東方血界神 ~Creatures Paradise~   作:閼伽

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死を以て、朱雨は菩薩と対話する。

 

 

 

 私は正義を是認しない。私は悪を容認しない。誰もが欲望を叶えているだけだ。

 

 

 

 

 善行とは何だろうか。それは朱雨にとって、永遠に理解しえない言葉だろう。なぜなら善行に利益はなく、己の為ではなく他の為に行動する意味を、彼は見出せないからだ。何処までも何処までも、自らの進化に終始する――神亡朱雨と云う存在は、その為だけに存命を続けている。

 

 善い行いとは何か。それは知性ある生物が利害ではなく理想を求める時、初めて出来る行為である。自然の無情に飲み込まれていく弱者に憐れみを感じ、手を差し伸べて助けようとする――時に「悪し」と貶されるそれは、人間の持ちうる最も美しい感情の一つだ。その慈悲がいつしか腐り、現世を謳歌するのみへと堕落しようとも。慈悲の手を差し伸べる者は、決して絶えはしないだろう。

 

 善とは何か。その言葉を定義する事は、おそらく出来ない。人はあまりにも多くの言葉を持ち、あまりにも多くの知識を有し過ぎた。それ故に善性も悪性も細分化され、誰しにも当て嵌まる明確な解を見つけられなくなってしまった。答え無き「善」と云う言葉。皆が知っているのは、それが途方もない難行であるという事だけだ。

 

 人は誰もが善であろうと意識しながら、どこかで悪心に憧れている。欲のままに生きられれば他者を顧みる必要もなく、苦しい思いをする必要もなく、刹那の幸せで人生を埋められるからだ。だから少しでも人生を愉しく生きようと幸福に執着し、輪廻を延々と回っている。時の流れに押されて、壊れ果てるまで廻り続ける歯車のように、延々と。

 

 その執着を、哀れと思う者達がいた。元々が人だったのか、初めから人では無かったのか。出生は定かではないが、この世とは違う場所に領土を持つ、超越者達がいた。永遠のない世界で永遠に執着する人々を救うために、彼らは無数の僕を現世へ送り出す。悩み苦しむ人々を救済する、ただそれだけを一心に行う僕を。

 

 人はそれを、地蔵菩薩と呼んでいる。六道輪廻の全ての衆生を救済する、慈悲深き仏は今、一つの生命と相対していた。

 

 人のようで人ではない、なのに人と同じ迷いを抱く、たった独りの生命と――

 

 

 

 

 黒い雲は天を隠し、暗澹の景色を留め続ける。時折その身体に流れる一筋の雷光は傷口のように空を裂き、そこから雲が噴き出してじわじわと膨れ上がっていた。雨はまだ、止む様子が無い。二日に渡り振り続ける天の恵みから身を隠す朱雨は、山の中に小さく縁取られた洞穴の入り口に立って、外をじっと観察している。

 

「……この雨は、自然のモノではない。故にこの世の法則に縛られず、純粋な利益だけを生んでいる。どれ程雨を吸い取ろうと植物が腐れる事はなく、獣はいくら雨に打たれても体温が奪われない。大地の乾きを潤し、命を繋ぐだけに終始する……神の力とは、随分と便利なものだ」

 

 朱雨の紅い瞳には、大木でさえ倒れそうなくらい強烈な豪雨を、まるで意に介さず羽ばたく鳥が写っていた。もう土色ではない、雨が集まっただけの濁流の先を眺めてみれば、猪の群れが呑気に水を飲んでいる。彼らはこの雨が不利益を招かない事を、本能的に分かっているのだろう。

 

 おそらくは人間も、天道に光が満ちている時と同じように、雨の中を動き回れるはずだ。天候を捻じ曲げた神が住まう洩矢の王国では、きっと今も変わらぬ日常が続いている。人間がそうやって生きているのなら、人間に擬態している朱雨が洞窟から出ても問題ないはずだ。だが朱雨は入り口に立つだけで、決して外に出ようとはしなかった。

 

「しかし、その便利さが私にとっては不都合だな。自然に利益のみを与える雨を降らせられるなら、その逆もまた然り。悪しき不自然に不利益のみを注ぐ事も可能だ。諏訪子にとって、私は悪。だから私には呪いが降り憑く。(あやかし)の類も似たり寄ったりな状況に追い込まれているのだろうな」

 

 朱雨が洞窟の外へ手を伸ばすと、雨に打たれる腕がぬるい呪いに蝕まれる。人間に換算すれば一滴で致死する程度の微小な呪怨に過ぎないそれを、興味のない冷めた眼で流し見て払い捨てた。別にそのまま呪われていても構わないが、今は呪詛を目ざとく見つける同居人がいる。見つかりでもして事情を話す破目になれば、正義感溢れる彼女は確実に洩矢の王国に乗り込むのは想像に難くない。

 

「諏訪子と協定を結んでいる以上、己の不始末で不利な状況をつくるのは好ましくない。本来ならばあいつと別離するのが一番の得策だが……さりとて独断であいつの元から離れるも叶わん。全く、本当に面倒だ」

 

「何が面倒なのですか?」

 

 垂れ込めた雨空に黄昏(たそがれ)ながら、朱雨は珍しくぼやいていたところ、唐突に洞窟の奥から高い声が響いてきた。音声の波紋や音量などの細部に至るまで記録できるくらい、二日に渡り聞かされ、聞き飽きた声だ。まだ眠っている筈の彼女の声に、朱雨は辟易としたため息を吐く。そしてそっと入り口から離れ、彼女がいるたき火のそばまで歩いて行った。

 

「お前に聞き取れる音量で言葉を口にしていた訳ではないのだがな。何故気付くのか、私はいつも理解出来ない。お前のその性質を比喩するなら、地獄耳と云うべきか。あるいは十人の声を同時に理解し、同時に答えを返した人物になぞらえて、豊聡耳(とよさとみみ)と呼ぶべきか」

 

