東方血界神 ~Creatures Paradise~   作:閼伽

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朱雨は月と戯れ、名も無き少女と出会う。

 

 

 意味をなさない疑問を抱く。廻る廻る、世界の底で。

 

 

 

 

 朱雨の朝は早い。

 

 日が昇る一時間前には起床し、まずは近場の川で水を汲む事から始まる。その量、実に米俵(こめだわら)十六俵分。朱雨を含めた四人の生活用水、飲料水を家の裏へ運んでおく。

 

 それから再び川へ行き、朝食用の魚を捕獲する。それを土間の台所で処理する頃には日が昇り、家の住人が目覚め始める。

 

 しずしずと起きてきた(おうな)に朝食の準備を引き継いだ後は輝夜の世話だ。すやすやと子供らしい寝息を立てる輝夜を起こして、寝巻から普段着へと着替えさせる。顔を自分で洗わせてから、朱雨は丁寧に拭いてあげる。

 

 しかし、朱雨がいくら丁寧にしているつもりでも輝夜のお気に召さない事が多い。いつも「乱暴」だの「不器用」だのと頬を軽く膨らませて文句を言われてしまうのだった。朱雨もそれを聞いて改善しようとは思うのだが、どうも上手くいかないようだ。

 

 そうして少し慌ただしい起床を終えると、四人で朝食を囲む。わいのわいのと四方山話に談笑し、そして使った食器を嫗と共に片づける。それからは讃岐造と一緒に竹を取りに行くか、輝夜と過ごすかの二通りだ。

 

 そして昼が過ぎ、夜になると明日の準備をして讃岐造と嫗は床に就く。朱雨と輝夜は、月を肴に昔話を語り合う。しばらくすれば輝夜が寝るので、きちんと毛布をかけてやり、朱雨も就寝する。

 

 それが朱雨の、輝夜護衛生活の基本的な一日だった。といっても最初の一カ月程度だけで、輝夜を見つけた竹から小判が出るようになると、生活が段々裕福になりもっぱら家で無駄話をする時間が長くなったりした。

 

 それだと輝夜は退屈だとぷりぷり怒るので、朱雨が護衛として付き添い、外で遊ぶ事も多かった。輝夜は月人にしては珍しく地上の穢れを嫌がらず、色んな物を見たり触れたりして喜んでいた。

 

 雨の日は朱雨が旅の最中で知った室内遊戯で楽しんだりもした。双六や貝合わせ、囲碁などである。

 

 ……もっとも、朱雨は手加減という言葉を知っていても実践しない男なので、輝夜相手に連戦連勝。実に大人気ない態度で輝夜を怒らせていた。流石に泣きが入ると、讃岐造や嫗の非難がくるので適度に敗けてやりもしている。しかし敗けてやっているという態度を取り繕おうとしないので、結局輝夜を苛立たせていたが。

 

 逆に言葉遊びでは朱雨は一度も勝てなかった。輝夜が四季折々の言葉を用い、流麗で(みやび)な詩を謳いあげるのにたいし、朱雨は森羅万象の出来事を淡々と語るだけだったからだ。比喩や技法を使わず、直接的な言葉だけで。つまり、説明的すぎて全く面白味がない詩しか作れなかったのである。

 

 輝夜が敗けてやろうと思っても朱雨は勝てなかった。輝夜に「貴方には詩の才能が月人の穢れほどもないのね」と呆れられるくらいだ。まあ、朱雨の出生を考えれば致し方ない事である。

 

 と、このようにおおむね平和的に、影で妖怪を殺したりしながら、三カ月が経過した。

 

 

 

 

 三カ月目の今日もまた綺麗な満月が昇っている。黄金色に輝く満月には、そのままずっと見続けていたいと思いたくなる不思議な魅力があった。普通の人間には分からない、人を狂わせる魔の力を放っているからだ。

 

 その妖しくも美しき月下のもと、朱雨は草原にて妖怪の命を一つ、自らの血肉へと変えていた。例によって輝夜を狙ってきた妖怪を始末していたのだ。

 

「……こいつも、私の質問には答えなかったか。やはり私の質問方法が正規ではない可能性がある。改善の余地があるのに実行できないとは、なんとも歯痒いものだ」

 

 今回の妖怪にも辞世の句のための猶予を残したのだが、答えてはくれなかった。その理由を模索しつつも、朱雨は輝夜の元へと戻る。

 

 朱雨が家の近くに近づくと、庭に誰か立っているのが見えた。綺麗なのにどこか禍々しい、銀の月光を一身に受けながら。

 

 黒い宝石で濡れた漆黒の髪が月光の海を泳ぐ。強い輝きを秘めた黒真珠の瞳が朱雨を写し、淡く色付いた白磁の肌が強い色彩の対比を描いていた。まるで月の狂気が見せる、一夜限りの幻想のようだ。

 

「――――」

 

 空中からその場に着地した朱雨は、あまりに現実味のない彼女の姿に息をのむ。かつて旅をした若藻が美しくも確かに掴み取れる黄金の類だとすれば、彼女はどれほど心を乾かそうと決して届き得ぬ、天井に輝く星々の体現だった。

 

「――あら、今日は早かったのね」

 

 着地した姿勢のまま呆然と動かない朱雨に彼女、輝夜は良質な笛の甘い音色で、芯に筋の通った声を奏でる。それ一つをとっても人々が求める夢幻の音で、朱雨もしばし聞き惚れて、輝夜が少し首を傾けるくらいの時間、返事が遅れてしまった。

