東方血界神 ~Creatures Paradise~   作:閼伽

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護衛を終え、朱雨は不死の山を登る。

 

 

 

 

 物語に終わりはない。それが、誰にも語られなくとも。

 

 

 

 

「……今まで、お世話になりました」

 

 讃岐造と嫗に向けて、朱雨は丁寧に頭を下げた。柔らかな物腰で「こちらこそ」と頭を下げる二人は、出会った時よりもやや老けたような印象を受ける。夏場であるのに空は暗く、湿気を含んだぬるい風が落ちた木の葉を散らしていった。足元を逃げまどっていく木の葉に一抹の思いを感じながら、彼らは別れの挨拶を交わしていく。

 

「寂しくなるのう……輝夜だけでなく、お前さんまでいなくなってしまうのは」

 

 頬をぽりぽりと掻きながら讃岐造は寂しそうに笑う。隣の嫗も同じような表情だ。朱雨は相変わらずの無表情だが、僅かながら悲しげに目を伏せている。彼もまた、悲しいのだろうか。それともただの擬態なのだろうか。今の朱雨には、自分がどちらなのか分からなくなっていた。

 

「……では、私はこれで。本当にお世話になりました」

 

 短い言葉を交換しあって、最後にもう一度朱雨は頭を下げる。そして手を振って見送る二人を背に、当てもなく道を歩いて行った。

 

 朱雨は頭の片隅で彼らの行く末を考える。子もいない、孫もいない、親族もいない彼らは、あそこで暮らしたまま、静かに生涯を閉じるだろう。誰にも何も伝えられず、何も後世に残す事なく。

 

 自然界では珍しくない事だ。生まれてすぐや卵のまま喰われる事もあるし、交配できる異性を見つけられず、食糧不足で野たれ死ぬ生物もいる。人間だとて生き物だ、例外ではない。人間という種族の役に立つ者もいれば、彼らのように役に立たない者もいる。ただそれだけだ。だから、朱雨が気に掛ける事ではないし、気に掛けていい事でもない。

 

 彼らは何も残せなかった。それは、彼らの人生に何らの意味もなかった事を指し示している。そこに居たという記憶さえ、十年もすれば風化するだろう。彼らの人生は、無駄だったのだ。

 

「……だから、私が思う事さえも無駄でしかない。出来る事など何もない、すべきこともまたありはしない。私が抱くこの感情は、すべからく無意味でしかないと言うのに。なぜ私は、こうも彼らを案じているのだろう――」

 

 朱雨は苦悩する。自らのうちに芽生えてしまったそれは、確実に朱雨の歩みを(はば)んでいた。放っておく訳にもいかない。だが、その為に歩みを止めてしまう訳にもいかない。どちらかを選ばねばならない二律背反。かつてなら前へ進む事を選んでいた朱雨は、足を動かす事もままならなかった。

 

「――永琳ならば、一つの答えを提示してくれるだろうか。私には分からない。だから、多くの答えが必要だ」

 

 何時の間にか立ち止っていた朱雨は、永琳のいる迷いの竹林へ向かう事を決めた。自らのそれをどうするか、その答えを得んがために。右腕に爪を滑らせようと、指先に左手の親指とたてたその時。

 

「そこの者!」

 

 後ろから野太い声の男が颯爽と馬に乗ってやってきた。立ち止まっている朱雨の元まで来ると、懐から折りたたまれた紙を取り出す。飛脚の類か――呼び止められたので、一応話を聞く事にした。

 

「私に何か用か」

 

「帝からの言伝を預かって来た! 輝夜姫の世話をされていた朱雨という名の従者よ! 今すぐ都へと向かわれよ!」

 

「帝から……? なぜ?」

 

「分からん! だがこれは厳命である! 従わぬ場合、帝は兵どもを出してまで貴君を捕らえるつもりのようだ! それを深く心に刻み、自らのとるべき道を違えぬようにせよ!」

 

 それだけ言って、飛脚は走り去っていった。伝える内容は短い。どこにいるか分からない朱雨に伝えるためだけに飛脚を動員したという事は、おそらく多くの飛脚が同じ文を手渡されて四方八方に散らばっていったのだろう。その内の一人が、たまたま朱雨を見つけ出したようだ。

 

 どうすべきか、と朱雨は黙考するが、とるべき選択肢は決まっていた。こんな小さな島国とは言え、その最高権力者からの直々の出頭令だ。従わない場合、この島国での活動が(いちじる)しく制限されるのは想像に(かた)くない。黙って従うべきだな――朱雨は血界を開くのを止め、進路を都へと移した。

 

 

 

 

 さて、平安の都へと辿り着いたわけだが。正直な感想としては、いつぞやの大陸諸国の都城とよく似通った街であった。長方形に区分された家や区画、整理された道を通り、朱雨は街並みを観察しながら宮へと足を運んでいく。

 

 この島国は大陸から伝来した文化を模している。そのため一度目にした事がある場所が多く、ただでさえ観察する意味のない人間の文明が更に見る影がなくなっている。それでも独自の文化はあるので、その小さな変化を眺めつつ、朱雨は宮の前まで来た。

 

 話が既に通っていたのか、朱雨が来ると門兵が近づいてきて、すぐに上質な部屋へ通される。客間なのか、無駄に広い部屋の中心で正座して、朱雨はこれからどうなるのか考え出した。

 

 飛脚は朱雨を「輝夜姫の世話をされていた」人と言っていた。輝夜の従者であった朱雨に用があるという事は、十中八九輝夜にまつわる事だろう。おおかた輝夜の様子か何かを仔細聞きだしたいに違いない……いや、これは朱雨が観察する場合の話か。人間には適合できない考えだ。

 

 であればなんだろうか。朱雨には呼び出された理由が見当もつかなかった。そもそも人間の思考は奇怪な論理(ロジック)が働いている。その多様さは目を見張るものがあるが、多様性がもはや混沌と呼んでいいほど複雑怪奇に入り乱れているため、それを読み解くのは朱雨には不可能だった。

 