「私はその方ほど素晴らしい力を持っているわけではありませんよ。ただ、貴方はとても素直です。ですから思う事、考える事が全て表情に現れている。私はそれを読み取って、貴方の考えを見透かしているに過ぎません」

 

「それも十分、称賛に値する能力だ」

 

 たき火の前までやってきた朱雨は適当な場所に腰を下ろす。たき火に照らされる能面の顔は、相も変わらず感情が一つも描かれていない。そんな男の顔を見て思考を読めるというのだから、彼女の能力も相当だ。また一つ、もはや生態となっている観察の記録を更新して、朱雨は揺れる炎に薪をくべた。新たな火種に身を猛らせる熱を挟んで、彼の正面で膝を抱え込む少女、映姫は芯の通った声を彼に投げかける。

 

「それで、何が面倒なのですか? 何か私に知られてはまずい、疾しい事でもあるのですか?」

 

「いや、そうではない。雨が降り止まないせいでお前から離れられないのが面倒だと考えただけだ」

 

「それを疾しいというのですよ、朱雨。全く、貴方は本当に素直ですね。言葉を飾らず、偽らない。嘘をつかないのは善い事ですが、嘘をつかなければ何を言ってもいいという訳ではありません。抜き身の想いは刃となり、知らず誰かを傷付けてしまう。だから人には言葉が必要なのです。もっと言葉を知りなさい。人に合わせて言葉を変えるという事は、決して悪い事ではないのだから」

 

「憶えておこう。言葉遣い一つで無用な争いを回避できるなら、それに越した事はない」

 

「……私はそんなつもりで言ったわけじゃないのだけど……まあいいわ。どう解釈するかはともかく、飲み込みだけは早いのだし」

 

 青い珊瑚の瞳を半分隠して映姫はじと~っと朱雨を見る。そんな非難混じりの視線を朱雨は意に介さず、たき火の火加減を調節していた。話をきちんと理解するが、実践しようとはしない。朱雨は初めから自分になど興味が無いと知りつつも、映姫は彼への説教を止めようとは思わなかった。なぜなら彼は、多くの衆生と同じように迷いを抱いているからだ。

 

 朱雨は無表情に薪をくべている。でも映姫には、瞬きさえしない深紅の瞳の奥底に、彼の手に負えない現世(うつよ)の惑いが視えていた。葛藤、模索、そして諦念――自分を乱す迷いから逃げようとして、それでも逃げ切れない。どうしようもない何かに苛立って、一歩も進めない男が居る事を、映姫は理解していた。しかし同時に、その迷いが何であるか、彼女は分からないでいた。

 

「朱雨。改めて聞きたい事があるのですが、いいですか?」

 

「何を聞きたい?」

 

 映姫がはっきり尋ねると、朱雨は微動だにせず返答した。見た目は何ら変わらない彼の姿に、映姫は明確な変化を捉える。炎が揺らめく紅い双眸から、ふっと迷いが消えたのだ。小さな燈火が前触れなく立ち消えるように、忽然と視えなくなってしまったのである。朱雨は話をする時、何故か迷いを何処かへ追いやる――それを知っている映姫は、あえて彼に率直な問いを突き付けた。

 

「一体何が、貴方を悩ませているのですか?」

 

「…………」

 

 朱雨は、すぐには答えなかった。たき火に意識を向ける彼が胸の内で何を思っているのか、映姫には分からない。そう、分からないのだ。彼が何かを悩んでいる事は確かに感じ取れるのに、その悩みが具体的に想像できない。

 

 地蔵菩薩である映姫にとって、こんな事は初めてだった。何せ地蔵菩薩とは元は人間であり、悩みを抱いていた人間が悟りを開き、成仏した存在だからだ。元が人間なのだから、同じ人間の悩みが分からないはずがない。なのに、分からない。朱雨の悩みの形どころか、影さえ踏むことが出来ない。だから映姫は直接尋ねる事しか出来なかった。それが、無駄だと知りつつも。

 

「……その問いは三十六度目だ、映姫。そして私が返す回答も、一字一句違う事無く三十六度目になる。私は何も悩んではいない。私は悩みも迷いも抱きはしない。そんなモノとは無縁の生を私は歩んでいるからだ。だから私にはお前の説法も必要なく、それでもお前が頑なであるが故に好きにさせている」

 

「……やっぱり、同じ答えを繰り返すのね」

 

 二日の間、幾度となく繰り返した質問に、朱雨は言葉の速度や音程さえ変わらない答えを示す。虚空に消える無機質な声に棘はないが、空を二分する程の高く厚い壁が朱雨と映姫の間に在るのだと、厳然と知らしめていた。「やっぱり時間の無駄だった」と映姫は諦め気味に首を横に振って、それでも一つだけ、自身の根幹をなす教えを彼に伝える。

 

「いいでしょう。貴方がそこまで話したくないのなら、私ももう聞きません。ですが、これだけは覚えておいてください。貴方は私の知らない何かに執着し、執着しているから悩んでいるのです。ですが貴方の執着する物は、永遠ではない。六世(りくせ)に満ちる万籟(ばんらい)の如く、空に立ち消え流転する。貴方が悩みから解放される術はただ一つ、その不確かな執着を捨てる事だと、心得てください」

 

「……そればかりは承認出来ない。それは私の存在意義を棄て去る事に、他ならないからだ」

 

 石の唇から欠け落ちた言葉は、今までのどの言葉よりも重かった。映姫は朱雨の執着がそれだけ、深く根強い物だと知る。だから放って置けなかった。

 

 強過ぎる執着は形振り構わない悪心を呼び寄せる。彼をこのままにしてしまえば、死後に地獄にすら行けなくなってしまうだろう。そうなる前に、せめて真っ当な裁きを与えられるようにしなければならないのだ。それが四季映姫の、地蔵菩薩の存在意義なのだから。

 

 しかし、彼女は勘違いしていた。目の前にいる男が、神亡朱雨が自分の救うべき衆生、人間であると思い違っていた。

 

