東方血界神 ~Creatures Paradise~   作:閼伽

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理外の化身、常識を破壊する者。

 

 

 

 

 快楽しかない生などない。だが、苦痛しかない生もない。

 

 

 

 

 天照国の夜は長い。むしろ、夜の深淵こそが天照国の本当の姿と言ってもいいだろう。既に人工灯や機械による生産法が確立している天照国では、生活の為に働く意味がなく、必ずしも昼に行動する必要はない。また、日光と月光に大した違いはないため、昼と夜の区分というのが殊更薄れている。

 

 それ故か、日々を娯楽や趣味の為に消費している天照国の民は、寿命が永いという点から子供よりも大人の方が多く、自然と「夜」の快楽を求める業界が発達していた。まあ、その他にも、意味を以て魔術と為す職業魔法使いの連中がいる事、夜を司る神を信仰する民が少なくはないという事――あるいは、夜そのものが昼間よりも清浄で在る事も、要因の一つなのかも知れない。

 

 日が西の彼方に沈み、前日と同じように欠けたる事無き満月が上る。変わる事なく天を戴く姿は、いっそ夢でも見ているとしか思えない程に現実味がない。

 

 それを遍く月光を浴び続ける地上の一角で、紅く黒い髪を夜風に揺らし満月を眺めている男、朱雨がいた。

 

「…………」

 

 じっと動かず、ただ静かに天へ伸びる真竹のように、朱雨は月を見据えている。ガラス玉のように無機質な瞳は分析を行う精密機械のような色を帯びており、それはまるであの天に輝く月が、偽物であると語っているようだった。

 

 月は、欠けるモノだと朱雨は知っている。経験からではなく物理法則に則った見解から、朱雨は地球の月は欠けなければならないものだと知っている。 

 

 月の光とはつまるところ太陽光の反射に過ぎない。月とは、天涯に浮かぶ巨大な鏡なのだ。そして月は地球の衛星である。

 

 月は地球の周りを廻っている。その速度は地球がその身を一回転させる時間のおおよそ三十倍ほどだ。その差が月に満ち欠けを与えるのである。

 

 乱雑な例え話になるが、暗闇の中に立っている事を想像してほしい。次に自分の背後から光が来ている事、そして手には人間の頭大の球を持っている。

 

 まず光に背を向ける事を前提として、自分の後ろにその球を置く。その場合、当たり前だが球を見る事は出来ない。背中にある物体を正面を見ながら見る事は出来ないからだ。これが地球から月が見えない状態、すなわち新月である。

 

 次に球を自分の横に置き横目でその球を見た場合、球の片側だけが光で見えていて、もう片側は光が当たっていないので見えない。それが月の満ち欠けで言うところの半月である。

 

 最後に自分の正面に玉を置きその球を見てみると、その球がはっきりと見える筈だ。自分の影に遮られるなんて野暮な事は考えないでほしい。まあ、それが満月なのである。

 

 今の例え話は太陽光をそのまま光、地球を自分、月を球に置き換えて説明したものだ。このように月とは物理法則に則って言えば欠けなければならず、二日連続、いや全ての夜に満月が上るなど在り得ないのだ。

 

 だが朱雨が見ている月はどうみても満月だ。昨晩見上げたあの満月と、全く同じものなのである。

 

 だからこそ、朱雨はあの満月を実在する虚構だと考える。

 

 この地球、あるいは世界には、朱雨が今まで認識する事がなかった力がある。精神作用ともいうべき万象の理を塗り変えるソレを、朱雨は未だに神力と妖力しか見抜いていないが、それらは永琳にでも聞こうと考えている。

 

 朱雨は、あの月にはその二つの力に属さない何かがあると分析していた。

 

 太陽が世界に生きる力と母なる海のような暖かさを与えるというのなら、あの月はそんなものとはおおよそ無縁の、世界の陰に潜む闇、命無き生命に力と存在意義を与えるものだ。

 

 夜天を支配する奈落の月。宵闇にただ一つ浮かぶソレは、世界の奥底にある狂気の魔貌が此方側を覗き込むための虚構の瞳。

 

 ――――あれは、何もかもを狂わせる。

 

 ……とまあ、そんな事は朱雨が地球に降り立つ前から見抜いていた事だ。朱雨が月を見上げているのは、現在の時刻を知る為である。

 

 朱雨はその永い年月を生きた膨大な経験則から、この時期の、この場所での月の位置、あるいは太陽の位置を観察する事で、現在の時刻がある程度分かるのだ。

 

