東方血界神 ~Creatures Paradise~   作:閼伽

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神々の黄昏を、朱雨は静かに見届ける。

 

 

 

 

 戦いたくなければ何もいうな。戦場は、己を通す為にある。

 

 

 

 

 赤い髪先が大気に揺れる。空を切り裂くような風鳴りの音が、草木を引っこ抜いてどこかへ持っていこうとする強い風とともに走っていく。まるで黒い(いなご)の軍勢が黄砂と共にやってくるみたいだ。今日はひどく、風の音が騒がしい。

 

 風に乱される髪を押さえながら、それでも身体が風に押される。目も開けられないくらい強い風に耐えながらなんとか視界を確保しているけど、見えるのは暗雲が垂れ込める暗い景色と、こんなに強い風をものともしないで進む雇い主の姿だけだ。

 

 私の髪よりも深い紅の色と、漆黒のような黒い色が混じりあった長い髪。腰まで届くそれを無造作に風にまかせているのに、まるで鉄の芯が入っているんじゃないかってくらいに動いていない。いつもそうだ。この人には、こういった不思議なところがある。

 

 朱雨さん、と私は呼んでいる、私がこの小さな島に来てからそのほとんどを一緒に過ごしてきた変な人。一緒に過ごしてきたと言っても色のある話は全然なくて、無一文で倒れていた時に助けてくれて、そのままずっと雇ってもらっているだけだ。

 

 それには感謝しているし、朱雨さんが雇ってくれているおかげで、私は生活にも困っていない。この島の端から端まで旅してくれるので色んな猛者と渡り合えたし、時々ご褒美と言って高いお酒とかおいしい料理とかをくれるのも嬉しかった。特に、最初に朱雨さんと行った洩矢という国で飲んだ八塩折之酒の味は今でも忘れられない。

 

 そんな感じでこの十年余り、私はあまり不自由をする事のない至れり尽くせりな立場にあったわけなんだけど、その立場を与えてくれた朱雨さんの事はあまり分からなかった。とにかく不思議な所が多いのだ、この人には。

 

 一応商人として旅をしているのに、品物が売れたところをほとんど見た事がない。それなのになぜかお金をたくさん持っている。品ぞろえもいつの間にか変わったりしている。妖怪や盗賊に遭遇しても平然としすぎている。あまり表情が変わらない、などなど。

 

 つい最近の出来事で言えば、朱雨さんの眼と髪の色が変わった事があげられる。前までは両方とも黒だったのに、今では深紅と漆黒だ。特にあの仄暗い鬼火のような朱い瞳は……その、言い辛いんだけど、透明な硝子玉のようで気味が悪い。

 

 眼と髪の色が変わった理由はまだ教えてもらっていない。聞いても答えてくれないので、そもそも教えるつもりがないのかも。

 

 答えてくれないと言えば、今私達が向かっている場所もそうだ。日の出ている間はずーっと歩き通しの朱雨さんにお腹を空かせながらついてきたけど、どこに行くのか全然話してくれない。もちろん、何度かは聞いてみたものの、

 

「……あのー、朱雨さーん。私達は一体どこへ向かっているんでしょうか?」

 

「…………」

 

「……なんでもいいから、何か答えてくださいよ~」

 

「人間万事」

 

「……? 塞翁が馬?」

 

「曖昧な未来の事など語っても意味はあるまい」

 

「……誤魔化さないでくださいよ~」

 

 こうやって煙に巻かれてしまうのだ。こうゆう場面は何度かあったから慣れているけど、ないがしろにされているようで少し悲しい。しょんぼりと頭を下げる私をよそに朱雨さんはさくさく進んでいき、いつの間にか山を登り始めていた。

 

 日ももうすぐ暮れようとしている。朝から飲まず食わずで歩き通しの私にとっては、山登りはかなり厳しい。なんかもう疲れちゃったし、いっそこの辺りで休んじゃおうか。そんな弱気な考えが頭をよぎった時、唐突に朱雨さんの声が聞こえた。

 

「そろそろ目的地に到着する。準備しておけ、美鈴」

 

 ……え~ん、訳が分からないよ~。言う事なす事突飛過ぎませんか、朱雨さん。

 

「正直何言ってるか分からないです、朱雨さん。お願いですから、もう少し説明してください」

 

「すぐに分かる。これだけ不自然に荒れているのだ、もう対峙していると見た方がいい」

 

「はあ、そうですか……って、またそうやってはぐらかす~」

 

 ……はあ、もういいです。慣れましたよこんなの。ええ、慣れましたとも、ぐすん。

 

 そんなちょっと涙目な私を無視して朱雨さんはスタスタ行ってしまう。ほんとうにこの人は分からない。普段からこんな風に冷たい人なのに、どうしてか私に構ってくれる。

 

 何か別の目的があるんじゃないだろうか。朱雨さんの方から時々感じる氷の刃のような気配に、私はそんな疑いを抱いていた。でも考えても答えは出ないし、朱雨さんにそんな事を聞くのは不躾にも程がある。怪しいとは思っていても、朱雨さんは色々と面倒を見てくれた人だ、それを無碍にはできない。

 

 結局、今の生活が気にっている私はこの疑問を見なかった事にした。朱雨さんに危害を加えられた事もないし、あれだけ純朴な「気」を持つ朱雨さんは良い人だと思うから。

 

「着いたぞ、美鈴」

 

「え……きゃあ!?」

 

 考え事に没頭していた私は朱雨さんの声に慌てて顔を上げて、さっきまでとは段違いの風に情けない声を出してしまった。無意識に顔を腕で守ったけど、身体ごと空へ吹き飛ばされそうだ。

 

 あまりの強風に立っていられない。顔を守ったまま地面に伏せた私は、何が起こっているのか確認するために目を開けて――目の前の光景を、信じる事ができなかった。

 

「い、一体何が――え?」

 

 途方もない強大な「気」を放つ、二つの影が湖の上で睨み合っている。片方はドス黒い怨念のような「気」を垂れ流す少女で、もう片方は鉄の剣の暴風の如き銀色の「気」を纏うしめ縄を背負った女性だ。

 

 彼女たちは無言のまま互いに睨み合っている。それだけで水面が大きく荒れ、風がうねって山を揺らす。

 