 だが、それも仕方ない事だろう。誰が想像できようか――人間の形をして、人間と同じ行動をして、人間のように悩む男が、人間ではない存在である事など。誰にも想像しようがない。もはや神すらも騙し通す擬態を身に付けた人外に、映姫が気付ける筈もなかった。仮に気付ける要素があるとすれば、それは一つ。

 

 映姫には朱雨の悩みが分からない。人外であるが故に、人間から外れた苦悩を抱えている、その一点のみだろう。

 

 

 

 

    आयुस्

 

 

 

 

 大地を洗浄した神雨は姿を消した。後に残るのは奇跡の残骸となった千切れかけの雲くらいで、それすらも天道の灼星に焼き焦がされていく。大地を切り取る影はない。隠された月日を取り戻すかのように、雲一つない快晴の空は暖かな光に溢れていた。

 

 陽光に煌く草木の露は、潮風に飾り立てられた波飛沫にも似ている。緑の香る樹木の海を数羽の小さな雀が泳ぎ、高い鳴き声で心地良さそうに歌っていた。雨の中でも羽ばたけたとはいえ、やはり日の光が恋しかったのだろう。生き生きと交差しながら空を駆ける飛影は森を抜けて、なだらかな草原を滑っていく。高速で流れていく草の絨毯(じゅうたん)の間に細く蠢く蚯蚓(みみず)を見つけた雀達は、一旦近場の木に止まり、そこから(はやぶさ)もかくやという勢いで食糧(みみず)をかっさらっていった。

 

 しかしその中に、一匹だけあぶれた雀がいた。上手く食糧を獲った他の雀から離れ、一羽寂しく蚯蚓を探す。しかし一向に見つからずいい加減飛ぶのにも疲れてきた頃、腹を空かせた雀は羽休めの為に小さな影法師の上に飛び乗った。大きな笠から青珊瑚を覗かせる、法師姿の地蔵菩薩に。

 

「あら、肩に雀が……休みたいのですか? だったら、好きなだけ休んでいってください」

 

 太陽の方角に向かって進んでいた映姫は、自分を見つめる雀に優しく笑いかける。思わず後光が見えてしまいそうな笑顔と慈愛の言葉を理解したのか、雀は一声鳴いて毛繕いを始めた。野鳥は通常、人に近づく事はないが、映姫には野鳥の警戒や恐怖を取り払う何かがあるのだろう。人になつかない野鳥を肩に乗せ、映姫は迷いなく歩んでいく。迷う事なく真っ直ぐに、慈愛の心で映姫は衆生を助けるのだ。それを説明するにあたり、この光景は一役買ってくれるだろう。

 

 ……その後ろで巨大な荷物を背負って歩く、朱雨の姿がなければ、であるが。

 

「…………」

 

 明るい陽光も翳ってしまいそうな無表情で進む朱雨は、黙ったまま荷物を運ぶ。下手をすれば一般的な平屋よりも高い荷物は、乾いた地面に朱雨の足跡を残すほどの重量だ。仏頂面で映姫の後を歩く彼は、普通ならこんな重い荷物を押し付けた映姫を不満に思っているように見える。勿論、足が地面にめり込む程度の物体を持つくらいで朱雨が音を上げるはずがない。荷物の運搬以外は手持無沙汰なので、映姫の肩に止まった鳥の状態を見分していた。

 

「…………」

 

 健康状態は良好。特に病気もなく、体力の低下も見られない。むしろ降雨の前と比べると、僅かだが生存能力が向上している。あの雨は必要以上の利益を招いていたようだ。

 

 自然に手を加えるのは好ましくないと朱雨は考えている。しかし、自然の権化である諏訪子が行ったのなら、許容すべきだろうと一人で納得していた。雨の影響による動植物の変化を観察していた朱雨は、映姫の肩に止まる雀が空腹状態であると知ると、本当に少しだけ眉をひそめた。

 

 面倒だ、と思考する。基本的に自身の利益になる事以外は行わない朱雨にとって、映姫と一緒にいる状況で、空腹の獣と遭遇するのは面倒だった。朱雨だけならば何もしないが、映姫はそうもいかない性格だ。だから雀の空腹に映姫が気付くかどうかという推測をして、すぐに無意味な行動だと悟った。

 

「おや……? 貴方、もしかして、お腹が空いているのですか? ……やっぱり……大丈夫よ、食事にありつけなかったからといって、そう悲観しなくていいのです。私のを分けてあげますから」

 

 映姫はまるで雀と会話が出来るかのように振る舞って、懐から豆の入った袋を取り出す。そして一握りの豆をとると、目を輝かせる雀へ差し出した。雀は肩から手へ器用に飛ぶと豆を一心不乱につつき出す。飢えを満たす雀を優しい目で見守る映姫に、朱雨は軽くため息を吐いて、自分の豆袋に手を伸ばした。

 

「映姫……見ず知らずの雀に食料を分け与えるその行為に、どのような意味があるのか私には見いだせない。してやれる事は余分に所持している私の豆を、たった今その雀に譲渡して失ってしまったお前に、渡してやる事だけだ」

 

 朱雨は映姫の傍まで近寄って、雀の乗る手の反対側にぶら下がる袋を自分の物と交換した。雀はそこでようやく朱雨の存在に気付くのだが何の興味も示さず、再び豆をつつき出した。映姫のように、雀の警戒を取り払ったわけではない。単純に存在が薄すぎて、雀には枯れ木にしか見えなかっただけだ。空気よりも薄い気配の男に、映姫はお礼を言いながら不満気にする。

 

「ありがとうございます。でも、そうやって義務的に善行をするのはよろしくない。行いは心の写し鏡、不承不承に行えばそれだけおざなりになってしまいます。貴方は私の言った事をきちんとするので立派ですが、そこで止まってしまうのは不徳の至る所であると思いなさい。