(今の月の位置からすると、現在時刻はおそらく酉四つ刻。八意亭を出た時は確か羊二つ刻であったから……十刻程観察していたか)

 

 (まず)いな、と朱雨は思う。

 

 朱雨に質問を開始する前、永琳は言っていた。

 

『天照国は夜こそが真骨頂なの。だけど、貴方一人ではろくに観察もできないでしょう? だから、私も一緒について行くわ。昼は自由に行動してもいいけど、夜になったら一旦帰ってきてね』

 

 朱雨自身も夜になったら戻ってくると言っているのだ。それが初めて見るモノの観察に夢中になってしまい、結果として夜の帳が降り、少しばかり更けてしまった頃にその約束を思い出してしまったのである。

 

 約束、あるいは契約は守らねばならないモノだと朱雨は認識している。

 

 野生にも掟のようなモノはある。縄張りに入らない事や、その縄張りの獲物を勝手に喰らわない事。あるいは共存する生命のように互いの利益を守る事だ。約束や契約と言うのは、それに知能を付加する事によって生じるモノだと朱雨は認識しているのである。

 

 だから守らなければならない。この国、この縄張りの掟を守り、共生するための契約は遂行しなければならない。

 

 だが現在進行形で朱雨はそれを破っている。ならば朱雨に出来る事などただ一つしかない。

 

「……走るか」

 

 なんだかんだと思ったところで、走る以外にはないのだ。話せば分かる。我々は言葉を必要とするくらいに知能を持った生物なのだから。

 

 

 

 

「――だから、まずは落ち着こう永琳。私は契約を破ったが、それでも最大限努力はした。謝罪もした。何が悪いと言うんだ?」

 

「貴方の態度の全てよ! 走って帰って来る事が最大限の努力な訳が無いでしょう!! それと謝罪したってふざけているの!? 『すまなかった』の一言で全て片付くのなら学者はいらないのよ!!」

 

 まあ、当然の如く。朱雨の希望的観測とも言える「話せば分かる」は朱雨の在り方を憐れんで食事も摂らずに四刻も待っていた永琳に通じる筈もなく、八意亭に帰ってきた朱雨は般若のように怒り狂っている永琳に怒られていた。

 

 もともと永琳はそれ程怒ってはいなかった。夜になったら帰ると言っていたが、それでも時間指定はしていなかったわけであるし、その間永琳が待っていたのも永琳が勝手にやっていた事だ。朱雨が遅れて帰ってきても、仕方のない事だと言える。

 

 が、帰ってきた時の朱雨の言動は永琳の逆鱗を鋸で削るように逆撫でた。

 

 曰く、遅れてすまなかった、走って帰ってきた、では夜の天照国の観察に行こう。朱雨は三つしか話さず、頭さえ下げなかったのである。これには流石の永琳もカチンときて、遅れた経緯を問い質した所、朱雨は自身の思考から遅れた事について一片の罪悪感を抱いていない事まで明け透けに話したため、永琳は激怒したのである。

 

「すまなかっただけではない。悪かったとも言った筈だ」

 

「揚げ足を取らないでちょうだい! 両方ともまるで申し訳ないと思っていないかのように棒読みだったのが悪いと言っているの!!」

 

「それは先程も聞いた。まずは落ち着いて聞け、永琳。私はお前の言う礼儀が理解できない」

 

「理解出来なくても実践しなさい! それが人間のルールよ! 常識よ!」

 

「規則である事は理解できる。だが、今はそれを学ぶ時間の余裕がないだろう? だから、それよりも、早く夜の天照国の観察に行こ」

 

「それよりも!? 貴方今それよりもって言った!? 信じられない、このばかもの!」

 

「馬鹿ではない、私に知能はある。夜にも限りはあるのだ、だから早く天照国の案内をしてく」

 

「まだ言うのかおおばかもの! 貴方は黙って私の話を聞きなさい!!」

 

「いや、そんな暇は」

 

「――それ以上言うと、案内してあげないわよ」

 

「…………了解した」

 

 そして。

 

 その晩、永琳の朱雨に対する人間の何たるかの説明と説教は夜通し続き、結局、朱雨は夜の天照国の観察に行く事は出来なかった。

 

 

 

 

   आयुस्

 

 

 

 

 翌朝の事。昨晩、朱雨への説教が終わった後、永琳は不貞寝してしまったので夜の天照国の観察に行くことが出来なかった朱雨。仕方がないので朱雨も活動を停止し、休眠を取っていた。だが、眠った場所に問題があった。

 

 朱雨は休眠をとる時、自己防衛本能から気配をほぼ隠匿する。勘の鋭いものならばすぐに気が付くが、別に武人でもない永琳に気が付ける筈もなかった。それで、何が起こったか?

