東方血界神 ~Creatures Paradise~ 作:閼伽
何処にだって例外はある。誰も、気づかないというだけで。
「ども、
「先日は世話になった、神亡殿。また機会があれば、手合わせ願いたい」
「あら朱雨、仕事帰り? よかったら、晩酌に付き合わない?」
「朱雨様、調達の依頼をしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「……………………」
天照国の八つの区画の一つ、東の方角である
また、街の中にもいくつかの区分があり、和風、洋風といった建物のデザインや住む人間の好みによって分けられている。建物だけではなく、道路の装飾や服装までも区分によって変わるのだから、同じ街とは思えない程に様々な様式、文化を垣間見ることが出来るのだ。
その、葦原の和風建築が建ち並ぶ区分の一角に、朱雨の住家はあった。
純和風の武家屋敷のようなその家は、見る者に威圧感や厳格な雰囲気を感じさせるだろう。表札には「
しかし、門の上に取り付けられた、丸みを帯びた文字で「万屋」と書かれたカラフルな看板がどことなくシュールな印象を醸し出していた。
そんな、作った者とあえてこれを飾っている者のセンスを疑うような看板が飾られた建物の一部屋で、朱雨は机に向かって黙々と筆を滑らせていた。
「…………ふむ、こんなものか」
しばらくの間作業をしていた朱雨は、そう呟くと筆を置き、「ふう」と一息ついて座椅子にもたれた。
朱雨がやっていたのは、とある居酒屋から依頼された「うちの品書きを木札に書いてほしい」というものだ。三百年の歴史を持つ老舗であり、創立当時から使い続けてきた品書きがついに壊れてしまったらしく、新しい物が欲しかったそうだ。
固まった体をほぐすように大きく背伸びをした朱雨は、壁にかかっている振り子時計に目をやる。一定のリズムで振り子を揺らす時計の針は、酉二つをさしていた。
「ああ、もうこんな時間なのか」
今気づいたというようにそう言った朱雨は、立ち上がって部屋から出る。障子で遮られていた畳部屋の外には、更にガラス戸によって遮られた縁側があり、その先には月明かりに濡れた
朱雨がガラス戸を開けると、僅かに熱気を帯びた空気が肌に触れる。もう夏なのだな、と朱雨は飛び交う蛍を見ながら思い、天涯に映える満月を見上げた。
朱雨がこの国に来た時と変わらぬ輝きを誇る、
朱雨が天照国を訪れてもう一年が経過しようとしている。永琳との最初の実験の後、半年ほど天照国の住人の観察を行った朱雨は、自らも天照国の住人になる事を永琳に申し出たのである。
それに最初、永琳は当惑した。住人になる事は少しばかり手間がかかるが不可能ではないので、それに関しては別に構わなかったのだが、何故朱雨が天照国の住人になろうとするのか分からなかったからだ。
天照国の観察を行ってきた半年間、朱雨はずっと永琳の所で世話になっていた。まあ、朱雨は食事も衣服も必要としなかったので、拠点として八意亭の一室を貸していただけであったが。公的には朱雨は永琳の客人という扱いで通っており、半年間天照国のあらゆる事に関わる事なく、日々観察する事のみで過ごしてきた。そんな朱雨が、今更になって住人になりたいと言ったので、永琳は少し混乱したのだ。
無論、朱雨も面白半分や冗談で言ったわけではない。これには朱雨なりの訳があった。
朱雨は生物を観察するのに二つの段階を踏んでいる。一つ目は、その生物の生態や行動に徹底的に関与せず、ただ遠くから観察するというものだ。徹頭徹尾その生物を見る事のみに終始し、食事の摂り方や種を残す為の手段、天敵への対応の仕方などなどをじっと見続ける。それが、一つ目の段階だ。
二つ目は、その生物の生態系に自ら入って行く事で、実際にその生き方を体験するというものである。その生物に体細胞の根幹から擬態し、同じ食事を摂り、天敵に相対し、時には性交をしてその生物として生きるのだ。
何故、このような事を朱雨は行うのか。それは観察する生物を客観的な視点と、主観的な視点から観察する為だ。
客観的な視点とは文字通りであり、その生物の生態系の外から観察する事だ。その生物に溶け込む事なく、何故このような行動をするのか、どうしてこのように生きているのかと、第三者視点から考察する。こうする事で他の生物の生態と照らし合わせて何が良く、何が悪いかを知ることが出来る。
