

 

「さあさあ、早く入っちゃおうね。危ないトラップが発動したみたいですよー」

 

「エヴァンジェリンさん!? これは」

 

「良いからお前は他の奴らを連れてさっさと行け」

 

「何ですか? 何が起こったんですか!?」

 

哲は目の前に居た木乃香の背中を押して早く穴に入るように促しながら後ろに居たのどかの腕を掴んで引っ張った。先頭を切って穴に入ろうとしていた夕映の姿が消え、後ろを振り返ろうとしていたネギ、明日菜、木乃香、のどかがそれに続いた。刹那もエヴァンジェリンの言うとおりに穴に入って前に居たのどか達を急かした。

 

「あの様子だと爺の奴に操作されてる訳じゃなさそうだ。大方自動で設定されていた指示に従って侵入者を始末しようとしているんだろうが、上から叩き潰されんようにこいつらは此処で止めておいた方がいいな。お前も行っていいぞ、私一人で十分だ」

 

邪魔だといわれているのかも知れなかったが、哲にはエヴァンジェリンが本当にどちらでも良いと言っている様に思えたので

 

「良いよ。此処でゴーレムに奪われたって言うのが説得力もあって俺も責められないから。終わるまで待ってる」

 

「待っているだと? 爺の傀儡如きに私が梃子摺るとでも言うつもりか。侮られたものだな」

 

哲の言い様にプライドを傷つけられたと言いたげに不機嫌な顔をしてみせるとエヴァンジェリンは哲に背中を見せた。

 

「見ていろ。15年振りに本気を出すエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの強さを。魔法など使うまでもなく奴らを塵に変えてやる」

 

狼が狩りのときに見せる獰猛さを浮かべた笑顔を浮かべエヴァンジェリンは拳を握り締めた。

 

体中に充溢する魔力も昂ぶらせながら意識を高揚させていく。血に酔っていた前回とは違う真祖の吸血鬼エヴァンジェリンが全力を振るう為の興奮。

 

600年近く歳を重ね、その間生き残るために鍛え始め、いずれより強くなるために鍛え続けた自身が全力を出せば高々魔力で動く土人形如きに一秒以上時間が掛かる筈もない。その一瞬の間に15年分の鬱憤を晴らすつもりでかかる。

 

体と心を昂ぶらせながら、更に魔力を練り上げる。人間の内なる力の迸りである気ではなく魔力であっても充分に身体を満たすことさえ出来れば術式という形で発露を叶えなくとも勝手に身体を強化してくれる。今のエヴァンジェリンの身体を満たす魔力は未だかつてない程の量だ。ともすればエヴァンジェリンという器から零れだしそうな魔力を精錬していけばただそれだけで鋼鉄を砕く力となる。

 

「おい、エヴァンジェリン。向こうの準備も整った見たいだぞ」

 

「馬鹿を言え、待ってやってたんだ。態々相手の準備が整う前に叩く必要もない」

 

そうなのか。と呟く哲の気の抜けた声が自身に対する信頼の現われのように感じられエヴァンジェリンのやる気に熱が加わる。

 

ここらで一つお前が告白した相手がどれほどの存在なのか教えておいてやろう。

 

羞恥心から口には出さず心の中でだけ哲に向けて言う。が、それでも矢張り恥ずかしいものは恥ずかしく頬が赤く染まる。

 

と、そこでエヴァンジェリンの脳裏に先程出会った人間の事が思い浮かんだ。

 

黒金の好意がどうのこうと気になる話をしていたな。明日になったら絶対に聞き出してやる。別荘に引きずり込んででも絶対にな。

 

後ろでのほほんとしている哲がエヴァンジェリンの考えに微塵も気付いた様子が無い事がエヴァンジェリンを更に楽しませる。

 

一度は体験しているにも関わらず私の別荘の事をすっかり忘れているとはな。あれ一つあれば島一つ買い取れる位の財を築ける一品だというのに。

 

二体のゴーレムが大槌と剣を携えてエヴァンジェリンの前に立った。

 

天井まで届かんばかりの人間の十数倍もある高さと数百倍はあるウェイト。それ程の巨体にも関わらず動きは俊敏で予想を裏切らないパワーもある。

 

「だが、まだ足りん」

 

があああああああああああああああ

 

岩と岩の継ぎ目から出たさながらゴーレムの挙げた雄叫びの様な轟音と共に華奢な体躯に攻撃が襲い掛かる。

 