 朱雨は身じろぎせず正座し続ける。最高権力者に呼び出されている現状、行く先がどうなるか分からない。だが、それは生きていれば常に付きまとう問題だ。例え視界が全くの未明であったとしても、朱雨はそれで恐れをなすような存在ではない。

 

 どんな状況であったとしても、全力で自分の出来る事をする。それが神亡朱雨である。そうでなければ、何一つ理解出来る物のない遥かな宇宙を百億年も漂う事は出来ない。

 

 ふと、(ふすま)の外を見る。緑の藻が沈んだ広い池が見え、ところどころに(はす)の花が浮かんでいる。中央に舟か水泳でしか辿りつけない中島があり、ほとりには目新しい寺院が建立されていた。

 

 確か、浄土式と呼ばれる庭園だったはずだ。中央の島は蓬莱山と言ったところか。積極的には集めない人間の文化の情報からそれだけを朱雨はしぼりだした。日は昇っているが雲に隠れ、風はなく、周囲に響くのは蝉の声のみ。波一つたたない池は、どこまでも揺らがぬ朱雨の内面を写しているようにも感じる。

 

 ふいに、蓮の花が揺れた。気候が合わないのか、はたまた育て方が悪いのか、ややしおれているようにも見える。それについて朱雨が過敏に思う事はない。あるがままの生命を見続けてきた朱雨は、そんなものはよく見かけてきたものだ。命一つが消えるのも、世界の定めである。

 

 ――故に、朱雨はその様を哀れと思ってはならない。見慣れた光景に見慣れない何かが挟まれば、それは朱雨の変化を指し示しているに他ならないからだ。しおれた花に、本当に小さく目を細める。一切動かない朱雨の、それだけが唯一の行動だった。

 

「準備が整いました。こちらへ」

 

 じっと動かずに待っていると、使用人に属する家人と呼ばれる従者が客間にやってきた。家人に促されるまま朱雨は立ち上がり、案内されるままについて行く。帝の使用人ともなればそれなりの生活を与えられるのだな、と前を行く家人の衣服を見ながらそう考え、政治の在り方についてしばし黙考していると、今度はこじんまりとした広場に出てきた。

 

 四方を朱塗りの欄干(らんかん)と、人が座れるように設計された観客席のような建物に囲まれた場所だ。目の前には、(たか)御座(みくら)と呼ばれる玉座が荘厳に存在している。(すだれ)は降ろされているが、人の気配がある――その生命の息吹を確認した瞬間、朱雨は嘆息する思いをした。よもやこの身が、帝との拝謁(はいえつ)の栄に浸る事が出来ようとは思わなかった。

 

 朱雨はすぐさま膝を折る。正直なところ、朱雨は帝と直接会えるとは考えても見なかった事だ。輝夜が月に帰ったとされる日、牛車(ぎっしゃ)()する帝と直接言葉を交わしたのは輝夜だけであったからだ。それに、帝は神聖にして不可侵なるもの。朱雨のような低い身分の者が目に入れて良いものでさえない。

 

 朱雨は両手を拳にして地に突き、頭を下げた。そして、そのまま動かなくなる。左右には儀礼用に武装した兵士、そして高御座の横には上流貴族が一人。

 

「ではこれより、汝に帝様からのありがたきお言葉を授ける。心して清聴せよ」

 

 その貴族は厳かに話し始めた。流石に、帝が直接言葉をかける事はないらしい。朱雨としても、そちらの方が良いと考える。自らの内にわだかまりを抱える今、適切な対応をしきれる保証が朱雨にはなかった。

 

(なんじ)、朱雨は輝夜姫の従者であり、夢の信託を受けてその任にあたっていた。これは間違いないか?」

 

「はい、間違いありません」

 

「うむ。輝夜姫は汝をたいそう信頼していたと聞いている。そこで、帝様直々に汝へ頼み事をしたいと仰られた。その頼み事は、輝夜姫より授かった不死の薬を、捨ててきてほしいというものだ」

 

「不死の薬を……?」

 

 朱雨は下賤(げせん)な民ゆえの鸚鵡(おうむ)返しな返事を心掛けつつ、不死の薬の廃棄理由ついて推論する。死なない事は生命にして子孫を残す事の次に重要な事だ。不死の薬がその生命に対しどのような効果をもたらすかは分からないが、服用すれば確実に既存の生命の次元から脱却できる。

 

 そうでなくとも、人間にとって不死とは最上の欲望だ。それをむざむざ棄てるとは――朱雨はその理由に興味を持つものの、私にはきっと理解出来ないのだろうと、棄てる理由にどこか当たりをつけていた。

 

「そうだ。帝様に使える(つわもの)どもと共に、不死の薬を天高き山の頂上に捨ててくる。それこそが汝に与えられし使命。この天啓、よもや為さぬという事はあるまい」

 

「当然でございます。帝様より賜りし我が使命、全霊を以て成し遂げて御覧に差し上げましょう」

 

「うむ、よろしい」

 

 厳粛な雰囲気を醸し出す上流貴族の言葉に朱雨はただただ平伏する。もとより引き受けるつもりでここまで来たのだ、今更断る理由もない。そうやって地に伏す朱雨を、簾の奥に坐する帝は静かに見つめていた。

 

 

 

 

 帝は不死の薬を運ぶ護衛として五十人以上の兵を朱雨につかせた。朱雨にとって彼らは必要のない者達であったが、朱雨のような民草につけられる護衛とは監視の役割も担っているものだ。おおかた、朱雨が不死の薬を持ち逃げする事を考慮した結果だろう。

 

 そうであれば朝廷内で信頼できる人物に託した方が無難であるはずなのだが、帝はなぜか朱雨を選んだ。輝夜の世話係だったからか、はたまた妖怪を退治していた現場を目撃されていて、腕のたつ優秀な者だと思ったのか。いずれにせよ、わざわざ朱雨を選んだ真意は帝にしか分からない。朱雨は、己の業務を遂行するのみである。

 

 不死の薬の捨て場所に選ばれたのは世界でもっとも高いと称される山だ。世界と言ってもこの島国の中で、という条件が付くが、それでも海抜から計測すると地球の中でも有数の標高を誇っている。格式の高い霊峰であるのだが、まだ名前がついていないので、これを気に決めるかもしれない。

