東方血界神 ~Creatures Paradise~   作:閼伽

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穏やかな日々の中、朱雨は静かに自覚する。

 

 

 

 愛。愛。愛。愛。愛。愛。愛。誰も、心を受け入れない。

 

 

 

 

 蝉の鳴き声が心地いい。動いて火照った体には、普段煩わしい大きな音も涼しげに聞こえてくる。身体に絡みつく灼熱の胎動に手を翳して、少女は空を吹き抜ける風に身を任せた。

 

 いや、少女と呼ぶにはもう遅いだろう。かつては十歳くらいの体格しか持たなかった彼女も、ここ数年で蝶のように美しく成長した。

 

 おかっぱだった黒髪は力強く流麗に伸び、腰まで届くそれはツヤがある。か細かった肢体も大きくなり、女性らしい身体つきになった。あの頃から変わらない白地の着物に包まれた身体はどこか窮屈そうだ。

 

「…………今日の空はやけに遠いなあ…………」

 

 草むらの上で大の字に寝転ぶ彼女は、大きな雲に隠れた青空をぼおっと見上げる。熱に浮かされた額を大粒の汗が流れ、いっそう強く流れた風が汗と暑さを攫っていった。ああ、本当に気持ちがいい。沁みいるような疲れが寝床になって、そのまま眠ってしまいたくなる。

 

 翳した手で空を掴んで、その腕で彼女は目を覆った。熱い太陽を隠していた雲はもうどこかへ旅立っている。強すぎる光が痛くて目を覆ったけれど、そのまま夢へ落ちていきそうだ。じんじんと日に焼かれていく身体の痛みも、さざ波の音みたいに眠りを助長してくれる。

 

 いっそ、本当に寝てしまおうか。汗で貼りついた着物が乾くのを感じながら、彼女はうっすらと溶けていく自分に問いかけてみた。確かにこのまま目を閉じてしまえば、きっと気持ちよく眠れるだろう。

 

 ……でも、それは絶対邪魔される。いつもそうだ。私がこんな風にしていると、いつもあいつが私を笑う――――

 

「お昼に黄昏(たそがれ)るなんて、自分を見失った旅人のような事をするのね。あんまりにも敗け続けてるから、自分の戦う意味が分からなくなったのかしら? それとも、諦める算段でもついたの? どちらにしても私にとっては面白いわね~」

 

「…………か~ぐ~や~」

 

 眼を遮っていた手をどけて、彼女は自分を覗き込む影を恨めし気に睨みつけた。しかし相手はひるまない。むしろそれが可笑しいようで、袖の下に隠した唇から笑い声を零していた。

 

「あらあら、元気まで何処かへ落としてしまったようね。貴女は元気だけが取り柄だったのに、それがなくなったら何が残るのかしら?」

 

「……知らない。知っててもあんたなんかに答えるか」

 

「そう、残念だわ。隣、良いかしら?」

 

「……駄目って言っても勝手に座るでしょ。好きにすれば?」

 

 じゃあお言葉に甘えて、と輝夜は草むらに足を崩してぺたりと座る。彼女のそれとはまた違う、高貴さを纏わせる綺麗な髪を風で梳いて、輝夜は気持ちよさそうに遠くを眺めた。

 

「ん~、良い風ね。夏のじめじめした風はあまり好きじゃないけど、運動の後だと気持ちよく感じるわ。貴女もそうなんでしょう?」

 

「さあね。どっちでもいいわよそんな事」

 

 うるさそうに頭を振って、寝転んでいた彼女は片膝を立てて座った。さっきまでのぼんやりと心地よさそうな表情は消え、代わりに憮然として面白くないと言外に言っている。それを分かってて、輝夜はあえてクスリと笑って挑発した。

 

「野暮ったいわね~。そんな感想が許されるのはうちの朱雨くらいよ? 貴方も女の子なんだから、面白い合いの手の一つくらいはよこしなさいな」

 

「ハッ。誰がお前なんかに返すか。そんなのはお前が好きだっていう物好きな男とでもやればいいんじゃないの?」

 

「あら~? その言い方だと、貴女の父親もその物好きな男に入ってしまうのだけれど?」

 

「うっ……」

 

 ニヤニヤと愉快そうに笑う輝夜の言葉に彼女は言葉をつまらせる。彼女は言葉遊びが苦手のようだ。

 

「チッ……」

 

 口では勝てないと思ったのか、彼女は舌打ちをするとそっぽを向いてまた寝転ぶ。「ふん」と不満げな彼女はジト目で頬をぷっくり膨らませていた。「可愛いわねー」と輝夜は優しげに微笑み、同じく彼女に背を向けて、寄り添うように横たわる。

 

「ねえ、妹紅(もこう)

 

「……何よ」

 

 草むらから感じる青い自然の匂いを堪能しながら、輝夜は彼女――妹紅に問いかける。反対に背中からじんわりと伝わってくる暖かな体温に、妹紅は不愉快になりながらも嫌がらず、ぶっきらぼうに返事した。

 

「貴女は、私と一緒に居て楽しい?」

 

「……そんなわけないでしょ。全然楽しくないわ。むしろ反吐が出そうなくらい不愉快」

 

「私は貴女と居て楽しいわよ」

 

「だからなによ。あんたが楽しくても私はつまらないわ」

 

「私相手にそんな事いう人、そうはいないわ。だから貴女と一緒に居ると退屈しない。妹紅――貴女と一緒に居られて、私は幸せよ」

 

「…………気持ち悪い事いうな、ばか」

 

 妹紅は輝夜の言葉を一蹴する。いつも、私の事を馬鹿にしているくせに。いつもいつも、私をからかって遊んでいるくせに。時々こんな事をいうから、私は輝夜が――ぎゅっと草を握る妹紅の頬に、ほんのりと朱が差していた。

 

「…………」

 

「…………」

 