 私は知らず目を皿のようにして生唾を飲み込んだ。目の前でぶつかり合っている「気」は間違いなく「神気」――目の前で睨み合っているのは、辺り一帯の天候を変えるほどの神だと分かったからだ。

 

 その事実に身体が震えた。あんなに強い神に目をつけられたら、私のような妖怪は赤子の手をひねるように消されてしまう。そもそもどうしてあんなに強い神が二人も、こんなところで睨み合っている? それにどうして、私はこんなにも強い「気」を感じ取れなかったのだ。

 

 分からないのはそれだけじゃない。全身から冷や汗が出るのを不快に思いながら、私は絶対に立っていられない筈なのに平然と立っている、二柱の神をじっと見据えている朱雨さんを見た。

 

「ふむ。その様子では『視えて』いるようだな。知性を扱うのは苦手のようだが、やはり根底から優秀なようだ」

 

「な、何言ってるんですか! あれは一体何なんですか!? どうしてこんな危ないところに来たんですか!? 朱雨さんっ! 貴方は一体……」

 

 疲労と困惑で心がささくれていたせいもあったんだろう。私の方をちらりとも見ずにそんな事を言う朱雨さんに瞬間的にキレてしまい、険しい顔で朱雨さんをなじった。でも、大声で怒鳴る私に朱雨さんは絶対零度の眼を向けてきて、そのせいで言葉が詰まる。黙った私を見下ろしながら、朱雨さんは人差し指を前に差し出した。

 

 そこから血の雫が一滴落ちる。ポトリ、と地面に当たって弾けた血は、次の瞬間膨れたかと思うと、一気に広がって私と朱雨さんに迫ってきた。

 

「うあ、あ、ああ!?」

 

 あまりの出来事に混乱した私は無意識に気を溜めて、迫ってくる血液に掌底を繰り出す。でも、血液はあろう事か気を弾いて、繰り出した右手ごと私を包み込んだ。

 

「え、あ、な、何!? 何で!?」

 

 予想外の出来事で混乱したのもあって、まるで水面に頭から突っ込んだような感触に私は思わず目を閉じて息を止める。でも、水中にいるような感じがしなくておそるおそる目を開けると、地面に赤い模様が広がっているだけで、他は何も変わってなかった。

 

「座れ、美鈴。あの戦いは長引くだろう。伏せたままでもいいが、緊張を保ち続けるのは止めておけ。それは無意味な行動だ」

 

「え……?」

 

 隣を見たら、朱雨さんがいつも通りの顔で座っていた。動揺も雑念もない、いつも通りの純朴な「気」。混乱しながらもいくばか冷静になった私は、おずおずと立ち上がると朱雨さんの横で正座する。

 

「あ、あの、すみません……急に怒鳴ったりして……」

 

「構わん。説明責任を果たさなかったのは私の方だ。それに、心を持つ者は事態に窮すると怒りを発露する事も分かっている。美鈴、お前の行動はごく自然だ」

 

 私が謝るといつも通り朱雨さんの変わった理論がかえってきた。十年間一緒にいて、いつも聞き流して、いつも目にしてきた朱雨さんの変わらない態度に、私は不思議と落ち着いていく。

 

 強い神様が目の前で今にも戦いそうな緊迫した状況なのにおかしなものだ。……あれ?そういえば、さっきまで私を吹き飛ばそうとしていた風が止んでいる?

 

 はた、とそこで私はようやく周りが球状の何かで覆われている事に気がついた。見たところ少し赤く色付いた硝子のようだが、なんでこんなものが?

 

 そんな風に疑問を持っていると、心を読んだかのように朱雨さんは口を開く。

 

「私が生成した透過性の防御壁だよ。鉄壁とまではいかんが、それなりの耐久力はある。まあ、保険のようなものだ。流れ弾がこちらに来ないとも限らないのでな。それと、食事も用意しておこう」

 

「え! ご飯ですか―――って、ええ!? しゅ、朱雨さん!? 何やってるんですか!」

 

 「ご飯」というキーワードについ反応してしまった私は、掌からドボドボと血をたくさん流す朱雨さんに目を剥く。一体何やってるのこの人!?

 

 地面に落ちた血はサラサラと広がって、ところどころが不自然に盛り上がったと思えば引き潮のように引いていった。すると、盛り上がっていた場所になんと大量のご飯が!

 

「え、うそ!? なんで食べ物がこんなにたくさん!? というか色々あって突っ込みが遅れましたけど、どうなってるんですか朱雨さんの血は!?」

 

 いや、本当に今さらだけど突っ込まずにはいられない。なにせこの血液は急ごしらえとはいえ私の「気」を弾いたのだ。地面に描かれている紋様も赤いし、絶対にこの血は朱雨さんの能力かなにかだろうけど、それにしても血で出来る範疇を超えているのではないか。

 

「ああ、これは私の能力だよ。それがどうかしたのか?」

 

 あっけらかんと答える朱雨さんに思わず姿勢を崩しそうになる。能力なのは見てわかりますよ! 肝心なのは血の中からご飯が出てきたことですよ! なんですかその羨ましい能力! いつでも美味しいご飯食べ放題じゃないですか!

 

「……何かずれているな。まあいい。私は少々特殊な立ち位置にいるのでね。この位の「例外」は簡単に発動できる。よければ好物を言うがいい、すぐにこの場で生成しよう。お前は、美味しければ過程や材料は気にしないようだからな」

 

「本当ですか! えっとじゃあそうですねー、あさりの酒蒸しなんかもいいですけど、豚バラをカリッと塩焼きなんてのも――違う違う! 私が聞きたいのはそんな事じゃないんですっ!」

 

「私の能力と私自身への疑問なら後回しにしておけ。今は語る時間がない。美鈴、お前も早めに食べるといい。食べ頃が今というのもあるし、戦いが始まれば食べるどころではなくなるだろうからな」

 

 朱雨さんはそういって既に食事を始めていた。いや、まあ、その、確かに目の前の魅惑には抗いがたいのだけど。さっきリクエストした品がもう出てきていて、その食欲をそそる香りに負けそうになっているのだけど。それよりも朱雨さん、貴方は本当に何者なんですか?