 

「…………。ただいま、輝夜」

 

「?」

 

 ようやく返ってきた朱雨の返事を輝夜は不思議がり、桃色の袖で口元を隠しながらちょっと思案した。すると何か思い当たる節でもあったのか、目を面白そうに細めてクスリと笑う。

 

「ふふーん? ひょっとして、私に見とれてた?」

 

 人の悪い笑みだ。朱雨はそれにまで目を奪われないよう顔を左右に振りながらそむけ、無感動な音声で素直に認める。

 

「……残念だが、否定は出来ない」

 

「素直でよろしい。それにしても、貴方が私に見とれるなんて、どういう風の吹き回し?」

 

 コロコロと楽しそうに笑う輝夜は、小悪魔の笑みのまま尋ねた。朱雨は顔をそむけたままでは失礼だと知っているので、入念に自分の精神を補強して、それから輝夜と目を合わせる。

 

「なに、永琳から教わった事でな。敵がいない・戦う必要がない平穏では、美しい女性に惹かれるのが人間の雄の性らしい。私は一応、有事をのぞいて人間の性能を維持しているので、反応せざるを得ない」

 

「へえ。貴方にもそういうのがあったんだ」

 

「? 私のなにか特有の機能でも発見したのか?」

 

「さあ? それは私には分からないけど――貴方にも、美しい物を美しいと思える感性があったんだな、って思っただけ」

 

 輝夜の気軽な言葉に、朱雨は少し自身の根幹を揺らがされる思いがした。私に、そのような感性が? 少し動揺するが、すぐに言い訳が思い当たって口にする。

 

「私自身にその感性はない。しかし、経験則から美醜の区別はおおよそつく。それだけの事だ」

 

「そうなの? じゃあ、そういう事にしておいてあげる」

 

 輝夜は意味ありげにそう言ってとても楽しそうに微笑んだ。朱雨はその対応が少し不満だったが、それよりも優先すべき事項に気付いたので、それを輝夜に問いかける。

 

「ふむ、輝夜。その表情、何か不都合な事態が生じたと見えるが」

 

「……そんな顔してるつもりはないんだけど……いえ、貴方には見抜かれても仕方ないわね。そうよ、朱雨。少し、困った事があったの」

 

 輝夜はそこで眉根を下げ、憂いを帯びた瞳で月を見上げた。その黒い瞳は遠く、ここではないどこかを眺めている。ほのかな月光の中で佇む姿は淡く儚い。

 

「――私、求婚されたの」

 

「…………」

 

 麗しい蜜で紅を引いた柔らかな唇から、悲痛のこもった重い言葉が零れ落ちる。男なら誰もが無意識に手を伸ばしたくなるようなその旋律を聞いて、朱雨は静かにこう言った。

 

「いつもの事じゃないか」

 

「そうだけどね」

 

 輝夜もあっけらかんと表情を崩してため息をはく。それには辟易とした思いが滲み出ていた。朱雨は立ち話もなんだろうと二人で縁側に座り、その場で能力を使って入れたお茶を出す。輝夜は特に嫌がりもせず受け取り、一口含んでからほうっと息をついた。

 

「まったく……地上人の男っていうのは、どうしてこうも結婚をしたがるのかしらね。それも自分の地位とか財産とか考えないで、もしかしたらって運試しをするみたいにやってくるのよ? もう嫌になっちゃう」

 

「仕方ないさ。それだけお前が魅力的だという事だろう」

 

 輝夜の愚痴に朱雨は当たり障りのない肯定のみを返す。本当は、朱雨の持つ知識からある程度の推測はついていた。

 

 朱雨には愛が分からない。だからそれを度外視して、純粋に輝夜が地上の人間から性欲の対象として見られる理由を分析する。その結果として、輝夜が求婚される理由は三つあった。

 

 一つ目は生物としての格の違いだ。月人と地上人は保有する能力、性能はそれこそ天と地ほどに隔たっている。月人には地上人が持たない能力も多く、すなわちそれは地上人にとって月人は遥かに優秀な存在だという事だ。そして生物は交尾の相手を選ぶ際、自身にはない優秀さを求める傾向がある。

 

 二つ目は月人と地上人が近しい事だ。これは距離や生息域ではなく、純粋な身体構造が似通っているという意味である。もはや同じ身体構造といっても過言ではないくらいだ。それは等号(イコール)で月人と地上人を結びつける事ができ、早い話がこの二種族の間には子供が誕生するのである。

 

 三つ目は蓬莱山輝夜が純粋に美しい事が挙げられる。外見というのは存外無視できないもので、第一印象からその存在の有能さを示すのはなんといっても外見だ。それがこの世の極みに達している輝夜が異性から求婚されるのは当然なのだ。

 

 月人の優秀さ、身体構造の類似、輝夜の美しさ。これらの要素が組み合わされば、輝夜が地上人の異性にもてるのは致し方ない事なのである。……まあ、こんな説明を聞いても輝夜は面白くないと判断したので、朱雨はそっと胸の内にしまったのだが。私は輝夜より若藻の方が好みだがな(・・・・・・・・・・・・・・・・)、なんて、朱雨にとって致命的な想いも一緒に。

 

「まあ、それはいいんだけどね。私を襲うような不埒な(やから)は、貴方が全部のけてくれてるみたいだし。それよりも今日来た五人がひどいのよ。揃いも揃って側室のいる子持ちなのよ? ふざけてるのって怒鳴りたくなったわ」