常人なら目を瞑り座して待つ事しか出来ない目にも留まらぬ二振りの死を前に、しかしエヴァンジェリンには確信があった。

 

「足りないんだよおおおおおおおおおお!!!」

 

左右から交差して剣と大槌が振り下ろされ、そして盛大に地面を抉った。

 

濛々と砂煙が立ち上がり忽ちの間に視界が黄色がかった白に埋め尽くされる。

 

ゴーレムに先んじてエヴァンジェリンが攻撃を加えると思っていた哲は、予想を裏切られる展開にただ呆然と見えなくなってしまった砂煙の向こう側を見つめ続ける。

 

砂塵が目と口を犯し目からは涙が流れくしゃみが出そうになった。そうなりながらも懸命に手で目を擦りながら何が起こったのかを見極めようとした。

 

まさか、まさかと心の中で呟きながらも哲の脳は回転を止めず煙が晴れた時、そこに広がる光景の中でもとびきり最悪な光景を妄想しようとするのをエヴァンジェリンの叫び声を思い出して掻き消す。

 

どうせ悠々と攻撃を避けたエヴァンジェリンが心配そうな顔をした自分を馬鹿にすると決まっているのだ。自信満々に自分を世界最強の魔法使いなどと抜かす吸血鬼があの一撃でやられてしまう筈が無い。

 

そう自身を励ます哲の前で再びゴーレムの動く音がしたかと思うと今度は砂煙が風と同時に哲の方向に吹き飛んできた。

 

「わっぷ」

 

慌てて半開きになっていた口と目を閉じてやりすごす。顔を台風のような勢いの風とそれに乗った細かい砂粒が打った。

 

挙句スーツの袖からも吹き込んだかと思うと首の後ろ側からも背中を撫でて行った。

 

貰い物のスーツが台無しになってしまった事を気にするより早く恐る恐る目を見開いてみるともう一度風と砂が哲に襲い掛かった。

 

驚きに目を見開き声を挙げそうになった哲の目と口に風と砂が殺到する。

 

「うぎゃあああああっ!!」

 

高速で飛来する砂塵がどれほど細かくとも当たったのが人体でも取り分け敏感で、かなりの速度ともなればその痛みは笑い事では済まされない。

 

悲鳴を挙げながら急いで体の向きを反転させる。

 

これではとてもエヴァンジェリンの心配どころではない。せめて状況が静観できるようにと感覚だけで風の発生源から距離を取るために歩いていく。

 

その間地面が揺れるようなゴーレムの稼動音は忙しなく、そして徐々にその強さを増していく。

 

音と音の感覚はあっという間に狭まり、風が哲の背中を3度も叩く頃には既にゴーレムが立てる音に間隙等なくなっていた。

 

そしてゴーレムの持つ武器が発しているであろう破壊音もまた頻度を飛躍的に上げていく。

 

床が穿たれる音、壁が打ち据えられる音、そしてそれに伴う崩落の音。

建機が30台も集まって一斉に建造物を破壊すれば恐らく似た様な音が立つに違いないと思うほどの爆音が密閉された空間のせいで反響し、哲の方向感覚を奪う。

 

こうなるともう哲には立ち尽くすことしか出来ない。

 

視界を奪われた上頼みの少女は安否不明。その上ゴーレムの動く音だけはやけに鮮明に響き続ける。

 

唯一の救いはゴーレムが動いているということは少なくともエヴァンジェリンが生きていることを教えてくれることだ。

 

とはいえそれも今聞こえている音が哲に近づくゴーレムの音でなかったらの話だったが。

 

蟻のように無力なまま巨人の戦場に巻き込まれた感覚とでも言えばいいのか、とにかく哲には他に現状を表現する言葉が見つからない。

 

しかしそれでもそう言うほどの恐怖は哲の心の何処にも存在しない。

 

それが何故かという事を気にする事が出来るほどの平静は運良く哲は持ち合わせない。

 

変わりに手を拱くしかなかった現状が好転した。

 

「おい黒金、予定変更だ。これが終わったら直ぐにでも話を聞かせてもらうぞ」

 

遠くでゴーレムと戦っていた筈のエヴァンジェリンの声が近くから聞こえてきて、それからゴーレムの攻撃が部屋を破壊する音が聞こえなくなっている事に哲は気付いた。

 

その代わりゴーレムの動く音が徐々に大きくなりながら何個も続く。

風が止んだことを念のため確認して目を開けるとやはりエヴァンジェリンが近くまで来ているのが見えた。

 

何故か彼女の周りだけ砂煙がなく、彼女の周囲1メートル程のその空間は哲の眼前で途絶えている。

 

「ゴホゴホ、……出来れば遠慮して欲しいんだけど、聞いてくれそうないよねその顔だと」

 

開けた視界の中でエヴァンジェリンは何故かこちらを怒ったような恥ずかしそうな表情でこちらをねめつけていた。

 

もしかして彼女の制服に穴が開いているのに何か関係があるのだろうか?