 

 永琳が目覚めた時、昨日の朱雨に対する仕打ちを若干後悔していて、朱雨に謝ろうと思っていた。そして、罪悪感からため息を吐きながら上半身の寝衣を脱ぎ、箪笥から新しい衣服を取り出そうとした時、箪笥の横で既に目覚めて永琳を凝視している(ように見えた)朱雨を発見したのである。

 

(――え? どうしてここに朱雨が? あれ? 私、昨日朱雨に何処で休めって言ったっけ? どうして? ここ私の部屋の筈よね? なんで? そういえば、私今どんな格好してるんだっけ――)

 

 あまりの事態に真っ白になった永琳は、同時に様々な事が頭の中で思い浮かんでは消えていく。そして、今の事態を認識し始めた途端、顔がカアッと赤くなる。

 

 そんな箪笥に手を掛けたままプルプルと震える永琳に、朱雨はいつも通りの無表情で止めの一言を放った。

 

「……ふむ、中々に情欲を誘う格好をしているな、永琳。ああ、いや、この状況では私が謝るべきなのだろうか? すまなか」

 

「きゃああああああああああああああああああああああ!!!」

 

 まあ、その止めの一言が誰にとっての止めであったのか。それは、八意亭に響いた絹を裂くような悲鳴と、永琳の矢によって吹っ飛ばされた朱雨を見れば一目瞭然だった。

 

「……………………」

 

「……………………」

 

 天照国は円形の国である。周囲を城壁で囲い、砂漠で閉ざされたその国は、八卦によって方角を定めていた。

 

 例えば、八戯莉ノ森は東北、(ゴン)の方角に存在する。鬼門でもあるその方角に八戯莉ノ森があるのは偶然ではなく、天照国の創立者、天照がそのように国を作ったのだ。

 

 八卦に国をなぞらえ、それぞれの方角に応じた区画があり、それが天照国を八つの区画に分けているのである。

 

「……………………」

 

「……………………」

 

 とはいえ、八卦になぞらえているというのは半ば適当なものだ。創立当時は八卦の研究はまだ進んでおらず、方角を示す言葉の代わりに用いられていた程度の代物である。故に八卦に対応した施設がその区画にある、というわけではない。鬼門だけが定められている理由は、八卦ではなく風水の関係に過ぎない。

 

 例えば、八意亭は西の方角、()の位置にある区画『八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)』に建てられている。この区画はいわゆる上流階級が住んでいる区画であり、八意亭のような豪邸が少数であるが存在する。

 

「……………………」

 

「……………………」

 

 現在永琳と朱雨は八意亭のある区画から右下にある、中心から見て西南の方角、(コン)の位置にある区画である科想研究所『八咫鏡(やたのかがみ)』へと向かっていた。何故なら、朱雨が昨日犯した契約不履行と今朝方起きた事故により、永琳が朱雨に実験に付き合うように強要したからである。

 

 流石に悪かった、などと言う感情は一片も抱いていない朱雨であったが、契約の補填はしなければならないとは考えていた。そこに今朝方の事故が起き、朱雨が永琳にこの埋め合わせはどうすれば良いと土下座をしながら聞いたところ、実験に付き合う事が条件である、という事になったのだ。

 

 ちなみに土下座は昨日永琳にやられた説教で覚えた。

 

「……………………」

 

「……………………」

 

 勿論、朱雨と永琳は徒歩で八咫鏡に向かっているのではない。天照国には車があり、それに乗って移動しているのである。彼らが乗っているのは、八意家の持つ高級車だ。当然、専属の運転手も就いている。

 

 だが乗る人間の事を最優先に考えられて作られた、車の中とは思えない程に快適な空間は、ひどく居心地が悪い沈黙に包まれていた。

 

 表向きは澄ました顔をした永琳だが、その身から発せられるオーラからして明らかに怒っている。その隣にいる朱雨は永琳から夜通し聞かされた人間のルール、というより道徳の実践をしていて、こういった状況下で不用意に声をかける事は拙いと理解していた。まあ、本能的に危機を察知していた部分もあるが。