 二人の間に沈黙が流れる。聞こえてくるのは草原をすべる涼風の音色と、精一杯の生を叫ぶ短命な蝉の声だけ。燃えるような真夏の太陽よりも、背中合わせの体温の方が熱かった。

 

「……ねえ、妹紅」

 

「……今度はなんだよ」

 

 さっきと同じぶっきらぼうな受け答え。けれどもそこに、さっきのような素っ気なさはない。本当、妹紅は可愛いわ――その純朴な在り方がとても好ましくて、輝夜はつい悪戯(いたずら)したくなってしまうのだ。

 

「お腹すいたわ」

 

「……知らないわよ」

 

「あら、貴方はすいてないの? あれだけ動き回ってたのに」

 

「私はあんたみたいな箱入り娘じゃないの。この程度動いたくらいでお腹がすくわけな――――」

 

 その時、妹紅のお腹が盛大に鳴った。隠し通すには大きすぎたその音に、妹紅は一気に赤面する。ああもう、格好悪いなあ――その場から逃げ出したいくらいの羞恥を妹紅は感じて、それを輝夜が見逃すわけがなかった。

 

「あら? あらあらあら~? 何かしら今の音は? 何なのかしらねえ今の音は? 妹紅、何か知らない?」

 

「……………………」

 

 妹紅は答えず、顔を真っ赤にしたまま立ち上がって逃げようとする。しかし、それをする前にニヤニヤといやらしく唇の端を上げる輝夜にのしかかられて、逃げるに逃げられなくなってしまった。

 

「ふふふふふ~♪ 確かこっちの方から聞こえたわね~」

 

「あっこらっやめろばかっ! 私のお腹にすりつくなー!!」

 

 輝夜に押し倒された形になった妹紅は何とか脱出しようとするも、くすくすと小悪魔的に笑う輝夜が自分のお腹に耳を当ててきたので耳まで真っ赤になる。その反応を楽しむ輝夜は、あろうことか妹紅の着物を脱がし始めた。

 

「うわあっ!? 止めろばかぐや!! だめ、それ以上はだめ――――!!!」

 

「大きな音を出した悪いお腹はここかしら? あら、可愛いおへそ」

 

「!!! く、このお……!」

 

「それ以上は止めておけ、輝夜。妹紅もだ。私の護衛対象に危害を加えるなら、お前とて容赦はしない」

 

 輝夜のあんまりな行動に実力行使に出ようとした妹紅を、突如現れた朱雨が止める。

 

「えっ!?」

 

「うわっ!?」

 

 輝夜と妹紅は鏡写しに驚いて同時に朱雨を見た。黒色の着流し、肩で途切れた黒の髪、木製の仏像のように動かない顔。ちょっと呆れた様子の朱雨は両手で大きな包みを持っている。そのガラス玉の漆黒の眼が自分を見ている事に気付いた妹紅は、はっとして輝夜をどかし、はだけた着物をさっと隠した。

 

「見ないでよ、変態!」

 

「うん? ……ああ、すまなかったな。お前の身体になんぞ欠片も欲情せんが、とりあえず謝っておこう」

 

「なっ……! あんたねえ! その言い方失礼なんじゃないの!!」

 

「あー、無駄よ妹紅。朱雨にそんな事言ったってわかるわけないわ。こいつ私にも同じ事言ったんだもの」

 

「え!?」

 

 朱雨の物言いに怒りを露わにした妹紅は、輝夜の諦めたような指摘に目を皿にして輝夜を凝視する。そう思うのがとても嫌なのだが、同姓の妹紅からしても輝夜はため息がでるほど美しい。その輝夜を見てそんな事を言えるとは……

 

「……枯れてるのね、あんた」

 

「失敬な。私の生殖機能は異常をきたしていない。単純な話だ、お前達人間は――」

 

「朱雨、それ以上言う必要はないわ」

 

 言い返そうとした朱雨を輝夜が制止する。会話を(さえぎ)られた妹紅はむっとした。別に朱雨ともっと話したいとかそんなわけじゃなくて、輝夜は時々こうして朱雨の話を遮る事があるのだ。理由は言ってくれない。それが無性に(しゃく)(さわ)った。

 

 輝夜の制止を素直に聞いた朱雨は、持っていた包みを草むらに降ろして、紫色の布を取り払う。黒と緑の(しま)模様(もよう)、人の頭ほどもある大きなそれは、西洋から伝わる西瓜(すいか)と呼ばれる果物のような野菜だった。

 

「あら、美味しそうな西瓜ね」

 

「それなに? 果物?」

 

 朱雨が取り出した西瓜に輝夜は嬉しそうにし、妹紅は物珍しそうに見る。日ノ本の国、日出国と呼ばれるこの島国には、まだ伝わっていないものだ。海運技術が満足にないこの時代にこれほど新鮮な西瓜があるわけないのだが、そこは朱雨が気をきかせて裏技を使った。

 

「少し海を渡って持ってきた。品質は確かな代物だよ。もう冷やしてもある、早速切り分けよう」

 

 そう言って包丁を取り出し、西瓜の黒い部分に刃を差し込む。妹紅は始めてみる食べ物にわくわくしていたが、黒い種を含む赤い果実の断面に、あからさまに顔をしかめた。

 

「何これ、気味が悪いわ……」

 

 この島国では実の赤い果実は珍しい。強いて挙げれば柘榴(ざくろ)で、その果実は時に血肉に例えられる。赤は死の色。不浄なる者の不気味さにも通ずるため、嫌煙(けんえん)されがちだった。その例に妹紅も漏れない。

 

「見た目は悪いが栄養は確かだ。西瓜の実はほぼ水分であるから、発汗して大量の水を消費しているお前達にも都合が良い」

 

「そこは味の話をしなさいよ……大丈夫よ、妹紅。見た目は悪いけど、味は保証するわ」

 

「うう……でもなあ」

 