 

「今は聞くなと言った筈だ。美鈴、私には闘争を楽しむ事が理解出来ないが、この状況下でお前のような格闘家が取る行動は知っている。すなわち、眼前で繰り広げられる神々の戦いに心を奪われる、だ。――だからお前は恐怖を感じつつも、戦の気配に高揚していたのだろう?」

 

 ……本当、この人には全部見透かされている。幾度となく思ってきた事を私は思って、赤い硝子の先へと意識を向けた。

 

 互いに強大な二柱の神。それらが周囲を気にせず全力でぶつかり合うなんてほとんどない。それをこんな特等席で見られるとしって、恐怖を抱きながらも私は確かに高揚したのだ。

 

 これから始まる、未曾有の大戦に心惹かれて。

 

 

 

 

「……すごい」

 

 それしか言葉が出なかった。目の前で繰り広げられる戦いに、私はただ食い入る事しか出来なかった。

 

 一騎当千なんて生易しいものじゃない。激闘という言葉では到底言い表せない大戦闘だ。互いに一柱、互いにたった一人を相手にしているのに、まるで強固な軍隊同士が矛を交えていると錯覚するほど、眼前の戦場は尋常ではない。

 

 まず物量が違う。私のような近接格闘を得意とする者は己の手と足、頭、身体、そして虚と実を変幻自在に繰り出す技量が手数となる。一度に繰り出せる手数はせいぜい三。殴る、蹴る、頭突く、受け流す――基本的にはこれらをいかに駆使するかが鍵だ。

 

 でも、神々の戦いともなれば攻撃手段は己の五体に留まらない。固有能力、精神負荷、天変地異に空間使役。まさに神の名に相応しい、世界の理を捻じ曲げる戦い方をする。

 

 彼女たちは肉体の近接格闘もしていれば、その周囲では敵を滅ぼさんとする風が吹き荒れ、暗黒の思念が闇を吐き、焼き尽くす光が満ちている。拳を交えつつも舌戦を繰り広げて相手の精神を折ろうとし、実体幽体を問わない多くの武器が矢のように入り乱れる。

 

 次に規模が違う。たった二人で争っているのに、戦闘の余波は天空を荒らし大地をひっくり返そうとする。周囲一帯を根こそぎ荒野にする勢いだ。幸いな事に彼女たちが戦っている場所は神域と名高い諏訪湖だからそこまで被害は出ないだろうが、妖怪同士の争いでさえ不毛の大地はつくりだせない。

 

 彼女たちが最も使用しているだろう『程度の能力』も桁違いだ。空から降り注ぐ幾千の雷光を砂の(つぶて)で当たらない様に誘導し、天空へ降り注ぐ巨大な岩群を竜巻で絡め取って破砕する。冗談もいいところだ。これは、私の理解出来る範疇を超えている。

 

 そして、なにより力が違う。今の私が放てる渾身の一撃を当たり前のように虚に使い、私では絶対に防ぎきれない一撃を莫迦みたいに撒き散らしてくる。ふざけるのも大概にしてほしい――彼女たちにとって、それは全力でないのだ。

 

「――ッハハ」

 

 ああ、乾いた笑いしか出ない。もしあの二人のどちらかと対峙するとして、私にどれだけの勝算がある?

 

 全力特攻? 届く前に撃墜されるだけだ。

 

 打っては離れて(ヒットアンドアウェイ)でダメージの蓄積を狙う? 今の私にそこまでの技量はないし、当たれば死の一撃を避け続けられるはずもないし、そもそも相手の攻撃範囲は私より遥かに巨大だ。

 

 耐えて相手の疲弊を待つ? この戦いが始まってもう一日の四分の一が過ぎているのにもかかわらず、彼女たちは全く衰えていないのに? 無様に吹き飛ばされるのが目に見えている。

 

 幾重にも罠を張って不意を打つ? 確かにそれが一番勝てる見込みがあるだろう。だが、そんな下種の真似事は私の誇りが許せない。

 

 結局勝ち目なんかないのだ。仮に戦う事になったとして、それは戦いとすら呼べないものになるだろう。一方的な蹂躙、圧倒的な虐殺――私自身が妖怪なだけに、殊更容赦はしない筈だ。

 

 だが――――

 

「だからこそ、戦ってみたくもなる、か。分からんな。何故お前達は、そうやって己を死に晒す事を躊躇しない?」

 

 はっとして、私は朱雨さんを見る。変わらない無表情の朱雨さんは、静かに私を指さしていた。その指標の先には私の握り込まれた拳がある。

 

「あ――――」

 

 知らず、私は力んでいたのか。無意識に練り込まれた「気」が充填された手を見て、それを慌てて霧散させた。それと同時に謝罪の言葉が口からでる。

 

「す、すみません……」

 

「あれに見惚れるのはいい。自身を把握し切れなくなるほどの集中力も大したものだ。それ故になおさら聞いておきたい。美鈴――お前はどうして、敵わないと分かっている強者に挑めるのだ」

 

 朱雨さんは手を挙げて容認の意を示すと、紅い硝子玉のような眼で私を覗き込んできた。奥が見えないあまりの深さ。それに人形の目を見ているような得体の知れなさを感じつつも、しどろもどろに私は答えた。

 

「え、えーっと……そうゆうのって、理屈じゃないんですよ。自分よりも強い人とか、すごい妖怪が居たりすると、なんていうか――(たかぶ)るんです。私の魂の奥底で燻る何かが、油を注いだように真っ赤に燃えて、どうしようもなく戦ってみたくなる。体格差も年齢も力量も関係ない、自分が何よりも最強だと確かめたくて仕方がなくなるんですよ」

 

 言って、ちょっと恥ずかしくなった。「自分が最強である事を確かめる」なんてどの口がほざくか! まだ未熟者の私には過ぎた言葉だ。きっと朱雨さんも呆れているに違いない。

 

 でも、予想していたため息は聞こえず、顔を上げてみれば朱雨さんは顎に手をあてて何か考えている様子だった。こんな朱雨さんはちょっと珍しい。ついでに妙に似合っていて、思わず赤面してしまった。

 

「……戦いの本能、か。あるいはそれが正解やもしれん」

 

「え?」

 

「いや、多分に推測が混じっている。これでは私が納得する為だけのものにしかならない。結論は保留しよう。まだまだ観察が必要だ」

 

「え、えーっと……何言ってるんですか?」

 

 でも、そんな感情はすぐになくなる。朱雨さんは時々ぶつぶつと何か言っているんだけど、その内容は結構自己完結していてあまり伝わってこない。困惑気味に私が首を傾げると、朱雨さんは手を振って元の胡坐座りに戻った。

