東方血界神 ~Creatures Paradise~   作:閼伽

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思い悩み、朱雨は旅の仏に捕まる。

 

 

 

 

 この世というのはままならない。己にとっての幸福でさえも。

 

 

 

 

 妹紅とは別れた。蓬莱の薬を飲んだ彼女は一度家に戻り、それからすぐに泣きながら帰ってきた。

 

 理由は分からない。朱雨は問いかけても仕方ないと考えていたし、そもそも妹紅の事だけを考えられる程余裕があったわけでもない。だから妹紅が泣きやむまでそばにいてやり、彼女が旅に出ると言うのも止めず、いくつかの路銀を渡してそのまま行かせた。

 

 朱雨の傍から離れる時、妹紅は何も言わなかった。朱雨も何一つ言葉を口にしなかったので、彼女が何を思っていたか、今となっては分かるはずもない。ただ、泣きやんだ後の妹紅の表情は無に近く、それを朱雨は鏡を見ているようだとも思った。

 

 妹紅は蓬莱の薬を飲み、ヒトの姿をした何者かに変貌した。朱雨は元々この世のモノではなかったのに、心を手に入れてしまった。人から人で無しになった者と、人では無いのに人に近くなってしまった者。あるいはそれが、朱雨の感じた「鏡写しの存在」の真意なのかもしれない。

 

 まあ、完全な蛇足である。結局のところ、朱雨は妹紅を一人で行かせても生存は可能だと考えたから放り出したのだ。だから朱雨がこれ以上妹紅を気にするはずもなく、分かれてすぐに彼は心をどうするのか考え始めた。

 

「今から思えば、初めからおかしかったのだと判断できる。なぜ私は永琳との別れで涙を流したのか。なぜ私は迷いを抱き、てゐの言葉で進む事ができたのか。なぜ私は若藻と共に旅をしようと思えたのか。なぜ私は神奈子に干渉するような真似をしたのか」

 

 さかのぼってみればいくつもある。自らが変化し、心を手に入れていると示す行動はいくつもあったのだ。だがそれは朱雨にとってとても許容できないもので、無意識の内に無視し続けていた。

 

 その結果がこの様だ。勝手に生まれた心がどうしても許せなくて、本来の目的を見失ってしまっている。朱雨が欲しているのは観察だけだ。朱雨が望んでいるのは進化だけだ。朱雨は決して、心が欲しかったわけじゃない。

 

 そんな迷いともいうべき感情も、朱雨が歩むことを邪魔している。迷ったところで何にもならない。無為に時間を過ごすだけだと知っているのに、その感情はのたうつ蛇のように暴れ回り、朱雨の身体を締め付けてくる。

 

 どうすればいい? どうすれば私は、この心を棄て去ることができる? 心をどうやったら自分の精神から切除し、二度と生まれてこない様に消し去ることができるのか、朱雨はそんな事ばかりを考えていた。

 

 だが、答えが出るはずもなかったのだ。もともと心を理解不能なものとして考察さえしてこなかった朱雨に、たかだか数年の期間で心を破砕する手段が思いつけるわけがない。もとより発想が苦手な朱雨にとって、自力での解決は至難の技だった。

 

 だから問う事にした。己に分からなければ、分かるであろう存在に問い質せばいい。今まで出会ってきた中で今なお生存を続けている個体を検索した朱雨は、まず永遠亭へと向かった。

 

 朱雨が目的を棄ててまで保護した姫君、蓬莱山輝夜は普通に問い返した。

 

『なぜ心を捨てようとするの? 貴方の言う心って、つまりこの世界を楽しむためのものでしょ? あれは美しい、これは醜い、あれは楽しい、これはつまらない。そんな風に感じるのはとてもいい事よ。だって、そうでもないとこの世界はつまらないもの。貴方がつまらない世界を生きたいって言うならそれでいいけど、その時はもう私に関わらないでね。私、退屈はしたくないから』

 