 相変わらずよく分からない理論を垂れ流す朱雨の戯言(ざれごと)を聞き流し、輝夜は妹紅に三角型に切り分けられた西瓜の一つを差し出した。輝夜は美味しそうに食べているからおいしいんだろうけど……妹紅は昔、地方の珍品として(むし)の姿焼きを出された記憶を思い出していた。

 

 そんな風に尻込みする妹紅を、輝夜がそのままにしておくはずがない。「妹紅ー?」と呼びかけて妹紅が答えようとした瞬間、絶妙のタイミングで開いた口に西瓜を突っ込む。

 

「もがっ!?」

 

「つべこべ言わずに食べなさい」

 

 ぐりぐりと妹紅の口に突っ込んだ西瓜を回す輝夜は、それはもう満面の笑みである。気味の悪い物を口に入れられた妹紅は最初こそ目を回していたが、西瓜の瑞々(みずみず)しい甘さを感じるとはっとして、見た目が悪い西瓜をおずおずと食べ始めた。

 

「……美味しい」

 

「でしょ? 西瓜は塩をかけるともっと甘く感じるのよ」

 

「え? 塩をかけるの?」

 

「ええ。朱雨、塩をだしてちょうだい」

 

 甘いものに塩をかけるなんて、と驚いている妹紅を面白がりながら、輝夜は朱雨にそう指示した。朱雨は無言で懐から塩の入った壺を取り出し――その無表情をどこか生き生きとさせながら話し出す。

 

「西瓜に塩をかけるとより甘味を感じるのは、人は甘味より塩の味を先に感じ取るからだ。いわゆる対比効果と呼ばれるもので、塩の辛さと西瓜の甘さの落差によって――」

 

「ああもう! その薀蓄(うんちく)はいらないから、さっさと塩だけよこしなさい!」

 

 塩の入った壺を朱雨の手からさっと奪った輝夜は、塩の結晶を一つまみ西瓜に振りかける。ついでに妹紅の西瓜にもかけてやった。残った塩を全部かけるかもしれないと妹紅は身構えたが、流石にそんな事はなかった。

 

「――故に塩分とともに水分を補給すれば、摂取した水分が過剰と認識されて体外に排泄される事はない。運動を行った後は水分を塩分とともに摂るのが適切だ」

 

「……誰も聞いてないのによく続けられるわね……」

 

「趣味のようなものだからな」

 

 朱雨はまだ薀蓄を垂れ流していたが。呆れ顔の妹紅に朱雨は真顔でそう答える。そのやりとりを見て、輝夜は不思議そうに朱雨に尋ねた。

 

「あら、貴方にも趣味があったのね」

 

「そう呼称するのが一番適切だと判断したまでだ。まあ、お前達に説明するのが楽しいという理由もあるがね。例え聞かれていなくとも、な」

 

「へえ……」

 

 相槌を打ちながら、輝夜はまじまじと朱雨を見つめる。この表情という言葉を知らない男が、そんな事を言うなんて――その驚きを楽しみながら、輝夜はくすりと微笑んだ。

 

「貴方、変わったわ。最初会った時より、今の方が在り方としてとても好ましい」

 

「――――」

 

 朱雨は、遠い山々の果てを見るように目を極める。いつも通りの無表情であったが、そこには後悔の念が宿っているように見えた。彼が持つ筈のない、感情と呼ばれるものが。

 

「――ああ、私は変わったよ。この数年で、疑惑は確信となった。もはや自らを騙す事さえ出来ぬ程に。如何(いか)なる理由があって私がこうなったのかは、まだ理解が及ばないが……いずれ、決着をつけねばならない事だ」

 

 その言葉に、どれ程の葛藤(かっとう)があったのだろう。付き合いの浅い輝夜にはその言葉の重さが完全には理解出来なかった。彼の友人である永琳ならば、何か思う事があるのだろうか――彼女の明晰(めいせき)な思考に、そんな考えがよぎる。

 

 と、そう思っていると、肩に重い物が寄りかかって来た。見ると、寄り添って西瓜を食べていた妹紅がだらしない顔で眠っている。やっぱり疲れていたんだ――輝夜は優しく微笑んで、妹紅の長い黒髪を掬い取った。

 

「眠ったのか。なれば」

 

「いいわ、朱雨。しばらく、このままにさせて」

 

 眠りについた妹紅をどうにかしようと朱雨が立ち上がりそうになったのを、輝夜は止めて慈しむように妹紅を撫でる。燦々(さんさん)と輝いていた太陽が雲に隠れはじめ、あたりが急に冷え込んできた。輝夜も撫でながら、その表情を暗くしていく。

 

「――私ね、地上人はとても嫌いだわ」

 

 撫でながら、輝夜は(あざけ)るようにそう言った。朱雨は聞くに徹している。慈しみの笑顔のまま、自分がいかに地上人が嫌いかを、一つ一つ輝夜は挙げていく。

 

(よご)れているのが嫌い。頭が悪いのが嫌い。身の丈を考えないのが嫌い。美しくないのが嫌い。善く生きられないのが嫌い。弱いのが嫌い。諦めが悪いのが嫌い。愚かで無知で脆弱で、救いようがないのが何よりも嫌い」

 

 輝夜は撫でる手を止めない。陽光は影に隠れ、冷たい風が吹き抜けていく。湿気を含んだ空気と空に、朱雨は雨の気配を感じていた。

 

「妹紅もそうよ。この子はとても素直で純朴(じゅんぼく)だけど、やっぱりただの地上人だわ。くだらない事でわめいて、自分を制御できていない。父親の事を考えるなら私に突っかからない方がいいのに、自分本位で勝手に怒って、敗けると分かってるのに何度も朱雨に挑んでくる。愚かしいわ――この子は自分が、見世物になっている事さえ気付かないのよ」

 