 

「気にするな。それより、そろそろ決着がつきそうだ」

 

「え、あっ!」

 

 戦場に目を戻すと、少女が煙を上げながら落ちていくのが見えた。諏訪湖に着水する寸前で何とか体制を立て直して、上空で見下ろすしめ縄の女性に怨嗟を籠めた視線で貫く。

 

 だけど勝敗は歴然だ。満身創痍の少女に対し、しめ縄の女性は頬にかすり傷一つのみ。最早勝ちの目はないだろう。そう思っていると、少女は両手を前に突き出して最後の攻勢に打って出た。

 

 現れるのは無数の鉄の輪。一つ一つが人間をすっぽりと覆うくらいの大きさをしたものだが、籠められた「神気」が尋常じゃない。

 

 おそらくあれは奥の手だ。今世界で最も強い鉄にありったけの力を注ぎこんだのだろう。苦悶の表情から血反吐を吐きながら、少女は絶叫と共に鉄の輪を回転させしめ縄の女性に叩き込んだ。

 

 だが、それも失敗に終わる。鉄の輪はしめ縄の女性の背後から現れたうねる(つる)に絡みとられ、一瞬にして錆びついてしまったからだ。鉄は強いが、錆びつけば一気に脆くなる。しめ縄の女性に触れると同時に砕けていく鉄の輪を見て、それでもなお少女は食い下がろうとし。

 

 目の前に来たしめ縄の女性から喉元に刃を突きつけられ、どうしようもなく敗北を認めるしかなかった。

 

「……。終わり、か」

 

 隣で感慨深そうに朱雨さんが呟いた。朱雨さんが感慨深そうにしてるなんて今まで見た事なかったから、この時私は驚いてしかるべきだったのだろう。

 

 でも、私は驚かなかった。正確に言えば、驚く余裕なんてなかったといっていい。

 

 目の前で見せつけられたただただ圧倒的な戦い。振り返ってみれば、終始あのしめ縄の女性の優勢だったように思う。けれど、少女は決して諦めていなかった。万策尽き、身体がボロボロなのに果敢に立ち向かおうとした。

 

 それに私は感動した。どうしようもない、どうする事も出来ないあの状況でなお立ち上がる強い意志。あの時、小さな体に満たされたのは「神気」ではなく、美しい魂を秘めた「闘気」だ。あんなものを見せられては、昂らない方がどうかしている。

 

 ああ、身体が熱い。芯の奥底が火照って、どうしようもなく(うず)いている。戦ってみたい。あんな風に、この身が塵と尽きるまで。見渡す限りの敗北を背に、極限の死と戦ってみたい。その果てに待ち構えているであろう、最強の座へ駆け上りたい!

 

 ふらり、と私はおぼつかない足取りで立ち上がった。熱い、熱い、身体が熱い! 早鐘をうつ心臓が、身体に充満した闘志が、私という魂が、このまま何もせずに終わらせる事を許してくれない。ああ、そういえば。ここに来る途中も、あれ程じゃないけど強い神の軍勢を見たな――――

 

「…………待て、美鈴」

 

「……朱雨、さん……?」

 

 いつの間にか、私は目の前の赤い硝子を打ち破ろうとしていた。硝子に手を当てて腰を落として、体内で気功を練っていた。いわゆる寸勁、最小の動作から最大の攻撃を与える技を、無意識の内にやろうとしていたのだ。

 

 だけど、そう分かっていて私は私を止めなかった。この硝子は邪魔だ。私はこれから、あのように強き神々に挑まなければならない。そうでなければ、この躍動する魂を抑えるなど出来そうにない!

 

「――――ッ!」

 

 そう、心の片隅で思った瞬間、私に向かって何かが飛んできた。後ろ足を軸に回転してそれを弾くと、手を前に出した朱雨さんの姿が写る。

 

「今のお前に言葉は届くまい。故に、こちらから一方的に言わせてもらおう。一つ。美鈴、お前が勝手に神々に戦いを挑むのは許さん。ここ十年を私とお前は過ごしてきたからな、お前が神に挑んで目をつけられれば、少なからず私にも被害が及ぶ。だから自重して貰おう」

 

 朱雨さんが何か言っているけど、上手く聞き取れない。いや、そんな事はどうだっていい。今飛んできたものは明らかに私を害そうとしていた。なら、それを投げた朱雨さんは……敵……?

 

 分からない。頭がぼーっとしてあまり考えられない。ふらつきながら、それでも私は朱雨さんから目を離すような真似はしなかった。理由はどうあれ、私に攻撃を仕掛けたのだ。それは、私への挑戦と受け取っていいだろう。

 

「二つ」

 

 すっと朱雨さんの右足が前に出る。くるか――知能ではない本能で感じ取って私は構える。その瞬間、身体の芯に響く重音とともに、朱雨さんの右足を中心に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。

 

「かといって、それでお前が我慢できる筈もなし。故に――私が、お前の相手をしよう」

 

 

 

 

   आयुस्

 

 

 

 

 まあ、おおかた予想していた通りになった。空気を裂いて迫る連打を受け流し、朱雨は流麗に弧を描くハイキックを頭を下げて避けた。そして足が地面に着いた直後、下から跳ね上げられた踵を顎をそらして凌ぐ。

 

 美鈴は勢いのままに両手を地につけて後転しながら後ろに下がった。それを見送った朱雨は、元の自然体に戻って美鈴と睨み合う。

 

 暫しの膠着。その間、朱雨は次の攻防のシミュレーションと先程の諏訪子の戦いの分析を並行処理していた。

 

 洩矢諏訪子が言った朱雨の望んでいる事というのは、つまり戦争の事である。のちに「諏訪大戦」と語り継がれる二柱の神々の戦いを観察する為に、朱雨はわざわざ十年も島国に留まり、戦争の開幕を待っていた。

 

 兆候は以前からあった。てゐの噂話では島国の中西部で「中央」の俗称で呼ばれる神々が周囲の国を次々と制圧していると聞いていたし、大陸の方で強い力を持った神が敗れこちらに逃げ込んできたとの情報も入手していた。

 

 そして、「中央」と対立している国は土着神への信仰が特に根強い国だった。その中で最も強い力を持っていたのが「ミシャクジ様」である。

 