 

脊椎(せきつい)動物の哺乳類に属する雄は、種馬と揶揄(やゆ)されるほどだ。彼らの倫理観など私には想像もつかないが、おそらく雌をより多く孕ませる事を是としているのではないか?」

 

「おそらくなんてつけなくていいわ。間違いなくそう考えてるとしか思えない態度だったもの。まったく、目先の欲にすぐつられるんだから。これだから地上人は駄目なのよ」

 

 御爺様と御婆様くらい善く生きられないのかしら、と茶菓子を適度につまみつつ、輝夜は地上人への鬱憤(うっぷん)を訴えた。それに苦笑しながら朱雨は輝夜の持つ湯呑みにお茶を注ぐ。

 

「しかし、今日は五人か。一昨日が二十人で三日前が十七人である事を(かんが)みると、やけに少ない人数だな」

 

「それがね、五人とも名のある貴族だったのよ。それで他に来ていた人も気後れして帰っちゃって。他の男を見て尻込みするくらいなら、初めから来なければいいのに。地上人は情けないったらないわ」

 

「同意する。子孫を残すつもりなら同族と争う事も必要だ。それさえ放棄するというのなら、そもそも子孫を紡ぐ意味もない。弱さなど、のちの種族に遺伝する物ではない。……しかし、貴族が五人か。いつものように無碍(むげ)に返す事も出来なかっただろう」

 

 朱雨は輝夜に会いに来た男の詳細を知らない。朱雨は輝夜の世話係だが、求婚の場に同席する事は許されていないし、朱雨自身もするつもりがないからだ。求婚されている間にやっている事は護衛で、求婚の場から一つ離れた部屋で、有事にすぐ対応できるように備えている。

 

「そうなのよねー。彼らの面子(メンツ)なんかどうでもいいけど、それなりの理由がないと断れないのは面倒だわ。だからね――彼らに難題を与えたの」

 

 けらけらと無垢な子供のように輝夜は笑う。見た目が美しく可憐なだけに、その子供らしい笑顔は輝夜の魅力を更に引き立てていた。それに少し見惚れつつ、朱雨は輝夜の言葉を鸚鵡(オウム)返す。

 

「難題?」

 

「そう、難題。聞きたい?」

 

「そうだな、出来れば――」

 

 いたずらっぽく弧を描く唇は子供らしいのに妙に艶やかだ。輝夜は秘密を打ち明ける時のようにうずうずしていたので、期待に応えて朱雨はどんな難題を出したか聞こうとした。

 

「――おやおや、まだ起きていたのかい?」

 

 その時、しわがれた声とともに縁側の奥から讃岐造が現れた。いつもの優しい好々爺の笑みで顔をしわくちゃにして、しっかりした足取りで二人に近づいて行く。

 

「御爺様? どうしたの、こんな夜更けに?」

 

「いやいや、ぐっすり眠っていたんだがなあ。ふと目が覚めたらやたらと(かわや)が恋しくなってな、用をたしにいったら二人が起きとったんだよ」

 

 黒真珠の瞳を大きくして疑問符を浮かべる輝夜に、讃岐造は恥ずかしそうに頭を掻いた。そして、縁側の外に浮かぶ満月を見上げる。

 

「いい月夜だなあ。こんなにいい月が昇っておるなら、二人がまだ起きておるのも頷ける。だが、夜は怖い。深い闇からやってくる者もおるでな、早めに床に就きなさい」

 

「御爺様がそういうなら、すぐに寝るわ」

 

「了解しました。私も床に就かせていただきます」

 

 一心の優しさを宿す讃岐造の瞳に、輝夜は自然体で、朱雨は慇懃(いんぎん)に言葉を返す。讃岐造はうんうんと頷いて、縁側の奥に消えていった。

 

「話の続きは、また今度にしましょう」

 

「そうすべきだな。次に機会があれば、また頼む」

 

 顔を見合わせた二人は、そう言葉を交わしていそいそと立ち上がる。朱雨は手早く食器を片づけると、すぐに輝夜の布団を敷く。そして輝夜が毛布をかぶったのを見届けて、自分の部屋に帰っていった。

 

 

 

 

    आयुस्

 

 

 

 

 数日後の夜、事件は起こった。

 

 夜空が黒い雲で千切られている。月明かりを裂き、地上へと届かせまいとする雲のせいで、夜空をそのまま描いたように、地上もまた光と影で切り取られていた。

 

 それは朱雨の立つ庭でも例外ではない。月光を浴びる朱雨の正面三歩の距離を境に、光が雲の影で縁取られていた。その陰影に紛れ、人型の闇が存在している。

 

 朱雨は手に持つ刀を「敵」に向けていた。月光を反射する刃は冷たく、それを小さなぶれもなく「敵」に向ける朱雨の表情は更に冷たい。無表情の能面で、ただ「敵」を排除する事のみを考えている。

 

「…………さて、辞世の句を聞こうか」

 

 無機質な音声で、朱雨は「敵」に生を振り返るだけの時間を与えた。まったくもって必要ないと断じているが、人間がこれを欲しているのだから仕方ない。だからこんな無意味な事をやっている。

 

「あ……あぁ……あ……」

 

 しかし、人型の闇は恐怖に喘ぐだけで何も答えようとしなかった。ただ腰を抜かしてへたり込み、まるで人食い虎を見るような眼で刃の切先に涙を流している。

 