 心を破棄した場合、もう関係を切ると言われたが今はどうでも良い事だ。妹紅と言う友人を失った輝夜が、多少ささくれるのも仕方ない事だろう。彼女が言うには、心があるから世界は楽しく、心がなければとてもつまらないそうだ。だがその快楽も退屈も、双方心から生まれる感情に過ぎない。やはり廃棄すべきなのだろうか……一人に問うただけでは答えは出ない、朱雨は永琳に尋ねる事にした。

 

 始まりの賢者、八意永琳は苦笑しながら諭した。

 

『……残念だけど、私では貴方の力になれないわ。貴方の思考回路は異物そのもので、私でも理解するには時間がかかる。中枢器官から貴方の心に該当する部分を摘出するにしても、それは私に貴方を殺せる機会を与えるという事よ。結局、貴方自身が受け入れるしかない。心を受け入れれば理解することができる。そして理解出来れば、あとはそれを壊すも生かすも貴方次第。私は、貴方が心を生かす事を願っているわ』

 

 心を受け入れる他に手段はない。永琳はそう言ったが、果たしてそうなのだろうか。理解する方法が他にあるのではないのか。薄々、無駄な努力かもしれないと分かってはいたが、まだ問い掛けられる人物はいる。彼女らの意見を聞いてからでも遅くはない。朱雨は永遠亭の外へ向かう。

 

 迷い道の幸福兎、因幡てゐは呵呵大笑して酒を呑んだ。

 

『まーった、くだらない事で悩んでるんだねえあんた。ま、あたしにゃどうだっていいけど、一応言っとこうか。心だのなんだのって、そんなに気にする事なの? 正直言ってあたしには、あんたがなんで悩んでるのか分かんないんだけど。いいじゃん、あんたがどう思ったって出来ちゃったものはしょうがないよ。だからそれもひっくるめて、楽しく生きれればそれでいいんじゃない?』

 

 出来たのは仕方ないから、それを飲み込んで従来通りに生存する。つまり放置、諦観しろという事なのだろうが、それで今までの生活を続けられるわけがない。だがどうにもならないと諦めた時、てゐの言葉は非常に役に立つだろう。無論、心を棄てる手立てがあるに越した事はないのだが。朱雨はそう判断し、洩矢の王国へと足を運ぶ。

 

 その身に呪いを巣食わせる大地の守り神、洩矢諏訪子は薄暗く微笑んだ。

 

『それは良かったよ。朱雨ちゃんがそのまま自滅してくれれば、私も目の上のたんこぶが消えて万々歳ね。まあ、協定を結んでいる以上はそうも言ってられないけど。んーと、心を消す方法だっけ? 私の知る限りじゃ無我とか空とか、色んなものに執着しないで空っぽになるってのが一番近いかな。朱雨ちゃんに分かりやすく言えば思考の機能を完全に停止させるって事。そしたら心も消えると思うよ? 朱雨ちゃんの生活も終わっちゃうけどね』

 

 執着しない事。それは進化するという最も大切な本能をも棄てなければならないのだろうか。いいや違う。心だけを放棄し、本能のみをこの身に残す。そうすればあるいは、己の望む存在に至れるかもしれない。諏訪子は私が消えて欲しいだけだろうが、彼女に私を殺す事はできない。無視していい事項だろう。朱雨は諏訪子の呪詛を払いもせず、共にいる神奈子へ問う。

 

 (いくさ)を司る天の軍神、八坂神奈子は胡乱(うろん)気にため息をついた。

 

『……あんたがどうなろうが、私の知った事じゃないんだけどね。これが政の一環ってなら仕方ないさ。あんたの話は確か、心がどうとかってのだろ? それなら、あんたがやろうともしなかった事をやってみればいいんじゃない? 例えばほら、あんたが元いた場所に帰るとかさ。そうすりゃ、昔の心が無かった状態に戻れるんじゃないの? こっちはあんたの行動一つにいっつも冷や冷やさせられてんだ、あんまりくだらない事、聞いてくるんじゃないよ。……ああ、これってあんたにとって『借り』だっけ? きっちり返してもらうから』