 輝夜が妹紅をそばに置くのは、ひとえに退屈を紛らわせるため。自分を恨む馬鹿な地上人が無様に踊るのを楽しむためだ。それなのに表面で好意を見せてあげればコロッと騙される。本当、妹紅は馬鹿だわ――そう呟く輝夜は、自嘲のような笑みを浮かべていた。

 

「――ええ、そうよ。本当に馬鹿なのは私の方。妹紅の生き方が眩しくて、そんな言い訳しか並べ立てられない、私の方がもっと馬鹿だわ。――本当は、妹紅がとても(うらや)ましい。こんなにも退屈な世の中で、こんなにも我武者羅(がむしゃら)に生きてるんですもの。私も、こんな風に生きてみたいな――」

 

「輝夜。雨が降りそうだ、母屋へ帰ろう」

 

「…………空気を読みなさい、ばか」

 

 輝夜が独白していようとも朱雨はマイペースだった。一応、輝夜を雨に濡らさないという配慮なのだが、それ以上は気が回らないらしい。それくらいなら初めから何もしゃべらない方がましだわ、と輝夜はため息をつく。

 

「まあ、いいでしょう。貴方のその自分勝手さも面白いし。できればそれは、妹紅を困らせる事に使いなさいな」

 

「ふむ。それは保証しかねるな。空気を読めと言われても、空気中に散布する成分は既に把握済みであり」

 

「ごめんなさい、私が悪かったわ。さっさと行きましょう」

 

 朱雨がまた薀蓄を語り出そうとしたので、輝夜はそうそうに切り上げて家へ逃げる。しかし朱雨は妹紅を運びながら涼しい顔で薀蓄を語って来たので、怒った輝夜に朱雨は蹴り倒された。

 

 

 

 

 かくして(ゆめ)(まぼろし)(つい)え、ただ一人として難題を解いた者はいなかった。

 

 難題に最後に挑戦したのは妹紅の父親。一時は縁談がまとまりかけたが、結局破談に終わってしまった。当然と言えば当然である。蓬莱の玉の枝は三千年に一度の永遠、人間如きが手にしうる代物ではなかったのだ。

 

 それ故に妹紅の父親は難題に敗れた。その日から、妹紅はここへきていない。

 

「…………」

 

 妹紅が来なくなってから、輝夜は夜な夜な月を見上げるようになった。滑らかな金の満月を写す瞳は(うれ)いに満ち、極上の肢体は月光の雨に溶かされていく。金の月明かりは(おぼろ)となって輝夜を包み、輝夜の存在そのものを幻想に仕立て上げていた。

 

 ――――美しい。

 

 運よくその光景を目にした者は、皆が皆感涙する。この島国の最高権力者である時の帝でさえ彼女に惚れ込み、自らの物にせんとやっきになっていた。相変わらず、輝夜の態度は素っ気ないものであったが。

 

「――輝夜。今日も帝からの恋文が届いたぞ」

 

 幻想色の月光に対比する部屋の物陰。その暗影から滲み出した朱雨は、帝から届いた最高級の紙を使った恋文を輝夜に届ける。どこか(ゆめ)(うつつ)としたままそれを受け取り、月明かりをたよりに一字一字を丁寧に読み解いていく。夏の虫がロウソクの火に何度か飛び込んだ後、輝夜は文を閉じ、ほう、と気のないため息をついた。

 

「駄目ね……ちっとも頭に入ってこないわ……」

 

 輝夜は恋文を丁寧に閉じて、再び月を見詰める。恋文の内容が伝わらないのは、その内容が悪いからじゃない。妹紅が来なくなってから、輝夜はずっと夢と現実を彷徨(さまよ)っているような、曖昧(あいまい)な雰囲気をただよわせている。

 

「ねえ、妹紅……私ね、貴方の事を友達だと思っていたわ。私と貴女は違うけれど、きっと友達なんだって考えていたの。でもそれは、私の勝手な願いでしかなかったのかしら……」

 

 その問いに、答える者はいない。魔に狂う満月だけが、その哀しみを(むさぼ)ろうと月の光を強くする。その様子を見ながら、あくまでも自己を崩さない朱雨は、淡白に輝夜へと告げた。

 

「その文を持ってきた者が言っていた。明日、帝が輝夜に会いに来ると。この些末(さまつ)な屋敷に来る理由を私は観察させてもらうが、お前はどうするんだ?」

 

 輝夜は、すぐそばに置いてある豪奢(ごうしゃ)な木箱に手を伸ばした。その中には今まで帝から届いた恋文が全部入っている。その一つ一つを愛おしそうに手に取りながら、ため息をついて全てしまった。

 

「……彼の事は嫌いじゃないわ。むしろ、今まで出会った男の人の中で一番好感が持てる人よ。でも――ごめんなさい、今はそんな気分じゃないの」

 

「……そうか。では私の方からそう伝えておこう」

 

「…………待って」

 

 輝夜からの返事を聞いて立ち去ろうとした朱雨に、輝夜はか細い声で引き留める。応答もなく朱雨は従い、その場で正座した。輝夜はすぐにしゃべろうとせず、遠くすがるように満月を見上げていたが、やがてゆっくりと口を開く。

 

「……明日、私が直接会って伝えるわ。もうすぐ、貴方の役目も終わる。最後まで頼ってばかりなのも恰好がつかないでしょ?」

 

「――――……では」

 

「ええ。もう、私の刑期も終わる頃――私は、月に帰らなければならない」

 

 輝夜の瞳は、ただ月だけを写しだす。しかし、そこに望郷の想いはなく。ただ未練だけが残されていた。

 

 

 

 

    आयुस्

 

 

 

 

 月より現れし幻想の使者に、人が為せる術はなし。ただ伏して輝夜姫を見送るのみ。

 

 輝夜姫は(あま)羽衣(はごろも)を身に纏い、心をなくして月へと旅立つ。

 