 答えられないのも無理はなかった。それを承知の上で、それでも朱雨は聞いているのだから。

 

 月を隠していた雲が晴れる。潮が引くように影が薄れ、人型の闇が白日のもとに晒される。白い着流し、おかっぱの黒髪、細かく震える小さな小さな幼い身体。朱雨が刃を向ける「敵」は、まぎれもなく少女だった。

 

「……ふむ。答えないか」

 

 「敵」に刃を向けたまま微動だにせず、(まばた)きさえしないで朱雨は声帯だけを動かした。それが感情のない(かお)の冷酷さを際立たせ、少女に強い恐怖を与えている。朱雨は大気にアンモニア臭が混じっている事を確認した。

 

「なら、仕方ない」

 

 だが、それが朱雨を止める理由にはならなかった。彼にとって「敵」が少女だろうと赤子だろうと、蓬莱山輝夜への害意を持って近づいてくるモノは全て抹殺対象である。依頼の契約がそうなのだ。それを、朱雨が(たが)える事は決してない。

 

 月光を反射する白銀の刃がゆっくりと空へ昇る。黒い夜空を光が斬り裂くように、少女の眼には銀のそれが妙に眩く、そして恐ろしく見えた。その様を無表情に見届けて、朱雨は脊髄(せきずい)を両断せんと刃を(ひらめ)かせ、

 

「――――何してるの! 止めなさい!!」

 

 背後から轟いた輝夜の強い制止に、少女の首、薄皮一枚を斬ったところで刃を止めた。朱雨は輝夜が駆け寄ってきたので傷付けないように刃をしまい、少女を抱き寄せた輝夜からの責める視線を無感動に受け止める。

 

「朱雨……貴方今、何をしようとしたの」

 

「外敵の排除を敢行しようとしていた」

 

 輝夜の声はまるで幽鬼の如くおどろおどろしい。普段天上の音色を奏でるだけに、その恐ろしさは常軌を逸していた。それでも、恐怖という感情を持たない朱雨には意味がない。

 

「…………貴方には、後できっちりと話をした方がいいみたいね。でも、今はこの子が先よ。すぐに手ぬぐいとこの子にあう着流しを用意しなさい」

 

「了解した」

 

 特に反論もせず、朱雨は頷くと血液を出した。それに少女が驚くが気にしない。手ぬぐいも着流しも、血液から造り出した方が早いのだ。「敵」がどんな理由にしろどんな手段にしろ、輝夜に害意を抱いていたのは間違いないので、監視のためにもその場で生成する。

 

 その間に輝夜は服が汚れるのを構わず震える少女を抱き上げ、自分の部屋へ運んでいた。要求された品物を輝夜に渡すと、朱雨はしばらく部屋の外で待機を命じられる。それに素直に従い、朱雨は障子を閉めて縁側で正座して待った。

 

 朱雨は再び輝夜に呼び出されるまでの間に、輝夜と共にいる少女を監視する。視覚に頼らずとも、他の感覚で人間の動きなら十分追い切れる。渡した手ぬぐいや着流しは朱雨の血液なのだから、いざとなれば拘束具にも断頭台にもなる。

 

「――もういいわよ。入りなさい」

 

 どこか棘のある輝夜の言葉に従い、朱雨は輝夜の私室へ踏み込む。特に感慨はない。朱雨は輝夜の使用人としても生活しているのだから、自分の部屋よりこの部屋で過ごす時間の方が長いのだ。

 

 入り口の手前ですぐに正座し、朱雨は輝夜と少女を見た。輝夜は険のある顔をしていて、少女は朱雨にびくびくしている。まだ子供ではあるが、さらさらと柔らかな黒髪やシミ一つない滑らかな肌を見る限り、将来に期待できるだろう。

 

「さて、と。朱雨、貴方に言いたい事はたくさんあるけど、その前にやらなければならない事があるわ」

 

 朱雨が少女を観察していると、輝夜がいつもの調子で声をかけてきた。さっきまで険のある顔をしていたのに、今はニコニコと天使のように微笑んでいる。少し、嫌な予感がする。朱雨はそう思い、そしてその予感は的中した。

 

「この子に謝りなさい」

 

 笑いながら、輝夜は少女を指さした。言われた通り、朱雨は軽く頭を下げる。

 

「すまなかった」

 

「誠意が足りないわ。きちんと土下座しなさい」

 

 今度はすっと朱雨に近づき、顎を持ち上げて悪魔のように首を傾け優しく微笑んだ。朱雨は一瞬抗議しようと考えるも素直に従い、両手をついて土下座する。

 

「申し訳なかった」

 

「まだ駄目ね。もっと頭を下げて、丁寧に謝りなさい」

 

 輝夜はあろう事か土下座した朱雨の背にとすんと座って、まさに男を尻に敷く女帝といった態で見下しながら命じた。その筋の人には大変なご褒美である。が、朱雨にそんな趣味はないので、内心嫌がりつつも言葉遣いを改めた。

 

「申し訳ありませんでした」

 

「よろしい」

 

 ひとまず満足したのか、輝夜は朱雨の背から離れる。朱雨はこれで怒りが晴れるのなら、となかば諦めの境地に立ちながら受け入れていた。その考えを見抜いて輝夜はにやりとして、ぽかんと口を開けている少女の隣に足を崩して座る。