 

「……朱雨」

 

「……なんだ、永琳」

 

「……これから行う実験の説明をしておくわ」

 

「……了承した」

 

 八意亭を出てから一言も言葉を交わしていない二人は、永琳から口火を切る形で会話を始める。内容は事務的なものであったが、朱雨にとってはむしろその方が良かった。

 

 無為に心を混ぜられて話されるより、機械的な意思疎通の方が朱雨の性にあっている。

 

「まず、貴方がやってもらう実験は四つよ。一つ目は血液の検査。二つ目は貴方が血液で為せる事の検証。三つ目は貴方の言う『万物に変化をもたらす力』の解析。四つ目は貴方の体内である異界の調査よ。四つ目に関しては、私達の技術を結集しても調査不可能なら断念するけどね」

 

「了解した」

 

「あと、質問があるなら先に言ってちょうだい。認識の齟齬(そご)は無いに越した事はないから」

 

「ふむ……そうだな、二番目の実験について質問がある」

 

「何かしら?」

 

「私の血液で出来る事と言ったが、具体的にどのような事をするんだ?」

 

「そうね……血液でどの位まで物質の造形が可能なのか、精神作用である四つの力に対抗する事は可能なのか、といった事ね。物理的、精神的な方面から実験を行うわ」

 

「了解した」

 

「他に質問はあるかしら?」

 

「いや、問題ない」

 

「そう」

 

「……………………」

 

「……………………」

 

 再び車内に流れる沈黙。その重みは精神に負荷をかけすぎて内臓にまで被害が及ぶレベルであったが、その中で一番胃が痛い思いをしていたのは、未だに怒りを燃やしている永琳でもなく、その空気になんら苦痛を感じていない朱雨でもなく、黙々と運転をし続けるしかない憐れな運転手だった。

 

 

 

 

「……着いたわ。ここが、科想研究所『八咫鏡』よ」

 

「――ほう。中々に防護機構に優れた建物だな」

 

 車を降りた朱雨の目に飛び込んできたものは、視界を覆う巨大な白い建物だった。

 

 窓と呼べるものは一切なく、ひたすらに白い壁が続いている。正面にある入り口以外に出入口はなく、高さは八戯莉がその長い体躯を伸ばしてもあと数倍は長くないと届かない程に高い。出入口の上下左右にも強固な遮断壁が存在しているようだ。

 

 外からの侵入、そして内からの脱出を防ぐ為の建物。こんなものを作る理由は、広まっては危険なモノを扱う事を前提としているのか、あるいは勝手の知らないモノに這入(はい)られると困るのだろうと朱雨は推測する。

 

 そうして建物を観察している朱雨に、既に入り口に立っていた永琳が声をかける。

 

「来なさい、朱雨。貴方の事を彼女に登録してもらわないといけないから」

 

「彼女? 彼女とは誰の事だ?」

 

「ここの管理をしているAIの事よ。名前はウズメと言うわ」

 

 朱雨が永琳の隣につくと、永琳は懐からカードを取り出し、入り口の横についている「八咫鏡」と書かれている表札にかざす。朱雨は、永琳がそのカードに何かの力を流すのをじっと見ていた。

 

 永琳がカードに流したのは霊力だ。霊力の性質は人によって差異があり、それで判別を行っているのである。また、カードにどのように霊力を流すかにも決まりがあり、一つでも間違えればたちまちカードが崩壊し、使用者の霊力をマーク、即座に拘束される事になる。

 

 プシュリ、と空気が抜ける音をたてて扉が開く。永琳は堂々とその中に入っていき、朱雨も続こうとする。が、それを永琳が朱雨に手を向けて静止させた。

 

「悪いけど、貴方にはここで待っててもらうわ、朱雨。彼女は登録した人間以外の存在が入り込んだら即座に迎撃態勢をとるの。だから登録手続きを私が中でやってくるまで待っててちょうだい」

 

 永琳は銀の三つ編みを揺らし、颯爽と研究所へ入っていく。朱雨は、それを何の感情もない目で見送り、再び建物の観察をした。

 

 トントン、と軽く外壁を叩きながら、朱雨は考える。ここまで高い硬度を持つ物質を、朱雨は自然界で見た事がない。それはつまり、ヒトが意図的に創りだした物だという事を示している。大地から感じる触感から、地下から建物内に何かが通っている事は分かるが、それもとても強固なもので、何が出入りしているのかは全く分からなかった。

 