 

ついさっきまでエヴァンジェリンが来ていた皺一つ無い綺麗な制服が、所々穴が開いたり或いは解れたりしてその上土でも付いたのか酷く汚れている。

 

ゴーレムの攻撃に当たっていればその程度の被害では済まないだろうという事は簡単に推測できたが、幾ら考えても彼女がそんな状態になった理由は思いつけない。

 

ゴーレムの足音と稼動音とが近づいてくるのも哲の思考を阻害している。

 

「瞬動で移動したら壁にめり込んだんだよ、バカ!!」

 

「酷いな、それの何処に俺が馬鹿だと罵倒される理由が有るんだ。大体…ふあ…瞬動って…っくし」

 

大声でエヴァンジェリンが哲を怒鳴るが、勿論原因も瞬動というのも分からない。

 

言い返そうとしても途中でくしゃみが出てしまい言い切ることが出来ない。

 

「今まで一度もそんな間抜けな事をした事は無かったし、お前の血を吸ってからこっち頗る調子が良いんだ。良過ぎる位にな!」

 

くそ、折角格好つけたのに台無しじゃないかと色々台無しにする発言まで飛び出す始末だ。頭に血が上って話を聞く所ではないに違いない。

 

どうやったのかは知らないが、確かに壁にめり込んだエヴァンジェリンを想像するとそれは想像以上に面白い絵になる。

 

なんていうか凄く笑えるな。

 

しかもその壁から抜け出してきて何事も無かったかのようにエヴァンジェリンが振舞うところまで想像してしまうともう耐えることが出来なかった。

 

ぶはっと砂煙を噴出した息で吹き飛ばして笑ってしまう。

 

しかも哲が何を想像したのか予想がついたのか顔を真っ赤にして怒るエヴァンジェリンが、無事を装うことに耐えられなくなった想像の中のエヴァンジェリンとリンクしてしまい遂には腹を抱えてしまった。

 

「きっ、貴様何を笑っている!」

 

「いや、違う……くす…咳だから。咳が止まらない…げほっ…だけ…ひっひ」

 

「それの何処が咳だ! 完全に笑ってるだろうが!!」

 

ひっひっと引き笑いをしながらも一応誤魔化すだけ誤魔化す哲だが、形だけのそれは当然のようにエヴァンジェリンの怒りを買った。

 

「ええい、もういい。貴様をあれと一緒に氷付けにしてやる! 地獄で後悔しろ」

 

がっと襟首を掴まれて引き寄せられたかと思うとエヴァンジェリンはそのまま強引に投擲体制に入った。

 

遊びとは思えないその動作の素早さと力強さに危機を感じ取った哲はエヴァンジェリンの手を両手で掴んで妨害に走る。

 

「っ! 貴様、この力は…なんだ?」

 

「んぐぐぐぐ……とりあえず本気で俺を投げようとするのをや…めろ」

 

ガシっと強く握ってくる手を上から包むようにして握って投げられまいと歯を食いしばって反対側に体重をかける。体重ならば二倍近い差が有るはずだが、哲の精一杯の抵抗にもエヴァンジェリンの身体は身じろぎ一つせず繋いだ両手を中心に拮抗する。

 

一般人の自分の力程度で吸血鬼に勝てるとは思っていない。だからエヴァンジェリンと自分の力が均衡していのはきっとエヴァンジェリンの手加減によるものだ。

 

怒って見せるくせに手緩いと思わないでもなかったが、それに自分が救われているなら文句は出せない。吸血鬼の気が変わる前に本格的な和解をしなければ。

 

エヴァンジェリンに許しを請う。差し迫っていた危機である筈のゴーレムの事でさえ確認する余裕は無かった。

 

「分かった。……ぐぐ、謝るから、謝るから許してくれえ!!」

 

「諦めるのが早いが、まあいい」

 

「どわああああっ!? ………ひいいいいいいいいっ!!!」

 

言うが早いかエヴァンジェリンが握っていた哲の手を離した。何の前振りも無く、何の躊躇も無く。

 