 ……それと、食事を与える意味が分からないと言いましたが、それを知る必要はありません。貴方が今すべきなのは良き善行を(しっか)り積んでいく事です。良い生を歩もうとすれば、疑問の答えは自然と身に付いているでしょう」

 

「ふむ……その道へ進まねば理解出来ない事柄のようだ。ならば、私がそれを知る機会は限りなく無いと言えよう」

 

「そう言うと思ったわ」

 

 映姫のため息を合図に、食事を終えた雀は元気よく飛び立っていった。「チュン」と短い鳴き声は、雀なりのお礼だったのかも知れない。映姫には分かるだろうが、朱雨には分からない。分からないなら仕様がないと思考を破棄して黙り込んだ。そんな風に黙々と荷物を運ぶ彼の方を見ながら、映姫はこの男をどうやって導いて行こうか思案してみる。

 

 始めの頃は話を良く飲み込む男だと思ったので言い聞かせれば良いと思ったが、話は覚えるのに実際にはやらない、頭の固い知識人のような性格をしていた。これではいくら話をしても知識として溜め込むだけで、彼の為にはならない。仕方がないので生活の中でやっていける部類の善行為を教え込む。

 

 例えば六波羅蜜と呼ばれる善行。これは本来、悟りを開き仏になる為に行われる六つの実践的修行だ。しかし修行であると同時に、生活の中で守っていく事で徳を積む方法でもある。それは持戒という五つの戒律を守る事だったり、お布施を配る事であったり。特にお布施はきちんと修行をしている僧侶に財などを分けてあげれば、民衆が手軽に出来る修行になるのだ。

 

 これに関して朱雨は、持戒の内四つは自然に守っていた。不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の四つだ。最後の一つ、不殺生は焼いた魚を平気で食べている所を見ると、どうもこなせそうにないが、それは別に良い。映姫は悟りへの道を示すだけで、あまり干渉するのはよくないと思っているからだ。その割には何時間も説教したり、朱雨の旅路に無理やりついてきたりするのだが。実は朱雨に同行したのは、この辺の人間は洩矢の王国のおかげで特に悩みなく暮らしていたので、正直暇だったからでもある。

 

 だから映姫は洞窟にこもっている間、暇に飽かして禅のやり方を仕込んだり、やる事が無いのでさっさと眠りたい朱雨に向けてずーっと般若心経を唱えたりしていた。傍迷惑以外の何物でもない。幸いにも、と言っていいかは不明だが、朱雨は怒りを持たない生き物、絶対に噴火しなかった。それを六波羅蜜の一つ、忍辱――耐え忍び、心を揺り動かされない事――を体得していると勝手に感心していた。とんでもない仏に目を付けられたものである。

 

 話を戻そう。話せる事は大方二日間で話した事を確認した映姫は、これからは朱雨がきちんと善行を積めているか、やり方は間違っていないかをそばで見守る事を指針とする事にした。さっきのように出来ている個所はきちんと褒め、出来ていない箇所は正しいやり方を教える。そうしていればいずれ、彼も悩みから解放されるだろう。うん、これで行こうと映姫が意気込むのを、朱雨は疲れた眼で見降ろしていた。

 

 彼の背負う大きな荷物。それはつい先程、山から出た後すぐに「映姫が引き受けた」、遠く離れた村まで運んで欲しいと頼まれた物だ。中身は衣類らしいが、詳しくは分からない。というのも、衣類であるというのは分かるのだが、神力のようなものがだだ漏れしているのだ。それも、良く視識(みし)った崇り神の神力が。そんな代物が朱雨の行く道にたまたま在ったとは考えられないので、明らかに朱雨に押し付けるつもりだったと推測できる。持ち主も風祝であったし。ところが、朱雨が諦めて引き受けてやろうと考えていた矢先、映姫が自ら立候補したのである。

 

 映姫も荷物に神力が絡んでいるのは気付いていた筈だが、朱雨が神と交流を持っているなど思いもよらなかっただろうし、更にその神から若干呪われているなんて映姫でなくとも考え付かない。映姫はただ、困っている人を助けようとしただけなのだ。風祝は予想外の助け舟にむしろ困惑していたが。まあ、諏訪子と何かしら通信して折り合いがついたのか、映姫に快く頼んでいた。

 

 そして何故か、朱雨が運ぶ事になっているのである。

 

「…………」

 

 ここまで回想して、朱雨は何故自分が運んでいるのか、そこに繋がる要素が皆無であると再認する。映姫が引き受けるといい、実際に引き受けた。そしてその流れで「じゃあ、貴方が運んでくださいね」と笑顔で言いのたまったのだ。

 

 荷物を運び目的地へ向かいながら、朱雨はその理由をずっと考えていたが、出した結論は「おかしい」の四文字だった。何故そんな簡単な答えをすぐに出せないのか、それは朱雨のみが知る事である。はっちゃけて言えば、映姫の「結果には必ず原因がある」という言を元に、朱雨のこれまでの生を振り返って原因を模索するという、果てしなく面倒で徒労に終わる事をしていた。何故そんな事をやろうと思い、実際にやってしまったのか――それもまた、朱雨のみが知る事である。

 

 さて、映姫はどうして、自分で請け負った事を朱雨に押し付けたのか。それは押し付けられた直後、朱雨が聞いたところによるとこうだ。

 

「とにかく、貴方は積極的に善行をしなければなりません。私が引き受けた物を貴方に押し付けるのは気が引けますが、これも仕方ない事ない事だと諦めましょう。決して、私が面倒だから貴方に押し付けているわけではありませんよ? そう思うのは、貴方がそれだけ利己的な執着を持っているからです。これはそう言った執着を捨てる為の善行だと知りなさい」

 

 こんな詐欺のような口上を一体どれだけの人間が信じるだろうか。これでも映姫はいたって大真面目だ。そして朱雨は人間でもないのにこんな言葉を信用してしまう、悲しい男であった。

 