 いずれ神々が起こす戦乱の時代が来る。これっぽっちの情報でもそんな事は誰にでも分かり、もちろん朱雨も理解していた。故に朱雨は商人に化け、その時をじっと待っていたのである。てゐの大国主礼讃があまりに苛烈過ぎたので神に興味を持った朱雨だったが、このような情勢を読んでの行動でもあった。

 

 しかし、それがいつ起こるかまでは読めない。商人という建前がある以上人間への擬態には困らないが、朱雨自身の目的、生命の観察に支障をきたす恐れがあった。

 

 無論、手立てがないわけではない。朱雨は地域地域で「調べていない場所」を意図的に残してある。永琳から聞いた「楽しみは後にとって置く物」という言葉の実践でもあるし、「調べていない場所」の生態環境を事前に推測し、実際と比べて見る事で自身のシミュレーション能力の向上を図っていたからだ。

 

 その「調べていない場所」をなくせば、この小さな島国でも十五年ほどは滞在できるだろうと朱雨は結論を出す。百年周期で世界を旅している朱雨にしてみればかなりの長期滞在になるが、あのレベルの神々が戦うのはそれなりに希少な機会だ。時間が許す限りは待ってみようと考えていた。

 

 紅美鈴とあったのはその矢先だ。当初行き倒れていた彼女を見た朱雨の率直な第一印象は「あまりに低レベルな人間への擬態」だった。

 

 行き倒れるにしても何にしても、まず妖気をひっこめなければ話にならない。妖気を垂れ流しっぱなしではすぐに人間の守護神に発見されるし、人間の中で上位に入る強者達は大概が妖気を視れるのだ。

 

 行き倒れのくせに服が綺麗すぎるというのも問題だ。自身と同調した一部とってもいい衣服を着用していれば発覚の可能性はさらに高まる。

 

 肉体が健康など話にならない。せめて外観だけでも偽造すべきであろうに、程よく肉のついた手足で倒れていても、勝手に起き上がってどっかにいけるだろうという心証を与えるだけだ。

 

 そういった諸々の理由でで、朱雨は当初美鈴を無視した。人間に化ける妖怪のする事なぞ捕食以外にない。こんな雑な化け方ならなおさらだと、朱雨は関わる気さえなかったのだ。

 

 その考えを変えたのは美鈴があくまで「人間」らしい態度をとったからだ。最初は訝しみ、朱雨は観察の眼を向けた。

 

 当たり前だが、肉体の性能は人間を超えている。しかしどこか不自然だった。詳しく探ってみると、どうやら肉体の性能を意図して低下させている部位が見られた。立ち振る舞いや言動もまったく妖怪らしくない。意図して人間のように振る舞っているようにも感じた。

 

 そんな美鈴の行動から一つの仮説を立てた朱雨は、慣れない事だが美鈴に鎌をかけてみた。美鈴に「腕に覚えがある」と聞いて、それにどんな反応を返すか、というものだ。襲いかかってきたらただの妖怪、何かしらの返答を返せば別の目的がある。

 

 いや、こんな事やっても無駄だろうという意見が大多数を占めるだろうが、朱雨にとって心の謀略は不慣れなのである。対処法は弁えていても、自身が使う事は出来ない。

 

 きょとんとした美鈴の口から出た言葉は「武者修行の旅」だった。その言葉は、朱雨にひどく違和感のある言葉として映る。

 

 ――妖怪が、人間相手に「武者修行」だと?

 

 これはかなり特異な事例だ。朱雨はこの瞬間から美鈴を要観察対象として認識した。それから美鈴に雇用の話を持ちかけたのも、生活の支援をしたのも、全ては紅美鈴という「妖怪」を見定めんが故である。

 

 それから十年、朱雨は美鈴と生活し、その一挙一動を仔細に渡り観察し続けた。それこそ誰それと交わした会話から食事で咀嚼した回数まで。その結果として、朱雨は美鈴の外部観察による結論は簡潔に纏めるとこうなる。

 

 紅美鈴は間違いなく妖怪である。種族はおそらく竜種、ただし美鈴自身には竜に転化する力はなく、竜としての力が全て「気」になっている可能性がある。肉体性能は人型の中でもトップクラスであるが、やや知性に欠ける行動が目立ち、また楽観的に生きているようだ。

 

 雑食性で毒物に対する耐性はなし。妖怪であるが、人肉を食さない環境における存在確立への弊害は確認されていない。生息できる環境は人間の適応環境をやや拡大解釈した形だ。

 

 存在理由は不明。ただ武術を極めたい、ただ強者と戦いたいという言動が見られる。ただしここでいう武術に貴賤はなく、どのような武術でも習得したがっているようだ。この事から武術に対する畏怖、または人間には歓迎されない影を歩む武術に対する悪感情が、彼女のような妖怪を創り出したのではないかと推測される。ただし確証はないため、詳細は未確認のままである。

 

 特記事項として、彼女は妖怪でありながら人間に近しい事が挙げられる。心に関しては全く判断がつかないが、本能と欲望の在り方についてはほぼ人間と相違ない。また本人も人間世界に溶け込む努力をしている。

 

 もう一つ、彼女には物事の本質、真実を大まかに見抜く慧眼を保有している。具体例を挙げれば「神力にて姿を隠す神を視認できる」「自身に向けられた意識に的確に反応する」等。ただし、この慧眼単体は極めて優秀であるが、それを運用する彼女が相応の叡智を所持していないため、この慧眼が十全に発揮される事はない。

 

 結論として、紅美鈴は性能面で優秀であるが運用効率が著しく悪い。総合評価は上の下、強くはあるがただそれだけだ。人間と積極的に関係を築く以外の点では、何の変哲もない妖怪である。

 

 以上が美鈴の外部観察の結果である。しかし、これはあくまで行動をみただけで纏めたものだ。実際に触れた訳でもないし、十分とは言えない。ならどうすればいいのか。

 

 簡単な事だ。自分の身体で紅美鈴を試してみればいい。今まで幾度となく同じ事を繰り返してきた朱雨は、美鈴の性能を正確に測るために手合せする事にしたのである。

 

 ジリ、と美鈴の脚が動いた。一瞬先、赤い残像を残して一気に距離が詰められる。咆哮と共に叩き込まれた掌底を受け流して、朱雨はただじっと美鈴の動きを追っていた。

 