2力の均衡とはつまりどちらの力も大きさが等しいことであり、どちらかが無くなれば自然均衡した状態は崩れる。

 

言うまでも無く哲は思い切りよく尻餅をつき、全身全霊を込めていたせいで幸いにも肩まで地面につくように倒れた。

 

幸いというのはつまり、その直後哲の体が倒れたその上空を巨大な石剣が薙いで行ったからだ。

 

間近で振るわれる死はそれを追いかける風を伴って哲の視界を上から下に高速で過ぎて行った。その剣の表面がまるでコマ落としにでもなったようにゆっくりと、そしてはっきりと見えた。

 

剣として振るっているにも関わらず、表面を見ても滑らかさなどと言った者とは縁遠いそれはただの岩と言う他なく、テレビ越しに見た日本刀の様な美しさといった物がまるでない詰まらない物だ。丁度夏場に食べたチューペットという氷菓子を半分に分けるために、膝で連結部を砕くような手近にあったものをただ使ったと言わんばかりだ。

 

魔法の存在世界とは言っても所詮は現実であると身につまされる。いや別にファンタジーに夢を見たことも思いを馳せた事もないですがね。

などと誰に言い訳をしているのかとつらつらと心の中で文字が流れていくのを自分の口から悲鳴を挙げながら思う。

 

まあきっとアレだ。そう、頑張って心の中で恐怖を押し殺したものの身体は我慢できなかったとかそういう事だ。

 

「死ぬわああ!!」

 

「さっきの女がお前は死なんと言っていたから試してみようかと思ったんだが」

 

誰に宛ててという事もなく叫んだ哲の言葉にエヴァンジェリンが応えた。

 

「そんな馬鹿な! お前は俺とあいつどっちを信じるというんだ」

 

「あいつ…かな?」

 

「委細細かく説明させていただきますのでどうか僕を信じてください! お願いします」

 

数日とは言え顔を何度も合わせた相手と初対面の妖しいことしか言わない相手を秤に掛けて負ける。

 

哲の人生の中でも上から数えたほうが圧倒的に早い衝撃的な出来事だ。しかも相手が相手ときている。

 

今が平時ならば涙でも流しながら遁走した所だが、エヴァンジェリンからの助けが無ければ自分に朝日を拝むことは出来ないので仕方なく信頼を勝ち取るために事情を語ることを約束した。

 

「で、いつまでそうしているつもりだ? もう一発来るぞ?」

 

「恐怖で動けそうにありますん。 たっけてええええっ!」

 

「ふざけてる場合か」

 

時間さえあるなら貧弱な語彙を酷使して長々と説明させてもらいたいところだったが、今の哲にそれは荷が勝ちすぎた。

 

言葉を選別する前に口から言葉が出てしまうのだ。それも異様にハイテンションになってしまった状態の脳が垂れ流しにしている言葉の全てをである。

 

「貴様正気じゃないな! ええい、世話の掛かる」

 

まさにその通り。首肯することでエヴァンジェリンの考えを肯定すると頭上で振り上げられた石斧よりも早くエヴァンジェリンが哲の元に駆けつけてその襟元を掴んで肩に担ぎ上げた。

 

束の間哲が安定を求めてエヴァンジェリンの肩に掴まる前にエヴァンジェリンが動き出し、間一髪のタイミングで石斧が石畳を粉砕した。

 

「危ない、危ないって。もっと速く動けないのか?」

 

「集中して動かないと直ぐに動きすぎるんだ、加減が出来ずに壁にめり込むよりもマシだろうが! しかも、なんだ一体。魔力が体の外側に出ていかんせいで普通の状態にも戻れん」

 

そう言われてみればエヴァンジェリンの動きからはぎこちなさが感じられた。3ヶ月も寝たきりだった怪我人が久しぶりに身体を動かす感覚を確かめていると言われたら信じてしまうようなそれだ。

 

哲を掴む腕やそれを支える肩は見えなかったが、全く微動だにしないのは多分下手に動かすのは危険だからだろうし、足の動きは足先から踵、そこから足首と脹脛、膝と脹脛までの力の輸送には一々ブレーキを掛けて次の動作を確認してから動いているように見える。

 

「だったらほら、俺を下ろしてゴーレムに体当たりとか」

 

「そんな無様な真似をして堪るか。それと今気付いたがお前本当に自分本位だな」

 

「いやいや、本当にやりそうになったら全力で止めるって。それに倒す理由もないから逃げ続けても問題ないだろ?」

 