「お待たせ」

 

 そうやって朱雨が時間をつぶしていると、十分ほどで永琳は戻ってきて、朱雨に幾何学模様の描かれた金属光沢のある腕輪を渡す。だが、朱雨にはそれが腕輪であることが理解できなかった。

 

 朱雨が見た事のないものを見た時の人間のような動作で、無表情にそれを見ていると、永琳は朱雨が腕輪を理解していない事を察し、腕輪を一旦朱雨から取り上げ、朱雨の腕を掴む。

 

 朱雨はそれに警戒の色を見せるが、永琳は薄く微笑んで諭すように言った。

 

「大丈夫よ、安心して。これは危害を与える物ではないわ。一時的に登録するためのデバイスよ。これをつければ、八咫鏡に入ることが出来るわ」

 

「……ふむ、了解した」

 

 永琳は腕輪の模様の一つを押す。すると、腕輪は二つに分かれた。それを、永琳は朱雨の手首に嵌める。

 

 キュイイイン、と歯車が高速で回るような高い音が聞こえ、幾何学模様が鮮やかに発光した。数秒ほどそれは続き、発光が終わった後、唐突に女性の声が流れた。

 

『身体情報確認。パーソナルネーム【朱雨】登録しました。これよりデバイスの破棄、規定に違反する行為を行うまで、朱雨の八咫鏡への入場を許可します』

 

 事務的ではあるが、人間味を感じさせる高い声だ。それが腕輪から発せられる事に朱雨は僅かに驚き、しげしげと観察する。そして、一人納得したように首を縦に振った。

 

「じゃあ、行きましょう」

 

 永琳はその様子にクスリと可愛らしく笑い、微笑みながら背を向けて八咫鏡へ入っていく。腕輪から目を離した朱雨はゆっくりとした足取りでついて行った。

 

 八咫鏡の中は非常に清潔感に溢れていた。床は鏡と見紛う程に光沢を発しており、壁や天井もシミ一つない白を保っている。中には太陽光が届かないため、天井についた電灯が均一な光を放っていた。

 

 しかしこの施設で働いている人間は案外少ない。せいぜいが百から二百程度だろう。これは天照国の科学者の人口量が少ないからである。そのためか労働力の代わりとして、機械人形がやたらと目につく。見た目は完全に人間なのだが、朱雨は一瞬で人形だと見抜いていた。

 

 その人と機械が混じった通路を、永琳はツカツカと靴を鳴らして迷いのない足取りで歩いていた。朱雨は、その後ろを周りを観察しながらついて行っている。

 

「こっちよ、朱雨。この先に人体の精密検査が出来る場所があるわ。そこで貴方の血液を調べさせてもらうわよ」

 

「ああ」

 

 朱雨は入ってからずっとこの施設内を観察しているが、いくつも同じような扉や通路があり、一人で迷い込んだ場合、脱出するのに手間取りそうだと感じていた。

 

 と、朱雨はふと、自身も周りで働いている人間から観察されている事に気づく。そちらの方に視線を向ければ、数人の男女が遠目でこちらを見ながらひそひそと話していた。

 

 朱雨は耳を澄まし、その音声を拾う。

 

(……――ねえねえ、あれが朱雨って人かな?)

 

(たぶんそうよ。だって永琳様と一緒に歩いているんだもの、間違いないわ)

 

(とすると、あの男が八戯莉を追い払ったっていうのか?)

 

(そうなるね。霊力とか感じないからどうやって追い払ったのか気になるけど)

 

(本当にねー。噂じゃ、妖怪だとかただの蛮人だとか言われてるみたいなんだけど)

 

(実際の所、どういった存在なのかは分からないわね)

 

(俺はただの蛮人だと思うがな。あんな優男に、八戯莉を追い払える筈がねえ)

 

(私もそう思うわね。彼、何の力も感じないもの)

 

(先入観は禁物だよ。何も感じなくても、僕たちには分からない何かを持っているかも知れないし)

 

(あ! そうだ! あたしね、気になる噂を聞いたんだけど!)

 

(へえ、どんな噂?)

 

(僕も気になるなー)

 

(……俺はいい。お前の噂話はあてにならねえ)

 

(そんなことないよ! ひどいなぁ、もぉ! えっとね、結構有名な噂なんだけどね――あの朱雨って人、永琳様が一目惚れしたから連れて来たらしいんだ!)