主観的な視点とは、その生物からみた自らの生態、そしてその生物に刻まれた進化の軌跡だ。ただ外から観察するだけでは分からない事もある。故に実際にその生物として生きる事で、見落としていた部分を発見し、その生物自身から見た自らの生き方を考えるのだ。そして、その生物の持つ本能、遺伝子によって伝えられてきた生きる術を知る為に、その生物に紛れ込むのである。
この方法が適当であるかなど朱雨は判断し切れていないが、朱雨にとって生物の観察はこの方法で事足りてきたので、適当かどうかなんて大した問題ではないと考えている。
まあ、つまり。半年の観察で客観的な視点は十分に確保したので、次は主観的な視点を手に入れる為に、天照国の住人となる必要があったのだ。
永琳はしばらく考え込んでいたが、それならばと了承し、朱雨は無事、天照国の住人権を獲得する事が出来た。ちなみに、「神亡」という苗字は、名前だけでは色々不便だろうと永琳が与えてくれたものである。他にも、金銭を都合してくれたり、周りの人間に口利きしてくれたりと、相当世話になった。
そうやって人間社会に入り込んだ朱雨は、人間社会は実に上手く出来ていると感じた。医療技術や貨幣制度一つをとってみても良く出来ており、人間は非常に高度な社会を築いていて、それは生命として素晴らしい事だと朱雨は考えた。
高度な社会を持てば、効率的な役割分担が出来る。生存する為に必要な要素を補給する個体、自らの進化の可能性を模索する個体、他種との闘争の為に戦う個体など、他のどの動植物よりも効率的に、群体としての行動を人間はとっている。
また、自分の種にとって害悪な同種を駆逐するシステムや、全体を生かす為に小数を斬り捨てる行動など、自浄作用ともいうべき能力は称賛の一言に尽きる。生まれついて欠陥を持つ個体や使えない個体まで生かそうとするのはいただけないが、それでも素晴らしい事には変わりはない。
「――やはり、ヒトは素晴らしい。心と云う徒爾を擁していようとも、それ以上に益のある可能性を享有している。ヒトを観察する事は、間違いではなかった」
薄く雲がかかり、その姿を
「……雨様ー? 何処にいらっしゃるのですか、朱雨様ー?」
「月夜見、そう大きな声を出さなくても、狭い家だからすぐ見つかるわよ。……ほら、そこにいたわ」
「ああ、そこにいらっしゃったのですね、朱雨様」
と、朱雨が佇んでいると、縁側の奥の方から聞き覚えのある声が聞こえてきた。見れば、いつも通りの赤青服を身に着け、憮然とした表情をしている永琳と、闇色の振袖を纏い、愛らしい笑みを浮かべる月夜見がいた。
「ふむ、永琳に月夜見か。こんな宵に何か用か?」
朱雨は執事のような立ち振る舞いで片手を広げ、薄い笑みを顔に貼りつけて永琳達に問う。しかし、朱雨は藍色の着流しを着ていたので、その動作は全く似合っていなかった。
それに、というわけではないが、永琳は朱雨の言葉に呆れたような表情で腕を組み、片目を閉じる。
「何か用か、じゃないでしょう。今日は貴方が天照国にきて丁度一年目の日なんだから、ちょっとしたお祝いをやるって言ったじゃない」
やや怒気が混じる声に朱雨ははっとしたように表情を変える。そういえばそんな事を言っていたな、と朱雨は頭の片隅で思い出し、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いや、すまない。ここの所忙しくてね、つい失念していた」
「全く。そんな事だろうと思ったから、わざわざこっちから出向いてきたのよ。その様子じゃ、食事も作っていないんでしょう? だからこっちで用意したわ。ねえ、月夜見」
「はい! 私と永琳様の二人で作ったのですよ。御口に合うかどうかは存じませんが、どうぞお召し上がりくださいませ」
永琳の流し目に元気な声で返事をする月夜見。その様子に相も変わらんな、と朱雨は思い、クスリと振りをした。
「どれ、それならば相伴にあずかるとしよう。二人が拵えたのだ、きっと美味いのだろうな」
朱雨のカラリとした言葉に、月夜見は困ったような笑みを浮かべた。
「あの、あまり期待して頂くのは少し……恥ずかしながら、永琳様とは違って私はあまり炊事を行わなくて、自信がありませんので……」
先祖代々従者の家系である永琳は普段から炊事、洗濯などの身の回りの世話から、何もない場所でのサバイバル能力までありとあらゆる事が叩き込まれている。まあ、永琳は従者としてより研究者、賢者として有能であったため、その技能はもっぱら自分の為にしか使う機会はないが。