倒さなければ進めない訳でも撤退できない訳でもない。ゴーレムの攻撃を掻い潜りながら元来た道を辿れば何の問題も無いわけで。そもそも此処に留まったのもエヴァンジェリンが勝てると断言したからで、本を返すなら元通り台座に戻せた方が良かったからだ。

 

ここまで不測の事態が重なったのなら魔導書の一冊が地べたに置いてあった位で文句を言われる筋合いもなくなる。

 

「今の私があの穴に潜り込んでから走り始めるまで奴が攻撃を待ってくれるとでも? それに脱出しようとすれば発動するトラップの数も増える筈だ。動けない貴様とまともに動けない私ではこれ以上数が増えれば対処出来んぞ」

 

「大丈夫、俺もう動けるし。あー、でも俺じゃあトラップをかわせないから駄目か。とりあえず、よいしょ」

 

危機から脱した途端に動けるようになるとは現金?な体だったが動けるのなら否やはない。

 

元々小さいエヴァンジェリンに担がれているとはいえ、着こうと思えば足も着く。足を着いたら転倒したなどという間の抜けた失敗をしないように注意しながら走り出して、今まで自分を担いでいたエヴァンジェリンを逆に担ぎ返す。

 

羽のような軽さという言葉が一瞬頭を過ぎる。或いはA3用紙3枚分。とにかく肩にのったエヴァンジェリンの体から伝わってくるのは予想外の負担の軽さだけだった。

 

「あ、おい貴様! 誰の許しを得て私の体を担いでいるんだ。それも俵担ぎで。せめて横抱きにしろ」

 

「んな悠長な事言ってる場合か!」

 

「後ろが見えないと言ってるんだ。あいつらの攻撃で後頭部を割られたくなかったら言われたとおりにしろ」

 

命惜しさに渋々言われたとおりにエヴァンジェリンの体を抱きなおす。走りながらやるのは苦労したが、幸運にもゴーレムの攻撃は貰わなかった。

 

「右に跳べ、そしたらスピードを上げろ」

 

「そ、そんな事出来んっ」

 

「あの女がそんな事を言ってたぞ」

 

「あいつが言ったことを真に受けんなって。俺はただの一般人だ」

 

エヴァンジェリンの指示通り動きながらどうにかこうにか逃げ続ける。それも不自由なエヴァンジェリンよりももっと危なっかしい追いかけっこだ。

 

攻撃がさっきから髪の毛をかすったり、靴を傷付けているのは嘘だと信じたい。それと床が破壊される際に砕けた石の一部が背中を打っている。

 

その度に鼻息を荒くして死力を振り絞って下半身に力を込めて走り続けている。ああ、神楽坂を追いかけたときの様に不可解でも良いから足が速くなれば。

 

「そうだよ、今俺が必死こいて逃げていることがあいつの言っていることが真っ赤な嘘で俺が唯の一般人である動かぬ証拠になるだろ」

 

「お前が本気で走っていればな」

 

「嘘なんかつかないって、俺。何より面倒事が嫌いな人間だぜ」

 

「試しに俺はもっと速く動けるとでも念じてみたらどうだ?」

 

「んな事で早くなったら笑っちゃうぜ」

 

と言いつつ心の中で言われた通りに唱えてみた。

 

「なんてな。そんな事より祭壇の方に行ってみないか? 足場の途中で下に穴開いてたけどあそこから逃げられないかな?」

 

「……もういい。穴だったか? 少し待て、あの先に何が有るか探ってみる」

 

いつまで持久力が持つかも分からない。入り口から出て行こうとすればトラップの可能性。もうこの部屋から脱出できるとすれば一箇所だけだった。

 

それも穴の奥は最高でもより深部である。万事休すとなる可能性も高かった。

 

エヴァンジェリンが祭壇の方向に向かって手を翳した。

 

「行け」

 

そうして短く呟くとエヴァンジェリンの手の先に小さな人型の何かが現れて穴の中に飛び込んでいった。

 

「何あれ?」

 

「妖精さ、探査用のな」

 

「ちっちゃいお前みたいな格好してたな。可愛いのは分かるけど……いや何でもない」

 

それってどうなんだと口にしかけて思いとどまる哲だったが、しかしそれも遅すぎた。

 

途切れた先がどういうニュアンスの言葉であるか充分に予想できるところまで口にしてしまっていたからだ。

 

「分かるけど……なんだ? いい歳してとでも続くのか?」

 