 

(……………………)

 

(……………………)

 

(……………………)

 

(……えっと、あの永琳様がそんな事するかなー)

 

(……だから言ったんだ、お前の噂はあてにならねえってな)

 

(……にわかには信じがたい話ね。あの永琳様がそんな事するかしら?)

 

(うえ!? みんなひどくない!? でもでもだって、確かにあるんだよ! そうゆう噂が!)

 

(あくまで噂なんだろ? しかも、眉唾以下の代物じゃねえか)

 

(そうだねー。流石に一目惚れってないと思うなー)

 

(……でも、有り得ない話ではないと思うわ)

 

(でしょでしょ!)

 

(なんでだよ、絶対ねえだろ)

 

(僕もないと思う)

 

(男には分からないわよ、女心ってものはね。恋って、いつも突然なのよ。ある日ばったり出会った事が運命だって感じる事もあるわ)

 

(そうそう! 永琳様って堅物っぽいところあったけど、やっぱり女の子なんだから! それにさ、八戯莉ノ森で夜に会ったらしいじゃん!? 月明かりが輝く夜の中、絶体絶命の自分を助けてくれた白馬に乗った王子様――これは絶対惚れるよ!)

 

(どっから出てきたその設定。てか、お前の妄想だろそれ)

 

(アハハハ。まあ、彼女の妄想話はいつもの事だから、気にしない気にしない)

 

(……私も、流石にそれはないと思うわ)

 

(ええ~!? あるってあるって! 絶対あるって! もう、みんないつも私の事馬鹿にするんだから! 大体、あの永琳様が男の人を連れて来たって事がそもそも――……)

 

「着いたわよ、朱雨」

 

 会話を聞くことに集中していた朱雨は、永琳の声によって澄ました聴覚を元に戻す。何か収穫があるかと思ったが、会話の内容から得るモノはなかった。

 

 朱雨はそう思い、永琳が立ち止っている扉の中へと入っていくのだった。

 

 

 

 

「――何、これ……信じられない……」

 

 作業デスクの上で顕微鏡を覗き込んでいた永琳は、朱雨の血液に愕然とする。

 

 朱雨の血液には人間の血液に含まれている物質は存在した。いや、含まれている物質も存在したと言うべきだろう。

 

 そこにあったのは混沌。無数の物質が入り混じり、血液としての役目さえも放棄したかのような圧倒的な物質の奔流。

 

「在り得ない……」

 

 呆然と永琳は呟く。永琳の横では朱雨の血液成分を解析していたコンピュータが、その解析結果をプリントアウトしていた。永琳はそれに素早く目を通し、更に驚愕を強くする。

 

 そこに書かれていたのは、自然界に存在するほぼ全ての原子の名前だった。つまり、朱雨の血液にはほぼ全ての原子が含まれているのである。

 

 ふざけた話だ。ここまでふざけた話があるか。今の永琳の頭を支配するのは、そんな言葉ばかりだった。

 

「何か分かったのか、永琳」

 

「…………分かったなんてものじゃないわ、朱雨。貴方は、こんなモノを血液として使っているの……?」

 

 何の感情も宿さない無表情で聞いてくる朱雨に、永琳は半ば呆然自失という態で朱雨へと検査結果を報告する。

 

「……貴方の血液は、おおよそ生物の血液ではないわ。いえ、ある意味では最も生命に近いと言えるものでしょうね……。貴方の血液は、秩序を持たないカオスそのもの。地球をそのまま液体に変えてしまったかのような、この世の全てが混じり合った紅い雫……。本当に信じられない。貴方の血液は、あらゆる生命を創り出す生命の原典よ」

 

 永琳は前髪をくしゃりと握り、飲みきれない程の苦渋を噛みつぶすような表情で朱雨を睨む。

 

 永琳は学者だ。世界の理を解き明かし、今よりも更により良いモノを創り出す事に快楽を見出す存在である。特に永琳のような学者は未知を好み、知らない事があれば徹底的に追究し、それを知る事で悦びを得るのだ。

 

 だが、それは今まで築き上げてきた自身の理から外に出ないモノだ。どんな未知を調べようと、それは世界の枠組みから逸脱する事はないのである。

 

 しかし、朱雨という存在は永琳の常識(せかい)をいとも容易く破壊した。こんなものは、この地球上に在り得ない。この存在は、己が追究し発見した真理を、呆気なく崩壊させる。

 

 始めは地球外の生命体に、未知に出会えた事がたまらなく嬉しかった。でもその成り立ちはあまりに悲惨で、朱雨という存在はあまりに残酷だった。そして今。永琳は目の前の存在に確かに憎しみを抱いている。