そんな永琳とは違い、月夜見は生粋のやんごとなきお嬢様であるため、身の回りの雑務は使用人がやってくれるのである。それ故、月夜見はあくまで趣味、嗜む程度にしか料理をやった事がないのだ。
その為なのか自分を卑下するかのような事を言う月夜見に、永琳はフォローを入れる。
「あら、そんな事はないわよ。貴方の腕は確かなんだから、もっと自信を持ちなさい、月夜見」
「ほ、本当ですか!? 永琳様!」
「ええ。貴方の料理を一番多く食べているのは私よ。その私が言うんですもの、間違いないわ」
柔らかな口調で永琳は微笑む。その時、月夜見の目には永琳の背に聖母が見えたとかなんとか。というより、永琳そのものが聖母に見えたらしい。
「永琳様がそう言うなら間違いありません! さあ、早く行きましょう朱雨様! 私の料理のみでなく、永琳様が自ら腕を振るってくださった手料理がございますので! さあさあ早く!」
どんよりとした笑みから輝くような笑顔に変わった月夜見は、朱雨の腕を持って料理の置いてある居間へと引っ張っていく。それに朱雨は驚いたような表情を浮かべ、そのまま引っ張られていった。
その様子を微笑ましいと思いながら永琳は見送る。そして、二人の姿が縁側の奥へと消えた後、一息ついて先程の朱雨と同じように月を見上げた。
「……朱雨が天照国の住人となって、もう半年、か。最初、彼がこの国の住人になるなんて言い出した時は、不安な要素がたくさんあったものだけど……」
半年前、朱雨の申し出を了承した永琳だったが、快諾というわけではなかった。むしろ、渋々といった態度で、仕方なく許可したのである。
どうして永琳がそんな風に思ったのか。それは朱雨が半年間行ってきた、ただ観察する事、そこに問題があったからだ。
ここ半年間、朱雨は天照国を観察し続けていたが、八意亭でともに生活していた永琳もまた、朱雨を観察していた。これは研究者としての性と云うべきか、永琳には周囲の存在を無意識に観察してしまう癖が出来てしまっていたからだ。
それは永琳自身も意図しない観察であったが、その中での朱雨の生活は、一般的な人間の生活から大きく乖離していたのである。
まず眠らない。朝から晩まで国中を歩き回り、ただ見続ける。それだけなら二十四時間労働出来るというだけなので、問題がないとは言い切れないが許容出来る。しかし、それ以外が厄介なのだ。
一番心配なのは対人関係だ。八意亭には使用人がそれなりにいるが、朱雨は彼らに対して全くの無愛想だった。いや、無愛想というレベルではなく、必要会話さえ行わないのだから、不安は募るばかりである。
他にも、自分の為にしか行動しない、他人の事を気にかけない、発言に遠慮がない、風呂に入らないなど、社会に適合しきれない人間の典型のような行動を朱雨はしていたのだ。
特に、永琳にとって風呂に入らない事や衣服を変えない事が一番改めて欲しかった部分である。そんな事をしなくても朱雨は清潔であると分かっていても、心情的に言えばそれぐらいは最低限やって欲しかった。
とまあ、そんな非常に人間らしからぬ生活を半年間、全くぶれることなく行ってきた朱雨をいきなり社会に出すのは、永琳でなくとも気が引けるだろう。もとより人間ですらない朱雨ならばなおさらである。
しかし、そんな永琳の不安は杞憂であったというように、朱雨は何の問題もなく社会に適合した。むしろ、下手な社会人になりたての新卒君よりも上手く順応したのだ。
まず、永琳に金銭を借りた朱雨は人目に付きやすい住宅街に万屋を構えた。そしてあえて外観にそぐわない看板を飾り、見る者に印象を残すようにしたのである。しかしこれだけで人が来るわけはないので、朱雨は宣伝を行った。だが、それは金をかけてビラを配るようなものではなく、道端で困っている人を無償で助ける形での宣伝だった。
朱雨は国中を歩き、困っていそうな人を見かけると、普段からは考えられないような柔和な笑みを浮かべ、丁寧な口調で話しかける。そして悩みを無償で解決してやり、去り際に名刺を渡して少しだけ宣伝したのだ。
そうやって初めは無償でやっていき、徐々に「万屋」という存在を認知させていった。そして自分の元にやって来た依頼は幅広く、迅速かつ格安で行い、良心的で有能である事をアピールし、一定のリピーターを取得したのである。
また、周囲の住人との交流も大事にし、仕事先や買い物の時も礼儀正しく丁寧に過ごし、周りの人間に良い人物像を刷り込ませた。
他にも、専門的な知識や技術を必要とする仕事の依頼には、その専門職よりは雑に、しかし迅速に、適正価格より安くすることで他の職業とのバランスをとり、必要以上の依頼が来ないように印象操作をしたりして、朱雨は社会に完全に溶け込んだのだ。