 美鈴の動きは実に多彩だ。回転から繰り出される千変万化の徒手空拳。超至近距離における素早い無数の連撃と一撃必殺の強い豪拳。低地からせりあがる防御し難い重拳に、生命を模した無駄のない形意拳など。それに足技・体当たり・気功などが組み合わされば対応すべき攻撃は本来の十倍にも百倍にも膨れ上がる。

 

 掌底を受け流して横に回っても、そこから体当たり・震脚・螺旋(らせん)(けい)豪拳と流れるように打ち込まれる。朱雨は体当たりと震脚を逆ベクトルの力で相殺して豪拳を後ろに跳ぶ事で避けた。

 

 まったく凄まじい。美鈴の五体の外、つまり拳の届かない殺傷圏外にいればそれほどでもないのに、美鈴の領域である「円」の中に入った途端、攻撃の重さも密度も桁違いに跳ね上がる。まるで人形の溶岩を相手にしているような感覚だ。うかつに打ち込めば、一瞬で手足が焼けて灰になる。

 

 美鈴は空気を吸い込んで気合いを溜めると、腰を低くして一気に突撃してきた。対処しにくい下からの攻撃。更に大地と密着しているが故に一発の爆発力が高い地対空の重拳だ。

 

 低姿勢の美鈴から喉元に向けて拳が撃ち込まれる。杯を持つような独特の構え、あれは喉を潰す攻撃だ。朱雨は冷静に左手で受け、握り潰される前に手を回転させて受け流した。

 

 美鈴の攻撃は止まらない。絶えず姿勢を低くして下からの攻撃を徹底する。頭への刈り蹴り・足払い・腹部への膝蹴り・体当たり・肘打ち・正中五連突き。刈り蹴りから膝蹴りまでの三連回転、描いた螺旋から生まれた力を利用した体当たり、ぶつかると同時に打ち込んだ肘打ち、そして密着状態からの寸勁による正中五連突き。

 

 三連続の回転蹴りは鏡写しの如く自身も回転する事で避けた。体当たりは後ろに跳び、股間に打ち込まれた肘打ちは左腕で受け止めた。正中への五連撃の内、天倒・人中は右腕で耐え、タン中・水月・丹田は体をズラして直撃をさけ、更に五体から中心に集めた発勁で相殺させた。

 

 最後に両足を地につけた美鈴は背中を打ち付ける一撃、鉄山靠(てつざんこう)で朱雨を叩き潰そうとする。間髪入れずに朱雨は地を蹴り、その場から離脱した。そして、二人は再び睨み合う。

 

 今の攻防は終始下からの攻撃だった。通常は戦いえない低地戦闘、寝転んで戦うという言葉が一番しっくりとくる戦い方だ。美鈴との十年の歳月の中で幾度か戦闘を目にする機会もあったが、そこでは使っていない技も使用してくる。そしてまだ、目にしたがまだ使っていない技もあった。

 

 腰を落として拳を構えていた美鈴は、スッと構えを解いて目を閉じた。両足でしっかりと大地を捉え、地を奔る霊脈を掴み取るように集中する。深呼吸は余分な力を取り払うための儀式。身体を知覚し、世界を感じ、その力を一身へかき集める。

 

 美鈴の出方を伺っていた朱雨は、その行動を見ると、静かに全身の力を(みなぎ)らせた。今の肉体性能では耐えきれない出力だが、背に腹はかえられない。身体が欠損する覚悟で行かなければ、あの攻撃は凌ぎ切れない。

 

 そう、美鈴がやっているのは目にしたが使っていない技。美鈴の「気を使う程度の能力」で気を集め、鍛練の先に得た気功で更に洗練して力へ変える。自身の「気」だけでなく世界から気を借りて用い、元来出せる力の数倍の能力を引き出す秘技。

 

「――――彩虹天勁(さいこうてんけい)(りゅう)――――」

 

 厳然と美鈴が呟き、閉じた瞳が開かれる。美鈴の眼の色は青がかった灰色だったのだが、それが百獣の王を思わせる獰猛な黄金色に変化していた。外見的変化はそれだけだが、身体に籠められた力の度合いがさっきまでとは段違いだ。

 

 背後に紅の龍が視えるほどの威圧感。一流の武人でさえたじろぐほどの力の脈動は、常人ならば蛇に睨まれた蛙の如く竦み上がるだろう。朱雨が周囲を血界で覆って隔離していなければ、森から生物の姿が消え去るくらいだ。

 

 それを前にして、朱雨は微塵も揺らがなかった。身体能力の差はもはや子供と大人ほどに開いているが、朱雨はそれで動きを鈍らせるような存在ではない。もとより――心のない朱雨に、動揺など在り得ない。

 

 硝子の瞳を凍てつかせ、拳を突きだして対峙する。無表情で美鈴を見据えるその眼は一切の感情が無く、ただ坦々と観察を続けるのみだった。

 

 

 

 

 一方、自身の「本気」を引き出した美鈴は、対峙する朱雨に感嘆の念と言いしれぬ恐怖を抱いていた。

 

 神亡朱雨と十年間旅してきた美鈴は、朱雨がどのくらいの力を持っているのか知っている。簡易商店を立てたり商品を運んだりする時、立てる時間や一度に運べる量を見れば大体わかる。

 

 今手合せした感覚をしても、朱雨の出せる力は見た目通りと言っていい。長身痩躯、筋肉質だが暴力と呼ぶには力が足りないのだ。

 

 しかし、現実に朱雨は美鈴の攻勢を耐え抜いている。なぜか反撃はしてこないものの、全ての攻撃を避け、受け流し、相殺させているのだ。

 

 これには美鈴も驚くほかなかった。あれだけの性能しか持たない人間が、自分の攻撃をここまで凌ぐことが出来るのかと。その秘密は、美鈴が嫉妬を抱くほどの驚異的な技術力、そしてありえないくらい速い反応速度にある。

 

 技術力。これはいかに無駄なく効率的に体を動かすかというものだ。この五体は無駄に満ちており、使う必要のない筋肉を酷使し、ただ歩くにしても必要以上にエネルギーを消費している。その無駄をなくす為に必要なのが技術力だ。

 