「…違う違う、探査用にそんな事する必要有るのかだ。決して600歳なのにとか、そもそも本当に子供だったとしても自分に似せた妖精作るなんて自信過剰だろとか思ってないです」

 

「ほほう」

 

エヴァンジェリンの手が哲の首筋をなぞる。普通に爪が尖っているのかこれも吸血鬼の能力なのか、肌に触れるエヴァンジェリンの爪はチクチクと所々に突き刺さる。

 

軽口を叩くだけで命の危機に瀕する自分という人間の迂闊さとか配慮の無さとか、或いはセンスの無さというものを呪いながら哲は祭壇のある方向に向かって走り続けた。

 

「よくよく考えてみれば俺の知り合いが、可愛いは正義とか言ってたし何の問題もないって。可愛けりゃ全て許されるからさっきのも大丈夫だ」

 

「つまり私の妖精は許しを得なければ存在してはいけないと言う事か」

 

あっちこっちを行き来していたエヴァンジェリンの手が一点で止まった。視線を下げている余裕はないがきっと頚動脈の位置だ。

 

しかもチクチクと肌に押し込まれる程度だった爪が明らかに肌の弾力の限界を突破しようとしている強さで接している。

 

走るとき、それが人間である以上重心は水平に移動しない。ましてや格闘技を治めたわけでも走りを必要とするスポーツを生業とする訳でもない哲の走りは素人丸出しのそれであり、エヴァンジェリンという荷物を抱えた上でも走るたび体は上下にぶれる。

 

そして固定されていないエヴァンジェリンの体と哲の体との感覚はやはり動作のたびに変動する。それでもぴったりと肌の上にもう一枚肌があったらこれ位ぴったりするとばかりにエヴァンジェリンの爪が哲の肌に食い込んで離れない。

 

勿論のこと哲もエヴァンジェリンが哲にその爪を突き刺すとは思っていない。それでも、僅かな感触から増幅された感情が哲の脳内を全力疾走するわけで走行と平行して思いつける範囲でエヴァンジェリンを誉めそやした。

 

「時として美しすぎたり可愛すぎたりすることは罪だと言われるだろ。人心を惑わす程の可愛らしさだからこう逆に…みたいな意味ですっ! つまり傾世の美貌」

 

まるっきり哲の言葉が出任せだったりはしない。エヴァンジェリンが美貌の持ち主であるというのは哲からすれば完全な事実だ。

 

しかしながら神楽坂明日菜はもとよりエヴァンジェリンのクラスメイトは度肝を抜かれる様な美少女揃いである。加えてどうやらこの世界に来てから今まで美男美女に遭遇する確立は極めて高い。

 

もしも彼女達のようなレベルの容姿がこの世界のスタンダードであるというなら哲の表現は過剰であるという他ないのだが。

 

「どうやらあの穴の下には巨大な空間があるらしい。人の気配も有る。恐らく魔法教員共だ。爺め、魔法の本を餌に下の空間にガキ共を落とすつもりだったな」

 

どうやら許されたらしい。首筋を捉えていた爪の感触が無くなり体に抱きつくようにして首に手を回された。

 

「ていう事は下に落ちても大丈夫ってことか。……? でもエヴァンジェリン。魔法使えるんならそれであいつら倒せるんじゃないか?」

 

「こんな体が訳の分からん事になっている状態でか? 少なくとも落ち着いて検証も出来ない状況では無理だ。体と同じで上手く制御できないなんて事に備える必要もあるしな」

 

いいからさっさと穴に飛び込めと言うエヴァンジェリンに精一杯の笑顔で持って哲は答えた。

 

「高所恐怖症の人間に言うことじゃねえな。流石吸血鬼」

 

ゴーレムの追撃はもうギリギリでかわし続ける必要はない。理由は分からないがゴーレムの攻撃が哲に追いついてこないからだ。

 

砂埃が目隠しとなって穴を覆い隠していたら何処に有るかも分からないそこに向かって自分は突っ走らなければならない所だったので、心の中でそうならなかった幸運に感謝しつつ意を決して穴に向かって飛び込んで言った。

 

「あああああああ、こんな所に飛び降りるなんて正気じゃねえよ」

 

「私のせいで正気を失ってるんだ。何の問題もない」

 

ぼやいた哲にエヴァンジェリンが胸元から笑った。

それもそうかなんて思いながら、哲は恐怖から抱いたエヴァンジェリンの体を固く抱きしめる。

 

そうして吐き出す息も置き去りにして哲とエヴァンジェリンは暗闇に消えた。


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