 

「……じゃあ、今度は貴女に話を聞きましょうか」

 

「えっ!?」

 

 朱雨と輝夜の一連のやり取りに理解が追い付いていなかった少女は、輝夜に声を掛けられてびっくりする。その反応にちょっと眉根をしかめつつ、あくまでお気楽に輝夜は話しかけた。

 

「なによ~。そんな風に驚く事ないじゃない」

 

「えっ、あのっ、でもっ、そのっ」

 

 少女はあたふたと慌てた。どうにもこの状況に順応し切れていないようだ。少女が落ち着いて話し出すまでの間、朱雨は鎮静剤を打つかと左手をあげ、輝夜に鋭い視線で「止めなさい」と釘を差されたりする一間もあった。

 

「――へえ。貴女、あの貴族の娘なんだ」

 

「……はい。望まれて生まれたわけでは、ないんですけど……」

 

 しばらく経って、少女は途切れ途切れに輝夜の元へやって来た理由を話し始めた。人と話す事に慣れていないのか緊張して声が上擦っており、そして感情的な部分も多い。朱雨が少女の説明を要約すると、以下の通りになった。

 

 少女は輝夜に求婚してきた五人の一人、藤原という貴族の娘らしい。だが彼女は望まれて生まれてきたわけではないらしく、家では常に厄介者扱いされていたようだ。そのため、少女には名前すらつけられていない。

 

「そう。じゃあ貴女の父親は愚かなのね。妾がよほど愛おしかったんでしょうけど、(たね)()てる事をしなかったんだから」

 

「父上を悪く言わないで下さいっ!」

 

 輝夜の罵倒に少女は口調を強くする。これから分かる通り、少女に冷たかった家族の中で、唯一父親だけが少女に優しく接してくれたそうだ。それで少女は父親の役に立とうと奮起し、輝夜の元へやって来たのである。

 

「ああ、ごめんなさい。今のは失言だったわ。でも、私は彼をよく思っていないから。好みだったらそもそも難題なんて出さないし」

 

「その難題をどうにかしてください! 父上は貴女に辛い難題を出されて以来、ずっと苦悩されているんですから!」

 

「そんなの知ったこっちゃないわ。というか、そうさせて結婚を諦めてほしいから難題を出してるのよ」

 

「っ! だったら最初から結婚する気がないって言えばいいじゃない! それなのに気のある振りをするなんて!」

 

「あら、そっちが素なの? いいわね、さっきのぎこちない丁寧さよりよっぽど貴女に似合っているわ」

 

「話をそらさないで! 私の喋り方なんてどうでもいいでしょ!」

 

 ご立腹な少女を輝夜は面白そうにからかっている。少女が輝夜の胸元につめよってぷんぷん怒っている姿は、見方によっては歳の離れた姉妹がじゃれあっているようで微笑ましい。

 

 しかし、朱雨の興味はそこになかった。相変わらず少女を「敵」として認識しつつも、会話の中でたびたび出てきた「難題」の意味を測りかねている。少女と輝夜が会話の中で説明のようなものをしてくれるのを期待していたが、どうやらそれもなさそうだ。

 

「……すまない。少しいいか?」

 

「こらこら、泣かないの……どうしたの? 朱雨」

 

 輝夜があまりにからかうものだから、少女は涙目になっていた。輝夜は困ったように笑いながら慰めていると、朱雨が声をかけてきた。

 

「先程から話している「難題」とはどういうものだ? 数日前にちらりと聞いたきりで、私には全容が分からないのだが」

 

「ああ、そう言えば前は全部話さなかったわね。いいわ。丁度いい機会だし、説明してあげましょう」

 

 輝夜が出した五つの難題。それは、人間が手にするにはあまりにも恐れ多い五つの至宝である。

 

 天上を雄々しく飛ぶ龍が首にかけている至宝――(りゅう)(くび)五色(ごしき)(たま)

 

 遥か東の果てに君臨する天竺(てんじく)に祀られし至宝――(ほとけ)御石(みいし)(はち)

 

 仙人の住む霊山、蓬莱の地にのみ芽吹く至宝――蓬莱(ほうらい)(たま)(えだ)

 

 幾百の子供を産んだ燕が最後に産み出す至宝――(つばくらめ)子安貝(こやすがい)

 

 大陸の南に潜む燃える鼠の皮で創られし至宝――火鼠(ひねずみ)(かわごろも)

 

「……成程。これほど希少な品々を「難題」として五人の貴族に要求したわけか。私が入手するにしても不可能な代物もある。人間には荷が重すぎるだろう」

 

「当たり前よ。そうじゃなきゃ、結婚したくないって相手に思わせられないでしょ?」

 

 意気揚々と語る輝夜に少女は不満顔だ。さっきも言っていたが、少女は父親と結婚する気がないなら面と向かってそう言ってほしいと思っている。だって輝夜さえいなければ、父上はもっと自分に構ってくれたのに――

 

「……父上をなめるな。その程度のお宝なんて、父上にかかればすぐに手に入るんだから」

 

「あら、そう? 期待しないで待ってるわ」

 

 少し怨みのこもった眼で、少女は輝夜を睨みつける。それを自然体で受け止め、輝夜は余裕の表情で少女にそう返した。精神の成熟度合いに差がある結果だ。朱雨は彼女らを観察しつつ、次の疑問を聞いてみる。

 

「それで? この少女の父親にはどの難題を出したんだ?」

 