 技術力を上げるには鍛練に鍛練を重ねるしかない。身体というものは存外頑固なもので、最も効率の良い動きを知っていても、昔からの無駄な動きに慣れているために固執してしまう。それを効率の良い動きを何度も何度も反復する事で、ようやく無駄のない動きが出来るのだ。

 

 その極限とも言えるのが寸勁である。発勁の一種で、最小の動きから最大の破壊力を生み出す、無駄を削ぎ落とした最も効率的な動き。達人ともなれば身体の僅かな震えで岩をも砕くと聞いたことがある。

 

 朱雨はまさにその達人だ。この戦いの開幕直後、朱雨は体を小さく揺らしただけで地面を蜘蛛の巣状に破壊した。武術を極めんがために長年修行に明け暮れていた美鈴でさえあんな事は出来ない。

 

 さらに言えば、朱雨は四肢、身体の末端から中央に力を集めるなんていう発勁もやってのけていた。発勁は身体の大振りな動きを殺さずに末端の四肢へ収束する技で、間違っても末端から中央へ集める技ではない。もしやれと言われても、美鈴を含めた武術家には絶対に出来ない。そんな技を、朱雨は当たり前のように使いこなしていたのだ。

 

 しかも、朱雨は発勁で美鈴の攻撃を相殺させてもいるのだ。それも全く同等の力で。実際に攻撃を相殺された美鈴が一番良く分かっている。体内から練り出した一撃がまるで綿を殴ったようにピタリと止められた美鈴は、それが出来るだけの技術力を持つ朱雨に素直に感服していた。

 

 だが、それだけなら対処法はある。いくら攻撃を相殺できても朱雨の身体は脆い人間のもの、そのまま攻撃を相殺し続ければガタがくるのは目に見えている。それをするためには避け切れないくらいの連撃を放ち続ければいい。

 

 しかし、朱雨はその連撃を(ことごと)く避けた。それを可能としたのが、朱雨の持つありえないくらい速い反応速度だ。

 

 生きている者にはみんな反応に時間がかかる。見て、それから中枢器官に情報が送られ、知能回路が判断を下して、その命令が該当する身体部位に達して初めて反応できる。美鈴はここまで詳しくは知らないが、今までの経験から敵が絶対に避けられない瞬間(タイミング)を知っていた。

 

 しかし、朱雨はその瞬間を狙って攻撃を打ち込んでも布を突いた様にスルリと避け、あるいは受け流してしまうのだ。経験予測や攻撃予知を疑りもしたが、朱雨は明らかに攻撃が当たってから反応して避けていたなんていう場面もあった。

 

 つまり、朱雨の反応速度には時間差(タイムラグ)がない。実にふざけた話だが、朱雨は両目で捉えるのであれ、衝撃を感じるのであれ、五感で感じ取った瞬間に刹那の間も挟まず反応する事が出来るのだ。それは同時に、奇襲や奇策、相手の意表を突く攻撃が一切通用しないという事でもある。

 

 ならばどうする。どうすればいい。戦闘熱で朦朧とした意識の中、美鈴は目の前に立つ敵を打ち倒すにはどうすればいいか考えていた。あまり頭が働かないが、きっと打倒する手立てはある。美鈴は考えて、考えて、考えて。

 

 ――小細工が通用しないなら、正面切って戦えばいい。そう、自分の誇りを思い出して、出し惜しむことを止めた。元はと言えば、朱雨を侮ったのがいけなかった。この位の敵にはこれ位でいいだろうなんて、そんな事を言えるような立場に自分はいないと言うのに、どこか慢心していたのだ。

 

 そして美鈴は「気を使う程度の能力」を解禁し、今、全力で朱雨を倒そうとしている。慢心なき尋常な勝負。本来なら喜ぶべき事だ。自分以上の使い手と戦える機会なんて滅多にない。それほどの相手と戦うともなれば、絶対に最高の高揚を得られるはずなのに。

 

 そうだというのに。

 

 美鈴の心は、ちっとも楽しんでなんかいなかった。

 

 それが、美鈴の抱く言いようのない恐怖である。目の前で対峙する神亡朱雨は間違いなく特級の技術力と天性の反応速度を持った難敵だ。アレを討ち果たすには全力を出さなければならないと思い、美鈴は全力を出している。そこまでの相手なら高揚してもいいのに、心が欠片も昂らない。

 

 原因は分かっている。美鈴は眉根を寄せて朱雨の顔を睨んだ。いつも通りの無表情で全然変わりがない。美鈴がこれだけの力を出しているにも関わらず、朱雨はあまりに静かすぎるのだ。

 

 それにあの眼。まるで店頭に商品を並べている時のような、道を塞いでいる石の山をどかしている時のような、朝水を汲んで帰ってきた時のような。そんな、坦々と平静に作業をするかのような、硝子玉のように透き通り過ぎている眼。

 

 あれは自分のような「戦う者」がしていい眼じゃない。こんな風に命がかかった闘いの中じゃ、絶対になってはいけない眼だ。あんな眼をしているのは――美鈴は遠い記憶の中に、朱雨のような眼をした者がいた事を思い出した。

 

 黒い衣装に顔を覆う真っ黒な布。夜陰に紛れるその姿から覗いていた、何も感じ入っていない穴蔵の眼。あれは、人を作業のように殺していた暗殺者の眼だ。

 

 そんな者と対峙している事実が、美鈴の心に恐怖を植え付けている。思考が熱で濁っている分、感情は直接的(ダイレクト)に美鈴の精神を揺さぶっている。それを振り切るように頭を振り、美鈴は腰を落として拳を構えた。

 

 おそらく、次の一撃が決着になる。美鈴は朱雨を真っ直ぐと見据え、心の中でそう呟いた。

 

 決着になると踏んだのは、互いに満身創痍だからじゃない。まだ朱雨にも美鈴にも体力の余裕はあるし、動けなくなる程ボロボロなわけじゃない。なのに決着がつくと考えたのは、朱雨が拳を構えているからだ。

 

 美鈴が能力を封じて戦っていた間、朱雨は一切の攻撃をせずに防御に徹していた。そのためか朱雨が構える事はなく、美鈴の攻撃を相殺する時も常に身体の僅かな動きで寸勁を繰り出していた。

 

 しかし、朱雨は今構えている。腰を落として拳を突き出し、美鈴が向かってくるのをじっと待っている。美鈴の大振りの拳は、朱雨の僅かな寸勁に止められた。では、僅かな動きで美鈴と同等の力が出せる朱雨が、大振りで発勁を使ったらどうなる? おそらく、本気になった自分の力にさえ届くだろうと、美鈴は推測していた。