 

 元いた場所に帰る。それはつまり、朱雨の故郷の惑星へと帰ってしまえば、かつての心が無かった頃に戻れるのではないかという事だ。確かに元の場所へ帰るなぞ考えもしなかった。この地球上で出来る術を全てやり尽くしても心を棄てきれなかった時、そうしてもいいかもしれない。

 

 ……この世界の何処かにいるであろう、若藻なら何というだろうか。

 

『そんな事より稲荷が食べたい。服も汚れてるし、新しいのが欲しいな。あとはそうだ、そろそろ呪いの道具も増やそうと思っていたところなんだ。さっそく付き合ってもらうぞ。ああ、もちろん拒否権はないからな――――』

 

「……だめだな。あいつは自分本位な女だ。私の言う事なぞ、聞きはしないだろう……かつての私なら、他種族の語る事なぞ想像すらできなかったというのに。これが心によるものだとしたら、随分と不本意なものだ。それに、所詮は想像だ。事実として問う事が出来ない以上、考える事は無駄に等しい」

 

 結局、彼女らに問うて得た答えはそう多くはなかった。受け入れるか、諦めるか、全てを棄てるか、あるいは帰るか。だが朱雨一人では絶対に片鱗すら掴めなかった答えだろう。ならば、あとは実践するしかない。するしかない、のだが……

 

「……私に、できるだろうか。心を、受け入れる事が……ああ、弱気だな。これもまた心の生み出す弊害の一つか。感情は邪魔にしかならない。行動を阻害し、生きる上での足かせにしかならない代物だ。こんなものを、私は受け入れられるのだろうか」

 

 そう呟き、朱雨は頭を横に振った。考えたところで意味はない。それよりも今は、僅かにでも出来る観察をやるべきかもしれない。洩矢の王国から出た朱雨は、そのまま東山道と呼ばれる街道へ入った。

 

 諏訪の国から上野の国へ。小さな島国であるこの地を東に進んでいくと、かつて訪れた富士の山の丁度半分くらいの山が見えてくる。諏訪の王国と同じ名前、諏訪山と名付けられているそこへ朱雨は何となしに足を運んだ。

 

 なぜかと問われても、今の彼に明確な答えは返せない。懸命に答えを模索し、強いて言うならと付け加えれば、ただ単に諏訪という名のついた場所に興味を抱いた、と返せるかもしれない。

 

 だが朱雨は名前が重なっているからという理由だけで動いた事は全くない。だからこれは、朱雨が心を持ったせいで起こった、朱雨にとって悪しき偶然に過ぎなかった。

 

 しかし、この山を訪れた事が、朱雨の未来を変えていく。諏訪山で出逢った一体の仏。道祖神のくせに旅をする、口うるさい旅地蔵との邂逅が。

 

 

 

 

    आयुस्

 

 

 

 

 山の天候は変化しやすい。山は平地よりも高い場所にあるので気温が低く、上昇気流を誘発しやすいからだ。それに加え、山の複雑な地形が風の動きを書き換えるので、下降気流も頻発しやすく、雲が消えたり現れたりを繰り返している。

 

 平地から昇った暖かい空気が雲を呼び、雨を降らす。山間を通り抜けてきた風が乱れ、雲を散らしながら早々と去っていく。平地の天候以上に気性が激しい山は、古来から天気が変わりやすいと言われてきた。

 

 朱雨が物理的な気象に沿って山の天気が気分屋な理由を語るとすれば、おそらくそんな答えが返ってくるだろう。だがしかし、天候というものは得てしてそれだけが変わる理由ではない。

 