 

 さて、都からその霊峰までの距離は約十里ほど離れている。歩いて行けない距離ではないが、半日程度かかる上、山に登る体力も考えなければならない。登山の為の荷物の事も考えると、五十人が徒歩でゆくのは拙い事と言えよう。

 

 そうであれば当然、馬が使われる。平坦な道であれば時速にして十五里から十七里程度を走破できる馬ならば、徒歩で行くよりは労せずして高き霊峰まで辿りつけるだろう。兵たちは輝夜姫の世話係であった以外はただの民草である朱雨が、馬に乗れない場合を考慮していたが、朱雨はそれくらいなら持ち前の観察眼と頭脳でどうとでもなるので、特に問題もなく霊峰までの道中を進んでいった。

 

 都からいったん東に進み、海に突き当たったあたりから海沿いに進んでいく。潮の匂いを含んだ海風を受けながら朱雨を中心に進んでいく一行は、何事もなく霊峰まで辿り着く事が出来た。

 

 しかし、ここからがこの任務の本番である。登山は危険が付き纏うものだ。山を登る為の装備はあるが、山の中に人が昇るために造られた道はなく、険しい獣道や切り立った崖を登っていくしかない。その中で確実かつ安全に不死の薬を所持した朱雨を送り届けるために、兵たちはある手法をとる事にした。

 

 まず兵たちの一部が先行し、草木を刈ったり崖に縄を通したりと、安全に通行できる道を切り開き、ある程度のくぎりで簡易的な休憩の場をつくっていく。そうして出来た安全な通路を残りの人員が通っていき、疲れ果てた兵はそこで休憩させておく。

 

 そして安全な道を通り終わった後は、また兵たちの一部を先行させ、同じことを繰り返させる。こうする事で不死の薬を運ぶ役割である朱雨をあまり疲弊させる事無く、頂上まで運んでいくという寸法だ。

 

 この手法は、本来ならば朱雨達が今登っている山の三倍近い標高を誇る山を登るために使われるものだ。兵を先行させて道を造り、それから通行させるという性質上、時間もかかる上に人員も多く必要になってくる。しかしその分だけ安全性と確実性が増すので、この手法をとったのだろう。

 

 こうし続けると登れば登るほど人員が減っていく事になるが、最終的に不死の薬の投棄を託された朱雨のみが山頂に辿りつければそれでよいため、いくら人員が減ろうと気にする者はいない。そうやって朱雨一行は一日で山の三分の二を踏破した。その日はもう日が暮れてしまったが、このまま行けば明日にでも任務を終える事が出来よう。

 

 しかし。そこで一行に少々面倒な事態が発生した。

 

「――よもや、ここまで追ってこようとはな。何の目的かは分からないが、己の限界は見えていただろうに」

 

「ん? 何か(おっしゃ)いましたか、朱雨殿」

 

 五十人から二十人程度まで減ってしまった兵たちに囲まれながら、ひたすらに山頂を目指していた朱雨は、無表情から吐息混じりにそんな独り言をつぶやく。それを耳ざとく聞きつけた兵の一人が、かしこまってそう尋ねた。

 

 本来ならばただの民草である朱雨より上流の彼らが朱雨に敬服する必要はないのだが、彼らは頭の固い真面目な者達であった。そのため帝に大役を任された朱雨にたいし、敬意をもって接している。その生真面目な兵の質問に、朱雨は坦々と答えた。

 

「……すまないが、そこの草むらをかき分けてくれないか。私の感覚が正しければ、そこに誰かが横たわっている」

 

「! 了解しました!」

 

 自らの職務に真摯なその兵は、朱雨が指さした場所へ飛びつくように走っていった。草木をかき分け奥の方に入っていった直後、はっと息をのむ声が聞こえ、しばらくして戻ってくる。

 

 その腕の中に、大人と子供の間のような黒髪の女性を抱いて。

 

「…………」

 

 朱雨はその顔に見覚えがあった。いや、見覚えではなく、確かな人物像が記録の中に存在していた。それもそうだろう――土に汚れ、枝に引っかけてボロボロになっている白い着物を着こむ女性は、朱雨と宝物を巡る遊戯を繰り広げた彼女なのだから。

 

「……妹紅。なぜ、お前はここまでやってきたんだ」

 

 妹紅を抱えて戻ってきた兵に朱雨は近づく。ぐったりとしている妹紅の前髪を手でのけて、生傷だらけの行き倒れがみせる苦渋に満ちた表情をあらわにした。その気を失った妹紅を見て、朱雨は少しだけ目を伏せる。その瞳の内で考える事は、一つだけだ。

 

 ――こうも愚劣だから、私は心を忌避するのだ。

 

 妹紅が追ってきていた事は知っていた。都を出発する時、朱雨達より先に馬を走らせていた妹紅を感知していたからだ。理由は分からない。ただ、先に山へ辿り着いた妹紅がその場で隠れた理由を推測すると、朱雨達を待ちぶせて何かをしようとしたのだろう。

 

 しかし、五十人の兵を引き連れてやってきた朱雨に気後れし、後をつけてくることしかしなかった。しかしそれこそが、朱雨が愚劣と評した行動だった。

 

 着物をひとつ着込んだだけの妹紅がこれだけ高い山を登るなんて無謀もいいところだ。どんなに経験を積んだ天才的な登山家でも、相応の準備と計画をして初めて山頂まで辿り着く事が出来る。それを何の準備もせず、また登山の才覚もない妹紅に出来る筈がない。

 

 案の定、妹紅は途中で力尽き、ここで倒れた。途中で休憩の場をつくって減っていく兵を見て、このままいけばどんどん減っていくだろうと考えてここまで先回りしたのだろうが、それでも無謀に過ぎる。朱雨からすれば、妹紅がやった事はただの自殺だった。

 

 そして、朱雨は自らを殺す事を最も忌避している。だからこそ朱雨が抱くべき思考は、妹紅の愚劣さを観察し、自らがそう行動しないように規範を精練していく、ただそれだけであるべきなのだ。

 