 以上が、朱雨が荷物を運んでいる経緯である。利益を生まないので積極的には行いたくないが、映姫に食い下がってこれ以上の徒労を重ねたくない朱雨は、そのまま口答えせずにいた。どうせ目的地に運ぶまでの間だ。その後がどうなるかは、映姫の思考論理を理解し切れてない今は予想出来ない。とにかく、彼女の気が済むまで付き合うほかなかった。

 

 先頭を進む映姫の背を朱雨は黙々と追いかける。こうして彼女に付き従うのは中々骨の折れる作業だが、今の朱雨にはこれくらいの苦労があった方が良い。その方が、その時間だけ心の事を忘れられる。そして映姫の指す道に没頭する片手間になら、生命への観察を続行出来る。停滞だけは許されない、そう結論した朱雨の苦肉の策だった。

 

 荷物の終点を目指して歩く最中、彼は視覚以外の四感を用いて周囲の生命を調べ上げる。神雨を浴びれば魂が活性化され、強力になった魂の変化は肉体にも表れる。その精神的強化に興味は無いが、その副産物の肉体変化は調査して損はないだろう。呼吸音から電気の走る音、空気を揺らす動きの波長、溢れる匂いを捕まえながら歩く朱雨は、ふとその中に、血潮の気配を感じ取った。

 

「む……」

 

 遠く風に身をくゆらせる森林の奥、肉眼では見えない岩の死角に、死にかけの命がある。折れた翼、血に濡れた羽毛、首から流れ出る血液。かなりの重傷を負っている。容態を更に確かめるため神経を研ぎ澄ませた朱雨は、そこで生を喘ぐ生命が、己の記憶上に在るのだと知った。

 

 死にかけているのは、先程映姫がエサを与えた雀だった。

 

「…………」

 

 朱雨は地に墜ちた雀の周りを知覚する。特定の獣が持つ肉球の足跡、雀の首についた牙痕から推測するに、猫に襲われたようだ。現場の状況を思考内で描写したところ、首を噛まれたが猫が油断したところで目を(くちばし)で突き、撃退している。だが動けぬ重傷を負い、そして死にかけている。

 

 この時、朱雨には雀を助ける二つの選択肢があった。一つは、自ら雀の元まで行って治療を施す。朱雨の血液は物理的な物全てに代替できる万能の血液、それで千切れた細胞を繋ぎ合わせ、失った部位を補完してやれば、後は持ち前の生命力で持ち直すだろう。

 

 もう一つは、映姫に知らせる事。映姫はまだ朱雨には話していないが、地蔵菩薩だ。獣の傷を治す能力くらい有しているだろう。そうでなくても彼女は仏、何らかの方法で必ず救おうとする筈だ。朱雨はそれを傍観してればいい。

 

 朱雨は二つの選択肢を思案する。そして間もなく、結論を出した。

 

「…………」

 

 黙ったまま、荷物を背負い直す。思考を目的地へ荷物を運ぶのみに絞り、残りを全て廃除する。死にかけた生命を悟りながら――朱雨は冷淡と、当たり前のように命を見捨てた。

 

 それは彼にしてみれば、本当に当然の選択だった。あの雀を救ったところで朱雨には何の利益もない。何の利益もないのなら、助ける理由は存在しない。だから見捨てる。例え助かると分かった所で、そんな事実は理由にならなかった。それが死という残酷な結末になったとしても、残酷という心を理解出来ない彼は動かない。

 

 それどころか、雀を助けようなどと考えた(・・・・・・・・・・)己を戒めていた。それは朱雨の望まぬ混沌、生まれ出でてしまった心から湧き出た感情だ。そんな愚物に縛られてはならない。受け入れるのも、耳を傾けるのも、認識すらしてはいけない。血潮の怪物は今にも消えてしまいそうな命の鼓動より、自身の心の封殺を優先していた。

 

「どうかしましたか?」

 

 そんな彼の精神の揺らぎを映姫は敏感に感じ取る。朱雨を導く事を特に意識していたから、彼女は彼の心を気に留める事が出来た。

 

「いや……私は何もしていない」

 

「……? ……そう、ですか……」

 

 そして彼に意識を割き過ぎていたから、いつもなら気付けた筈の、助けを求める断末魔を聞き逃してしまった。普段の地獄耳の映姫なら、絶対に聞き届けられたその嘆願を、網から取りこぼしてしまった。

 

 彼と彼女は道をゆく。その道端から外れた場所の、救われぬ命を置いて行きながら。晴れた筈の晴天に、また雨雲が迫っていた。

 

 そしてまた、雨は降る。今度は、神の懐に依らず。

 

 彼らの無慈悲な擦れ違いを、さめざめと悲しむように。

 

 

 

 

    आयुस्

 

 

 

 

 この世に永遠などはない。土は草木に命を奪われ、大地を駆ける獣の供物となり、獣の王たる存在は全てを喰らい老いさらばえ、空に抱かれて土に死す。

 

 流転。それこそがこの世を支配する原初の法則だ。万物は流転する。全ての物質は時間の流れの中で姿形を変え、永遠を排斥する事で世界としての(かたち)を保ってきた。

 

 どうして永遠を排斥しなければならないのか。それは法則に縛られ、大いなる流れが世界の核をなすこの世において、永遠とは流れを堰き止める崩壊の因子でしかないからだ。

 

 永遠は変化を許さない。それに限らず、逆巻くを良しとせず、流れ往くを(ことごと)く討ち、あらゆる転化を平等に殺す。

 

 故に永遠は許されない。この世の全ては、いずれかの死を怯えながら待つしかない。失わない限り、生は己の手にあると信じて。

 

 そう……失ってしまえば、それは戻らない。もしあの時ああしていれば、なんて考えたとしても、それは空想で終わるしかない。戻らない。戻らないのだ。だが、流れ往く時間に逆らう事が、意味のない無駄であると言って――

 

 ――皮膚を食い破る程の豪雨に打たれて、なお救えなかった命に涙する彼女を、誰が愚かと言えるのだろうか。

 

「……どうして……」

 

 潰れた大地を握りしめる。膝をつき、突き立てた両腕の平を土で破り、無念に打ちひしがれている。冷え切った頬を伝うのは彼女自身の涙。溢れ出た悲しみの粒は、彼女の下で消えてしまった、命の抜け殻へ落ちていく。

 

「……どうして、私は……っ!」

 

 気付いてあげられなかったのか……!