 地上に残された物は一つ。永遠を与える、不老不死の薬のみ――

 

 この出来事が物語として残るなら、おそらくはこのような大筋になるだろう。ひどく簡略化されているが、結果を伝えるだけならこれで十分なはずだ。そんな意味のない事を考えながら、朱雨は深い森を進んでいた。

 

 輝夜が月に帰っていったのはつい先刻の事。輝夜を諦めきれなかった帝は兵を動員して輝夜を護ろうとしたが、所詮は地上人。力が天と地ほどに隔たる月人相手に、敵うべくもなかった。輝夜が去り、悲哀と無念が充満するその地を離れ、朱雨はある場所へと向かっている。

 

 地上人には月人達が捉えられない。彼らの技術力を持ってすれば、地上人の目などいくらでも誤魔化せる。だが、その程度では朱雨の知覚を誤魔化す事は出来ない。永琳から連絡を受けた朱雨は今、月へ飛び去ろうとする月人達を追っているのだ。

 

 既に人間の姿は脱ぎ捨てている。赤と黒が入り混じる長髪が闇夜に残像を残し、爛々(らんらん)と光る深紅の炯眼ははっきりと月人達を見据えていた。やや老けていた顔も元の若さを取り戻し、人間味というものが完全に消えている。

 

「…………動いたか」

 

 朱雨が呟くと同時に、姿を隠している月人達の舟が突然大破した。動力源を失った舟はただのがらくたとなり、そのまま地上へ落下していく。その落下地点をめざし、朱雨は駆けていった。

 

「――――」

 

 墜落現場は凄惨(せいさん)の一言に尽きる。エネルギーを失った舟の残骸は安全設計だったのか、火を噴きもしなければ燃料がこぼれてもいない。その分そこらじゅうに散らばる乗組員であろう月人達の傷が目立ち、中には身体が半分に別れている者もいた。恐ろしいのは、それほどの重傷を負って誰一人として死んでいない事実である。

 

 殺さないように手加減したのだ――この短時間でこれだけの事が出来る人物を、朱雨は一人しか知らない。その惨状(さんじょう)の中心に立つ懐かしい姿に、朱雨は思いもよらない想いに襲われていた。

 

 長い三つ編みは銀河のように、昔と変わらない赤と青の後ろ姿がそこにある。手に持つ無銘の弓も、美しい陶器のような肌も、感じる霊力も何もかもが懐かしい。朱雨はその後ろ姿に、懐古の念を抱いていた。

 

「八意、永琳――――」

 

「――――朱雨」

 

 永琳が振り向く。変わらない。宇宙の神秘を湛えた漆黒の瞳も、その若く美しい顔立ちも、耳朶(じだ)に響く心地よい声でさえ、何一つあの頃から変わりはしない。記録の――記憶の中の八意永琳そのものだ。ああ、なんて懐かしいのだろう。朱雨は自らの口元がゆるんでいるのを意識した。

 

「久しぶりだな、永琳。お前とかつて決別し、最早幾月かも数える事さえ億劫(おっくう)なくらい、永い時間が流れた。それ故に私は、この再会を嬉しく思う」

 

「貴方、その表情――」

 

 永琳は朱雨が自然な笑顔を浮かべている事に驚いている。それが擬態ではないと分かればなおさらだ。永琳の驚きに朱雨は笑みを深くする。

 

「受け入れ難い事だが、私も変わったという事だよ。この依頼を受ける前にお前に言われた変化は、この事だったのだろうな。全く、実に忌々しい。今の気分を説明しろと問われれば、たとえどんな感情を持っていたとしても私はそう答えるだろう」

 

「……その割には、笑っているように見えるけど?」

 

 からかうように言うそれには、優しさが多分に含まれていた。嬉しいのだ――彼は嫌がるだろうけど、それでも。彼の内にそれが芽生えてくれたのが。

 

「再会は嬉しいものだ。それはたった今お前が教えてくれたよ、永琳」

 

「なら、他の事も――」

 

「今はそれどころではあるまい。永琳――私はそれ故に、これをあるがままにしている」

 

 はやる永琳を、朱雨はその一言で釘をさした。月の頭脳と謳われる永琳は、その聡明さゆえにその一言に詰まった想いを完全に理解する。

 

「! ……そう、分かったわ」

 

「分かって貰えて何よりだ。それで、輝夜は?」

 

「……あの子なら、あそこにいるわ」

 

 身を案じるように表情を変え、永琳はすっと輝夜の場所を指さした。見れば、特に怪我のひどい月人の前で膝を落としている。静かな嗚咽が、朱雨の鼓膜に流れてきていた。

 

「そうか。では待とう。それだけの時間を稼ぐことは、お前には容易いだろうからな」

 

「ええ……でも意外だわ、貴方なら不要と斬り捨てると思ったのに」

 

「当たり前だ。しかし、そうしなければヒトは生きられない。時に立ち止るのもいいだろう。それで前へ進めるのなら、私はそれを否定しない。心を無碍(むげ)にし、お前達を忌避(きひ)しようとも――私は決して、生きる事を無益とは断じない」

 

 朱雨は肩をふるわせる輝夜を見る。彼女が何を思っているかなど朱雨には分からない。だが、それを否定しようとも思わなかった。蓬莱山輝夜は、ここで痛みを覚えるからこそ蓬莱山輝夜足り得るのだ。彼女は、そういう生き物なのである。

 

「さて。待つ間に質問の回答をしよう。永琳、私は隠遁(いんとん)に都合の良い場所を知っている。私の五感による認知をも狂わせる、迷いを招く竹林をな」

 

「貴方の五感を……!? それは、素晴らしい場所ね」

 

 永琳は朱雨の探査能力がどれくらい凄まじいか知っている。実験結果として数値も頭に入っているので、それを誤魔化(ごまか)すだけの場所なら月の使者も見つけられはしないだろうと考えた。