 ……だが、朱雨にはもうその行動のみを取る事が出来ない。それがとても忌々しく、その忌々しいと思う事さえ朱雨には信じがたい。自らのうちに生まれた変化を一刻もはやく解消したいと思いながらも、朱雨は任務を優先する事を選択し、それは気の向くままに放っておくほかなかった。

 

「……今日はここまでだな。妹紅がどうしてここまで来たかは分からないが、これでは動く事もままならないだろう。日も暮れてきたことであるし、ここで暖を取る事にする」

 

 妹紅の体調を観察し終わった朱雨は、兵たちをぐるっと見回してそう宣言した。妹紅を抱える兵は、朱雨の言葉に驚いて尋ねてくる。

 

「朱雨殿は、この女性が誰なのかご存知なのですか?」

 

「輝夜姫の唯一無二の友人だ。丁重に扱え」

 

「! は、はい! 了解しました!」

 

 朱雨の簡潔な説明に必要以上に反応する兵を尻目に、朱雨は落ちゆく太陽へ目を向ける。

 

 かつて因幡の兎は言った。己がどれ程に悩み、停滞しようと、世界は留まるを知らないと。なればこそ自らを縛る足枷を無視してでも、日々を歩むべきなのだと。

 

 朱雨はそれを実践し、今日まで生きている。だが今度は、あの時とは比べ物にならない迷いを抱いてしまった。自らの根源さえ揺らがしかねないそれに、朱雨はただ苦悩する。

 

「――なあ。お前なら、あの時のように私に答えをさし示してくれるだろうか」

 

 迷いをしらない太陽は一心不乱に天の道を突き進む。そうやって死んで夜を迎え、朝に生まれる恒星を見据えながら、朱雨は誰に問うわけでもなく呟いた。今度は、耳に止める者はいない。青々と茂る木の葉の一枚が、風に攫われていった。

 

 

 

 

    आयुस्

 

 

 

 

「ん……んう……? ここ、は……?」

 

 伏せられた睫毛(まつげ)が震え、うっすらと目が開けられる。焦点の合わない瞳が天上の星々を写しだし、無意識に周囲を見渡した妹紅は、すぐそばで木に寄りかかる男の姿を見つけた。

 

「気が付いたか、妹紅」

 

 藍色の着流しで体を包む朱雨は、気に寄りかかったまま妹紅に声をかける。

 

「……あんたは、朱雨……私、どうして……!」

 

 朱雨の姿を見るなり、妹紅は憎悪に顔を歪めて身体を起こそうとした。しかし、身体中からあげられた悲鳴がそれを止める。痛みで顔をしかめて自分の身体を見れば、全身に包帯がまかれている有様だった。

 

「お前が私達を追跡していたのは認識していた。しかし、お前が如何様な行動をとろうと私にとって障害になりえぬ判断したため、お前を無視し続けていた。だが、無謀にもお前は登山を試んで失敗し、現在私達の保護下にある。下手な行動は――」

 

「うわああああああああああああああああああああああっ!!!」

 

 眉をぴくりともさせずに朱雨が語っていると、なりふり構わない絶叫をあげて妹紅が飛び掛かってくる。妹紅が跳躍の予備動作を行った時点でそれを察していた朱雨は、簡単に妹紅を捕縛して拘束し、鎮静剤を投与した。

 

「朱雨殿、今の声は……!?」

 

「大事ない。頭を打った場所が悪かったのか、妹紅が錯乱して飛び掛かって来ただけだ。悪い夢でも見たかもしれんな」

 

 絶叫を聞いて駆け付けた兵に、朱雨は淡々と虚偽の説明をする。兵はまるで獲物を食い千切らんとする狼のように犬歯を剥き出しにして暴れる妹紅と、それを冷静な瞳で見る朱雨をオロオロと交互に見る。自分が今どうすれば良いか、一瞬では分からなかったからだ。

 

「ここは私一人で充分だ。引き続き、周囲の警戒に当たってくれ」

 

「あっ、は、はい!」

 

 それを見越して朱雨が静かに命令すると、兵は敬礼してその場から立ち去る。静寂な空気が戻ってきたその場所で、鎮静剤が全身に回ったのを確認してから、朱雨は妹紅の拘束を解いた。

 

「妹紅、今一度言っておこう。お前は現在、我々の庇護下にある。この高き山を誰の手も借りず、何の装備もなしに昇り降りする事が不可能なのは、お前自身がよく分かっている筈だ。その事実を思い起こし、現状はおとなしく従う事を推奨する。我々の邪魔になるようなら、例えお前であろうと私は此処(ここ)に置いて行く」

 

「…………」

 

 妹紅の返事はない。反抗的だからではなく、そう語る朱雨の瞳に人間性を欠片も感じなかったからだ。少なくとも自分が「蓬莱の玉の枝」を巡って争いを仕掛けた時は、こんな目はしていなかった。知己である朱雨のまったく知らない一面に、妹紅は恐怖していた。

 

 その怯える様子を見据えて、朱雨は今の妹紅に危険はないと判断する。命を賭した妨害を仕掛けてくるかも知れないが、それもとるに足らないものと終わるだろう。必要なのは、その事実に気を緩めない精神。常に油断と慢心だけはしまいと思考する朱雨は、それだけを引き締めた。

 

「では、質問をさせて貰おう」

 

 先程まで寄りかかっていた樹木まで戻り、朱雨は座りながら妹紅に声をかける。鎮静剤によってある程度の冷静さを取り戻していた妹紅は、とっさに感情的に吠え返そうとして、朱雨への恐怖に(のど)を縛られた。朱雨が瞬間的に紅く染めた深紅の眼が、妹紅を射貫いたからだ。

 

 口答えは許さない。口を(つぐ)むも許さない。ただ淡々と、質問に答えろ。

 

 その眼はそんな事を言っているように見えた。朱雨は威嚇(いかく)して話をしやすくしただけなのだが、朱雨の知り得ない心を持つ妹紅は、言外の威圧をそのように捉える。恐怖に涙をためる妹紅の内に訳の分からない感情(もの)を見て取った朱雨は、それを理解しようとする己だけを削除して、質問を始めた。

 