 

 何故、この男は私の真理を容易く破壊していくのか。何故、こうも私の心を掻き乱すのか。何故、この男は私と出遭ってしまったのか――

 

 永琳の頭に溢れているのは、そんな感情ばかりだ。それを俯瞰(ふかん)して見ている冷静な自分がいて、こんな事を思っている自分が許せなくなってしまう。

 

「――どうした、永琳」

 

「え!? あ、ああ、大丈夫よ。ちょっと、考え事をしていただけだから……」

 

 朱雨に声を掛けられ、いけない、と永琳は頭を振る。こんな事を思ってしまっては、まともな事を考えられなくなってしまう。

 

「とりあえず、これで貴方の血液の事は理解出来たわ。このデータと推測をもとに、次の実験を行いましょう」

 

「了解した」

 

 永琳は実験結果が書かれた紙を束ねてクリップボードに挟み、小脇に抱えて立ち上がる。朱雨もそれに続き、永琳の後について行った。

 

 そして、その部屋から出る時、永琳は朱雨から採取した血液サンプルを保管した場所を一瞬だけ見る。

 

(――あれは、何かに使えるかもしれないわね)

 

 永琳はそう考え、朱雨とともに部屋から出て行った。

 

「まあ、永琳様! 永琳様ではありませんか!」

 

 と、部屋から出てきた永琳と朱雨に、花咲くような明るい声がかけられる。そちらの方に永琳と朱雨が目を向けると、そこには永琳と同じような白衣を着た、美しい黒髪の女性が立っていた。朱雨はその姿に既視感を覚える。

 

「月夜見! 久しぶりね、元気だった?」

 

 永琳の方も顔をほころばせて、月夜見と呼ばれた女性と抱擁を交わす。その名前が出てきて、朱雨は目の前の女性が昨日会った月夜見と言う女性と同一人物である事を理解した。

 

「もちろんですとも! 先日お帰りになられていた事は耳にしていたのですが、忙しくて挨拶にさえ伺う事が出来ず、大変申し訳ございませんでした……」

 

「いいのよそんな事、貴方に悪いわ。それとそんなにかしこまらないで、月夜見。私と貴女は同じ立場でしょう? 貴女にばかり頭を下げさせていたら、申し訳ないわ」

 

「とんでもございません! 永琳様は不肖の身である(わたくし)の憧れなのですから! 永琳様が気にする必要はございません!」

 

「そ、そう。ならいいわ」

 

 頬を上気させて光り輝かんばかりの笑顔を浮かべている月夜見の発言に、永琳は若干押されながら頷く。

 

「はい! ……あら? そちらの方は――」

 

 永琳との再会がよほど嬉しかったのか、そこでようやく朱雨の存在に気が付く月夜見。

 

「ああ、彼は」

 

「――つい先日、路上でお会いになった御仁ですよね」

 

「朱雨って言って……え?」

 

 月夜見に朱雨の事を説明しようとした永琳は、月夜見から出た思いもよらない発言に言葉を止め、朱雨の方へ視線を投げる。

 

「……そうだな。お前とは、昨晩路上で遭遇した記憶がある」

 

 朱雨は相変わらずの無表情だったが、しっかりと月夜見の方を見ていた。

 

「知り合いなの?」

 

 その中で話について行けていない永琳は、困惑した表情でどちらを問わず、疑問を投げかける。

 

「あ、はい! 知り合いという程ではございませんが、こちらの殿方とは、先日の夜、八尺瓊勾玉の一角でお会いになったのです」

 

 それに、月夜見は先生の問題に勢いよく手を挙げて答える元気な子供のように、はつらつと永琳に説明した。

 

「ああ、なるほどね」

 

 その言葉に永琳は納得し、問題に正解した子供を褒めるように月夜見を撫でる。月夜見は顔を緩ませて永琳のナデナデを享受していたが、それが終わると、名残惜しそうな顔をした後、朱雨を何やら確信を含んだ瞳で見た。

 

「永琳様と一緒におられるという事は、貴方が、朱雨様なのですね?」

 

「……ああ、そうだ。私の名は朱雨で通している」

 

「まあ、やはりそうでしたの! 噂は聞いておりますわ」

 

「え? 噂?」

 

 月夜見が放った「噂」という単語に、引っかかるような感覚を永琳は覚える。もしかしたら、下手にネガティブな噂が流れているかも知れない。

 