 例えば人々が乾きに飢えて雨乞いをすれば、それに答える神もいる。超常的存在である彼らは物理的な法則を捻じ曲げ、雨が降らない場所に雨を降らす事が出来る。

 また何らかの理由で神が怒れば、降雨の気象条件が揃っているのに日照りが続く事もある。竜巻や雷など、非力な人間にはどうしようもない天災と呼ばれる災害も、神が起こしたものである事は少なくない。

 

 あるいは悪魔や妖怪などの影を歩む者達が戯れに天気を変えているのかもしれない。まあつまり、そんな者達が日中を堂々と歩けるようなこの世界で、物理的な気象の観測などあまり役に立たないのだ。

 

 だから気象の観測をして、この山は今日一日ずっと晴れ渡っていると確信してから朱雨が山に入った数時間後、滝のような豪雨に見舞われてもなんらおかしくなかったのである。

 

 朱雨を襲ったのは濁流で全身を叩きつけるようなひどい雨だった。獣の往来によって踏み固められた土が一瞬で泥となり、斜面から流れてきた水がまるで小川のようになっていた。

 

 日常は人間の性能下で生活している朱雨にとって、この豪雨の中で山を歩く選択肢はない。ひょっとしなくてもがけ崩れや地滑りが起こりそうな環境だ。こんな天候で山歩きをするのはただの自殺志願者でしかないと朱雨は思い、近場の洞穴へ避難する。

 

「観測結果では晴天のはずだったのだが……まさか、豪雨に見舞われるとはな……」

 

 洞穴に駆け込んで早々に、朱雨は顔に貼り付いた髪を払いながらひとりごちる。実際のところ、朱雨の観測は極めて精確だった。だがそれを快く思わない者がいて、嫌がらせに雨を降らせたのだ。

 

 誰とは言わない。言う必要もないだろう。あの国を出た直後に踏み入った山の中で、微小の呪いが混じった雨を降らせる者なぞ、朱雨はたった一人しか思いつかない。

 

 朱雨の脳裏にとても笑顔とは思えない微笑みを浮かべる神の姿が現れる。いやはや全く、あの一柱は朱雨に対する態度が露骨過ぎはしないだろうか。まあ、心という理解出来ないもので構成された嘘をつかれるよりは、朱雨にとって分かりやすくて良い態度なのであるが。

 

 朱雨はもう思い描く必要はないと頭を振り、洞穴の中を軽く見渡す。旅人がよく骨休めに使っていたのか、人間の匂いが染みついた洞穴だった。これほど匂いが濃いと獣はやってこない。妖怪は嬉々としてやって来そうだが、それを防ぐ為に刺々しい壁や、やたら高い天井に退魔の白い札が貼ってあった。

 

 洞窟の入り口は雨が中に入らないような形になっていたが、湿気た風は多量に吹き込んでくる。洞窟に通風性があるのだろう。朱雨は洞穴の奥にあるたき火跡まで歩くと、近場の岩に腰を下ろす。それから手の甲を切って出てきた血潮を身体の表面に巡らせ、身体と服に染み込んだ雨水を全て掻き出した。

 

 ついでに体内に保存しておいた木材を効率よくたき火跡に並べ、燃料を差し込んで着火する。突然の土砂降りで日光が弱まり、暗がりが多かった洞穴に小さな燈火がそっと現れた。

 

 蛇の舌のようにチロチロと揺れる火が、朱雨の無表情の陰影を強くする。ともすれば眠そうにも見える半分閉じた瞳には光が反射しておらず、朱雨は自分自身に深く埋没しているようだった。

 

「……ふむ。心がある今、この状況下に何かしらの感情を抱くのは必然か」

 

 努めて冷静な口調を保ちながら、朱雨は自分自身の心を観察する。本当は存在自体を無視したいが、それが出来ない以上、少しずつでも理解しようとしなければならなかった。

 

「……僅かな行動も出来ない現実に募っていく感情は、苛立ちとでも言えばいいのだろうか。理不尽というものを認識した時に湧き上がる感情は、恐怖とでも表せばいいのだろうか。望まぬ境遇に陥ってしまい狂瀾(きょうらん)するのは、絶望とでも語ればいいのだろうか……」