 

 悲嘆の声は言葉にならない。彼女の喉はとうに嗚咽で枯れている。当たり前だ――彼女が死に果てた雀を見つけて、既に一時間が経っていた。

 

「…………」

 

 朱雨は無言で彼女を見下ろす。一両日をかけて荷物を無事に送り届け、達成の報告をしようと洩矢の王国への帰り道。来た道を辿るその土の上に、雀は静かに死んでいた。

 

 亡骸を見た瞬間、映姫は駆けだした。彼女はすぐに悟ったのだ。そこで死す雀の魂が、確かに己を求めていたと。地蔵菩薩としての能力ではなく、もっと原初にある映姫の心が、雀の嘆きを愕然と悟ってしまった。救えたはずの命を救えなかった――衆生を救う使命を背負う映姫が、雀一匹救えない。それを彼女は、許せるはずもなく、雨に打たれて悔やみ続ける。

 

 無表情に佇む朱雨は、そんな彼女になんら意識を払っていない。思う事はただ一つ……遠い岩陰で瀕死だった雀が映姫の辿った道までやって来た、生への執着に対する驚きのみ(・・・・)。悲しむでもなく、悔いるでもなく、耐えるのでもない。死の淵で足掻き諦めない、命の力強さへの驚きだけだ。

 

 雀はもう動けるような傷ではなかった。にも拘らず、この道で死しているという事は、すなわち映姫の救いに一縷の望みをかけたに他ならない。ああ、なんと素晴らしいのだろうか。最後の最後まで生に執着する、それこそが朱雨の求める命の姿だ。それ以外に思う事など何もない。朱雨は既に、心の滅封を終えていた。

 

 そして映姫は、呆然と知る。朱雨を救おうと努力していたからこそ、知ってしまう。彼の胸の内を――知っていながら何一つ考える事無く見捨てた、彼の人間ならざる思考形態を。

 

「朱雨……貴方は、全部知った上で……」

 

 震える声で映姫は呟く。悲嘆にくれる青珊瑚の眼は、呆然と涙を落としながら、影に満ちた朱雨の顔を覗いていた。見えずとも、分かる。そこに在るのは、何物も写さない無情の貌だ。意志を持たぬ現象に過ぎない雨でさえ、佇む男を生命とは思っていない。硬く変化しない岩石を流れるが如く、熱を奪わず地面へ吸い込まれる。朱雨は緩慢に、錆び果てた絡繰りのようにゆっくりと、鮮血の眼球を映姫に突き立てた。

 

「ああ、私はその命を認識していた。だが、私には無益に命を救う意味が分からない。そしてお前の示す道を極めているわけでもない。だから私は救わなかった。これは、私なりの道理を貫いた結果だ」

 

 動かない顔から落ちてくる声は映姫に刺さる。朱雨は彼女を責めているわけではないが、映姫にしてみれば、あの時きちんと教えていれば救えたかも知れない、なんて自分を責める要因になる。どう考えたところで、結果は変わらないというのに。

 

「……分かりました。私が、間違っていたのですね……」

 

 映姫は朱雨から視線を外す。亡骸に目を落とす彼女の心中を、朱雨が予想出来る筈もない。亡骸へ向けて、祈るように目をつむり、映姫は涙をぬぐう。それから亡骸をそっと手に掬って、その様子を虚ろな紅眼で観察する朱雨に呟いた。

 

「雨宿りが出来る場所に行きましょう。少し、落ち着いて話が出来る所に」

 

 再び朱雨を見つめる映姫の眼には、先程のような忘我はない。初めて会った雨の日、朱雨の射止めた真っ直ぐな光が戻っていた。

 

 

 

 

 四季映姫が地蔵菩薩となった時代、彼女の故郷では災厄が猛威を振るっていた。地震、台風、火災、飢饉――正に世も末、身分も関係なく誰もが苦しんでいる時、まだ人間であった彼女は仏に成る事を決意する。

 

 映姫は特別な生まれではない。身分も多くの人々と同じ労働階級であったし、親兄弟に特殊な能力があるわけでもなく、住んでいた地域も至って平凡だった。だから時代を席巻する災厄の嵐に抗う術もなく、映姫は多くの大切な者を失ってきた。

 

 しかし彼女には強い意志があった。どんな過酷な運命にも負けない、折れない心が彼女に宿っていた。諦めが悪く、どんな困難でも悲観せずに立ち向かい、自分に出来る限りは全部やって来た。……だが、所詮は非力な人間。彼女が成し遂げられた事はそう多くはない。それでも絶望に打ちひしがれず、彼女は頑なに進み続けた。

 

 成仏。すなわち仏に成るという答えに辿り着いたのは、失いながら進み続けたその果てだ。故郷を飛び出し、世界各地を放浪する果てに、映姫はその思想に辿り着く。全ての苦しみを打消し、全ての人々を救う答えに。

 

 そして彼女は修行し、そして地蔵菩薩と相成った。あいにくと周りに居た修行僧達が皆堅物で、彼女本来の気質も交え少々口うるさい、説教好きな性格になってしまったが。

 

 四季映姫は仏と成る事で、この世の全てを見通す叡智を悟っている。だから全ての人々の苦しみを理解出来るし、その答えを示す事も出来た。だから少し、驕っていたのかもしれない。私に知らぬ物はないのだと。もし分からない事があれば、それはほんの一時的なものに過ぎないと。

 

 

 「この世」の物では在り得ない、血液の異形に出逢ってさえ、そう思ってしまったのだ。

 

 