「ええ、なんでも、あの八戯莉をたった一人で追い払ったとか」

 

「ああ、なんだ。その事ね。それは本当よ、月夜見」

 

「そうなのですか!?」

 

 しかし、月夜見の口から出てきた噂は懸念していた事ではなかった。その事に永琳はほっとするが、月夜見は不意に表情を曇らせる。

 

「信じられない噂もありましたが、もしかしたらそれも本当なのかもしれませんね……。

 

 

 ――永琳様が、一目惚れをした男性を連れて帰った、という噂も」

 

 

「…………へ?」

 

 永琳は間抜けな声をあげて、月夜見が放った核弾頭のような一言に頭が真っ白になる。理性が言葉の内容を理解する事を拒否する中、永琳はその言葉を無意識に咀嚼した。

 

(え? なに? なにそれ? 私が、朱雨に、一目惚れ? どうしてそんな噂が? 男を連れて帰ってきた? なによそれ?)

 

「ちょっとそれどうゆう」

 

「ああ、その話なら私も聞いたな」

 

「事ってええ!?」

 

 慌てて月夜見に真意を問い質そうとした永琳は、朱雨が火中に薪を放り投げるような一言で更に混乱する。永琳はグワシと朱雨の胸ぐらを掴み、混乱と怒りが混じった表情で朱雨に咆えた。

 

「何よそれ! どうして貴方が知っているの!」

 

「いや、何故、知って、いるかと、言われて、もな。まずは、私の、頭を、振るのを、やめろ」

 

 ブンブンと朱雨の頭を前後に揺らす永琳。背丈では明らかに永琳に勝っているのに、されるがままに頭を揺らされ続ける朱雨は、全く表情を変えずに、しかしどこか辛そうに永琳にやめるように言う。

 

「あ、ごめんなさい……。って、そんな事はどうでもいいの! どうして貴方が知っているのよ!」

 

 一瞬だけ申し訳なさそうな顔を永琳は浮かべたが、次の瞬間には怒りの形相で理不尽な事を朱雨に言い、問い質した。朱雨に心があったのなら、泣いていたかもしれない。

 

「……先程、廊下で数人の男女がその話をしていた。蛮人がどうの、一目惚れがどうのとな」

 

「そ、そうなの!?」

 

「ああ。あの様子では、かなり広まっていそうだったな」

 

「そん、な……。つ、月夜見!」

 

 朱雨の心無き回答に、永琳は最悪の事態を想定する。そうなっていないように心の中で心底願いながら月夜見を呼ぶが、月夜見は表情に影をいれて首を振った。

 

「残念ですが、その噂は国中に広まっております、永琳様」

 

「そんな……そんな事って……」

 

 永琳は朱雨から手を放すと、ふらりと床にへたり込む。「永琳様!」と月夜見が叫ぶが、今の永琳に言葉は届かなかった。

 

(どうして、どうしてこんな事になったの? どうして私が朱雨に一目惚れしたなんて噂が流れるのよ。私が男の人を連れてくるのがそんなに珍しいっていうの? 明日からどんな顔して外を歩けばいいのよ! そうよ、そもそも朱雨がいたからこんな事になったんだわ。私がこんな憂鬱にならなくちゃならないのも、八戯莉討伐命令が私に出されたのも、世界の未知が解明できないのも! 全部全部、朱雨のせい!!)

 

 何やら怒りや混乱がないまぜになって、永琳の思考がおかしな方向へぶっ飛んでいる。いや、元からマッドな所はあったのだが。

 

 どうも、永琳はフラストレーションを溜めやすいようだ。そうやって心に鬱憤を積み重ねて、ふとした時に爆発するのだ。今回はその矛先が朱雨に向けられている。

 

 フラリ、と立ち上がる永琳。その光景にどこか既視感を覚えながら、朱雨はまたしても最悪のタイミングで永琳の理性を叩き壊す言葉を放った。

 

「どうした、永琳。一目惚れなんてものは、詰まる所異性に欲情する事だろう? そんな事は生命として当然であり、人間に擬態している私に欲情したところでどうという事は」

 

「なんて事を言うの貴方は!! そんなんだから全部貴方のせいなのよ――――!!!」

 

 永琳、渾身のアッパーカット。

 

 それをまともに喰らった朱雨は、一瞬だけ明滅した視界の中、こう思った。

 

 やはり、心は度し難い。

 


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