「藤原妹紅。お前はどうして私を追跡するような真似をした。都からここまでのお前の行動と、先の私への攻撃から推測するに、何かしらの目的があって私達を妨害しようと目論んでいるのか」

 

「…………」

 

 朱雨の言葉に妹紅は目を逸らす。質問に答えないが、答えているようなものだ。妹紅の様子から肯定の意を汲み取った朱雨は、言葉を続ける。

 

「その目的はなんだ」

 

「…………」

 

「妹紅――」

 

「……いやだ、言いたくない」

 

 妹紅は恐怖に耐えながら、小さくも強い言葉を跳ね返す。それはただの虚勢だと、朱雨にはすぐさま理解出来た。

 

 ――しかし、本当にそれだけなのだろうかと、朱雨は疑問を生じさせる。

 

 なおも朱雨を見ようとしない妹紅の目には涙があふれ、身体は怯え竦んでいる。平均的な人間ならば、恐怖に突き動かされるままに白状するだろう威圧を与えたというのに、妹紅は必死に耐えていた。こうなってまだ、目的を話さない理由――それは自らには理解出来ない事なのだろうと、朱雨は勝手に結論付ける。

 

「ならばいい。答えたくなければ、答える必要はない」

 

「え……?」

 

 無理矢理聞き出されるかもしれないと、暴力の影を想像していた妹紅は、朱雨の平坦な声に思わず顔を元に戻す。そこにあるのはいつも通りの仏像みたいな顔。違うのは、さっきみたいに目が紅くなくて、恐ろしくないところだ。

 

「邪魔さえしてくれなければ、お前の目的はどうでもいい」

 

 朱雨の言葉に思い遣りはない。自分に課せられた義務さえ果たせれば、あとはどうでもいいと言うかのような態度だ。しかし――彼は生命を大切にするが故に、妹紅にこんな言葉をかける。

 

「明日は早朝から動く事になるだろう。だから妹紅、今日はもう休め。お前の身体も、まだ休息を欲している」

 

「う、うん……分かった……」

 

 静かな朱雨の言葉に妹紅は拍子抜けしながら頷いた。言い方は腹が立つけど、気にしないというのなら、まだ機会がある。輝夜に復讐する為の、機会がきっと訪れる。妹紅は自分の心を暗い奥底に浸してそう思い、同時に、身体が疲れ切っている事を自覚して、早々と床に就く事にした。

 

 妹紅の身体が睡眠状態に移行した事を確認した朱雨は、誰にも気付かれる事なく張った目に見えない防音の壁を解除し、誰にも気付かれる事なく体内に戻す。万が一、兵に妹紅との会話を聞かれ、殺される可能性を考慮して行った事だ。

 

 それは明らかに、妹紅の命を守ろうとする行動だった。それを自覚している朱雨は、それを命じた精神の海に生まれた混沌を叩き潰したくて仕方なくなる。

 

 ――なぜ、私はこんなモノを抱いてしまったのだ。

 

 誰に向けるでもない問い掛けは、誰も答える事はない。朱雨は自分の視界を閉じ、苦悩を顔に刻む事しか出来なかった。

 

 

 

 

 翌日の早朝から、彼らは忙しく動き回っていた。

 

 夏場と言えど、標高が雲に届かんとする辺りまでくれば、外気の温度が低くなる。夜の冷え込みの後に訪れる朝ならば、その寒さは夏と思えないものになっていた。

 

 そんな中で初めに起き出したのが兵達で、次に朱雨、最後に妹紅という順番で彼らは登山の準備していく。妹紅に関しては予備の装備を与え、随伴(ずいはん)の兵とともに山を降ろさずついて来させた。

 

「妹紅には、この薬の結末を見届ける権利がある」

 

 妹紅の処遇について話し合った結果、朱雨の鶴の一声で決まった事だ。そして彼らは昨日と同じように、その数を減らしながら山頂を目指していき――

 

 そして、朱雨は辿り着いた。その影に朱雨より一回りも二回りも小さな妹紅を引き連れて。

 

 冬に蓄積した雪がまだ残っている山頂付近、その中で外気の冷たさを感じない場所が存在する。そこは火山の火口、煮え滾る溶岩が露出する、大自然の強大さを示す場所だ。

 

「うっ……」

 

 妹紅は火口の(ふち)から溶岩流を覗き込み、ここに落ちたらどうなるだろうかと想像して顔を青くする。辺りには有毒な空気があるのだが、妹紅がそれに毒された様子はない。朱雨が、妹紅の周囲を血界で守っているからだ。

 

「妹紅、それ以上は寄るな」

 

「わ、分かってるわよ……」

 

 通常は味わう事のない溶岩の熱量に手で顔を覆って冷や汗を流す妹紅は、朱雨の警告に素直に従った。万が一を考えてすぐに血界を作動させる準備をしていた朱雨は、何事もなく下がった妹紅に安堵する。そしてその安堵に苛立つも、依頼を先に片付けようと火口の淵へと歩み寄った。

 

 そして、背負っていた木箱から不死の薬を取り出す――のではなく、自分の腹に手を突っ込んで、その中から人の頭ほどもある壺を取り出した。

 

 それこそが本物の不死の薬。帝から朱雨に託された瞬間から、朱雨は目に見える形で背負う木箱の中身を偽物と入れ替えていた。その理由はただ一つ、より確実に依頼を達成しようとする、朱雨の機械的思考からである。

 

 腹の中から薬を出した事を妹紅が驚いているが、その方が都合が良い。そうやって驚愕して行動を止めているうちにこれを火口へ投げ捨てれば、妹紅の邪魔が入る前に任務を達成できる。

 

 それに、これを投げ捨てて任務を終えれば、私はようやく、自らのうちに没頭できるのだ。自身がこれからどうするべきか、その答えを出さねばならない今、やるべき事は早く済ませたい。朱雨は淵から火口へ手を伸ばし、不死の薬を溶岩へ投げ捨てようとして――

 

 

「待ちなさい、化外の者よ。その薬をどうされるおつもりですか」

 

 

 頭上から響いてきた清浄な声に、全ての動作を停止させて、嘆息と共に首を振った。

 

 どうして、こうも邪魔が入るのだと。思考を(むしば)むそれを除外しながら。

 