そして今、朱雨は天照国の住人としての基盤を完全に確立し、全く無害な存在であると周囲に認識させている。朱雨が人間でない事を誰にも覚られる事無く、だ。
これは称賛に値する事だと、永琳は思う。人間程に高度な知能を持つ者は、外見のみではなく、体の造りや言動で人間とそれ以外を見分ける能力を持っている。それには個体差があるが、勘の良い者は出会った瞬間に見抜く事が出来る。
しかしそういった勘の良い者でさえ、朱雨が人外であると見抜く事は出来なかった。
どうして見抜けなかったのか。それは、朱雨が擬似的な人格を創り上げているかだと、永琳は推測する。
先程会話した中でも、朱雨は実に人間らしい行動をとっていた。月に情緒を感じ、己の間違いに恥じ入り、他者の行動に笑みを浮かべる。そういった心を持つ存在にのみ許される挙動を、朱雨は自然に行っていた。
それには始め永琳も驚いた。あれほど心を嫌厭していた朱雨が、ついに心を手に入れたかと錯覚した程、その動作はよどみがなかった。
……しかし。今になってみれば、それは単なる自分の希望でしかなかったと、永琳は思う。
朱雨が過去に受けた依頼の中に、ペット捜索の依頼があった。その時たまたま手が空いていた永琳は、たまには良いだろうと一緒に探してあげた事がある。彼の能力からすれば、生物を探し出すなど容易い事であったが、それでも手伝ってあげたかった。
しかし見つかったのはペットの亡骸だった。かなり高齢であったらしく、死因は老衰だったそうだ。それに永琳は涙し、朱雨も悲しげに目を閉じ、首を横に振っていた。
そして亡骸を飼い主の元に運んでやり、依頼を終えた帰り道。未だに悲しみから抜け出せない永琳は、ふと、隣の朱雨に目を向けた。
――そこにあったのは、底冷えするような冷めた瞳。まるで何も感じ入っていないかのような、初めて会った時と全く同じ無表情。
それは一瞬の事で、すぐに朱雨は感情を含んだ顔になったが、その時、永琳は悪寒を覚えながらも分かってしまった。
朱雨の人間のような行動は、全て擬態でしかなかったという事に。
先程の、驚いたような顔も、満足げな笑みも、気が付いたような表情も。全て朱雨が人間の中に溶け込むための擬態であり、朱雨の表層でしかなく、その本質は何も変わってはいなかった。
魔光が流れる月下の中、永琳はただ月を見続ける。朱雨に対して思いを馳せる事の、その虚しさを噛み締めるように。
「……朱雨、貴方は確かに素晴らしい存在よ。でも、ここは貴方の
それに、答える者はなく。
ただ、夜の帳に冷えた風が、永琳の銀の髪を揺らすだけだった。
「永琳様ー? どうかされたのですかー?」
そうやって永琳が月を眺めていると、心配そうな声が屋敷の奥から響いてくる。
「何でもないわ、月夜見」
それに苦笑して永琳は答え、最後に一度だけ月を一瞥し、屋敷の奥へと消えていった。
そして、縁側から誰もいなくなり、そこにはただ、異性を探して飛び回る蛍だけが残される。その全てを見続けていた満月は、面白いというように、その輝きを更に強めた。
आयुस्
朝起きて、歯を磨いて朝食を摂る。新聞で目新しい情報をチェックしながら身支度を整え、仕事に行く前の僅かな時間に朝のニュースをテレビで見る。
外で会った近所の人と笑顔で挨拶を交わし、その日の仕事に精一杯打ち込む。
昼時になれば行きつけの定食屋で昼食を摂り、常連客と他愛のない笑い話をする。食事が終わってもそれがしばらく続き、店員から咳払いを食らう事もしばしばだ。
午後にもまだまだ仕事はある。胃が満杯で眠くなるが、だからと言って寝る事はない。
夕方頃に仕事が終わり、得た賃金で買い物をする。買い物先でよく会う主婦達とご近所話をして、たまにひいきにしている店からサービスされる。
家に帰れば夕食を食べ、風呂に入って疲れを流す。一人静かに過ごしたり、友人とともに晩酌をしたりと、仕事を忘れる時間を楽しみ、明日の用意が終われば床に就く。
何処にでもある、平凡な生活。仕事と金と人情と、娯楽を楽しむ人間らしい生。日が昇ればまた、昨日と同じ今日が来る。しかし本当に同じ日は、一度としてやってこない。
絶え間ない日常の変化は、とても複雑で類似が多いけれど、それだけ人間が精巧で、一人一人が緻密な違いを持っているだけだ。それは、とても素晴らしい。
そうやって寝る前に、今日に思いを募らせながら、朱雨は明日へと眠りに落ちる。この雑多で
それが、朱雨の送る一日の