 

「ただし、その地を教えるには条件がある。迷いの竹林には先住民がいる。彼らの平穏を乱さないでくれ。彼らもまた、一つの生命なのだから」

 

「その点については心配ないわ。その竹林の一角を借りるだけよ。姫様の能力をもってすれば、誰にも近づかせない事も出来るから」

 

「ならばいい」

 

 永琳と朱雨が今後の話をしていると、輝夜が立ち上がって戻ってきた。目元が真っ赤に腫れている、讃岐造や嫗、帝と別れる時も泣いていたなと、朱雨は思った。永琳はそっと輝夜を抱きしめ、淡い治癒をかける。

 

「――輝夜」

 

「…………わか、って、いる、わ……――――さあ、行きましょう」

 

 いまだ止まぬ涙にむせび、輝夜は声をかすれさせる。しかしそれもすぐに消え、涙をぬぐった先にはいつも通りの輝夜がいた。気丈な娘だ。そう思いながらも朱雨は何も言わず、右腕を指から肩まで一直線に切り裂く。深い傷から大量の血液が飛び出し――それは、大きな扉へと変貌した。

 

「既に道は開いてある。私の異界は、未だ誰の目にも留まる事はない。心配するな、前回のような失敗は犯さないさ」

 

 硬質な樹木の彩色を放つ扉は重厚な音をたててゆっくりと開く。続くのはどこまでも(あか)朱羅(しゅら)の道。生命の原型が限りなく続く、神亡朱雨という(あか)き異界だ。その奇妙な光景を前に、永琳は始めてこれを見た時の事を思い出して苦笑いした。

 

「間違い? ――あ。確かにあれは二度はやりたくないわね。姫様の前じゃなおさらだわ」

 

「なになに? 何があったの?」

 

「姫様、貴女のお耳に入れるような事では御座いませんので、」

 

「端的に言い表せば、永琳が発情して私に襲いかかった。それだけの事だ」

 

「ちょ、ちょっと、朱雨!?」

 

「えっ!? なにそれ聞いてないんだけど! 詳しく教えてよ!!」

 

「ひ、姫様!? 話だけではつまらない事ですから!」

 

「ふむ。あの状況は記録されている。映像記録と音声記録が収蔵(しゅうぞう)されているから、後で液晶式の画面にて上映し」

 

「止めて! それだけはやめてちょうだい朱雨!! あれは姫様の情操(じょうそう)教育によろしくないの!!!」

 

「え~、永琳の恥ずかしい所みたいよ~」

 

「はしたないですよ姫様!」

 

「では永琳が見ていない所でこっそりと」

 

「朱雨っ!!! しばかれたいの貴方は!!!」

 

「あ、それでいきましょう!」

 

「姫様っ!!! お願いですから、どうか、どうかご容赦を……!!!」

 

 朱雨が能面顔で先頭に、永琳が慌てふためきながら挟まれ、楽しそうに輝夜がついていく。和気藹々(わきあいあい)と彼らは朱い異界を進んでいった。だが、残された爪痕は深い。永琳は輝夜のために、朱雨は自らのために、その傷を誤魔化しているに過ぎなかった。

 

 蒸し暑い真夏の夜。空へ手を伸ばす高貴な月人の残骸だけが、静かに魔天を突き刺している。

 

 

 

 

「到着した。ここが、迷いの竹林だ」

 

 血界の道を抜けた三人は、迷いの竹林の一角、兎達も寄りつかないやや古ぼけた場所へ出てきた。反応は三者三様、永琳は自分の認識が狂っているのを感じ取り、輝夜は辺りを見回して退屈そうに鼻を鳴らし、朱雨は無表情である。一応、竹林の兎達に迷惑をかけないよう、防音遮光の擬装壁(ぎそうへき)を当たりに張っておいた。

 

「――ここなら、月の使者の目も十分(あざむ)ける。ありがとう朱雨、おかげで助かったわ」

 

「礼はいらんよ。これも依頼の一環だ。それより永琳、住居建設を手伝わなくて本当に良いのか? 私が建てた方が効率がいいだろう」

 

「そこまで頼るのも悪いし、貴方が建てた建物に姫様の能力が効くかどうか分からないから、やってもらわなくていいわ。私の式神でどうにかするから」

 

「そうか。……輝夜、どうかしたのか?」

 

 永琳と話をしていた朱雨は、竹林の奥深くに目を向ける輝夜にそう問いかけた。輝夜はこちらに振り向かないまま答えず、逆に朱雨に問いかける。

 

「ねえ朱雨。この竹林には、一体何が住んでいるの?」

 

「妖怪の兎だな。因幡てゐという(おさ)を筆頭にそれなりに知性ある暮らしをしている……あ」

 

 そこまで言って、しまったというように朱雨は目を少し見開いた。永琳は不思議そうにして朱雨を見る。

 

「どうかしたの?」

 

「……いや、すまない、永琳。一つ伝え忘れていた事があった。どうにも意識下に入れなければ支障はないと考えていたが、存外(ぞんがい)、私も動揺していたらしい」

 

「……ええと、何を伝え忘れていたのかしら?」

 

 言葉の足らない朱雨の自己完結気味な発言に、永琳はちょっと頭をおさえながら聞くべき箇所を見出して質問する。朱雨は一度深く頷いて、永琳へ説明した。

 

「先に名を出した因幡てゐの事なんだがな。彼女は永らくを生きた妖怪であり、それ故に程度の能力を保有している。因幡てゐが持つ程度の能力は『人間を幸運にする程度の能力』。ここでいう幸運とは人間のみに作用するものではなく、本人にも降りかかるものであり、結果として因幡てゐが退屈から脱却したいと願っていた場合――」

 

「あーっ! なに変な奴ら連れて来てんのさ、朱雨!」

 

「……このように、私の擬装壁さえ易々(やすやす)と突破してくる」

 