 

 別に過剰評価でも構わない。侮って負けるよりは遥かにましだ。美鈴は武術家、負けたくないという思いは誰よりも強いと自負している。

 

 美鈴は『彩虹天勁龍』で集めた「気」を両足と右腕に集中させた。美鈴の身体から虹色の「気」が立ち上り、渦を描いて右腕と両足に収束していく。両足の「気」は美しき羽のように、そして、右腕は龍の(あぎと)を思わせる様相に変化していた。

 

 美鈴は黄金の瞳で朱雨を見据える。絶対に勝つ! その決意を胸に秘め、身体を引き絞るように構え。

 

「――――ハアアアアアアアアアアアアッ!!!」

 

 裂帛の咆哮と同時に、美鈴の姿がその場から消えた。

 

 瞬間、美鈴が前に跳んだ衝撃で地面が爆発する。地面が砕ける轟音、風が断ち切られる歪な音楽。それらを振り切り、美鈴は一直線に朱雨へ突進していく。右腕の龍は全てを喰らわんと乱杭歯を滾らせ、声なき咆哮を周囲に轟かせる。

 

 そして、刹那の間さえ空かずに、美鈴と朱雨は接触し。

 

 直後、山中に響く轟音と共に、二人は砂塵に包まれた。

 

 

 

 

 ()った。私は敵に向かって駆け出した瞬間、確実に殺したと確信した。

 

 この一撃を防がれた事は一度もない。人間相手に放った事はないけど、私の三倍はある大熊の妖怪や巨大な毒蜘蛛に使って、相手に反撃する事さえ許さずにその命を奪い去ってきた。

 

 それを技巧に優れているとはいえ、肉体が人間並みの敵に打ち込んでいる。反撃どころか見る事さえ叶わないだろう。この技が当たった瞬間、敵は腰から上が全部なくなるだろうから。

 

 でも、敵との距離が半分ほどになった時に気づいた。

 

 ――もう既に動き出している!?

 

 腰を落として右足と右腕を前に構えていたはずの敵は、いつの間にか足が並列になって左手を繰り出しつつあった。音を置き去りにするくらいの速度で進んでいる私と同じくらいの速さだ。このままいけば、私の拳が届くと同時に敵の一撃を貰うだろう。

 

 ――――それがどうしたっ!!

 

 元より傷を負う事など覚悟の上! これは決闘で、命のかかった闘いだ! 自分だけ木傷も負わずにのうのうと勝利する気つもりなんて最初からない!

 

 ――――――来い! お前の全てを打ち砕いてやる!

 

 私は虹色の龍を纏う右腕を、渾身の力で前に押し出した。ただでさえ音の速さを超える技を使っているんだ、右腕がミシミシと悲鳴を上げている。でも、戦いの中でそんな事に構う暇なんてない!

 

 見れば、敵の左腕が私の右腕を止めようとしていた。ただの人間の細い腕がだ。例えその腕の力が私と同等、それ以上だったとしても、この攻撃に耐えきれるわけがない。現に敵の左腕は、私と同じように音速で動く加圧で血が噴き出していた。

 

 私の右腕と敵の左腕がぶつかる。やっぱり力は同等だ……でも、あまりに脆すぎる!

 

 私の右腕はいとも簡単に敵の拳を打ち砕いた。敵の左腕の指が弾け飛び、骨と肉が露わになる。こちらも多少勢いは削がれたけど、敵を倒すには十分すぎる力が残っている。ならば――そのまま、一気に押し通す!

 

 敵の左腕を潰していく。指から手首へ、手首から肘へ。そしてそのまま敵の心臓まで殴り通す! …………? 右腕が、回っている?

 

 奇妙な感覚に目を向けて、信じられないものを目にした。この敵、潰れた左腕を回転させて私の右腕を絡め取ろうとしている!?

 

 くっ! まずい!! このまま絡み取られてしまえば、私の攻撃が弾かれる!! でもどうする!? 私の技術じゃこの敵には敵わない! 一体どうすれば……なんて、悩んでいる場合じゃない!!

 

 どうせ敵の方が上なら、私が上の方で対抗するだけ!! 今よりもっと、全力で、私の右腕を押し込んで…………え?

 

 なに……あの顔……顔があるのに、何も見えない……?

 

 どうして? どうして、そんな顔が出来るの? もう、肘から先なんてほとんどないのに。私が砕いて、肉が吹き飛んで、骨もボロボロになって霞んでいっているのに。どうしてそんな無表情で、冷静に私の右腕を弾くことが出来るの? どうして――――

 

 はっと、きづいた時にはもう遅かった。敵の訳が分からない顔に気を取られていた私は、気付けば右腕の進路を変えられて、敵の頬を掠めて最大の一撃を外してしまっていた。そして、私の水月に敵の右腕が到達している。

 

 見て、気付いて。その瞬間、今まで受けた事のない衝撃が全身を貫いて、私という心を消し飛ばした。身体の中の空気と胃の中身が全部口から出てきて、意識が切れかかった糸のようになる。

 

 外した右腕は敵の顔半分と肩を焼いて、それで終わった。私が走った後に裂かれた空気が圧縮されて、たくさんの砂ぼこりを巻き上げる。そんな砂嵐の中、私はもたれかかっている敵の右腕を見た。

 

 腕の長さが、半分くらいになっている。きっと攻撃した反動で腕の中身が全部砕けて、縮んでしまったんだろう。そのまま視線を上にあげれば、全く何もない、無表情の顔があった。

 

 左腕が肘から先がなくなって、右腕が潰れて、顔の半分が焼け焦げているのに、あんまりにも無表情だった。ああ、この敵は、この人は、私を助けてくれた朱雨さんは。

 

 本当に、何者なんだろう。

 

 それを最後に、私の意識は闇に消えた。

 

 

 

 

 語られない戦いは終わった。血の異形はただ、その事実を受け入れる。

 

 意識を手放した美鈴を地面に横たえ、激戦が繰り広げられた湖に目をやる。

 

「……まだ、全ては終息せず、か」

 

 言葉は風に消え。

 

 彼らの姿も、紅い血流と共に消え去った。

 

 

 

 

 


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