 雀の亡骸は埋葬した。無縁仏に似た簡素なものだったが、それにかける映姫の祈りは真摯なものだった。それから二人は雨宿り出来る場所を探し、偶然(・・)にも空き家を見つけられた。それが何であるか、彼はもう確かめる気にもならない。ただ、映姫の前で最も馴染み深い擬態を晒す事になるだろうと、そう考えていた。

 

 空き家に入り、映姫は濡れた服を脱ごうとした。が、その前に緋色の液体が瞬時に彼女を包む。少し驚いて、すぐに誰の仕業か分かった。隣に立つ、人の姿をした人外の力だ。温い血潮が身体を通り抜けた後、乾いた衣服が残っていた。

 

 蠢く血液は彼の身体に還っていく。右手の人差し指のほんの少しだけ切れた傷口から戻っていく。それと同時に、朱雨の姿も変わっていく。短い黒髪は黒く紅く、血に染まった枝垂れ桜のように長く。肌から色が抜け、凍てついた白に。さっきから変化していた深紅の眼が、鋭く掠れた光を宿した。

 

「それが貴方の、本当の姿なのですか?」

 

 彼女は柱の通った声で問う。そこに怒りや悲しみはない。「空」という叡智を悟っている映姫は、感情的に心を揺り動かす事が間違っていると知っている。何者にも染まらない絶対の魂は、厳然と朱雨と相対していた。

 

「いや、これは私の擬態の一つに過ぎない。私の体内はこの惑星よりも広大であり、これをお前に見せる事はない。お前が私に攻撃しない確証、もしくはお前が私を殺せないと確認しない限り、お前を私の体内に通す事はない」

 

「そうですか……服を乾かしてくれてありがとうございます。それと、重ねて苦労をお掛けしますが、火をつけて頂いてもよろしいですか?」

 

「了解した」

 

 空き家の中央の囲炉裏に朱雨は血液を数滴飛ばす。灰の山に付着した血痕は瞬く間に広がり、組み合わされた薪が現れ、そしてひとりでに燃え上がった。橙色の暖かな光に目を細めて、二人は何も言わずに囲炉裏を挟んで座る。

 

「…………」

 

「…………」

 

 映姫は無言のまま、パチパチと爆ぜる囲炉裏の炎を見つめながら冷えた身体を温めていた。朱雨は、映姫の言葉をじっと待っている。しばらくして、部屋の寒さが気にならなくなってきた頃、映姫はようやく口を開いた。

 

「……私は、人間ではありません。悟りを開き解脱した後、衆生を救う為に派遣された、地蔵菩薩と呼ばれる仏です」

 

「……人間でない事は把握していた。お前が何であるかまでは理解し切れていなかったがな。しかし仏か……興味の無い部類に入る存在だ」

 

「興味が無い……そんな小さな言葉でさえ、どんな想いで生み出されたのか私には分からない」

 

 映姫は半ば独り言のように呟く。弱弱しい、触れれば壊れてしまいそうな儚い言葉とは裏腹に、彼女はきちんと正座している。魂が肉体に作用するなら、その逆もまた然り。姿形に表れる気質は、映姫の心を持ち直させた。

 

「私は地蔵菩薩となってから、多くの衆生を救ってきました。死後をより良くしてもらう為に、出来る限りを尽くしました。中には輪廻からの解脱を果たされた方々もいます。だから、驕っていたのでしょうね。私如き小さな存在が、この世の全てを理解している筈がないのに」

 

 明るい緑の髪が炎に照らされる。閉じた瞼の奥で、映姫は慙愧の念を湛えていた。思い上がった己への重い罰を。そして、それでも彼を導こうとする強い決意を瞳に宿す。開かれた青珊瑚の眼で、映姫は真っ直ぐ朱雨を射止めた。

 

「教えてください、朱雨。貴方がどのような理に生き、どうように生き抜いてきたのか。私と出逢うまでに積み重ねてきた貴方の全てを、どうか教えてください」

 

「…………いいだろう」

 

 折れぬ意志を受け入れて、朱雨は自らを語る。囲炉裏の炎は陰影を濃く刻み、彼の無貌を斬り捨てる。神亡朱雨の名が与えられたその姿が過ごしてきた時間の全てを、余す事無く映姫に伝えた。かつての滅びの無い世から、神が創りだした世界の果てで得てしまった心の事を。

 

「――――…………そうだったのね。貴方は私から……いえ、私を含めたこの世界から、あまりにも外れている。本当の意味で理解し合えない、決して解かり合えない存在――それが貴方」

 

 朱雨の歴史を聞き届けた映姫は、静かに吐息を空気に溶かした。

 

 神亡朱雨。創始に於いてはその呼称も無かった、生粋の異端者。何よりも強く産まれたが故に、滅びの時を迎えてなお生き残ってしまった生命の傑物。おそらくはこの世界で唯一の、真なる人外。映姫の持つ智慧では到底解き明かせない存在が今、目の前にいる。言葉しか通じない彼を導く事など、きっと誰にも出来ないだろう。

 

 だが、それでも映姫は朱雨と向き合った。無理だと分かっているし、その無理を通した所で朱雨の為になるかは分からない。でもやっぱり、迷う心を持つモノから目を逸らすなんて映姫には出来なかったのだ。それが、遠く届かぬ人外であったとしても。

 

「でも、解かり合えないからと言って、貴方が分からない事にはなりません。私には、貴方が心を得てしまった理由が、分かったような気がします」

 

「……ほう。興味深いな」

 

 そこで初めて、朱雨の透明な瞳がぐらついた(・・・・・)。蛇がゆっくりと鎌首をもたげるように、微動だにしない目の奥底に波紋が生まれたのだ。彼の制御出来ない心がすっと浮き上がり始めている。その朱雨の悩みの影を捉えた映姫は、真っ直ぐ見つめながら言葉を紡ぐ。

 

「貴方は(かつ)て、何よりも強大な生き物だった。食べず、動かず、何も為さず、ずっと眠り続けていても生きられるくらい、強かった。それこそ、故郷が根こそぎ滅んでしまうような大災害にあってさえ、たった独り生き残ってしまうくらいに」