「蓬莱の玉の枝よ。白金の根っこに黄金の枝、大粒の真珠の実をつけた生ける財宝。大昔からこれを巡って、地上人は当て所のない戦争を繰り返してきたわ」

 

「ほう、そうなのか」

 

 適当な返事をしつつ、朱雨は(てのひら)を切って血液を出す。二度目の光景に少女は驚きつつも、目を逸らさないくらいには慣れたようだ。白金、黄金、白の真珠――全ての物質が凝縮された血潮から必要な物だけを抽出して、それなりに見栄えのいい形に組み立ててみる。三十秒後、朱雨の掌でうねうねと蠢いていた血液が引っ込み、そこには蓬莱の玉の枝と呼んで差し支えのない物が鎮座していた。

 

「ふむ、こんなところか。どうだ輝夜、これの出来は」

 

「うん? ええ、どう見ても蓬莱の玉の枝ね。地上人は喉から手が出るほど欲しいみたいだけど、私には身近すぎていまいち有難味がないわ……え!?」

 

 朱雨の掌で堂々と立つ蓬莱の玉の枝を一度ちらりと見て、輝夜はすごい勢いで二度見した。

 

「うそ、なんで!? どうして貴方が持ってるの!?」

 

「…………!!」

 

 輝夜はあせったように口調を強めて、前のめりになって朱雨に詰め寄る。少女に至っては驚きすぎて絶句していた。朱雨は目と鼻の先にある輝夜の麗しい顔にいつも通りの無表情で、坦々と説明する。

 

「私の能力は以前話しただろう。それで贋作(がんさく)を製造しただけだ。本来ならば耳にした情報のみでは再現は困難なのだが、幸いにも私は実物を見た事がある。その記録を頼りに、こうして造りあげた」

 

「うそ……これが偽物……? とてもそうは見えないわ」

 

 輝夜は信じられないと身体を揺らし、震える手つきで蓬莱の玉の枝を手に取る。朱雨の手に乗っていただけのそれは簡単に離れ、輝夜は危なげない手つきで細部を検分した。その間に朱雨は両方の掌を切りつけると手を合わせ、橋のように血液を出しながら広げていく。

 

「創造は不得手だが、模倣(もほう)は得意でね。『燕の子安貝』と『蓬莱の玉の枝』は生物的な生成物だから簡単に造れるし、『火鼠の裘』は物理的に燃えない物質を使えばいい。『龍の頸の五色の玉』はやや特殊な宝石で、『仏の御石の鉢』に至ってはただ鉢の形をした金剛石だ。いずれも本物を手に入れるのは困難だが、造るには容易い代物だよ」

 

 朱雨の両手に現れた血液の橋は円盤のように広がり、その上に朱雨が話した順番に五つの至宝が姿を現す。美しい模様のついた光沢のある『燕の子安貝』、もう一つの『蓬莱の玉の枝』、薄く絹のように透ける『火鼠の裘』、五つの不思議な光を放つ宝石が繋がれた『龍の頸の五色の玉』、人の頭がすっぽりと入りそうなくらいの金剛石(ダイヤ)で出来た『仏の御石の鉢』。

 

 どれもこれも、輝夜の眼には本物と遜色ない出来にしか見えなかった。といっても、あくまで一般的な地上人レベルまで性能を引き下げられてではあるが。地上人の眼では細部やこもっている力まで見抜く事が出来ないのだ。そしてそれは、地上人ならいくらでも騙せるという事である。

 

 輝夜が呆気に取られている隙に、少女は動いた。目指すのは良く分からない赤色の台の上にある、蓬莱の玉の枝のみ。それさえあれば、私は父上に構ってもらえる! なりふり構わず、そのお宝を掴もうとして。

 

 そして、朱雨は当然、少女を捕らえた。生成した五つの至宝をすぐに血液に融かし、両腕で関節を決めて拘束する。一瞬の出来事で、少女は畳に倒されてからようやく捕まった事を理解した。

 

「あっ! くそ、はなせ!」

 

「…………」

 

「はいはい暴れないの。朱雨、貴方も鯉口を切らないで」

 

 腕の中で暴れる少女に、朱雨は無音で目を細めた。正気に戻った輝夜はその意図を察して、朱雨が行動を起こす前に手を叩いて止めに入る。護衛対象の命令なら仕方ないと、朱雨は少女から手を引いた。

 

「まったく、無茶をするわね。うちの朱雨に容赦がない事なんて、さっき刀を突きつけられた貴女ならよく分かってるでしょ?」

 

「うう……」

 

 突きつけられた刀の恐怖を思い出したのか、少女は顔を青くする。安心させようとぽんぽんと背中を叩きながら、輝夜は少女の軽薄な行動に苦笑いした。しかし、朱雨にとってそれは認識するだけのもの。興味はないので、正座していた位置まで戻って、護衛の任を続ける。

 

「……あ、そうだわ」

 

 と、輝夜が何か思いついたように顔を上げて、唇の端を吊り上げて無邪気に微笑んだ。そして唐突な声に不思議がる少女に向けて、あろう事かこんな事を言い始めたのだ。

 

「ねえ、貴女。蓬莱の玉の枝が欲しいんでしょ?」

 

 輝夜の言葉に少女は目を大きくして驚いたが、すぐに眉を吊り上げて強きの表情になる。朱雨からすれば、明らかな虚勢だ。

 