 

 自分と言う電気信号が交換される中枢器官の中に存在する精神の海、そこに現れた理解不能の混沌に対し朱雨が出来る事は、入り混じりあう何かの中から懸命に規則性を見出し、言葉を当てはめていくだけだ。

 

 だがそれさえも朱雨には薄氷の上を渡るような難行だ。物理的に薄氷の上を渡る方法ならいくらでもあるが、それが物理的ではない現象にいってしまうと途端に対処ができなくなる。現に今も彼は心に寄り添う感情の名付けに失敗し、深いため息を吐いていた。

 

「心、か……心とは何なのだろうな。思考の余地のない、私には縁のない事だと思っていたから、考えもしなかった。心とは何か――それをこうして、一歩も動かずに考えるのは何度目だろう。答えは出ないと分かっているのに考え続ける私の行動は、すべからく心に支配されるが故に起きているのだろうか。ああ、思考が輪廻する。もしかしたら私は、このままずっとこうなのかもしれない」

 

 誰もいない洞穴の中で、朱雨は弱音を吐き続ける。それは本当に朱雨の心から生まれ出た思いであり、それを口にして外に出す事で精神を凪がせ、落ち着こうとする朱雨の行動だった。

 

 だが一向に心は平静にならない。口に出せば出す程、言葉にすればする程、心は揺れ蠢き、朱雨の行動を阻害する。もはやどうにもならないか――そう、朱雨が決着をつけようとしたその時。朱雨の鋭敏な感覚が、この洞穴に近づいてくる足音を感じ取った。

 

「――――――――」

 

 悲しみや虚しさが浮かんでいた朱雨の表情が一瞬で無に変貌し、目を閉じて耳を澄ます。近づいてくる足音は一つ、軽い音を継続して鳴らし走っている。音の質感からして小柄だと言うことは分かるが、豪雨のせいで触覚と聴覚が上手く機能しない。何かしらの力を感じるわけでもないので、単純な旅人である可能性もある。

 

 雨宿りの場所を探して奔走しているようだ。この洞穴は雨の中でもそこそこ目立つので、じきにやってくるだろう。その場合、崇り神の機嫌によっては最低一日はここにすし詰めになってしまう事も考慮すれば、旅人の振りをする方が無難なのかもしれない。

 

 朱雨は足音の主がやってくるまでの間、旅の道具が入った箱を背負い、魚を木に刺してたき火の周りに置くなどの偽装工作をする。これでとりあえずは、妖怪や何かと見間違えられる事もない筈だ。髪の色も一応黒に染め、朱雨は足音の主がやってくるのを待つ。

 

 ふと洞窟の入り口をみつめれば、土気色を含んだ雨水は洪水のように外を流れていき、轟々とうねる音もあいまって滝の裏側にいるような錯覚を抱く。仮に風情というものがあるのならば、これも一種のそれなのだろうか――朱雨がそう考えたその時、土色の滝をかき分けて誰かが洞窟に飛び込んできた。

 

「……っぜぇ……っぜぇ……っぜぇ……」

 

 高く荒い呼吸音が聞こえてくる。洞窟に身を投げた人影はそのまま錫杖(しゃくじょう)と一緒に地面に手を突き、しばらくの間ずっと空気を求め喘いでいた。朱雨はそれをじっと見ながら、人影の姿形を軽く観察する。

 

 一見して法師のような格好をしていた。雨風をしのぐ三角錐型の笠を頭にかぶり、直綴(じきとつ)と呼ばれる法師特有の黒衣で身体を包んでいる。俯いているため顔は見えず、聞こえてくるのは息づかいだけ。だがしかし、その人物には決定的に不審な点があった。

 