 

 

 

 結局、この世界で最も高き山――多くの兵を連れて来た事から、のちに富士山と名がつけられるその火口で、不死の薬を廃棄する事は叶わなかった。富士山の神、木花(コノハナ)咲耶(サクヤ)(ヒメ)に止められたからだ。

 

 木花咲耶姫曰く、不死の薬は己の力よりも強大で、そんなものを燃やせと言われても燃やす事など出来ない。もし燃やせるとすれば八ヶ岳ぐらいなもので、不死の薬を棄てるなら八ヶ岳をすすめる、という事だそうだ。

 

 無駄足を踏んだと朱雨は辟易したが、仕方ない事だ。かつて何千万年も無為な時間を消費した朱雨にとって、たかが数日のロスは痛手にはならない。苛立つ暇があったら、一刻も早く八ヶ岳に向かうべきだと、朱雨は妹紅に合わせて火口から一番近い休憩の場へと向かっていた。

 

 木花咲耶姫と朱雨が会話し始めた時から、ここまで妹紅は口を開いていない。木花咲耶姫が朱雨の持つ薬を「不老不死の薬」であると明言した時、妹紅の心拍が上昇し、驚愕している事を確認したが、それと今の様子がどうつながるのか、朱雨には分からなかった。

 

 まあ、どんな事をされても対処は可能だ。妹紅を背後に歩かせながら、朱雨は妹紅を警戒しつつ下山していく。そうしていると、来る途中であった切り立った崖の端へと到達した。右の方に上って来た縄の道があるので、そこから降りれば……――――

 

「それは無意味だ、妹紅」

 

「あっ!?」

 

 背後から全体重を乗せた飛び蹴りを放ってきた妹紅を、朱雨は血液で拘束した。いつものように素手で捕らえなかったのは、その攻撃に明らかな殺意があったからだ。

 

「あっあうっぐううっ……!?」

 

 妹紅の身体に絡みついた血液の触手は彼女の肢体を縛り、白く細い首を締め上げていく。妹紅の顔が青くなり、必死に血液の触手を振りほどこうとするが、朱雨は触手を止めない。攻撃されたら、それ相応に対応する――敵対するのが威嚇の通じない存在であったのみ、朱雨が行う行動だ。

 

「かあっ……かはっかふうっ……かふっ」

 

 じたばたと暴れる妹紅の抵抗がだんだん弱くなっていく。苦しみで満ちる表情が崩れていき、白目をむく妹紅の口から泡が出てきそうになったところで――朱雨は、触手の拘束を解除した。

 

「がはあっ! っはあ、っはあ、っはあ……!!」

 

 地面に落とされた妹紅は必死の思いで空気を吸い込む。触手に締め付けられた跡が残る首筋を押さえて、喉につまった泡と涎を吐き出しながら、妹紅は今しがたの臨死体験に全身から脂汗を噴き出した。

 

 ――死ぬかと思った。殺されるかと思った。

 

 幾筋もの涙を流す双眸に宿るのは明確な死への恐怖。息が出来ない苦しみとともに足元から浸食し、闇へ引きずり込もうとした悪夢のような感覚に、妹紅は胃の中の物を全部吐き出したい衝動に襲われる。

 

「――――」

 

 だが、今しがた刻まれた恐怖がそれを許さなかった。地面に手を突いて喘いでいると、ふいに辺りが暗くなる。それを疑問に思ったのは一瞬で、妹紅はすぐに気付いて身体を硬直させた。その影が人型で、自分のすぐ目の前に立っている。

 

 それが誰なのか分かっていながらも、妹紅はおそるおそる顔を上げた。数年の付き合いだったが、その誰かがどんな人物かは知っている。いや、知っている筈、なのに――涙と恐怖にまみれた瞳に写ったのは、妹紅の知らない誰かだった。

 

 朱雨と同じ藍色の着流しを着ているが、首から上が明らかに違った。赤と黒が入り混じった腰まで届く長髪に、綺麗だけどどこか恐ろしい鮮血色の眼。顔立ちは若くてそれなりに見れる物だったが、感情が抜け落ちたような何も感じさせない無表情が不気味だった。

 

「…………」

 

 無機質な眼に妹紅を写す知らない男――島国の人間への擬態を解いた朱雨は、じっと妹紅を見つめている。おおよその思考が読み取れないその表情に、妹紅は呑まれていた。

 

「……――妹紅」

 

 朱雨が名前を呼ぶと、妹紅は声にならない悲鳴を上げる。ひきつった喉から出てくるのはヒューヒューと息が通り抜ける音だけで、その場から逃げようとしても手足が動いてくれなかった。蛇に睨まれた蛙さながらだ。

 

(殺される、殺される……殺される殺される殺される!)

 

 言う事を聞かない手足を必死に動かしても、朱雨の影から出る事さえかなわない。そんな風に自分を恐れる妹紅をじっと見ながら、朱雨は自身の精神を診断していた。

 

 ――私は、妹紅を殺したくないと思っている。特別何か理由があるわけではなく、単純にそう、思っている。思考の上にない、考えではないそれは明らかに感情からくるものだ。

 

 ――忌々しい。なぜ、そんな事を思わなければならないのだ。なぜ、私はこんなものを抱いている。忌々しい、忌々しい、忌々しい……こんなもの、私は欲しくなかったというのに――

 

 今まで築き上げてきた観察による理論を訳の分からない何かで破壊していくそれに、朱雨は眉根をひそめる。だが、そんな行動をしたところで何が変わるわけでもない。何が変わるわけでもないのなら、何かしなければならない。飽きるほど自分に言い聞かせてきた事をもう一度脳髄に焼き付けて、朱雨は妹紅へ声をかけた。

 

「妹紅、お前はなぜ、私を襲った」

 

 呼吸困難になるほど精神を追い込まれている妹紅が答えられる筈もない、意味のない質問をする。妹紅と初めて出会ったかつての夜、答えないと分かって辞世の句を尋ねた時と同じような事をした朱雨は、やはり答えないかと考え――

 

 

「苦痛を与えた事を謝ろう。本来ならばこうして恐怖させる事も許されぬ身だ――私は、お前の事を輝夜に頼まれている(・・・・・・・・・)のだから」

 