「そ、そうよ! あんたに難題を取り下げてもらいに来たんだけど、あれを貰えるならそれでいいわ。本当は私の父上をあんたなんかに渡したくないけどね!」

 

「奇遇ね、私も貴女の父親はあまり好きじゃないわ。でも、父親のために頑張れる貴女には好感が持てる。だから、機会を与えましょう」

 

「き、機会……?」

 

「……ハア」

 

 困惑する少女に笑顔のままで輝夜は上品に手を合わせる。輝夜の言わんとするところをおぼろげに理解した朱雨は、これからやらされるだろう面倒事を予見してため息を吐いた。

 

「簡単な話よ。うちの朱雨と勝負して一回でも勝つ事が出来れば、貴女に蓬莱の玉の枝を授けましょう」

 

「ほ、本当に!?」

 

「……輝夜」

 

 期待に目を輝かせる少女に、輝夜はさっきよりも一層可憐に微笑んだ。少女の様子が、輝夜のツボに入ったらしい。無駄だとは思いつつも、朱雨は責めるように名前を呼んだ。

 

「拒否権はないわよ?」

 

「……ハア」

 

 背景が色とりどりの光で埋め尽くされる笑顔で、輝夜は楽しげに断言する。やはり無意味だったか。朱雨はもう一度、深くため息をつくほかなかった。

 

「それでね、やってもらう勝負なんだけど。貴方達にはこの……盤双六をやってもらいまーす!」

 

 やたら高揚した面持ちで「いえーい!」と輝夜は元気よく盤双六(ばんすごろく)を取り出した。

 

 盤双六。それは西洋でバックギャモンと呼ばれる、古代埃及(エジプト)で遊ばれたセネトを原型とした遊びだ。かなりの思考力を要する遊戯で、上流階級の女子の(たしな)みとされている。一部では将棋・囲碁に並ぶ遊戯として『三盤』と称される程だ。

 

 輝夜は上流階級の女子ではないが、今や有力貴族にまで求婚される身。それと娯楽に飢えていた事もあって、当然のように所持し、そして朱雨を相手取って三日に一度は遊んでいる。結果はまあ、ほぼ朱雨の一人勝ちといっていい。

 

「輝夜……この少女と盤双六で勝負しろと言うのか?」

 

「そうよ?」

 

「それは、少し酷な話だと思うのだが」

 

女子の嗜みとは言っても、もともと大人がする遊戯なのだ。それを少女とやれと言われても、結果は目に見えている。その意味を込めて朱雨は輝夜にそう進言した。すると、横で黙って思案していた少女が、怒って朱雨に食ってかかる。

 

「ばかにするな! 私だって父上と一緒に盤双六くらいやった事がある!」

 

 少女には勝算があった。以前父親と盤双六をやった時、自分でも驚くくらい連戦連勝を重ねたからだ。それで自分は盤双六なら出来る! と妙な自信をつけていて、輝夜が盤双六を取り出した時には内心強く喜んだ。それが、わざと負けてやる父親の優しさだとも気づかずに。

 

 そして。朱雨は決して、勝負事では手は抜かない。

 

「ほら、この子もこう言ってるんだし、諦めて引き受けなさい」

 

「…………」

 

 仕方ない、と朱雨は首を振った。そして、気が乗らないまま盤双六の準備を終えると、少女と盤を挟んで対面する。少女は自信満々だった。対して、朱雨はいつも通りに――いつも通りに思考を潰し、自分から一切の無駄(おもい)を亡くしていく。

 

「では、始めるとしよう」

 

「望むところよ!」

 

 一戦目。上手である朱雨の先攻で始まった盤双六は、堅実な攻め方をした朱雨の勝利に終わった。

 

「い、今のはまぐれよ! 今度こそ私が勝つ!」

 

 二戦目。賽子(さいころ)の出目を巧みに操り、朱雨はまたしても勝利を収めた。

 

「あ、あれ? おかしいな……」

 

 三戦目。賽子を振る際の力の入力値を完全に無作為(ランダム)化し、攻め方一つだけで朱雨は勝利した。

 

「うう……」

 

 四戦目。賽子の出目を操った上で少女の思考を読み切った戦略で絡め取り、盤双六で上々とされる勝ち方「無地勝」で少女を圧倒した。

 

「……………………」

 

 五戦目。少女の盤双六での思考・戦術を観察しきった朱雨は終始少女に攻める機会を与えず、もはやただの蹂躙と化した遊戯を坦々とさばいた。

 

「……ぐすっ……ひっく……」

 

 六戦目。手加減はしない。一度勝負を挑んだのなら、どんな戦いの仕方であれ完膚なきまでに叩き潰す――

 

「そこまで! もうやめなさい、朱雨」

 

「……了解した」

 

 朱雨は一方的な攻撃をやめ、盤双六を片づける。ひとまとめになった盤双六を押し入れに入れる時、ちらりと輝夜と少女に目をやった。

 

 輝夜の腕の中で、少女は泣いていた。誇りとか父親への想いとか、自分を支えていたものを壊されて涙腺を制御できなくなったのだろう。そんなものを見たところで、朱雨には何の感情も浮かばない。だからこそ――眉根をひそめるなんて事さえ、やってはならないのだ。

 

「……貴方はよく頑張ったわ」

 

「うう……ぅぐう……!」

 