 竹林の影から「てーゐ!」と謎の兎が飛び出してくる。桃色のワンピースに気高い二つの兎耳。くりくりと子供らしい黒い瞳は、間違いなく因幡てゐだった。てゐはしゅたっ! と着地するなり、怒り顔で朱雨をずびし! と指さす。

 

「…………!!!」

 

「止めてくれ、永琳。てゐは私の友人なんだ」

 

 朱雨の擬装壁を破ったてゐに永琳は驚愕し、一瞬で矢をつがえて因幡てゐを滅そうとする。それを朱雨は永琳の腕を掴んで止めた。「友人!?」と朱雨が言った事に更なる驚愕を重ねる永琳に対し、「永琳?」と何かを思い出すように腕を組むてゐは、はたと手を叩く。

 

「ああ、確か間違って媚薬(びやく)を国中に流通させて、うっかり国を滅ぼしそうになった、あの永琳?」

 

「えっ!? ちょ、なんで妖怪の貴女がそれを!?」

 

「――ええ、そうよ。クローン技術の実験中にうっかりミスして、下手な山よりも大きな恐竜を造っちゃった、あの永琳よ」

 

「姫様!? どうしてそれを!? ……はっ! まさか朱雨、貴方!!」

 

「…………」

 

「そっぽを向かないでこっちを見なさい! 朱雨、貴方ね!? 貴方なんでしょう!! どうして人の失敗談を勝手にしゃべるのよ!!」

 

「それは、ひとえに退屈をまぎらわせガフッ」

 

「なんて事するのよ! ……いえ、待ってちょうだい、どこまで話したの?」

 

「……………………」

 

「どこまで話したのよ朱雨!!」

 

「話したというのは不適切だな。私が記録している限りの全てを映像付きで事細かに説明した。二人が挙げた事例から永琳が幼児化した事まで赤裸々(せきらら)にグハッ!?」

 

「こ、殺す! 殺してやるう――――!!!」

 

「それは洒落にならんぞ永琳!? 止めろ、地球を消し飛ばすつもりか!?」

 

 逃げ回る朱雨に永琳は朱雨専用に編み出した技を次々と撃ちまくる。朱雨は華麗(かれい)に避けまわるが、永琳が発動した巨大隕石規模の飽和攻撃になすすべなく飲み込まれた。耐えきれなかった朱雨の身体が宙を舞う。怒り狂う永琳がギラリと目を光らせたかと思うと、その姿も光の渦に消えた。

 

「あー……相変わらずバカやってんだねえ、朱雨は」

 

 その光景をどこか遠い目をしながらてゐは観賞していた。元はと言えばてゐの発言のせい? そんな事を気にする兎だと思うだろうか? 現にその手には既に(さかずき)が握られている。酒盛りをする気満々だ。

 

「――貴女が、因幡てゐなのかしら?」

 

「うん?」

 

 竹林に叩き付けられたり、ヒュルルルと上に飛んでいってはきたねえ花火と散っていく朱雨を(さかな)に、ちびちびと酒を呑んでいたてゐは、突然声をかけてきた輝夜をとろんとした目で見つめ返す。

 

「そうだよー。あたしがこの竹林の主、因幡てゐさー」

 

 酔っているせいか声が間延びしている。規則正しく頭を左右に振りながら、てゐは意味もなくからからと笑った。輝夜はにっこりと微笑んで、てゐの隣に座る。

 

「朱雨とは長い付き合いなの?」

 

「そうだねー、結構長いと思うよー。うーんとー、かれこれ何十万年の付き合いかなー、あ、お酒呑むー?」

 

「ありがとう、いただくわ。それにしても、そんな昔から知り合いなのね。ねえ、貴女にとって朱雨はどんな風に見えるの?」

 

「変な奴だねー。ていうか、誰に聞いても変な奴だって言うと思うよー。あんな風にじゃれあえるくらいに仲が良かったら、そうでもないかも知れないけどさー」

 

 てゐは陽気に笑いながら杯で彼らを差す。いつの間にか霊術の雨は止み、ぷすぷすと黒煙を上げる朱雨を永琳は持ち上げて、涙目で自分の過去が暴露された事を嘆きながらひたすら往復ビンタを繰り返していた。あの冷静沈着な永琳があんな事を――今まで見た事のない教育係の姿に、輝夜は口角をあげる。

 

「それよりさー、あんたたち、この竹林に住む気なのー?」

 

「ええ、そうよ。ちょっとやむを得ない事情があってね。駄目かしら?」

 

「ダメだよー、なにせここはあたしの竹林だからねー。勝手に入って来て何もしないですもうなんて、勝手が良すぎると思わない? 見返りちょうだいよー」

 

傲慢(ごうまん)なのね」

 

「当然。あたしは妖怪だからねー」

 

 相手の杯にお酒を注ぎ合いながら、輝夜とてゐはそんな会話を酌み交わしていく。そうしているうちに笑顔を取り戻した輝夜は、上機嫌で永琳を呼んだ。

 

「永琳、えいりーん」

 

「姫様? 何でしょうか?」

 

 ボロ雑巾になった朱雨をぺいっと投げ捨てて、永琳は冷静になってから輝夜の元で膝をおる。妹紅と一緒に居る時ほどではないが、ニコニコと笑顔な輝夜は、てゐを指さして言った。

 

「この子、気に入ったわ。うちで飼いましょう」

 

「え? でも、その兎は妖怪ですよ?」

 

「いいのいいの。私がいいって言うんだからいいでしょ、ね?」

 

「えー。飼われるってのは心外だなー」

 

 輝夜のお願いに永琳はちょっと困ったように眉根を下げる。そのやり取りを見ていたてゐはやや不満げにそう言ったが、ぐびり、と杯のお酒を一気に飲み干すと、にやりと不敵に笑った。

 