 その人物の身体は、法師にしてはあまりにも小さい。小柄であるとか、寸胴短足であるとかそう言う事ではなく、身体の線が細すぎる。法師にしろ遊行僧にしろ、旅をしている以上はそれなりの体格になるはずなのに、その人物はあまりにも小さく細すぎた。まるで子供――それも女性が、不釣り合いな男性の法衣を纏っているようにも見えなくない。

 

「っぜえ……っぜえ……」

 

 小柄な法師はまだ肺を強く動かしている。よく見れば手足も微妙に震えているので、元から体力がないのかもしれない。それでなぜ旅をしているのか……朱雨にとってどうでもいい事だ。今は観察に割り振れるだけの余裕もない。だから朱雨は小柄な人物を軽く見分するだけにとどめ、声をかけもしなかった。それ故に少し驚いた――その人影が、途切れ途切れに掠れた声をぶつけてきたのは。

 

「ぜえ……ぜ、え…………一体貴方は、何をしているの、ですか……?」

 

「……?」

 

 その言葉を最初、朱雨は飲みこみ切れなかった。この状況下で普通の旅人が発する言葉と言えば、先客に対する挨拶やついでに食事やら何やらをねだる言葉のはずだ。しかし小柄な法師は朱雨が何をしているのかと聞いてきたのである。そんな事は見ればわかるだろうにと思いながら、朱雨は返答した。

 

「何をしていると問われても、私は何もしていない。現在行っている行動を強いて言うのなら、たき火の前で坐していると言うのが私の行っている行動だ」

 

「そういう、意味では、ありません……」

 

 自分の状況を語った朱雨に、小柄な人影はすりへった声を強く荒げる。ではどのような意味かと朱雨が問い返す前に、息を整えた小柄な法師は起き上がり、手に持つ錫杖をシャンと打ち鳴らした。

 

「目の前に疲れ果てた人がいるというのに、何もせずに座っているとは何事ですか。疲れた人に手を差し伸べる事をしない者に良い事はありません。善とは通貨、廻り廻って己に(かえ)ってくるもの。他者に対して冷たい貴方には、温かみのない悪いものしか巡ってきませんよ」

 

「…………?」

 

 透き通った高い声を奏でる法師の説法、のようなものに、朱雨は再び首をかしげた。いきなり現れて何を言っているんだろうか、というのが正直な感想である。それに善だの悪だの言われても、それに関して全く興味のない朱雨は内容を吟味もせず、とりあえず言葉の意味を間違った方向に解釈して口に出した。

 

「……つまり、お前は私に対して介抱を要求しているのか? 要求している物品が衣服や食糧とも受け取れるのだが……」

 

「違います。全く違います。貴方は私の話をちゃんと聞いていたのですか?」

 

 朱雨の的外れな答えに小柄な法師は呆れて嘆息する。そして呆れを払うように首を振ると、凜とした動きで笠を首の後ろに引っかけて、迷いのない真っ直ぐな意志を感じさせる靑珊瑚(あおさんご)の瞳を朱雨の視線と重ねた。

 

「他人を助けるというのは善い行いです。他人を助ける優しさとは仁となり、実践する事によって礼となる。自らの物を他人に渡したくないという独占欲を取り払う義に通ずる行為であり、それは信となって貴方の誠実さを表す事柄となるのです。そしてそれらは貴方の徳を高める事となり、善き人生を送る手助けになるでしょう。

 

 ですが今のように他人に手を貸さず自分だけを守るようであれば、貴方の徳は腐敗し塵となり、悪い人生しか送れなくなる。悪い人生だけを送り罪を犯した者には、死後にも罰しか与えられない」

 

 先端から水滴を落とす若草のような明るい緑の髪が揺れる。朱雨はじっと話を聞きながら、驚きを交えて法師を観察していた。自分にばかり注視していたから気付かなかったが、この法師は男性ではない。小さな肩も細い輪郭(りんかく)も、透き通った声もその法師が女性である事を示している。

 

「――このままでは、貴方は地獄に落とされるでしょう。ですから他人を助け、欲望に執着しないようにしなさい。それが今の貴方に積める善行です」

 