 

 妹紅を傷付けたくない自身のそれをすげかえるように、朱雨は輝夜を言い訳に出す。輝夜に頼まれたから、妹紅を殺したくない……そうやって、己を誤魔化そうとした。だから分からなかったのだろう――「輝夜」という言葉が、妹紅にとってどれほどの意味を持つのか。

 

「――――――――――――」

 

 今の言葉が誤魔化しである事を自覚して、朱雨はまた停滞する。こんなモノさえなければ、己を偽る事なんてしなくても良いのに――奥底から湧き上がってくるそれを否定して、前に進もうと動き出した時。朱雨は、妹紅の変化を感じ取った。

 

「……ふざ、ける、な……」

 

「……何?」

 

 途切れ途切れになりながら帰ってきた言葉に目を細め、真下で竦み上がっていた筈の妹紅を見る。身体の震えが止まっている――鼓膜に響いていた嗚咽もなくなり、朱雨の記録の中にある「恐怖する人間」の表情とは別の顔をしている。歯を食い縛り、威嚇とはまた違う圧迫感を含んだ気配を放つ顔には、明らかな憎しみが浮かんでいた。

 

「……――――ふざけるなあああああああああああああっ!!!!!」

 

 妹紅の声とは思えない、獣のような咆哮が辺りに響く。肺の中の空気を全部使い切るまで叫びながら、妹紅は弾けるように朱雨に飛び掛かった。

 

「輝夜に頼まれただと!? 輝夜に頼まれただと!! ふざけるな、ふざけるなふざけるなふざけるなッ!!! 私に何も言わなかったくせに、私に何もくれなかったくせに! 私から何もかも奪っていったくせに、まるで私を心配しているような事をほざくなああああああああっ!!!」

 

 妹紅は思いっきり身体をぶつけるが、朱雨はピクリとも動かない。それに構わず、噛みつくように犬歯を剥き出しにして、朱雨の腹を容赦なく殴りつけた。

 

「あいつは私達を捨てていったんだ!! あいつは私を捨てていったんだ!! あのお爺さんとお婆さんも、たくさんの男達も、父上も帝も、みんなみんなみんなみんな!! 全部いらないものだったから、簡単に捨てて月に帰っていったんだ!!!」

 

 殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。見た目に反して柔らかい腹を殴り続けて、妹紅は腹の底から叫び続ける。自分の思いを、自分の嘆きを――輝夜に対する、憎しみを。

 

「父上はあいつのせいで死にそうになったんだぞ!? 食事ものどを通らなくなって、毎晩毎晩月を見上げて泣いていたんだ!! それで病に倒れて、血反吐をはいて苦しんでたのに、あいつの名前を呼んだんだ!! あれだけ一途に想っていたのに、輝夜は、輝夜はァッ!!!」

 

 憎しみに濁った眼に写るのは朱雨だが、きっと妹紅の中では別の誰かが見えているのだろう。振り抜かれる腕に籠められた力は肉体の耐久度を超えていて、朱雨が意図的に腹を脂肪で埋めなければとっくに壊れていたかもしれない。それほどまでに妹紅は錯乱していた。

 

「輝夜、輝夜、輝夜あああああああああああっ!!! お前さえいなければこんな事にならなかったのに!! お前さえいなければこんな想いをしないで済んだのに!! お前さえ、お前さえいなければっ……私は……私はっ…………!!」

 

 いつの間にか、妹紅の腕は止まっていた。殴り続けたせいで筋肉に乳酸が溜まり、動かなくなったからだ。だが、それを見ているのが朱雨でなければ、もっと別の答えを見出せただろう。朱雨の腹に顔をうずめ、慟哭する妹紅の想いがそうさせたのだと。

 

「輝夜……輝夜ぁ……どうして、私なんかに構ったんだ……どうして、私なんかに…………助けてよ……誰でもいいから、助けてよぉ……」

 

 その願いが誰に向けられた物かは、妹紅にさえ分からない。

 

 始めはただ、自分を認めて欲しかった。優しく接してくれた父親だけでなく、他のみんなにも自分を認めて欲しかった。そして殺されそうになって、助けてもらって。妹紅は初めて、父親以外の人間に認めてもらった。

 

 お爺さんやお婆さんは孫のように可愛がってくれた。変な男である朱雨は、やっぱり変な事しか言わなかったけど、一人の人間として付き合ってくれた。そして輝夜は――自分と一緒に居れて、幸せだと言ってくれた。

 

 嬉しかった。輝夜は父上で遊ぶ許せないやつだったけど、それでも嬉しかったんだ。輝夜が笑って、朱雨が話して、自分が怒る――そんな日常が、とても暖かくて。

 

 だからこそ、それを失った時に妹紅は絶望し、誰かにぶつける事でしか自分を保てなかったのだ。本当は、助けて欲しかった。孤独と言う名の暗く寒い、深い穴の底から救い出して欲しかった。

 

「…………」

 

 だが、そんな妹紅の心情を、朱雨は見抜く事が出来ない。縋りつくように顔をうずめる妹紅が、どうして泣いているのか理解出来ない。

 

 ――やはりこれは、私には分からない――

 

 藤原妹紅を紅玉の眼で捉えながら、朱雨は僅かに睫毛を伏せた。分からない……妹紅をこのままにしておけないと叫ぶ自分の精神が、朱雨には何よりも理解出来なかった。そして、そう思いながらも行動する。

 

 今の妹紅は危うい。朱雨の経験に照らし合わせるとこの反応を示す人間は、半数近くが自殺を敢行している。生きる事を放棄する意味など朱雨は理解すらしたくないが、妹紅をこのままにしておけば、遠からず命をどぶに捨てるだろう。

 

 それは何としても避けたかった。その理由が輝夜に頼まれたからか、はたまた己のそれがそう叫ぶからか、朱雨には判断がつかない。しかし、妹紅が心変わりするかもしれない手立ては持っていた。

 

 朱雨は一瞬だけ現実から剥離し、血界内のある場所を見る。可能な限り隔離されたその場所にあるのは、不老不死の薬――正式名称を「蓬莱の薬」とするモノだ。

 