 大粒の涙をこぼす少女を輝夜は抱きしめて慰める。先程からこんな構図ばかりを見ている気がするのは気のせいだろうか。朱雨はよく分からない自身の感想に疑問を抱きながら、二人の会話を見守っていた。

 

「彼、強かったでしょ? 私だって彼に勝ったのは数えるくらいしかないの。だからそんなに泣かないで」

 

「ひっく……ほんとう、に……?」

 

「ええ。彼が強すぎるのよ」

 

 自分も同じだと輝夜は少女を慰める。涙と鼻水で顔をよごす少女は、えぐえぐと喘ぎながら輝夜を見上げる。そこには母性溢れる天女の笑みがあった。

 

 これは人間の言うお涙頂戴と言うものなのだろうか。朱雨はずれた思案しながら見物する。人間には胸に来るものがあるのだろうが、前提を見返してみると何とも言えない。

 

「ひぐっ……でも……あいつと戦えっていったの、お前じゃんかあ……」

 

「そうよ? だって結婚したくないもの」

 

「……おにぃ~……」

 

 なんて朱雨が考えていると、まさにその前提を指摘された輝夜が変わらない笑顔で楽しそうに言い切った。輝夜に顔を拭かれながら、少女は脱力してうなだれる。

 

「これは……いいはなしだったのになー、とでも言えばいいのだろうか。むしろ、いいはなしなのかなー、か? いや、そもそも会話が短すぎて成立していない……? はっ。私は何を考えているんだ」

 

「なに馬鹿な事呟いてるのよ」

 

「確かにな……私は少し、おかしくなったのかもしれない……おや、眠ったのか」

 

 朱雨が自分の言葉に戸惑っていると、輝夜が呆れ顔で嘆息する。なぜだろうと無表情で考える朱雨は、輝夜の腕の中で寝息を立てる少女に気付いた。

 

「ええ。疲れていたんでしょうね。もう月も傾きかけた頃、子供がはしゃぐには危なっかしい時間よ」

 

「人間の活動時間から外れているのは間違いないだろうな。夜目も利かない、鼻も利かない人間に、闇夜の生物と対峙できる能力はない」

 

「風情のない言い方をしないの! もう、貴方ってそういうところがつまらないのよ」

 

 朱雨の面白味のない考察に輝夜はぷんぷんと抗議する。しかし朱雨はどこ吹く風。自分は元々こうなのだと開き直った。

 

「それが私という存在だ。それより、その少女はどうするつもりだ? 不遇の生まれとはいえ貴族の血縁だ。このままにしておけば、結婚の口実に使われかねん」

 

「あら、貴方にしては中々頭が回ってるわね。私もここに置くつもりはないわ」

 

「では、どのように?」

 

「簡単よ。貴方が家まで送ってあげればいいじゃない」

 

「なん……だと……」

 

 にっこりと輝夜は面倒事を押し付けた。朱雨に不平や不満はないはずだが、表情が僅かに驚いたように変化しているのは、流石にこき使われ過ぎだと自覚したからかもしれない。

 

「その前に、と……朱雨、紙と筆の用意を」

 

 朱雨の間抜けた顔に輝夜はご満悦だ。地上人が慌てふためくところを面白がるのは、月人に共通する感覚なのだろう。押し入れから用具を取り出しながら、朱雨は観察記録を更新した。

 

 

 

 

「う……うん……?」

 

 戸の隙間から差し込む陽光に、少女は目を隠しながら覚醒する。右を見て、左を見て。ここがあの憎たらしい女の住家ではなく、自分の部屋である事に気付いた。

 

「あれ……私、どうして……」

 

 殺風景な部屋だ。家具は僅かしかなく、多少ほこりで汚れている。最近掃除してないからな……自分のみじめさを思い出した少女は、涙ぐんで目を落とした先に折りたたまれた紙を見つけた。

 

「こんなものあったっけ……?」

 

 手に取って広げてみる。どうやら手紙のようで、さらりと上質な紙には、水墨画のように洗練された達筆な文字でこう書かれていた。

 

『ざんね~ん! 今回は貴女の敗けで~す! ねえねえ今どんな気持ち? 遠い私の家にまで苦労してきて、何も出来ずにうちの朱雨にぼこぼこにされてどんな気持ち? ねえねえ?』

 

「……なにこれ」

 

 少女は衝動的に手紙を破きそうになった。これだけ綺麗に書かれているのに、思い浮かぶのはこっちを指さしながら爆笑する、見た目だけはいいあいつである。

 

『くやしいのうくやしいのう。大切な人のために頑張ったのに報われないなんてくやしいのう! ふふふ、貴女の不幸で今日もご飯がおいしいわ』

 

「あいつ……!」

 

 少女のこめかみに青筋が浮かぶ。やろう、今度会ったらぶっ殺してやる! 手紙を握りしめて少女は強く誓った。

 

『悔しかったら、もう一度私の元に来るのね。私の出した難題は一朝一夕で解けるものじゃない。貴女の父親が答えを出すまで、挑戦は何度でも受け付けるわ』

 

「いいわ……この屈辱、いつか必ず返してやる!」

 

 あの女が書いた手紙を放り捨てて、少女は立ち上がって拳を上げる。そこには、さっきまでの陰鬱な雰囲気はなく、強い志をもった少女が居た。

 

 

 

 

『追伸。今度会う時までに、自分の名前を決めておきなさい。名付けられなかったのなら、自分で名前を考えるのよ。それが貴女の第一歩になるんだから』

 

 

 

 

 


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