「……………………」

 

 小柄な法師、というよりは法師の姿をした彼女はそう締めくくった。徳だの地獄だのと言っていたように、本当に法職につく者なのだろう。しかし重ねて言うが、今の朱雨にそんな事にかまう余裕はない。だから朱雨は頭にかぶさるように布を投げつけ、言葉の形をした音を彼女に向けた。

 

「分かった、お前の言った事を実践しよう。まずはそれで身体に付着した水分を軽くぬぐうといい。終わったらこの服に着替えてこちらのたき火で暖をとれ。水も食糧も用意する。豪雨の中を走ってきたなら体力の低下、免疫力の減少も予想される。薬を調合しておくから、今指示した事を済ませるように」

 

 その言葉は本当に機械的な指示で、思い遣りや優しさなど一片も感じ取れなかった。

 

「……どうやらなにも分かっていないようですね。いいでしょう、貴方には多くの説教が必要みたいです……くしゅんっ!」

 

 緑髪の彼女は少しばかりこめかみをひくつかせると、凜とした佇まいで朱雨に何か言おうとする。しかし雨に濡れた影響で身体が冷えていたのだろう、次の瞬間には口元をおさえて可愛らしいくしゃみをした。同時に身体を震わせて自分の肩を抱くと、「ありがとう、貴方の慈悲に感謝します」と丁寧に頭を下げて、与えられた布で自分の髪を拭き始めた。

 

 それを薬の材料を取り出しながら聴覚と触覚で認識していた朱雨は、伊達に法師の格好をしているわけではないと考える。少なくとも説法の狭間に礼を言える程度には、出来た人間だという事だ。

 

「……ん?」

 

 ……本当に人間なのか? という疑問がそこで浮かんだ。心音も筋肉の動きも脳細胞の電気信号も限りなく人間のそれだが、何か違う。その人間との差異を感じて真剣に観察すると、面倒な事実が発覚した。

 

(……この女、付喪(つくも)神なのか。いや、そう表現するよりも、人間から物質に転化し、再び人間となったと説明する方が正しいか。いやはや、厄介なものだ――こんな存在は大概、神との交流を持っているのだから)

 

 面倒な事態にならなければいいが、と朱雨が鼻を鳴らすと、「ああ、まだ名前を言っていませんでしたね」と身体を拭き終わった法師の女が近づいてくる。彼女は背を向けている朱雨からお礼と共に簡易な服を受け取ると、着替える前に名前を名乗った。

 

「私の名前は四季(しき)(えい)()と言います。貴方は何と言うのですか?」

 

「……私の名称は神亡朱雨だ」

 

「では朱雨と呼ばせていただきます。私の事は、映姫とでもお呼びください」

 

「そうさせて貰おう」

 

 法師の女、映姫は後ろ手に振り返る朱雨に頭を下げて着替え始まる。それを見るべきではないと教わってきた朱雨は視線を薬を練る器に戻し、すり鉢で練った薬草に新しいのを追加した。

 

 

 

 

「衣食をくれてありがとうございました。改めて、お礼を言わせてもらいます」

 

 直綴の法衣から朱雨と同じ藍色の着流しに着替えた映姫は、渡された薬を水で流し込んだ後、朱雨に何度目かのお礼を言っていた。朱雨は嬉しそうにも不快そうにもせず、淡々と言葉を返す。

 

「礼には及ばない。それよりも長丁場になりそうだ。身体を休める事を推奨する」

 

 紅色の眼が向く先には入り口がある。そこから見える滝のような豪雨は止む気配がなく、むしろその勢いを増しているようだ。諏訪子め、一体何を考えているんだ――後で追及すべき事柄が出来たと思考していると、こほん、と小さな咳払いをした映姫がやたら真剣な眼で朱雨をみつめた。

 