「でもいいよ。こっちの要求をのんでくれるんなら、あんたに飼われてやってもいい」

 

「要求? なにかしら、言ってみて」

 

「朱雨から聞いたんだけどさ、そこの永琳って人間はすごく頭がいいらしいじゃない。その知恵をうちの兎達に分けてくれるんなら、あんたの飼い兎になってやるよ。うちの兎達を労働力として使ってもいい。どう、悪い話じゃないと思うけど?」

 

「良いわね、永琳」

 

「……姫様が、そうおっしゃるのであれば……」

 

「じゃあ決まり!」

 

 永琳はしぶしぶと承諾し、輝夜はおおいに喜んだ。てゐは酔っているのでいつもよりテンションが高い。気の進まない永琳がおかしかったのか、手を叩いて笑っていた。

 

「ふむ。穏便に事が済んで何よりだ。私も気兼(きが)ねなく事後処理に(つと)められる」

 

「……貴方のその姿を見て穏便に事が済んだと、一体何人思うのかしらね。事後処理って、地上人達の事?」

 

 ボロボロの布が人の形をしているような朱雨に、永琳は呆れ顔で嘆息した。それから頭を振って朱雨にそう尋ねる。「大丈夫だ、問題ない」と朱雨は血液で自分を治すと、こっくりと頷いて血界を開いた。

 

「――朱雨。その、妹紅の事、なんだけど……」

 

 朱雨が讃岐造達の元へと帰ろうとすると、躊躇(ためら)いがちに輝夜が言う。それだけでも意味が通る程、朱雨のうちには明確にそれが存在していた。それをあえて無視して、朱雨は否定の意を伝える。

 

「残念だが、それは実行不可能だ。仮に私が妹紅に会いに行ったところで、為せる事は何一つないだろう。危機を犯してまでお前が会いに行くのは推奨しない。諦めて、忘れる事を私はすすめる」

 

「…………ごめんなさい、無理を言ってしまったわね」

 

 輝夜は哀しげに目を伏せた。永琳は痛ましそうに輝夜を見つめ、その肢体を抱きしめる。そこに、それが感じ入る何かがあったのだろう。朱雨は事後処理を優先し、その衝動を止めなかった。

 

「――この世とは、何者にもままならぬモノだ。曖昧であやふやな時間の果てに、再び妹紅と出会える可能性もある。お前が諦めきれないと言うのなら、せめてその奇跡を願っていろ」

 

 返ってくる言葉はない。朱雨はただ一度だけ目を閉じ、そして血界の中へ消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 光の入らない薄汚れた部屋の隅。わずかな家具は乱雑に倒され、唯一の服である白の着物が引き裂かれて散らばっている。完全に締め切られた部屋の中では今が昼なのか、それとも夜なのかさえ区別はつかず、妹紅はただ、使い古した布団の上に横たわっていた。

 

「…………はは」

 

 輝夜は、何も告げずに帰っていった。別れの言葉を伝えたのは、世話になった老夫婦と兵を出してまで止めようとした帝のみ。妹紅の父親にも、妹紅にも、文の一つとして届きはしなかった。

 

 輝夜にとって、私は何だったのだろう。輝夜にとって、父上は何だったのだろう。妹紅の父親が難題に敗れ果てたその日から、妹紅は幾度とない自問を繰り返していた。

 

 父上が敗れたから、私にはもう輝夜の元へ行く理由がなかった。理由がなかったから、輝夜の元へ行きたくても行けなかった。行く勇気が、なかった。それでも輝夜は、幸せだと言っていたから。別れる時にくらい、何か残してくれると思っていたのに。結局、輝夜は地上で手に入れた全てを捨てて、月に帰っていったのだ。

 

「…………ははははは」

 

 ギリ、と布団の端を握る。長い爪が食い込んで、中の綿がはみでていた。妹紅は光彩の失われた空虚な瞳で、(うつ)ろな思考を重ね続ける。

 

 輝夜は全てを捨てていった。それは、輝夜が手に入れた物はどうでも良い物だったという事だ。あの優しげな老夫婦の家庭も、あらゆる男達からの愛の(ささや)きも、父上も――そして、私との友情でさえ。輝夜にとってはどうでも良い、つまらない物だったのだ。なら、どうしてそんな物を輝夜は求めたのだろう。

 

 ――決まっている。遊ぶためだ。いつも持て余していた退屈を潰すためだ。そんな事のために輝夜は、皆を騙して、私を騙して、人の心で遊んでいたのだ。

 

 難題に敗れてから、妹紅の父親はひどく落ちぶれてしまった。やけ酒を飲み、妹紅に構う事も少なくなった。決して、愛情が尽きたわけじゃない。ただ、その間に妹紅は(すさ)み、輝夜への想いが憎しみに転化するまで父親は立ち直れなかったのだ。想いは擦れ違い、その細い流れは大きな奔流となって、決定的な決別へと繋がっていく。

 

「ははははははは、はは、ははははははははははは」

 

 どうして、父上がああも苦しまなければならないのだ。どうして、私がこうも苦しまなければならないのだ。輝夜はなんの苦痛もなく、のうのうと月へ帰っていったというのに。どうして私達だけが、私だけが――

 

 乾いた笑いだけが妹紅の口からしみだしてくる。虚ろな心には邪鬼が混じり、それはやがて耐えがたい妄執(もうしゅう)へと至る。

 

 ――そうだ、奪ってしまえ。輝夜が大切な人のために残したモノを。輝夜に(もてあそ)ばれた代償に、全て奪い取ってしまえ。せめて一矢、あの憎い女にただ一太刀の斬撃を。

 

「はははははははははははははははははははははははははははははは!!!」

 

 留める者は、誰もいない。妹紅はもはや、輝夜を憎む以外になかった。それ以外にすがれるモノがなかったのだ――妹紅には、大切なモノがあまりにも少なすぎた。

 

 

 

 

 


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