 飲んだ者を不老不死にする薬。妹紅はこれを狙って攻撃を仕掛けてきたのだろう。その理由は、生きるため以外にあるとは思えないが、おそらくは朱雨の思考の外にある。

 

 なればこそ、この薬を与える事で妹紅は生きようとするかもしれない。というより、不死の薬を飲んだ時点で生きる以外に在り得ない(・・・・・・・・・・・)。そんな打算から朱雨は不死の薬を取り出し、妹紅へと差し出した。

 

「妹紅。これが何か、分かるか」

 

「ぐすっ……うぐうっ……?」

 

 涙で顔を汚しながら、妹紅は朱雨の腕にある壺を見る。そして次の瞬間、衝動的に動いてそれを奪い取った。

 

 今まで見せた慟哭が演技だったわけではなく、妹紅にとってそれが唯一縋れるものだったからだ。輝夜が遺していったモノ――自分の物ではないが、輝夜と唯一繋がっていた証であるそれこそが、妹紅が欲して止まないモノだった。

 

 妹紅は震える手つきで紐を解き、豪勢な布を取り払う。そして薄い木の板を紙でくっつけた(ふた)を叩き割るようにはがすと、中には名状し難い液体が入っていた。それを目に浮かべ、妹紅はごくりと喉を鳴らす。

 

 これを飲み干しさえすれば、奪い取った事になる。輝夜との繋がりを、自分一人の物に出来る――

 

 危険な喜びを表情に出す妹紅を朱雨はじっと見ながら、予想通りだと考えた。このままにしておけば、妹紅は不死の薬を飲むだろう。そうすれば、とりあえず妹紅が死ぬような事態は回避できる。

 

 常人ならば、それは間違っていると唱えたかもしれない。不老不死になる意味を正確に理解していない妹紅を、止めるべきだと詰ったかもしれない。だが、朱雨にそんな事を言ったところで意味はないだろう。

 

 彼にとっての最善は生きる事で、それ以上に優先すべき事柄はない。そもそも、最善といいながら、彼には善性も悪性も存在しない。究極的に言って、正しくても間違っていても構わないのだ――生命とは生きるモノ。そう考える彼に、心の理論は届かない。

 

 だからこそ。朱雨は、己の声帯が造りだしたその音を、すぐには理解出来なかった。

 

「妹紅。お前がもし、その薬を飲んだとしたら、お前は絶え間ない地獄を経験する事になるだろう」

 

「え――――?」

 

 重くも軽くもない平坦な言葉に反応して、妹紅はおぼろげに朱雨を見た。そこにいたのは、自分の出した言葉が信じられないというような、奇妙な驚きを顔に浮かべる男の姿。そんな表情をしながら、朱雨は言葉を続けている。

 

「その薬が、飲んだ者を不老不死にするのは理解しているだろう。不老不死は万象の夢、それを飲む事を、私は止めはしない。だが、それを飲んだ時、お前は一生、人間から忌み嫌われる生を送らなければならない」

 

 私は何を言っている。私は何をしようとしている。私は一体、何が故に言葉を紡ぐ。肉体が制御出来ないという、今までにない事態に陥っていた朱雨は、言葉を止める術を持たなかった。

 

「生命は、自分と違うモノを仲間とはしない。姿形が良く似ていても、体構造がほとんど類似していても、違う何かを見つけた時、別種の生命であると捉える。妹紅――お前が持つそれは、お前を文字通り別の存在へ組み替える代物だ」

 

 山頂よりやや低い場所で、朗々と男の声が鳴っては消えていく。奪い取った壺を抱えながら、妹紅はその言葉を聞いていた。

 

「不死の薬を飲んだ瞬間から、お前は不老不死の何かへと変貌する。それはもはや人間ではなく、人間ではない存在は、人間の中では生きられない。あるいは私のような存在であれば、擬態する事も出来よう。だが、お前には無理だと私は考える」

 

 朱雨の虚ろな紅の瞳に、僅かな光が浮かんでいた。それが何であったかは、見ていた妹紅にも分からない。でもその時の朱雨は、今までのどんな朱雨よりも人間らしかったと、妹紅は頭の隅でそう思った。

 

「私はお前を止めようとは思わない。だが、これだけは言っておく――心せよ、藤原妹紅。お前が不死人になると言うのなら、お前の世界は今以上にお前を責めたて、お前を否定するだろう。死を否定し、死を拒絶した存在に、ヒトは決して、微笑みはしないのだ」

 

 そこまで言い切って、朱雨はようやく口を閉ざす。自分の言動を、全くもって在り得ないと断じながら。

 

 それでも妹紅を見ていたのは、朱雨の観察する事への執念からだったのかもしれない。朱雨の言葉を聞き届けた妹紅は、長い間目を閉じて。そして開いた時、躊躇いなくその薬を――――

 

 

 

 

「おお、お戻りになりましたか!」

 

 休憩していた兵の一人が、帰ってきた朱雨の姿に明るい声を出す。しかし、出迎えるために朱雨の元まで走っていくと、彼らの様子がおかしい事に気付いた。

 

 ここまで一緒にやって来た朱雨は、ずっと変わらない無表情だった。でも、どこかおかしい。言いようのない違和感を感じる。朱雨と一緒について行った妹紅も変な雰囲気だ。何かあったのだろうかと兵が首を傾げると、朱雨は平坦な声で言った。

 

「不死の薬は、始末した――――」

 

 朱雨は嘘をついた。別にそれが初めてではなかったが、嘘をついた理由は何よりも耐え難いものだった。

 

 それは生きる為ではない。何の根拠もなく、語らない方が良いと判断したのだ。この霊峰の頂上で起きた出来事は、誰にも語らぬ方が良いと。

 

 分からない。分からない。分からない。今の朱雨の内で渦巻くのは、理解不能な自身への疑問のみ。諸々の処理を終えた彼は、ようやくその自問を解く事になる。

 

 精神の海に生まれた変化。

 

 もっとも忌み、嫌っていた、己の「心」をどうするべきか――

 

 その答えを探す旅へ、朱雨は一歩踏み出した。

 


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