「いいえ。これから貴方に説教をさせて貰います。確かに貴方の好意は私の助けになりましたが、心が籠っていません。心の籠らない好意に慈悲はなく、人を助けても徳は僅かにしか積めませんよ。貴方にはこれから、如何にして徳を積むべきなのか言い聞かせなくてはなりません」

 

「…………」

 

 妙な迫力のある映姫の言葉に朱雨は無言で目を閉じて額に手を当てる。そんな説法を聞く余裕などないのだが、というのが本音だ。だから朱雨は経験則からもっとも事態を回避できそうな言葉を選択する。

 

「……見逃してはくれないか。私がお前に与えた施しの礼と言う形で、私への説法を中止して貰いたい」

 

「駄目です」

 

 頭を指で叩きながらしぼりだした言葉は映姫に一刀両断された。しかもその言葉は映姫の琴線に触れるものだったようで、映姫は腕を組んで朱雨を睨みつける。

 

「見返りの代わりに不都合な正しさを退けるのは悪徳です。私が貴方からどれ程の施しを受けようとも、それが説教を止める理由にはなりません。むしろ貴方の言葉を聞いて、一両日をかけてでも説教しなければならないと思いました」

 

「……そうか。私は選択を間違えたようだ。いいだろう、存分に語るがいい……」

 

 朱雨は一旦諦めたようにため息をつき、少し表情を引き締めて映姫と向かい合った。人間に擬態するなら事なかれが一番良い、映姫も説教が終われば満足するだろう――なんて考えると、映姫は更に表情を険しくする。まずい、思考を読まれたか――そう思う前に映姫は立ち上がり、あごを上げて朱雨を見下ろした。

 

「――これは、長い時間が必要のようね。朱雨、貴方は見たところ旅人ですね? そうであれば私も恩返しをしたいですし、しばらく同行させて貰います。いいですね?」

 

「いや、それは流石に遠慮したいの、だが……」

 

「い い で す ね」

 

「……ああ、分かったよ……」

 

「では始めましょう。まず貴方には誠意が足りない。徳を積むためには人を愛する心と、真摯に人を助けようとする誠意、そして自らに執着しない無我が必要です。これらが一つ欠けてしまえば、善行はたちまち私利私欲へと堕ちてしまう

 人を愛さなければ助けようとは思えない。人を助けるなら、どんな目にあってもやり抜く誠意がなければならない。助けたからと言って見返りを求めるような我があってはならない。善行とはすなわち、報酬を必要としない無償の愛なのです」

 

 たき火のすぐ横に正座させられた朱雨は、ともすれば髪に引火してしまいそうな状況に気を付けながら、映姫の話を記録していく。これが人間なら文句の一つも出るところだが、たき火程度では脅威にならないので、朱雨は無視していた。映姫もそれを無意識に分かっていたのかもしれない。だからその状況を気にせず、説教を重ねていく。

 

「とはいえ、貴方が人に与えた無償の愛が返ってこないというわけではありません。貴方が無償の愛を与えたという「原因」は、いずれ貴方への施し、あるいは助けという「結果」として戻ってきます。ですから誰かを助け続ける事だけが善行とは思わないで下さい。誰かの好意を受け取ることもまた善行なのですから。ですがその「結果」を受け取るためには、まず「原因」を自らで積まねばなりません。その具体的な方法とは――――」

 

 朱雨にとっては時間の無駄以外の何物でもないこの状況。それを引き起こしてしまった朱雨は、二度とこんな間違いは起こすまいと念頭に入れていた。まあ、少しはありがたいと思う気持ちもあった。映姫の話を素直に聞いている間は、少なくとも己の心について悩む暇などなかったのだから。

 

 これが朱雨と映姫の出逢い。出逢いと呼ぶにはあまりにも堅苦しいものであったが、後から思えばそれで良かったのだろう。一切の私欲のない、簡潔で明確な映姫の言葉は、確実に朱雨の元へ届くものだったからだ。

 

 血と仏。朱雨が心を受け入れるには、今少しの時が必要となる。

 


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