 

 ある日、目が覚めたら世界が滅んでいた。水も草木も枯れ、風も空も死に、大地に動く物はない。もしそんな事態に人が遭ってしまったら、どれだけの絶望に押し潰されるのか。映姫はほんの少し想像するだけでも恐ろしいと感じる。そして、朱雨もきっと、それに似た感覚があったのではないかとも。

 

「そして、永遠に消え去らない壊劫(えこう)の世界で、貴方は恐怖した……いえ、恐怖というには語弊がありますね。貴方は脅威を感じたのです。このままでは進化出来ない脅威――如何なる思考の果てにその結論を導いたのかは分かりませんが、己以外の生命を求めて大空へ飛び立ち、この世界にやって来た。百億年という途方もない月日をかけて、この命溢れる世界に、漸くたどり着くことが出来た。でも――」

 

 朱雨は恐怖を持たないと言っていた。でももし仮に、恐怖を持って行ったとしたら。彼が人間と同じように、何かを恐れる心を既に得ていたとしたら。この世界にやって来て、自分より遥かに格下の脆弱な生命を見た時、朱雨は真に恐怖したのだと、映姫は思うのだ。

 

「――始めてこの世界の命を見た貴方は、きっとこう考えたと私は思うのです。『この世界の生命は撫でたら死んでしまう程に脆過ぎる。だから触れずに、見るだけに留めておこう』と、決めたのでしょう」

 

 もしも映姫が、朱雨と同じ立場に立たされたら、その弱さを恐れてしまう。吹けば飛ぶほどの、睨んだだけで壊れてしまいそうな、儚過ぎる弱さを恐れてしまう。だって、百億年もの時間をかけてまで見つけたかった命の楽園を、二度と失いたくないと考えてしまうから。

 

「貴方は命について、下手に触れてしまったら壊れてしまうという危惧を抱いている。だから籠に閉じ込めて飼うような真似はしない。命を自分の思い通りにして壊したくないから。そして、その逆もまた然り。壊してしまう事を恐れて、助ける事も躊躇ってしまっている。

 

 そう――あなたは少し、命を慈しみ過ぎる」

 

「…………」

 

 朱雨は沈黙を守っていたが、瞳の揺らぎは徐々に大きくなっていく。映姫の言葉に心当たりがあったのだろう。慈しむかどうかは別にしても――朱雨は確かに、破壊したくなかったから傍観者で在り続けたのだ。

 

「貴方が滅びた故郷に脅威を幻視した時から、兆候はあったのだと思います。それはまだ、明確に心と呼べるものではなかったのでしょうが……貴方はこの世界で出逢いを重ね、それ以上に命を見てきた。私達のように知性は無くとも感情を持つ、心ある命達を。曖昧だった貴方の心は、あらゆる心を見つめ続ける事で形を得たのです。だから、貴方はこの地で心を手に入れてしまったわけではない。

 貴方の心は始めから、貴方の裡に宿っていた」

 

「……否定、したいところだがな。直情的な感覚が、それを真実だと認めている。そうか、私は始めから、心ある存在だったという訳だ。いや、そうでなければこうも頑なに心を否定し続けはしなかっただろう。実に愚かしい話だ――それは結局、私が一度として私自身を観察してこなかった証明に他ならない」

 

 朱雨は静かに、揺れ崩れていく瞳を閉じた。忌避していた物は始めから、自身の背に貼りついていた――その事実は彼でなくとも、到底納得し切れる物ではない。もしも朱雨が弱い人間だったら、背の肉を全て削ぎ落としてでも受け入れようとはしなかっただろう。

 

 だが、彼は受け入れた。事実を間違えずに認識する大事さを、朱雨は何よりも理解している。何かを「知る」意味を、あるいは神よりも理解している。だから映姫は進むべき光明を朱雨に伝える事が出来た。

 

「人は皆、知る事によって己を得ます。与えられた名を知り、教えられた言葉を知り、授けられた知恵を知って、人は始めて獣から人間になれる。そして己を知る事で、自分の生き方を決められる。知らぬ者は何も出来ない、でも知ってさえいれば望む形を掴み取れる。

 だからもっと、心を知ってください。貴方の裡で輝いている、貴方の心を知ってください。それがきっと――今の貴方に積める善行です」

 

「――――そう、だな。留まる事に何の意味も在りはしない。目の前に進むべき道があるなら、邁進するに些かの躊躇も不要だろう。礼を言う、映姫。お前のおかげで、私は漸くこの停滞から抜け出せそうだ」

 

 閉じた瞼から鮮血色を覗かせて、朱雨はしかりと頭を下げた。それは彼が知識として持つ形式的な物ではなく、己の心を自由に働かせた本心から来るものだ。彼にしてみればそれもまた、心を放置している事になるだろう。だが、今はそこに苦悩はない。留まらず歩める進化に比べれば、変化無き思考などいかほどの足枷にもならなかった。そして、その意志を見届けた映姫も同じようにお辞儀する。

 

「感謝を述べるのはこちらの方です。私も貴方を通して、未熟な自分を知る事が出来ました。私は貴方の表面ばかりを見て、内側を知ろうとせずに導こうとした。悟りを開いた者にとって人を知るのは簡単な事。でもそこにかまけて人を知る努力を怠っていました。衆生を救う前に、私にはまだまだ精進が必要なようです」

 

 顔を上げた映姫はどこか気恥ずかしそうだ。まあ、地蔵菩薩であるのに導き方を間違っていたと知れば、その態度も詮無き事だろう。朱雨は相変わらずの能面顔だったけれど――その動かない表情の下で、彼の心は笑っていたかもしれない。

 

 雨はいつの間にか上がっていた。神や魔物が雨を降らせるこの世に於いて、時に誰かの意志が雨雲を作る事もある。それが晴れたというのなら――もう迷う事はないだろう。

 


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